三流自作小説劇場

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『赤い糸をたどって』 最終回 

赤い糸をたどって

 困ったことになった。
 と言っても、今までのことを考えるとかなり贅沢な悩みだ。
 二人の女性のうち、どちらかを選ばなければならないなんて……。
 ただし、勘違いしてはいけないのが、相手から交際を申し込まれたものではないということだ。
 つまりどちらを選ぶか悩んだところで、フラレれてしまう可能性は残る。
 若槻と松田。
 二人ともとても魅力的な女性だし、例えフラレたところで悔いはない。
  
 いや、嘘だ。
 フラレていいわけがない。できることならオッケーをもらって、二人でブーケトスを退会したい。
 いつもならこうしてベッドで物思いに耽っていれば知らぬ間に眠ってしまうが、今日ばかりは違う。
 海へ行き、真夏の強い日差しにさらされて、充分疲れているはずなのに、まるで眠れる気がしなかった。
 梅田に言われた更新手続きの期限までまだ時間はあるし、もう一回ずつ会ってからにするか。
 そう考えて目を閉じる。
 いやいや、本当に後一回会えば決められるのか。余計に迷う可能性だってある。
 
 目を開き、仰向けだった体を横に向ける。
 それぞれのいい点ってなんだろう。
 若槻は真面目で優しくて、思いやりや常識があって、話していて楽しい。
 結婚した後のこともちゃんと考えている。
 松田は真面目で優しくて、思いやりや常識があって、話していて楽しい。結婚した後のこともちゃんと考えている……って、全く同じじゃないか。
 見た目はこの際関係ない。どちらもストライクゾーンに入っているし、それを結婚相手選びの決定的要因にするべきじゃない。
 それなら悪い点は……。
 
 体の向きを反転させる。何だか今日はムシムシするな。
 今のところ特に目立って悪い点は見当たらない。
 他に引っ掛かることと言えば、若槻とは社内恋愛であること。先日みたいなことは今後も少なからずあるだろう。
 松田の場合、あの超多忙なブラック企業が問題だ。休日に無理をさせて翌日に疲れを残すような過ごし方は良くなさそうだ。会える時間もあまり取れない気がする。
 まあ、どちらも永遠に解決しないようなことじゃないしな。
 いやいや、そんなことよりもっと気に掛けるべき大切なことがあるだろう。
 その「大切なこと」を自分自身に問いかけてみる。

 二人のうち、いったいどちらがそうなのか。
 
 静かに目を閉じると、そこに答えがあった。

 小

 翌週の日曜日。
 暑さが和らぐ夕刻に、俺はある公園のベンチに腰掛けて、その女性が来るのを待っていた。
「大切な話があるから必ず来て欲しい」と伝えてある。
 よほど鈍い人間でない限り、その言葉の意味することはわかっているはずだ。
 もう一人の女性には電話でお断りをした。
「運命の人に出会えて良かったですね」
 そう言われた。随分と気が早いが、実際にそうであって欲しいと思う。
 沢口にも断りの連絡をメールで送っておいた。
『わかりました』と一言。
 相変わらずの愛想のない対応ぶりに苦笑した。

 約束の時間まであと僅か。胸の高鳴りで体全体が揺れているように錯覚する。
 大きく一つ深呼吸をすると、「春見さん」と背中のほうから、誰かが俺を呼んだ。
 確認など必要ない。この心地好く耳に届く声は紛れもなく、彼女のものだ。
 すっと立ち上がって、声の主のほうへと向き直る。
「ありがとう。来てくれて」
 俺がそう言って笑うと、若槻も「どういたしまして」と目を細くした。
「あの……少し歩きながら話さないか?」
「いいですよ」
 先に歩き始めた俺の隣に若槻が並ぶ。何度か会ううちに、自然と歩調が揃うようになっていたから不思議だ。
 陽の光が直接当たるのを避けるため、できるだけ木陰を歩く。
「少し前にさ……」
 伝えることは随分前から整理してあった。後は頭の中で思い描いていた通りに言葉にできるかだ。
「アドバイザーの梅田さんから会員期間の終わりが近づいているって電話があったんだ」
「はい」
「二年なんてあっという間だよな……ブーケトスに入会してからずっと赤い糸をたどっていたんだけどさ、今までなかなか誰の小指に繋がっているかわからなかったんだ」
「はい」
「糸がピンと張っていたわけじゃなくて、弛んでいたり、縮れていたり、絡まっていたりしていたから」
 先程から「はい」としか言わない若槻の顔をちらりと見てみた。
 随分と緊張しているような面持ちだ。何か言いたくても言えないそんな感じかもしれない。
「でも気が付いたんだ」
 そこで俺は足を止めた。若槻もそれに倣う。そしてお互いの顔を見る。
「ひょっとすると、この糸はごく身近な人の小指に繋がっているんじゃないかって」
「それって……」と若槻が少し言葉を詰まらせる。
「私ですか?」
 その口調はとても遠慮がちだった。いかにも彼女らしい。
 俺は黙って頷き、言葉を続けた。
「若槻さんは嘘が嫌いだから、本当のことを言うけど……実はもう一人、仮交際をしている女性がいて、若槻さんと彼女のどちらを選ぼうか悩んでいたんだ」
「そうなんですか」
「うん。二人ともすごく魅力的な人だから」
「はい」
「それでいろいろ考えたんだけど、なかなか答えが出せなくて……だから余計なことを考えるのはやめて、一番大切なことを自分自身に聞いてみたんだ」
「どんなことですか?」
「明日いなくなって困るのはどっちだろうって……そうしたら若槻さんの顔が先に浮かんで来たんだ」
 もちろん、それは大袈裟な表現だ。実際は自分自身に問いかけをした時点ですでに答えは出ていた。
「俺の赤い糸。若槻さんの小指に繋がっていると思ってもいいのかな?」
我ながらキザだとは思ったが、一生を共にしたいと思う相手に捧げる言葉だ。このくらいのセリフは言ってもいいはずだ。
「はい」と笑顔で返事をくれると思っていたが、若槻は下を向いたままで、何も答えてくれなかった。
 まずい。
 ひょっとして……カッコを付け過ぎたんだろうか。これってもしかして……。
 最悪の結末が頭を過ったところで、若槻が顔を上げた。
「春見さん、右手を見せてください」
 何のことだろう。
 よくわからないが、若槻の言葉に従って、右手の掌を上にして差し出す。それに合わせて、若槻も自分の左の掌を差し出した。
「見えますか?」
「えっ……」
 若槻の言葉の意味するところが、すぐには理解できなかった。
「赤い糸です」
 そうか。そういうことか。
 彼女に言われてようやく気が付いた。自分の鈍さが我ながら情けなくなる。
「もちろん、見えるよ。お互いの小指に繋がっているのが」
 素直で、優しくて、他人に対する思いやりがある若槻。
 そんな彼女だからこそ、俺のこんな子供みたいなお芝居にも、馬鹿馬鹿しいとか気持ち悪いなんて言わずにつき合ってくれるに違いない。
「若槻さんはどう?」
 俺の問いかけに、若槻は照れ臭そうに笑って頷く。
「私にもちゃんと見えています」
 目一杯顔を赤くした若槻がとてもかわいくて、気が付いたら俺は彼女を思い切り抱き締めていた。
 
<Fin> 
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『赤い糸をたどって』 第三十三回 

赤い糸をたどって

 翌週の日曜日は、松田と会う約束をしていた。彼女が「海が見たい」と言ったので、俺の車でドライブすることになった。
「海水浴はしませんけど」と、念押しされたため、残念ながら水着姿は拝めない。というより、そんなことは始めから期待していない。
 松田を、彼女の住むマンションの近くで助手席に乗せて、海を目指した。天気は快晴で、絶好の海日和だ。
「海へ行くなんて本当に久しぶりです」
 昨日は残業もほどほどに仕事を切り上げられたらしく、松田は上機嫌だった。
「いつ以来ですか?」
「さあ、思い出せないくらい前かな。春見さんは?」
「僕は最近、岬シーパークに行きました。まあ、あそこは海って言うより、湾岸ってイメージのほうが強いですけどね」
「そうですね」
「白い砂浜のある海は四、五年くらい前かな。かなり曖昧な記憶だけど」
「海水浴ですか?」
「はい。僕は泳ぎのほうは全然ダメなんで、海に浸かっているって程度でしたけど」
「でもあんなところで全力で泳ぐ人なんていないんじゃないですか?」
「それは言えてますね。松田さんは泳ぎは得意?」
「子供の頃、習っていたので、少しは」
「へえ、そうなんですか。僕も水泳は習っておけば良かったかなって後悔しています。体育の授業では苦労したので……他に何か習い事はやっていたんですか?」
「習字と算盤へ行っていました」
「じゃあ、結構習い事尽くしだったんですね。習字は僕もやっていました。まあ、今となっては、ムダだったなって言うほど下手ですけど……」
「それは私も同じです」と松田はクスクス笑った。
 その後しばらく子供時代の話に花が咲いた。

 小

 高速道路も含めて、車で走ることおよそ一時間。海に辿り着いた。
 海と言っても「海浜公園」で、所謂海水浴場の類ではない。それでも車の数は多くて、駐車場へ入るのに、少し時間が掛かった。
 公園は「緑のエリア」、「バーベキューエリア」、「遊具エリア」、「海辺のエリア」に分かれている。夏休みと言うこともあり、「バーベキューエリア」と「遊具エリア」が特に賑わっていた。二つのエリアを抜けると、海辺のエリアに出ることができた。
 スチールの階段を昇って堤防へ上がると、そこには雪のように白い砂浜と、太陽の光を反射して美しく煌めく青い海が広がっていた。
「これですよ。私が見たかったのは!」
 松田の興奮がその言葉を通してよく伝わってくる。
「波打ち際まで行ってみましょうよ」
 彼女の言葉に従って、砂浜へ下りる。立て看板に『遊泳禁止』と書いてあるにも関わらず、泳いでいる者たちがいる。それどころかサーフィンをしている者の姿さえも見える。ビーチバレーを楽しむ者、フリスビーを犬に追わせている者、静かに海を眺めている者、良い悪いは別として、皆、夏の海を満喫しているようだ。
「楽しそうですね」
 そう言う松田も「皆」のうちの一人で、優しく口元を綻ばせている。
 海には、誰もが幸せな気分になれる不思議な力があるようだ。
 小学校一、二年くらいの男の子と女の子が、裸足で俺たち二人の横をすり抜けていった。松田がその姿を見て、「気持ち良さそう」とまた目を細くする。
「僕たちも裸足になってみますか? ちょうど二人ともサンダルだし」
「でも車が汚れちゃうし」
「いいですよ。足を洗うところがあるし、タオルだって持ってますから」
「本当に?」
「はい。せっかく来たんだし、海を楽しまないと」
 松田はしばらく悩んでいる様子だったが、「じゃあ、思い切って」とサンダルを脱ぎ、砂浜に足を下ろした。
「アチッ!」
 思わず出たであろう、松田の自然で可愛らしいリアクションに吹き出す。
「あっ、笑いましたね。でも本当に熱いんですよ」
 松田に倣って俺もサンダルを脱いで、砂浜に足を置く。
「熱っ!」
「ねっ? 熱いでしょ」
「本当だ」
「でももう慣れましたよ。ほら」
 松田が波打ち際に沿ってゆっくりと歩き始めたので、俺もそれに続く。
「海にも入ってみましょうよ」 
 松田の言葉に、二人揃って潮水に足を浸す。思ったより冷たい。
「気持ちいいですね。やっぱり水着持ってきたほうが良かったかな……あっ、でも太っちゃったから新しいのを買わないとダメか。それに遊泳禁止だし」
 松田はペロリと舌を出し、自分の言葉に笑う。
 こんなに喜んでくれるのなら、連れてきた甲斐があったというものだ。

 しばらく海辺を歩いた後、砂浜に腰掛けて二人で海を眺めていた。絶え間なく吹く潮風のせいか、思っていたほど暑くはない。
「やっぱり連れて来てもらって良かったです。ありがとうございます」
 松田が丁寧に頭を下げる。
「そんな……やめて下さい。何も特別なことをしたわけじゃないんだし」
「いいえ、特別なことですよ。私、今の会社に入ってからは、休みの日は大抵家の掃除や洗濯、それと買い物をするだけで終わっていました。また明日から仕事が始まると思うと気が滅入っていたし、体のことを考えて『ゆっくりしよう』とか『早く寝よう』とか、そんなことばかり気にして、ロクに楽しめていなかったんです。それが普段の休日の過ごし方だから、今日は特別なんです」
 勿体ないことしていたんだなと、松田は悲しげに溜息をついた。その切ない表情に、思わず肩を抱き寄せたい衝動に駆られる。
 もちろん、まだそんなことはすべきじゃない。
「これから取り戻せばいいじゃないですか」
「取り戻せば……か。できますか?」
「できますよ。僕が保証します」
 松田が俺の顔をじっと見る。決して目を逸らさず、俺はそれに応える。
「春見さんがそう言ってくれるのなら、安心です」
 彼女にまた笑顔が戻った。

 小

 帰りの車の中、松田にも若槻と同じことを尋ねてみることにした。
「松田さんは結婚するなら、いつ頃だと考えているんですか?」
「それって季節のことじゃないですよね?」
「はい。例えば、いい人がいたらすぐにでもかどうかってことです」
「そうですね。すぐにでもって言いたいところですが、やっぱり仕事の引き継ぎとか、新居探しとかあると思うので、準備のための時間が必要かなとは思っています」
 若槻とほぼ同じ答え。それほど結婚を遠くに考えているようには見えない。
 結婚を前提とした交際を申し込むのに、二人の間に決定的な何かがあればと思ったのだが、残念ながらそれを見出すことはできなかった。

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『赤い糸をたどって』 第三十二回 

赤い糸をたどって

 翌日、牛島が何かつまらないことを言ってくるのをある程度覚悟していたが、いい意味で予想は外れた。席に着き、「おはようございます」と挨拶をすると、薄笑いの一つもなく、「ウッス」という挨拶が返ってくるのみだった。
若槻にもそれとなく、目で問いかけてみたが、特に困惑している様子もなかった。
 少々拍子抜けしたが、とりあえずは安心だ。
 机の右端に積み上げた書類の一つを取り出して仕事に取りかかろうとすると、「そう言えば、若槻さんって」という、もう一人の女性事務員「真央ちゃん」こと遠藤の声が聞こえた。ハキハキとした口調のせいか、ボリュームも大きく感じる。
若槻が「はい」と、何の疑いも持たないような返事をする。
「春見さんとつき合っているんですか?」
 俺のシャーペンの芯がボキッと音を立てて、どこかへ飛んでいった。
「ええっ!」という声を出したのは、若槻だけでなく、事務所内にいた全員だった。ただし、遠藤と俺、そして牛島を除いてだ。
 皆の視線は若槻と遠藤の二人へと一気に注がれた。
「なっ、なんでまた、唐突に……」
 その距離十メートルほどだが、若槻の慌てぶりと顔の紅潮ぶりが手に取るようにわかった。答えは知っているが、そう言わざるを得ない。そんな感じだ。
「いや、ちょっと小耳に挟んだものですから」
 アホの牛島のことだから、「ここだけの話だけどさ」なんて、「二人によく尋ねて欲しい」という本音とは反対の念押しをしたに違いない。
「別にそんなんじゃないって……偶然会ったから一緒に見て回ろうってなっただけ」
「偶然会ったってどこでですか? やっぱり二人で一緒にいたんですね!」
 遠藤の声のトーンが上がる。そして全員のテンションも上がっているはずだ。
 もうダメだ。完全に牛島の思うつぼだ。
 俺の体温も急上昇する。
「なんだ。お前たち、つき合っていたのか。だったら教えてくれよ」
「そうだよ。そんな気配全くなかったじゃないか」
「いつからつき合ってんの?」
 四方八方から質問の矢が飛ぶ。変化に乏しい日常に飽き飽きしているのは、どいつもこいつも同じらしい。
 牛島が頬を緩めているのが、容易に想像できた。
「若槻さんって趣味悪いんですね」
 どさくさまぎれの遠藤の一言に、俺は椅子から転げ落ちそうになった。
 知らぬふりを通すつもりだったが、そうもいかなくなった。覚悟を決めて、俺はすくっと立ち上がった。
「えーっ、皆さん。お静かに」
 両手を広げて、とにかく全員を黙らせる……つもりだったが、全く効果がない。
「春見、お前も冷たいよな。こりゃ大事件だぞ」
「なんで今まで黙っていたんだ?」
 中学校か、ここは……。
 とりあえず、質問は無視して、こちらとしての弁解を始めた。
「結論から言いますと、そういう事実は全くございません。ただし、先程、若槻さんから話がございましたように、K市のショッピングモールで偶然出会い、一緒に店内を見て回ったことは事実です」
「本当に偶然か?」
「だからって一緒に回ったりするか?」
 皆、少しは落ち着き始めたものの、地味に質問は続く。
「百パーセント偶然です。お互い連れもいませんでしたし、時間に余裕もありました。それに、日頃より相手に対して特に嫌悪感を抱いているわけでもありませんし、二人で回ったところで何もいかがわしいことはないと、私は考えます。あっと、補足ですが、『嫌悪感を抱いていない』イコール『恋愛対象としての好意を持っている』とは考えないで下さい」 
「若槻留美君」と、誰かが国会答弁を真似して、若槻を指名する。よせばいいのに、若槻もそれに従って立ち上がる。
「今の春見君の言葉に嘘はないかね?」
「はい。嘘、偽りはございません」
 項垂れ、顔を赤くして小声で答える姿が見るに忍びない。
 とにかくこの事態を早く収集しなければ……。
 指名はされていないが、俺は口を挟んだ。
「遠藤さんがどなたからそのような情報を得たのかは存じ上げませんが、全てガセでございます」
 牛島の名前は敢えて出さなかった。ここで彼にしゃべらせたら、盛り上がりは最高潮に達するに違いない。
「皆さん、そういうことなので、この件に関しては以上を持ちまして終了でございます。朝から大変お騒がせいたしました。今日も一日、よろしくお願いします」
 強制的に終わらせて席に座ったが、「ちょっと待った」やら「まだ納得がいかない」などとしつこく質問を続ける輩がいた。
 そこへ「おはようさん」と低い声で挨拶をしながら、営業所長が出勤してきた。これまでの騒動が嘘のように、事務所内は一瞬にして静まり返った。いつもは厄介な存在だが、今日ばかりはその姿が神のように思えた。
 まだ一日の始まりだというのに、どっと疲れた。

 その日以降も、誰かに何かしら冷やかされるという状況が続いたが、初日ほどの騒ぎになることもなかった。
しかしちょっとしたことがキッカケでまたぶり返してくる可能性があるので、油断はできない。牛島には文句の一つでも言ってやりたい気持ちはあったが、そんなことをすれば逆に喜ぶのがあの人の性格なので、やめておいた。

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『赤い糸をたどって』 第三十一回 

赤い糸をたどって

 次の日曜日は若槻と会う約束をしていた。彼女の意見で「今回は春見さんの希望に合わせます」ということになった。
 暑さも本格化してきたため、冷房のよく効いた場所にいられる映画鑑賞で決まった。ドライブを兼ねて少々遠方のショッピングモールまで行き、その中にある映画館を利用することにした。特別観たいというわけでもなかったが、俺の趣味でアクションものの洋画を選んだ。若槻も「いいですよ」と二つ返事で答えてくれ、それを拒んだりしなかった。

 結論から言うと、期待外れだった。
「かつてない壮大なスケールで」という在り来たりのキャッチコピーとはあまりにかけ離れた作品に過ぎなかった。
「イマイチだったよな?」
 俺がそう言うと、若槻も「そうですね」と、苦笑いを浮かべた。最初のデートじゃなくて良かった。映画が面白くなかったのが俺のせいではなかったとしても、その後の展開に多少なりとも影響はあるからだ。
 時刻は午後三時。帰るには早いし、夕食にも早い。
「これからどうする?」
「そうですね。せっかくモールに来たんだし、ちょっと店の中を見て回りませんか? 何を買うってわけでもないですけど、私、車持っていないし、なかなかここまで来れないんですよね」
「別にいいよ」
 出不精の若槻のことだ。彼女が言うように、わざわざ電車に乗ってまでは来ないだろう。
 服や鞄、靴などの各専門店に入って、時折、商品を手に取ってみる。言葉通り、若槻はそれ以上のことはしなかった。ブランド物には興味がないようで、軽く流す程度で終わった。
 基本的に贅沢はしない人なんだろう。
「若槻さんって、今、何か欲しい物とかってあるの?」
「買ってくれるんですか?」
「まあ、金額次第かな。車とか言われても無理だし」
「冗談ですよ。今、欲しい物と言えば、お米でパンが作れる機械かな」
「ああ、あれね。確か品薄でなかなか手に入らないんだよな?」
「販売当初はそうでした。でも今は普通に買えますよ。それにパンだけじゃなくて、お餅とかパスタ麺、そばも作れるんです」
「そうなんだ。さすが料理好き。でも買えない値段じゃないだろ?」
「まあ、そうなんですけど……なくてもいいものだし、どうしてもってわけじゃないですから。春見さんは何か欲しい物ありますか?」
「うーん。そうだな。お嫁さんかな」
 それとなく結婚を匂わせてみたが、若槻は「なるほど」と言って、少し笑っただけだった。
 
 次はインテリア雑貨の店に入った。写真立てや飾り物など、俺が尋ねることをせずとも「私こういうのが好きなんです」と、若槻は自分の趣味を教えてくれた。将来、家を買ったとき、置いてみたいと思っているのかもしれない。
 リビングをイメージして作られたスペースにある、展示と販売を兼ねたソファに、若槻はゆっくりと腰を下ろした。
「なかなかいい座り心地ですよ」
 彼女がそう言うので、俺もそれに倣う。スタンド式のポップにちらりと目をやる。若槻も俺と同じことを考えていたらしく「三万九千八百円」と、その値段を口にする。
「安いですね」
「うん。移動も楽そうだし、いいよな」
 二人揃って背もたれに上半身を預けると、お互いの肩が触れ合った。そのまま手を握ろうかなんてことが頭を過ったが、慌てて自らを止めに入った。
 さすがにそれはまだマズイ。
 しかし俺の気持ちは明らかに高揚していた。
「若槻さんに聞きたいんだけど……」
「何ですか?」と、若槻がこちらに顔を向ける。かつてないほどの近距離で、視線がぶつかる。若槻が瞬間的に顔を赤くして、あたふたと前を向く。俺まで恥ずかしくなり、同じように前を向いた。二人とも視線を正面のゴミ箱コーナーに向けたままで話を続ける。
「結婚するなら、すぐでもいいのかな?」
「えっと……そうですね。でもすぐって言っても、両親への挨拶とか式のこと、それに新居のこととかいろいろあるし、最低でも準備に一年くらいは掛かるんじゃないですか? 前にも言いましたけど、仕事はしばららく続けるつもりなので、三月は外したほうがいいかな」
「どうして?」
「ほら、三月って会社の決算じゃないですか? そんな忙しいときに私たちが結婚なんてブーイングの嵐でしょ?」
 別に「俺と結婚するなら」と尋ねたわけではないが、若槻はそれを想定した予定を話していることは明らかだった。
 これならきっと上手くいく。
 沸々と自信が湧いてくる。
「そうだよな。三月は……」
 若槻に同意しようとすると、右斜め後ろから「あれ? お前ら」という、どこかで聞いたことのある低い男の声が耳に入ってきた。
 若槻と二人、ソファから上半身を起こして声の主のほうへと振り返る。
 その男の正体を知って、血の気が引いた。恐らく若槻も同じに違いない。
 牛島だ。
「何してんだ? こんなところで……」
 選りによって、一番見つかりたくない人に見つかってしまった。
 とにかく上手く誤魔化さないと。
「買い物に来てたら、偶然ここで会ったんで一緒に回っていたんです。なあ、若槻さん」
「はい」と、若槻が小さく頷く。その頃には、二人ともソファから立ち上がっていた。若槻の顔は真っ赤だ。
 相変わらずわかり易い。
 もちろん、そうじゃなくても、牛島が「はい。そうですか」と信じるわけがない。
「どうも嘘臭いよな。一緒に見て回るだけなら、ソファに密着して座ったりするか?」
 牛島が厭らしい表情を浮かべる。
「買い物に来たら、ソファくらい座るでしょ。それに密着はしていないですよ」
「ふーん。そう見えただけかな」
 とは言いながらも、納得したようには思えなかった。
「お前たち、二人とも一人で来たのか?」
「そう言っているでしょ。偶然会ったって」
 牛島の質問に受け答えするのは俺だけで、若槻はずっと黙ったままだ。
「春見は車で来たんだよな? 若槻は?」
 まるで尋問だ。ボロが出るのをひたすら待っているのか。
「私は電車で来ました」
 彼女がペーパードライバーであることは、社内では周知の事実だ。
「電車で来るって大変だっただろ。乗り換えもそうだし、駅からも結構離れているしさ」
 郊外に建つ大型ショッピングモールであるここは、牛島の言うように電車で来るにはキツイものがある。
 これ以上突っ込んだことを聞かれる前に話を変えたほうが良さそうだ。
「牛島さんこそ一人で来たんですか? それはないか。休日は常に家族サービスって言ってましたし」
「ああ、嫁と息子と一緒に来ている」
「どこにいるんです? 挨拶くらいしておきますよ。なあ?」
 若槻は黙って頷く。顔の赤さは少しマシになっている。
「それと牛島さんが会社でどういう人なのかを詳しくお伝えしたいですし……あっ、そうそう。ご家庭での様子も是非聞いてみたいですね」
「何か引っ掛かる言い方だよな」
「そうっすか? それで、どこにいるんですか?」
 執拗に迫る俺に、牛島が慌て始めた。
「いや、いくらなんでも急なことだからな……嫁も息子も困るかもしれん。また次の機会に頼むよ」
「邪魔して悪かったな」と言い残して、牛島は人込みの中へ消えていった。
 どうにか追い払うことはできたが、百パーセント安心はできない。
「厄介な人に会っちゃったよな? こういう偶然ってあるもんなんだな。ほとんど奇跡レベルじゃないか?」
 できるだけ明るい口調を心掛けたつもりだったが、自分でもどこか動揺していることに気が付いた。
「でも同じ県内に住んでいるんだし、少なからずそういう可能性はあると思っていました」
 先程の頬の紅潮ぶりが嘘のように、冷静な意見だ。
「まあ、そうか……でもさ、一応、ここまでの電車料金と所要時間くらいは調べておいたほうがいいかもな。あの人のことだから、またいろいろと聞いてきそうだろ?」
「そうですね」
「帰りは俺が送ったことにしておこう」
「はい」と、若槻は真剣な眼差しで頷いた。
 それにしてもなぜこんなことに気を回さなくちゃならないんだろう。
 全く馬鹿馬鹿しい。

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『赤い糸をたどって』 第三十回 

赤い糸をたどって

「わあ、改めて見ると大きいですね」
 目の前のそびえ立つキリンを見上げて、松田は無邪気に笑った。
 彼女がリクエストした「行きたいところ」というのは動物園だった。
 動物たちの姿を見て癒されたかったらしい。本人は、少々子供っぽいかなと思っていたようだが、俺も童心に帰って、久しぶりに行ってみたいという気持ちになった。
 美しさや幻想的な雰囲気が楽しめる水族館と違い、臭いや敷地の大きさを考えると、動物園は行く相手を選ぶ。
 そんな理由もあって、以前つき合っていた女性とは、動物園に行ったことがなかった。
 松田は本当に動物が好きらしく、何を見ても何かしらの表情を見せる。「カワイイ」と言ってみせたり、「わあっ」と驚いたり、案内板を見て「へえー」と感心したり……。
 そんな彼女を見ていると、「来て良かったな」と思える。
「やっぱり私って子供っぽいですか?」
 松田が改まった口調で尋ねてくる。
「いいえ。そんなことありませんよ。僕も動物は好きだし、結構楽しんでいます」
「それなら良かった。春見さんはどの動物が好きなんですか?」
「レッサーパンダ」
「ああー、カワイイですよね。私も好きです。でもパンダもコアラも捨てがたいです」
 彼女の表情を見ると、本気で悩んでいるように見えた。
「でも意外です。男の人って、ライオンとかトラとか、ワイルド系の動物が好きなんだと思っていました」
「そうですね。確かに見た目はカッコいいですけど、僕はやっぱり癒し系のほうが好きかな」
「それは女性のタイプもですか?」
「そうそう。社会というジャングルから帰ったらホッとしたいじゃないですか? だからやっぱりカワイらしくて、愛嬌のある人がいいです」
「私は夫にはライオンでいて欲しいし、私自身もライオンになるべきだと思っています」
「そうなんですか?」
「夫の留守中は家を守らないといけないでしょ? 癒し系じゃやっていられないですから」
「それは頼りになりそうですね」
「でも、夫の前では猫でありたいです。留守中だけですよ。ライオンに豹変するのは」
「ライオンにヒョウにもなる猫か……変幻自在ですね」
「はい」
 松田がクスクスと笑う。
 やっぱりカワイイ人だよなと、思わず口元が緩んだ。
 
 園内を歩くうちに、空いているベンチが見つかったので、休憩をとることにした。松田を先に座らせて、俺は販売機にお茶を買いに走った。
 俺の差し出すペットボトルを、松田は「ありがとうございます」と笑顔で受け取った。財布を出そうとしたので、「いいですよ」と俺は遮った。
 夏の暑さが堪え始める時期であるにもかかわらず、周りは子供連れが多かった。子供たちは皆、一様にはしゃぎ回り、どちらかと言えば、大人のほうが参っているという感じだった。
「楽しそうですよね。子供たち」
「そうですね。松田さんはきっと子供も好きなんですよね?」
「はい。好きです」
「結婚したら、子供は何人欲しいですか?」
「二人以上かな」
 松田は悩んだ様子もなく、さらりと答えた。
「やっぱり何をするにも一人より二人のほうが楽しいですからね。それに大人になってからもいろいろと助け合ったりできますし。私自身、弟がいるので、それはとても実感しています。春見さんは一人っ子ですか?」
「そうです」
「兄弟が欲しいと思ったことは?」
「子供の頃はよく思いました。特に兄が欲しかったです」
「どうしてですか?」
「兄が買ったゲームとか漫画を共有できるでしょ?」
「なるほど」と、松田は優しく微笑んだ。
 
 一通り動物たちを見終えた後、ショップに入った。
 時計を確認すると、午後四時を過ぎていた。入場したのが午後十一時だったため、三時間ほど過ごしたことになる。
 ショップと言っても、土産を渡す者もいないため、買う予定もない。店内をさっと見て終わるつもりだった。
「春見さん」
 名前を呼ばれて振り返った瞬間……。
「ムギュッ!」
 俺の顔にレッサーパンダのぬいぐるみが押し付けられた。思わず仰け反る。
 言うまでもなく、松田だった。
 その思わぬ行動に目を丸くしていると、松田はとても楽しげに笑った。
「ぬいぐるみってカワイイからつい欲しくなるんですけど、どうしてもってときに捨てられなくなるんですよね」
 尋ねてもいないのに、松田はそう言った。
「だからストラップにしようかな、記念ということで。春見さんは何も買わないんですか?」
 記念か……小谷には気持ち悪いって言われたよな。
 松田は「うーん」と唸りながら、ストラップを吟味している。コアラにするかパンダにするかで悩んでいるようだ。残念ながらレッサーパンダはない。
 ライオンのストラップを手にしてみた。
 もし彼女と結婚することになったら、これもいい思い出の品になるだろう。
 でも、そうじゃなかったら。
 ひどいフラれ方をしたら。
 いかん、いかん。こういう中高生みたいな考え方をしているから気持ち悪いなんて言われるんだ。
「ライオンにします」
「じゃあ、私はパンダにします」
 二人でレジに並び、松田のパンダのストラップと合わせて、俺が会計を済ませた。
 
 ショップの出口が動物園の出口でもあった。
 そこで松田が「さっきはゴメンなさい」と頭を下げた。
「さっきって?」
 彼女が何のことを言っているのかがわからなかった。
「レッサーパンダのぬいぐるみの件です。突然顔に押し付けちゃって」
「ああ、そのことか。別に怒ってはいませんよ。予想外の行動だったので、ちょっと驚いただけです」
「それなら良かった」と、松田が安堵の表情を見せる。
「はしゃぎ過ぎですよね、私……でもね、こんなに楽しかったのは、本当に久しぶりなんです。今の会社に入ってからは、毎日仕事ばかりで、休みの日も『疲れた、疲れた』で何もしないで終わっていたので……恋人もいたんですけど、会っても私の表情が浮かないものだから、呆れられちゃって……」
 松田が苦笑する。
「でもこんなに楽しめたのは、春見さんのおかげでもあるんです」
「僕の?」
「はい。春見さんはとても優しいし、面白いし、あまり気を使わなくてもいい人なんですよね。一緒にいて安心できるというか」
 素直に喜んでいいんだろうか。
「癒し系ってことかな?」
「そうです。癒し系です」
 そんなことを言われたのは初めてだった。
「それじゃ、また会ってくれますか?」
 毎度のことだが、こうして次の約束を取り付けるときはとても緊張する。
「はい。喜んで」
 その笑顔を見ると、松田に対してすでに特別な感情を抱いている自分に気が付いた。
 早過ぎる気がしないでもない。しかし彼女が今までブーケトスで出会ってきた……例えば遅れてきても謝ることがなかったり、恋人がいるのに結婚相手を探したり、結婚に必死になり過ぎて前がよく見えていなかったり、相手に点数をつけて評価したりするような女性たちとは明らかに違うことはよくわかる。
 真面目で前向き、他人のことを気遣い、どんなことでも純粋に喜んでくれる……若槻と同じタイプの女性だからかもしれない。

 小

 七月になり、アドバイザーの梅田から電話がかかってきた。
 事務所でコンビニ弁当を食べ終えたところだった。斜め向かいの席にはいつも通り牛島が座っているので、ケータイを持ってそっと部屋から出た。
『もしもし、春見さん? ブーケトスの梅田です』
 牛島だけでなく、会社の人間にはできるだけ聞かれたくない話なので、事務所からも出た。うだるような暑さに、一人顔をしかめてしまう。
『今、お時間大丈夫?』
「はい。どうぞ」
『あれから調子はどう? 今、三人くらい仮交際しているわよね?』
 若槻と松田、放置状態の沢口だ。
「二人とは、そこそこいい感じです」
『あら、そう? 期待してもいいのかしら』
「うーん、どうでしょうねえ。上手くいけばいいんですけど……」
『そうよね……それでね、今日、電話したのは、会員期間の終了が迫ってますって件なのよ。もちろん、春見さんも知っているわよね?』
「はい。もちろんです」
 嘘だ。すっかり忘れていた。
『今のお二人のどちらかと上手くいったらそれでいいんだけど、もし駄目だった場合、春見さんはどうしようと考えてる? 退会するか、それとも更新するか』
 できれば、今は考えたくない話だ。
「更新の場合、だいたい三十五万円でしたっけ?」
『それなんだけどね。もし来月中に更新を決めてくれたら、特別割引で三十二万円になるのよ。特典として無料パーティ券も付くわよ。ただし、三千円以下のパーティ限定だけどね』
「はあ……」
『あっ、勘違いしないで。更新って言っても予約だけでいいのよ。今の期間中にやっぱり辞めますってことになったら、ちゃんとお金は返すから安心して』
 梅田には「来月の返事でいいから」と、念押しをされて電話を終えた。
 確かにお得な情報だが、「じゃあ、更新します」というのは違う気がする。
 いくら割引の対象とはいえ、三十二万円となれば大金だ。現在の進行分と合わせると、総額で七十二万円。しかもそれで必ず結婚したいと思える……いや、思ってくれる相手に出会えるとも限らない。
 しかしその逆もある。ブーケトスに入会しなければ、これほど多くの女性には到底出会えなかったはずだ。
 今は更新するかどうかを悩むより、どうすれば残り二ヵ月半で相手を見つけられるかを考えるべきだ。はっきり言って、新しい女性からの「お受けします」を期待するのは難しいだろう。
 となると、若槻か松田のどちらかで決めたい。二人とも真面目に結婚を考えているし、今だけにとらわれず、将来のことを見据えた話のできる女性だ。
 結婚相手としては申し分ない。
 いつまでも同時進行でやっているわけにはいかない。仮交際を終わりにして、どちらかに「結婚を前提としておつき合いして下さい」と告げるべきだ。
 問題はどちらを選ぶかだ。
 一応、一人はキープしておいて……なんて、いい加減なことはしなくない。第一、俺はそんなに器用な人間じゃない。それができるくらいなら、結婚相手探しにこれ程苦労するはずがない。
 そしてどちらにするか以上の問題が、彼女たちが俺の告白を受け入れてくれるかだ。
 とにかく今はまだ決められない。少なくとも後一度ずつくらいは会ってからにしたい。

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『赤い糸をたどって』 第二十九回 

赤い糸をたどって

 当日。待ち合わせ場所は直接その店だ。
 午前十時四十五分頃に『今、お店の前で待っています』と、松田からメールが届いた。
 約束は十一時なので、随分と余裕がある。
 時間にもきっちりとした人らしい。
 昨日の夜、予定通りで大丈夫かを確認すると、『はい。大丈夫です』と返事があった。ただし、その時点で時刻は午後十時過ぎで、『まだ仕事中です』と書いてあった。
 ひょっとすると、休むために必死になって仕事をこなしたのかもしれない。
 彼女に遅れること、五分。俺も店に辿り着いた。出入り口のそばにそれらしき女性がいる。とりあえず、駐車場に車を止めた。
 車から降りて、小走りで彼女に近寄り、一応名前を確認する。
「松田さんですか?」
「はい。そうです。春見さん?」
 紹介状で身長は知っていたが、思っていた以上に小柄な女性だった。顔はというと、写真より幼く見えた。彼女自身が話す仕事ぶりから、しっかりとした雰囲気を勝手に想像していたため、少々意外だった。
 昼食には少し早いためか、店内は空いており、すぐ座ることができた。
 松田はカルボナーラ、俺はペペロンチーノを注文した。
「思ったより元気そうで安心しました」
 俺がそう言うと、「えっ?」と松田は目を丸くした。
「ほら、毎日仕事が遅いですし、もっと疲れた顔をしているのかなと……」
「心配してくれていたんですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
 そこで彼女に最初の笑顔を見せてもらった。
 カワイイ人だ。
「化粧を厚めにしているから……騙されていますね。春見さん」
 ユーモアもある。
「仕事、大変そうですね。チーフでしたよね?」
「はい。チーフって言っても、ただの押し付けみたいなものです。責任ある仕事をやらせるために、建前が必要だからそう呼ばれているだけですよ」
 先程までの明るい表情が一変して、暗いものへと変わる。
「松田さんの話を聞いていたら、新しい人が入っても長続きはしないんだろうなって気がします」
「そうですね。大抵の人はすぐ辞めちゃいます」
「松田さんは辞めようと思わないんですか?」
 そこへウェイトレスが二人分のパスタを運んできた。
「とりあえず、食べながら話しましょう」
 話題を振っておいてこう言うのもなんだが、「聞くだけ」、「話すだけ」になると、空気が重くなりそうな気がしたからだ。それに料理もうまくなくなる。
「毎日辞めたいと思っています。でも私の性格上、辞めるならきっちりと区切りを付けてからって思ってしまうんです。例えば、結婚とかね。私が結婚したいのは、ひょっとすると、今の仕事から逃げるためなのかもしれませんね……なんて、こんな女と結婚したくありませんよね」
 松田はそう言って苦笑いを浮かべた。
「いいえ、そんなことは……松田さんの立場ならそう考えたって可笑しくないんじゃないですか? それでもちゃんと区切りがつくまでって考えているのは偉いですよ」
「私も悪いんです。ある程度うまく手を抜けばいいんですけど、自分のせいで配送が遅れたり、商品の数が足りなかったりすると、迷惑がかかると思って、細かいところや他の人が済ませたところまでチェックしてしまうんです。そうしているうちに時間が足りなくなって……そんな感じです」
「責任感が強いんですね」
「馬鹿なだけですよ」
「でも辞められないんでしょ?」
「はい」
「だったら、それでいいじゃないですか。松田さんみたいに真面目な人、僕は好きですよ。どんなに忙しくてもメールは必ず返してくれるし、待ち合わせの時間はちゃんと守るし、当たり前のことなんですけど、それができない人って意外と多いんだなってブーケトスに入会してわかったんです」
「そうなんですか?」と、松田が驚いた表情を見せる。
「あっ、松田さんってまだ入会して間もないんですか?」
「はい。まだ一ヶ月くらいです。こんなふうにちゃんと仮交際をしているのは、春見さんだけなんです。一番初めに紹介状が届いたのが春見さんだったので……」
 これってひょっとするとチャンスなんだろうか。
「そうだったんですね。まあ、そのうちにわかると思います。話を変えましょうか? なんだかネガティブなことを言ってしまったし……松田さん、紹介状に『理想の夫婦像は両親』って書いてありますよね? 一体どんな方なんですか?」
「そうですね……」
 松田の顔が再び明るいものへと戻った。
「とにかく仲がいいです。お互いを思いやる気持ちが見ていて伝わってくるというか……喧嘩をすることはほとんどありません。私、弟がいるんですけど、子供の頃は家族四人で買い物に行ったり、遊びに行ったり、父が休日のときは必ずどこかへ出掛けていました。私と弟が就職して家を出てからも、父と母でよく旅行に行ったりしているみたいです」
「じゃあ、本当に仲の良い夫婦なんですね」
「はい。時折、夫の退職をきっかけに離婚したり、同じ墓に入りたくないって言ったりする夫婦がいますけど、あんなのは絶対に嫌ですね」
「確かにね」と、自然に腕組みをしてしまったため、慌てて解いた。
「御両親は松田さんの結婚について何か言っているんですか? ブーケトスのことは知っているんですか?」
「ブーケトスのことはまだ知りませんけど、いい人はいないのかって聞かれることはあります」
「きっと心配なんでしょうね。夜遅くまで働いているし」
「そうですね。早く結婚して落ち着いてくれたらって思っているのかもしれません。春見さんの御両親はどんな方なんですか?」
「適度に仲良くして、適度に喧嘩してって感じですね。まあまあ、ごく普通の夫婦です」少なくとも熟年離婚や違う墓に入ることを計画しているようには見えない。
「春見さんの結婚に関しては?」
「最近、少しやかましくなりつつありますね。まあ、ブーケトスにはそうなる前から入会していたんですけどね」
「ブーケトスのことはご存じなんですか?」
「あっ、いや、そこまでは……ただ、多少なら当てがあるって大見栄切っちゃったもんですから、今、焦っているところです」
「じゃあ、しっかり頑張って婚活しないと」
 松田はそう言って、目を細くした。
「そうなんですよ……ところで、松田さんの理想の男性ってどんな人ですか?」
「理想ですか……そうですね。仕事も家庭も同じくらい大切にしてくれる人がいいです。後は、いつでも『俺に着いて来い』じゃなくて、いざってときに『俺に任せておけ』ってタイプの人かな。夫婦として同じ立ち位置にいられる関係が理想です」
 彼女も若槻と同じで、結婚に対してしっかりとした考えを持っているようだ。
「春見さんの理想はどんな人ですか?」
「常識のある人、思いやりのある人。以前誰かに尋ねられた時はそう答えたけど、もう一つ付け足したいなと思っています」
「どんなことですか?」
「結婚した後のこと、つまり将来どうありたいかを考えている人ですね」
「じゃあ、とりあえず私は合格ですね」
「はい」
 二人、声を合わせて笑った。
「松田さん、体調のほうは大丈夫ですか? とりあえず食べ終えたので、今日はこの辺りで切り上げましょうか?」
「ありがとうございます。春見さんって、優しいですね。まだ大丈夫です。せっかくなので、食後のコーヒーでも飲みましょう。あっ、春見さんは紅茶派ですか?」
「そうですね」
 ちょうど皿を下げにきたウェイトレスにコーヒーと紅茶を注文した。
「松田さんがお仕事でお疲れなのは知っているんですが、もし良かったら、次はどこかへ遊びに行きませんか?」
 言った後で少し早過ぎたかという気もしたが、彼女は間違いなく『また会いたい』と思わせる女性だ。
 松田は大して迷った様子もなく、「いいですよ」と答えてくれた。
 今のところ、悪い印象は与えていないようで、ほっとした。
「どこかリクエストとかありますか? 近くで行ける場所でもいいですよ。動き回るより、映画を見たりするほうがいいかな? フルーツテーマパークとか……そうそう。足湯とかもなかなかいいですよ」
 過去の経験が思ったより役に立つ。苦い経験でもあるが。
「そうですね……行きたいところならあるんですけど、笑わないでくれます?」
「もちろん」
「じゃあ……」

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『赤い糸をたどって』 第二十八回 

赤い糸をたどって

 六月に申し込んだM子という女性から『お受けします』の返事が届いた。
 本名は松田智花。年齢は二十八歳。ルックスは、今まで実際に会った女性の中ではいいほうに入ると思う。目がくりっとしていて可愛らしい。
『はじめまして。毎日、仕事に追われ、忙しい日々を過ごしています。そのせいもあって、出会いが全くありません。素敵な人が見つかればいいなと思います。理想の夫婦像は両親。二人のようにいつまでも仲良く人生を共に歩んでいきたいです』
 印象はとても良かった。こんなふうに「両親が好きだ」と言える人に悪い者がいるわけがない。惜しみない愛情を捧げられ、大切に育てられたのだろう。そんな女性ならきっと温かな家庭を築いていけるに違いない。
 若槻とはいい感じだとは思うが、彼女のほうはいったい俺をどんなふうに見ているのかはわからない。
 今の時点で、この女性の申し込みを断ってしまうのはあまりに惜しい気がする。まだ会員期間は残されているし、会うだけ会ってみてもバチは当たらないはずだ。それに俺が彼女から気に入られるという保証はどこにもない。
「よし。お受けしよう」
 独り言を呟いて、時計で時間を確認すると、午後九時過ぎ。
 まあ、メールなら問題はないだろう。
 とりあえず、「はじめまして」から始まる挨拶メールを送った。
 十五分ほどして返事が届いた。
『はじめまして、松田です。ご連絡ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。春見さんはもうご自宅でゆっくりされていますか? 私はまだ仕事中なので、少し返信に時間が掛かるかもです。泣』
 仕事中って言ったって……。
 改めて時計で時間を確認してしまう。
 紹介状に書かれていた彼女の職業は、事務職。例えば、営業や設計、デザイナーやプログラマーといった仕事ならわからなくもない。
 こんな時間まで働く事務員なんているのか。いや、ひょっとしたら、今日は偶然、残業が長引いているだけなのかもしれない。
『まだ仕事中ですか。大変ですね。僕は今、自宅で夕食の最中です。お忙しいようなので、また時間があるときにメールしましょう。無理せずに頑張ってくださいね』
 そう書いて返事を送ると、『心配してくださってありがとうございます』と、返ってきた。なんとなく気掛かりだったが、自分で「時間があるときに」と書いた以上、そこで切り上げるしかなかった。
 
 次の日、通勤電車の中で、松田からのメールを受け取った。
『おはようございます。昨日はゴメンなさい。今、通勤電車に揺られているところです。私の会社は、仕事の量の割に従業員が少なくて、帰りは大抵、九時から十時以降です。人事の話では募集をしてはいるそうですが、なかなか人が来ないというのが実情です。当然、出会いもないので、ブーケトスに入会しました。
 春見さんのお仕事は営業と書かれていますが、何の営業ですか?』
 このメールでどことなくわかったことは、松田の仕事がクリエイティブなものだから遅くなっているのではなく、単なる人手不足で、一人一人が処理しきれない量の仕事を担っているからに違いない。
 つまりキャパオーバー。
 俺自身の仕事を説明した後で、彼女の仕事について詳しく尋ねてみた。
『物流の会社に勤めています。私の主な仕事は商品の配送手配や数量の確認、電話応対などかな。チーフという立場なので、後輩の子の面倒を見たりもしています。彼女たちを教育したり、漏れがないかをチェックしたりもするので、結構忙しいんです。
 ゴメンなさい。もうすぐ電車を降りるので、一度切り上げますね。今日一日、頑張りましょう』
 俺の読みは当たりだろう。それに見合った給料がもらえていれば、まだ救いはあるが、こういう場合、大抵安月給だ。そんな状況だから、新しい者が入ってきても長続きはせず、いつまで経っても楽にならない。

 昼休みになったので、弁当を食べ終えてから『昼食はいつもどうしていますか?』とメールを送ってみたが、一向に返事が来なかった。
 まさか飯を食う暇もないほど忙しいわけじゃないだろうなと心配していると、午後十二時五十分に返事が届いた。
『ゴメンなさい。お弁当を食べ終わってから寝ていました。ほぼ毎日、お昼休みはお弁当を食べて少し眠るようにしています。そうしないと体が持たないので……春見さんはお弁当のほうが多いのですか?』
 俺の昼飯なんてどうでもいい。休みはちゃんと取れているんだろうか。
 すぐにでも答えが欲しかったが、彼女の仕事の手を止めて、帰りを遅くさせてはまずい気がしたので、その質問は夜まで控えておいた。

 小

 松田とメールをするのは、朝の通勤時間と午後九時前後の二回。それもほんの僅かな時間だ。
 夜に関しては、毎日、「まだ仕事中です」で始まる。
 まともな話ができない状態でわかったことは、彼女が恐ろしく仕事に追われる生活を送っているということ。
 休日は日曜日と祝日のみ。一応休めてはいるが、時折、休日出勤がある。あるいは休むために、前日は必死に仕事を片付けているかだ。しかもせっかく休めても、平日にできないことを消化するだけに留まっている。
 趣味の欄に書いてあるのは、読書、映画観賞、観葉植物。ただし、まともにできているのは、観葉植物の飼育くらい。植物たちの微かな生長を知って心癒されているらしい。

「……って感じなんだ」
「それで春見さんは心配しているんですか?」
 若槻の口調がどこか冷たく感じられたのは気のせいだろうか。
「いや、まあ、まだ心配するっていうほど彼女のことも知らないけどさ……ただ、ちょっとかわいそうだなって思って……」
 他の女性会員のことは話さないつもりだったが、松田に関してはあまりに気の毒なため、つい話してしまった。
 今日は、橋添に教えてもらった洋食レストラン「ぷろヴァんす」に夕食へとやってきた。若槻は「美味しさうわのせ目玉焼きハンバーグ」を随分と気に入った様子だった。
「でも辞めたいのなら、辞めるんじゃないですか? 残っているっていうことは辞める気がないからですよ」
「そこはやっぱり、代わりが見つからないから、簡単に辞めるって言えないんじゃないかな?」
「まあね……でもそんなこと言っていたら、いつまで経っても辞められないですよ。極端な話、『いつまでに新しい人を入れて下さい。例え、入らなくても、私はそれ以降は来ませんから』くらいの勢いがいるんじゃないですか?」
 確かに若槻の言うことは、間違っていない気がする。
「彼女は真面目で責任感が強いから、中途半端で投げ出したりできないかもな」
「まるで随分前から言っているような言い方ですよね? 一週間メールしただけなのに」
「何かトゲがあるよな? もしかして怒ってる?」
「いえ、別に。怒る理由なんてどこにもないじゃないですか」
 そう言って若槻は笑顔を見せたが、やはりどこかいつもと様子が違う。
「でも春見さん、それこそ彼女が辞めるに辞められず、結婚してからも働きたいって言ったらどうするんですか?」
「働いてくれるのは有難いけど、そこまでみっちりだとキツイな……でもさすがにそのときは辞めてくれると思うけどなあ」
「そこは曖昧にせずに、ちゃんと尋ねておいたほうがいいですよ」
「そうだよな。ありがとう」
 あれ……何だか恋愛相談のようになっている。少し流れを変えたほうが良さそうだ。
「ところでさ、若槻さんは結婚したら仕事はどうするつもり?」
「しばらくは続けようかなって思っています。収入は多いに越したことはないですから……でもそれも子供ができるまでで考えています。学校から帰って、家に誰もいないってかわいそうじゃないですか?」
「そうだよな。俺としても働いてくれるのは有難いけど、やっぱり子供に寂しい思いはさせたくないって気持ちがあるもんな」
「じゃあ、これに関しては、二人ともツボが同じですね」
 若槻の声のトーンが一つ上がった気がした。

 小

 だからと言って、松田に対してただ気を使っているだけでは一向に話が前へと進まないので、「一度会ってもらえませんか」と頼んでみた。時間は昼食かお茶程度で構わない。場所もできるだけ彼女にとって都合のいいところでという条件にしておいた。
 その結果、松田の住むマンション近くのパスタの店で昼食を一緒にとることに決まった。

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『赤い糸をたどって』 第二十七回 

未分類

 岬シーパークを出て、若槻を彼女の住むマンションの近くまで送り届けたのは、午後五時過ぎだった。
 若槻は終始笑顔で、心から今日一日を楽しんでくれたように見えた。
「若槻さん、夕食はどうする?」
 すぐに答えはもらえなかった。若槻はしばらく考えるような表情をした後、「ゴメンなさい」と申し訳なさげに口を開いた。
「せっかくなんですけど、ココアの散歩もあるし、洗濯や掃除もやっておきたいので」
「アイロンがけもあるしな」
「確かにね」と、若槻はクスッと笑った。
 実を言うと、俺自身も今の時点で充分満足していた。
「わかった。今日はありがとう」
「私のほうこそありがとうございました」
「じゃあ、また明日、会社で」
 若槻は助手席から降りようとドアを開けたところで、「あっ、そうそう」と何かを思い出したかのように俺のほうへと向き直った。
「春見さん。見栄を張るのはいいんですけど、嘘はダメですよ」
「嘘?」
 彼女が何を言っているのか、よくわからなかった。
「水族館、この前行ったばかりだったんでしょ?」
「えっ……」
 なぜわかったのだろう。
「自分で言っていましたよ。この前、別の女性会員さんと来たときは『海の人気者ショー』が見れなかったって」
 どうやら自分でも無意識のうちにしゃべってしまったらしい。体中が熱くなる。
「優しいんですね。春見さんって」
この前行ったばかりだけど、別に構わないよ。
 そう言うべきだった。
「ゴメン」
「いいんです。でもやっぱり私、嘘は嫌いだから……できればやめて欲しい。それが次も遊びに行く条件かな」
 若槻が優しく微笑む。怒ってはいないようだ。
「わかった。嘘はやめるよ」
「はい。それじゃ、次もよろしくお願いします」
 若槻はそう言って車を降り、「おやすみなさい」と頭を下げて帰っていった。
 あんなふうに胸の内をはっきりと話してくれたのは、脈ありだからと考えていいのだろうか。

 小

 次の日曜日も若槻と出掛ける約束をした。
 もちろん、若槻以外の会員への申し込みもしている。明日も若槻からお断りされないという保証はどこにもないからだ。
 今回、若槻が行きたいと言ったのは、市の運営する緑地公園で、自然の山を切り開いたものだ。入場料は無料で、掛かるのは駐車料金だけ。目を引くアトラクションもないし、土産屋もない。
 本当にそんなところでいいのかと、若槻に尋ねてみると、「それでいいんです。だって春見大地がどういう人なのかを知るのにアトラクションや派手な演出なんて必要ないですからね」
 そんな答えが返ってきた。
 尤もな意見だ。その分、誤魔化しが効かないということになり、俺にはある意味プレッシャーだ。
 目的地である「市立森の木陰公園」に到着したのは、若槻を乗せてから一時間後の午後一時半頃だった。今日は夕食を一緒にとる約束をしていたので、昼食は各自で済ませてきた。
 岬シーパークとは違い、駐車場が空くのを待つ必要もなかった。
「山道だから歩きやすい格好のほうがいいですよ」と、若槻から事前に言われていたので、スニーカーを履いてきた。若槻もジーンズにTシャツというスタイルで、背中には小さなリュックがちょこんとぶら下がっている。
 梅雨入りが近いということもあってか、どこか蒸し暑く、体を動かすのなら、水分補給が必要になりそうだ。タオルとペットボトルのお茶をボディーバッグに入れて、いざハイキングへと出発した。
『ようこそ! 森の木陰公園へ』と彫られた木製アーチを潜ると、早速、傾斜のきつい山道が始まる。
「春見さんは日頃は運動とかしているんですか?」
「いや、ほとんど……というか、全然かな」
「じゃあ、明日は筋肉痛ですね。多分」
「そんなにキツイのかな? ここ」
「運動不足の人にはそうかもしれませんね。私も来るのは初めてなんですけど、インターネットで見る限りはそんな感じでしたよ」
 話をしながら前に進んでいる間も、若槻の視線は樹木や足元に生える草花に向けられている。
「そう言う若槻さんは何か運動しているの?」
「いいえ、特には」
「なんだ、そりゃ」
「でも極力楽をしないように心掛けています。通勤電車では席に座らないとか、隣の駅にあるスーパーに歩いていくとか……まあ、スーパーの件は時折ですけど」
「それじゃ、俺よりは少しマシって程度じゃないの?」
「そんなことはないでしょ。春見さんは営業に出るとほとんど車だし」
「その代わり、ブロックとかレンガとかを運んだりもしているよ」
「それだって時折じゃないですか」
 図星だ。そんなことをするのは、商品をサンプルとして取引先に届けるとき、あるいは配送の段取りが上手くいかないときに現場へ届けるときくらい。それも営業車のライトバンに乗る程度の量なので、いくら多くても知れている。
「まあ、明日が見物だよな。二人揃って悲鳴を上げているかもしれない」
「言えてますね」
 若槻がとても楽しげに笑う。
「若槻さんって、こういうの好きなの?」
「自然が好きです。山とか川とか、そこに生えている木や花が好きです。でも今日みたいにハイキングに来ることはほとんどないです。友達も筋肉痛になるからって、なかなかつき合ってくれませんし……」
「みんな一緒だよな」
 思わずぷっと吹き出してしまった。

 十五分ほど登ったところで、「アジサイ園」に到着した。立て看板によると、三十種類以上のアジサイが植えられているらしいが、残念ながら花を咲かせているものはごく僅かだ。
「まだ早過ぎたんですかね」
 若槻は足元にあるアジサイの葉の一つに触れて、寂しげな表情を見せる。
「蕾のついているものは結構あるんだけどな」
「仕方がないですよね」
「また今度見に来るか」
「そうですね」
 さりげなく誘ったつもりだったが、拒否はされなかった。ただし、若槻のほうもさりげなく答えただけかもしれないが……。
 アジサイ園を抜けて再び山道を登る。
「春見さんは将来家を買うならマンションですか? それとも一戸建て?」
「一応、一戸建てを考えているけど……どうして?」
「私は断然一戸建てなんです」
「庭が欲しいから?」
「そうです。私、子供の頃からずっとマンション暮らしだから、庭付き一戸建てに憧れているんですよ」
 若槻とは反対に、「ずっとマンション暮らしだったので、やはりマンションがいい」という者もいる。ちなみに俺は、小学校二年生までは団地住まいで、その後、現在の実家である一戸建ての家に移り、大学を卒業するまでをそこで過ごした。
「木とか花を育てようと思っているの?」
「はい。プランターでも育てられなくはないですけど、やっぱり限界がありますから」
「大きさがってこと? それとも量?」
「種類ですね。どうせならいろんな種類のものを育てたほうが楽しいじゃないですか」
 若槻の興奮が手に取るように伝わってくる。
「それから小さな池を作って、メダカなんかも飼ってみたいです。
「メダカか」
「あっ、これは私のためだけじゃないですよ。子供たちと一緒にそういうのをやりたいんです。だから砂場とかブランコがあってもいいかもしれませんね」
 こりゃ、それなりに大きな敷地が必要だな。

 そこからまた十五分ほど登ったところで、ログハウス風の休憩所があった。ようやく一息つけると思ったが、「まだ休憩は早いですよね」という若槻の独断で、そのまま歩き続けることとなった。
 木製の歩道橋を渡って、展望デッキに辿り着いたのは、登り始めてから一時間が過ぎた頃だ。
 見渡す限り緑一色とはいかないが、そこにはやはり日頃見ることのできない美しい景色が広がっていた。
「いい眺めですね。春見さん、私たちの住んでいるところってどっちですか?」
 ぐるりと三百六十度を見回して、目印となる物を探す。
「あそこにこの前行った岬シーパークがあるだろ? そこから考えるに、あっちだな」
 俺の指差す方向へと、若槻が視線を向ける。
「あっ、なるほど。でも岬シーパークがあの大きさだったら、遥か遠くですよね」
「そうだな」
「それじゃ、あそこに見える丸いものは何かわかりますか?」
「えっと、あれは……」
 そんなふうにして、若槻と俺は、しばらく山の頂から見える街の景色を楽しんだ。
 まるで子供のように、「あれは何?」と尋ねてくる若槻を見ていると、自然と笑みが零れる。出不精で、休日を掃除や洗濯で終えていた彼女にとっては、いろんなものが新鮮なんだろう。
 ひょっとすると、男性との交際経験がないのかもしれない。
 もしそうだとしても、何ら不思議はないし、俺だって偉そうなことが言えるほど、女性とはつき合っていない。だからこそブーケトスの会員なんだと思う。
 特別ルックスがいいわけでもないし、ぱっと人を惹きつける何かがあるわけじゃない。
 俺も同じだ。
 ただ……彼女なら、きっと記念や思い出なんかも大切にしてくれそうな気がする。
「あっ、雨だ」
 そばにいる、見知らぬ人が突然声を上げた。先程までの晴天が嘘のように、空が少しずつ灰色に染まり始めていた。
「まずいな。傘、持ってくれば良かった。すぐにやめばいいけど……」
 小雨のうちに山を降りられるだろうか。
「山の天気は変わりやすいって言いますからね」
 若槻の口調は冷静だ。
 周りの者たちは、「そんなこと知っていました」と言わんばかりで、瞬く間に山頂に傘の花が咲いた。
「急いで降りるしかないか」
「大丈夫ですよ。春見さん」と、若槻はリュックの中を探り始めた。 
 もしかして……。
「じゃーん。折り畳み!」
「おおっ! 気が利くね」
 若槻が手早く傘を開く。
「アジサイの色です」
 若槻は楽しげに笑って、薄紫色の傘の下に俺を入れてくれた。ほんの少し、体が触れ合う。彼女とこんなふうに密着するのは初めてのことだったため、妙に照れ臭かった。若槻の顔をちらりと覗き見ると、頬が赤かった。
 彼女がただの同僚以上の存在になりつつあるのを、俺は確かに感じていた。

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『赤い糸をたどって』 第二十六回 

赤い糸をたどって

 水族館へ行くことになったのは、五月最後の日曜日。契約期間終了までちょうど四ヶ月だ。
 水族館は以前、小谷と一緒に行った岬シーパークだ。別の水族館が良かったのだが、同スケールのものはこの近くにはない。ただ、前回はどうにも忙しなかったため、ちょうどいいと言えば、ちょうどいい。
 待ち合わせはB駅で、俺が車で迎えに行くことになっていた。目的地までおよそ一時間のドライブ。小谷の時は、彼女の都合に合わせて電車で行ったが、車だと片道三十分の短縮になる。
 B駅に着くと、若槻はすでに俺を待っていた。約束の時間の五分前だ。
 窓ガラス越しに目が合った。若槻は軽く手を振ってから、こちらへ駆け寄ってきた。
「おはようございます。お疲れ様です」
「若槻さん、会社じゃないんだからさ、お疲れ様はやめてくれよ」
「あっ、そうですね」と、若槻は頭を掻いた。ブラウスに綿のパンツと、相変わらず服装はカジュアルだが、化粧は戦闘用、耳には小さなイヤリングをしている。ちゃんとおめかしはしてくれている。
 若槻を乗せて、いざ水族館へ出発となった。
「若槻さんは、確かほとんど運転しないんだよね?」
「はい。車も持っていませんし、行動範囲は徒歩か自転車で行けるところまでが多いです。電車も使えますけど、わざわざって感じはあります。元々、出不精なんですよ。だからブーケトスに入会してからはよく出掛けるようになりました」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、ブーケトスに入会したのは若槻さんからすると、結構思い切りが必要だったんじゃないの? 婚活するとなれば、外出の機会が増えるのは必至なわけだし」
「それは意外と気にならなくて、入会を決断するのに時間はあまり掛からなかったです」
「紹介状には『このまま独身でもいいかと思っていた』って書いてあったけど、何か入会を決めたきっかけとかあるの?」
「きっかけというほどじゃないんです。ただ友達とか従姉妹とか、身近な人たちが結婚したり、子供ができたりするのを見ていたら、家族がココアだけっていうのが急に寂しくなったんです」
 若槻の入会理由が、親に無理矢理といったものではないことに安心した。いや、きっかけはそれでも構わない。問題はその後、前向きに活動するかしないかだ。
「春見さんは『在り来たりの幸せが欲しい』って書いていましたよね? 私も似たような感じかな。多くは望まないというか」
 それも若槻の言っていた「ツボが同じ」に入るんだろうか。
「それ以外にも、親を安心させたい。納得させたい。黙らせたいというのもある」
 少し乱暴な俺の言葉に、若槻はクスクスと笑った。
「随分、憎しみが籠っていますね。よく言われるんですか? 早く結婚しろとかって」
「いや、ここ最近になって急にだよ」
 俺は婚親会のことを、若槻に話して聞かせた。
「へえ、そういうのもあるんだ。お母さん、本気ですね」
「うん。思わず、結婚相手くらい自分で見つけられるって大見栄切っちゃったよ。若槻さんの両親はどう?」
「うちもこの間までは結構うるさかったですよ。それこそ婚親会なんて知っていたら、二人揃って行っていたんじゃないかな」
「どこも同じだよな」
「そうですね。でもブーケトスに入会してからは、とやかく言わなくなりました。私が自分から行動を起こしたってことで、随分安心したみたいです。まだ相手が見つかったわけでもないのにね」
「そりゃ言えてる。でもそれだっていつまでも効果はないと思うよ。またすぐに『うまくいってる?』なんて聞いてくるだろうな」
「おー、怖っ」
 若槻が両腕を抱えて、わざとらしく体を震わせる。彼女の大袈裟なリアクションに俺の口元は綻んだ。

 岬シーパークの人気ぶりは相変わらずで、やはり入場までは少し並ぶ必要があった。
「春見さん、水族館はいつ以来ですか?」
「四年、いや五年前に行ったきりかな」
 つい先日とは言わなかった。
「若槻さんは?」
「私も似たようなもんです。だから今、ちょっとテンション上がっています」
 この前の俺と完全に同じだ。
 
 入場料金の支払いを済ませてメインゲートを潜ったのは、二十分後だった。どちらかと言えば、すんなり入れたほうだろう。
 真っ先に視界に入ってくる大型水槽に、若槻がやや速足で近付いた。
「やっぱりペットショップの水槽とは違いますよね!」
 俺と若槻の感覚のツボって似ているんだろうな。きっと。
 その後、しばらく大型水槽を眺めて、日本近海の魚コーナーへと進んだ。
「スーパーの魚売り場で見慣れた魚ばっかりだけど、こうやって泳いでいる姿も新鮮だよな」
「そうですね」
「あれ? 今の気が付かなかった?」
「何がですか?」
「いや、鮮度がいいっていうのと、物珍しいっていうのを掛けて新鮮って意味だったんだけど……」
「すみません、春見さん。レベルが高過ぎてわからなかったです」
「あっ、そう……」
 本心なのか、嫌みなのかわからなくて、バツが悪かった。
 
 お次は、南国の海水生物。やはりいつ見ても綺麗で、思わずウットリする。
「やっぱり海水魚と言えば、これですよね!」
 若槻も少々興奮気味だ。
「綺麗だし、魚もカワイイのが多いし」
「でもさ、ダイビングをした人からすると、大したことないって」
 小谷のことを思い出して、少々愚痴っぽくなってしまった。それに対して若槻は「アハハハ」と明るい声で笑った。
「そんなの当たり前じゃないですか。海に潜らずに魚たちの泳ぐ姿を見られるのが水族館の魅力なんだし、比べたら気の毒ですよ」
「そうか。それもそうだな」
 当たり前過ぎることを言われて、急に恥ずかしくなった。
「もちろん、ダイビングをやってみたい気持ちはあるんですけどね」
 それなら新婚旅行で……と言おうとしたが、引かれてしまう気もしたのでやめておいた。
 深海生物コーナーと無脊椎生物のコーナーでは、さすがの若槻も「ちょっと気持ち悪いですね」と呟いた。
「でも、これも海の魅力というか、神秘的な部分の一つなんでしょうね」
 そう言って、納得したように一人何度も頷いていた。小谷と違って前向きな意見だった。

 そこで一度展示コーナーを離れ、館内にあるレストランで昼食をとることにした。入場の時と同じで、多少の待ち時間はあったが、割と早く中へと案内された。海の見える窓際の席で、防波堤を歩いたり、釣りをしたりする人の姿や港を出る船、あるいは入ってくる船が見える。白い砂浜が見えれば言うことはなかったが、これでも充分ラッキーだ。
 若槻はトマトパスタを、俺はレンコンなどが入った和風カレーを注文することにした。
「まだ半分見終わったところですけど、本当に楽しいです」
 若槻が子供のように目を細くする。
「水族館もそうですけど、こんなふうにどこかへ遊びに来ること自身久しぶりだから」  
「友達とは行かないの?」
「友達同士だと、ご飯を食べに行ったり、買い物に行ったりするほうが多いです。男友達はいないですし」
「それなら俺も同じだよ。男連中だけで集まっても飯を食うだけだ。俺以外の会員さんとは、まだどこかへ遊びに行ったりしていないの?」
 聞いてしまってから、この質問はやめておくべきだったかと後悔した。
「はい。今はまだせいぜい食事までです」
 若槻のほうは気に留めていない様子だったので安心した。
「一度会ったら、もう二度目は……って思う人が多いかな。別に理想が高いわけではないんですけどね。例えば、あまり話さない人とか、話してくれても、他の会員さんのことや会社の愚痴が多い人とか、最初の食事で一円単位まで割り勘しちゃう人とか……本当に些細なことなんですけど、それが今後、どうするのかの決め手になったりします」
「なるほどね。俺もさ、結構たくさんの女性にお断りされてきたんだけど、決め手となったのが何かまで教えてくれる人はいないんだよな。それがわかれば改めることもできるかもしれないのに。あっ、この前の人は除いてね」
「五十点しか付けてくれなかった人ですよね」
「そうそう」
 小谷のことだ。
「でも、顔が原因とか言われたらショックでしょ?」
「そのときは整形するよ」
 若槻がプッと吹き出す。
「そこまでしなくても……春見さんの気持ちはわかります。私も言ってくれたらいいのになって思うこともあるから。でもなかなか本人にハッキリとは言えないですよ。言葉でうまく言い表せない場合もあるし」
「どういうこと?」
「生理的に受け付けないとか……特に理由があるわけじゃないけど、何となく嫌だってとき」
「ああ、なるほど。感覚的な部分だよな」
「そうです。そこって指摘されたからって直せたり、変えたりできるものじゃないですから。それに文句ばっかり言っていても仕方がないし、私だって相手の人に条件を付けれるほど大した人間じゃありませんし」
 仕事以外で話をするようになってから、若槻がとてもしっかりとした考えを持った人だと知り、驚くことが多い。
「なんて、口では謙虚なように言っていますけど、実際は結構選り好みしているんですよね」
 若槻は右拳で、コツンと軽く自分の頭を小突いた。
 そこへ注文した料理が運ばれてきた。

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『赤い糸をたどって』 第二十五回 

赤い糸をたどって

 数日後、俺の手元に若槻の紹介状が届いた。
 仕事ではなく、プライベイトであんなふうに落ち着いて話をしたのは、もちろん、初めてのことだった。彼女に抱いた印象は、自分でも思った以上に良かった。以前に紹介状を返却した理由は、同僚たちの目を気にしてだった。
 しかし若槻も会社の連中の面倒臭さはわかっているし、あからさまに仮交際中であることを匂わせたりはしないだろう。会社での言動にさえ注意すれば、問題ない。
 すぐにマイページへアクセスして、ブーケトスから俺の紹介状を若槻に送ってもらう手続きをした。
 
 それから三日後の夜、若槻から初めてのメールが送られてきた。
『お疲れ様です、春見さん。この度はお受けしてくれてありがとうございます。これから少しずつでいいので、お互いのことを知っていきたいですね』
 少々堅苦しい言い回しが彼女らしい。
『こちらこそよろしく』と書いて返信したが、それ以上のやり取りはなかった。
 そう言えば、若槻はあまりメールが好きではないと、他の誰かに言っているのを何度か聞いたことがある。
 話がある場合は、電話を掛けたほうがいいのかもしれない。

 翌日、出社すると、玄関のところでばったり若槻と出くわした。
 なぜだか胸が高鳴った。若槻は「おはようございます」と、はにかんだ表情で言った後、そそくさと俺から離れていった。そうなると俺も少し照れ臭かった。まだつき合っているわけでもないのに、妙な感じだった。
 俺たち二人の関係を疑う者なんていない気がした。それほど自然に元の状態を保っていたのだ。

 午後九時。マンションへ帰った俺は、若槻に電話を掛けた。次の約束を取り付けるためだ。
 外回りの途中で、事務所にいる若槻に電話をするのとは違い、どこか緊張感がある。
 コール音がしばらく続いた後、留守電に切り替わった。仕方がないので、「用件はメールで送ります」とメッセージを入れておいた。
 午後十時を過ぎた頃、若槻からメールで返事が届いた。
『お疲れ様です。今日は何だか変な感じでしたね。春見さんのことをできるだけ意識しないでおこうと思っていたのですが、少し緊張していました。春見さんは平気でしたか? 
 今度の日曜日の件ですが、ゴメンなさい。実は予定が一つあります。でもどこかで一緒に夕食をとるくらいなら大丈夫です』
 予定があるなら無理しなくてもいいと言いたいところだが、如何せん時間がない。せっかくなので若槻の申し出に甘えることにした。
『何が食べたい?』とメールを送ると、若槻から電話が掛かってきた。少々驚きながら通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『お疲れ様です。春見さん』
 いつもの耳触りのいい声が聞こえる。
『ゴメンなさい。私、メールあんまり好きじゃなくて……電話したほうが早いかなと思って電話しちゃいました。今更なんですけど、大丈夫ですか?』
 やっぱりそうなるよな。
「うん。大丈夫。それより若槻さんのほうこそ大丈夫なの? 予定あるんだろ?」
『はい。でも三時か四時頃までなので問題ないです。帰ってから夕食を作るのも面倒だなあって思っていたし』
「それなら良かった。若槻さんは何か食べたいものある?」
 場合によっては店探しと予約が必要だ。
『ファミレスでいいです』
「ファミレス?」
 思わず声が裏返った。
『はい。特別にいいお店とかは探さなくてもいいですよ。軽く食事でも……のつもりですし、せっかくお互いの家が近いんだから移動は少なめにして、会話に時間を使ったほうがいいじゃないですか』
 確かに若槻の言うことにも一理ある。しかし……。
「本当にそれでいいの?」
『はい。そういうお店はここぞってときにいけばいいと思うし、お金も掛かるし』
「食事代くらい俺が出すよ」
『もちろん、そうしてくれると嬉しいんですけど、私が言っているのは……何て言うのかな……無理しない春見さんが見たいんです』
「無理しない俺?」
『そう。もっとありのままで。例えば、チキンラーメンが好きならそれでいいんです。若い恋人同士なら相手の前でカッコつけたいとかも必要でしょうけど、私たちは結婚したい人を探しているんだし。だから私は普段の春見さんの姿を知りたいんです。私の言っていること、ちゃんと伝わっているかな?』
「えーっと、要するに……結婚したらそんなに頻繁に外食に行けるわけじゃないんだから、もっと日頃食べているようなものでいいってことだよな?」
『ちょっと違いますけど、おおよそそんな感じです』
 なんだか拍子抜けしてしまったが、「二人とも知っている近所のファミレスに午後六時」ということにして電話を切った。
 まあ、毎回、高級フランス料理店に連れて行けと言われるよりは余程いいか。
 若槻の予定ってブーケトスの会員の男と会うことなんだろうか。
「この人だ」と思える人じゃない限り断るとは言っていたが、気にはなる。それでも聞かないほうがいいんだろうな。やっぱり。
 
 小

 日曜日の午後六時過ぎ。俺は近所のファミレスでドリンクバーのお茶を飲みながら若槻が来るのを待っていた。
『少し遅れそうなので、先に入っていて下さい』とメールがあった。
 始めは「そういうわけにはいかない」と思ったのだが、夕食時ということもあり、徐々に客が増えていくのがわかったため、若槻の言う通り、先に入って席を確保した。
 六時二十分になり、ようやく若槻が現れた。俺のそばへ来るなり、「大変申し訳ございません」と、何度も頭を下げた。外出から帰宅した後、ついウトウトして眠ってしまったということだった。
「もういいから座りなよ」
「ありがとうございます」と、再び申し訳なさそうな顔で一礼をして、若槻はソファに座った。化粧はちゃんと戦闘態勢のものだった。
「春見さん、注文は?」
「まだドリンクバーしか頼んでいない」
「もう決めてありますか?」
「いや」
「良かった。じゃあ、選びましょう」
 若槻はそう言って、メニューをテーブルの上に広げた。
「春見さんはいつもご飯はどうしているんですか? 事務所にいるときは大抵コンビニ弁当かカップラーメンとかですよね。夕食は?」
「昼間と一緒で、コンビニ弁当だったり、外食だったりするかな」
「自分で作ったりは?」
「週に一回するかしないか。それも簡単なものだよ」
「飽きませんか?」
「そりゃ、飽きるよ。今の会社に就職してからずっとそれだからさ。まあ、入社したての頃は、仕事量も大したことなかったから毎日自炊だったけど」
「そっか、無理もないですね」
「若槻さんは毎日、自炊しているんだろうね。趣味に料理って書いてあったし」
 そして昼食も手作り弁当だ。いつ見ても手を抜いているようには思えないきちんとしたものを持ってきている。
「はい。でもお弁当を買ったりもします。外食するにも、女性一人では入りにくいお店のほうが多いですから。あっ、そう言えば、B駅の近くにあるお弁当屋さん知っていますか? チェーン店じゃなくて、個人でやっているお店なんですけど、結構美味しいですよ。チキン南蛮がオススメです」
 B駅は、俺の住むマンションの最寄り駅の一つ隣だ。若槻はその近くに住んでいる。
「じゃあ、今度買いに行ってみるよ」
「はい。そうしてみて下さい。そろそろ注文決めましょうか?」
 二人とも先程からメニューをパラパラとめくっているだけで、ちゃんと見てはいなかった。会話を一時中断して品定めをした。
 俺はビーフステーキセット、若槻は目玉焼きハンバーグセットに決まった。
「そういや、美味しい目玉焼きハンバーグが食べれる店があるんだけど、今度行ってみる?」
「あっ、いいですね」
「ぷろヴァんすってお店の、美味しさうわのせ目玉焼きハンバーグってメニューなんだけどさ」
「名前からして美味しそうですね」
「そうそう。お店の外観もオシャレで、あそこなら女性一人でも入れるんじゃないかな」
「それは是非連れて行って欲しいですね」
「わかった。予定しておくよ」
 橋添との出会いもあながち無駄ではなかった。
「でも話を聞いていると、春見さんには料理のほうは期待できなさそうですね」
「やっぱりできないとマズいかな?」
「まあ、マズいとまでは言いませんけど、できるに越したことはないですね。例えば、私が……」
 そこで若槻が一度口を噤んだ。
「それが私とは限らないですけど……奥さんが病気をしたり、妊娠をしたりしたときに、料理ができないとキツイかなという気はしなくもないです」
 それは一理ある。わかってはいるが、なかなか練習してまでという気にはなれない。
「イマドキの婚活事情を考えると、料理が上手いことは武器だと言えそうですよね」
 アドバイザーであるはずの梅田なんかより余程いいアドバイスをくれる。
「それに一緒に作ったりしても楽しそうじゃないですか。共通の趣味とまでいかなくても、二人でできる何かがあるっていうのは夫婦円満にも繋がるんじゃないかなって、私は思います」
 明日にでも料理の入門書を買うべきだろうか。
「ただ……あんまり上手になられても、妻としての立場がなくなるので困りますけどね」
 そう言って若槻がペロリと舌を出した。そこへ注文した料理が運ばれてきた。ステーキソースとハンバーグソースのいい匂いが漂ってくる。
 若槻が手を合わせて「いただきます」と言ったので、俺も慌ててそれに倣う。まずは一口。俺はステーキ、若槻はハンバーグとそれぞれメインの料理に手を付ける。「おいしいですね」と、若槻が目を細くする。そのまま黙って食べ続けるわけにはいかないので、会話を続けた。
「若槻さんは休みの日は何をしているの?」
「ブーケトスに入会してからは会員の男性に会ったり、パーティに行ったりがほとんどです。それがないときは、掃除や洗濯をして、後はココアと遊んだり、テレビを見たり……大して何もせずに一日が終わっている感じかな。悲しいことに……」
「何人くらいと仮交際しているの?」と、またうっかり聞きそうになり、慌てて口を噤んだ。
「春見さんは何をしているんですか?」
「俺も似たようなもんかな。掃除と洗濯、水槽の水替え……あっ、後はアイロンがけ。あれってマジで面倒だよな? 思った以上に時間が掛かるしさ」
「わかる! わかる!」と若槻が右手の人差し指を振る。
「私も制服のブラウスをアイロンがけするんですけど、ついつい貯め込んじゃって……制服なんて廃止にしてくれたら楽なのに」
 若槻が口を尖らせる。
「じゃあ、二人で仲良く分担しようか?」
「それ、いいですね」
 やはり若槻と話すのは気負わなくていい。ただ、これが結婚相手として相応しいのか、それともただの話し相手として相応しいのか。そこまではわからない。今はまだ同僚の延長としてでしかない気がする。
「あのさ、今度会うときは食事じゃなくて、どこかへ遊びに行きたいなと思っているんだけど、若槻さん、希望とかある?」
「そうですね」と、若槻がナイフとフォークを置いて考え込む。
「どこでもいいですか?」
「もちろん」
「それじゃあ……」
「うん」
「水族館」
 この前、行ったばかりだとは言えなかった。

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『赤い糸をたどって』 第二十四回 

赤い糸をたどって

 ゴールデンウィークが終わって最初の日曜日、ホテルで行われる「春よ、恋」という立食パーティに参加した。参加人数は男女共に十五人ずつ。時間は午前十一時から午後一時までの二時間。前回の喫茶店でのパーティの時のように順番に話していくわけではなく、「自分から積極的に相手を選んで会話する形式になっている」と、司会の女性スタッフ、橘が説明した。
 時間の関係上、全員と話せるわけではない。始めからある程度相手を絞っておく必要がある。立つ場所は決まっていないので、皆好きな位置に陣取っている。女性同士、仲が良さそうに話し込んでいる者もいる。「あんたら、女友達を探しに来たの?」と問いたくなる。
 とりあえず入口から順に女性を吟味していった。真ん中辺りまで見たところで、思わず「あっ」と声が漏れそうになった。下を向き、しおりにじっと見入っているのは若槻だった。突然、顔を上げて、キョロキョロと辺りを見渡し始める。
 俺と目が合った。俺と同じで「あっ」という声にならない声を出したように見えた。参加者一覧の中に俺の名前を見つけたに違いない。目を細くして小さく手を振ってくる。他の女性に気付かれないように、俺も軽く手を上げて返した。
「それではみなさん、最初にお話ししたい相手の方の近くへ移動して下さい」
 橘がそう言っても、皆、照れ臭さが捨てきれないらしく、なかなか動き出そうとしない。そして俺も例外なく、そのうちの一人だった。ここでぱっと行動できる奴はきっとブーケトスに入会なんてしないだろう。
「こういうときは男性が積極的に動きましょうね」
 橘の言葉で、男たちがようやく動き出す。当然の流れだが、会場で一番綺麗だと思える女性には男が数人群がった。
「希望が重なった場合は、譲り合うかジャンケンで決めて下さいね。もちろん、女性が指名して下さってもいいですよ」
 橘が笑顔でそう言った。譲り合いやジャンケンならともかく、女性に選ばれないというのは辛い。その時点で断られたようなものだ。それに断られた男から次に声を掛けられる女性も気の毒だ。
 俺はそういう競争率の高いところへは行かない。もちろん、若槻のところにも行かない。
 まずは一番近いところにいる女性を選んだ。取り立てて美人でもなければ、ブスでもない。ごくごく普通。見た目の派手さはないが、上品で落ち着いた雰囲気がある。
「お話ししてもらってもいいですか?」
 俺がそう尋ねると、「はい」と目を細くした。第一印象はとても良い。
「それでは皆さん、お相手が決まったら、自己紹介カードを交換して下さい」
 橘の言葉に従い、俺もその女性とカードを交換した。しかし女性からの最初の質問は、俺のプロフィールには全く関係ない内容だった。
「あちらの女性とお知り合いですか?」
「あちらの女性?」
「あの人ですよ」と、彼女が視線を移したその先には、若槻がいた。
「手を振っていたみたいですから」
 しまった。見られていたか。
「あっと、いいえ、前にパーティでちょっとだけお話しさせていただいた方です。結局、お互いに申し込みはしないままでした。なので、知り合いというほどではないんです。げっ、元気そうだなあ~」
「そうなんですね。まあ、二年も活動するんですから、そういうことがあっても不思議じゃないですよね。春見さんは入会されてからどのくらいですか?」
 どうにか誤魔化すことができ、そっと胸を撫で下ろした。
 その後、若槻を除く五人の女性と、それぞれ十五分ずつ話をしたが、あからさまに木で鼻を括ったような対応をされたり、ひたすらケーキを食べてこちらの話を聞いてもらえなかったりと、ロクなことにならなかった。
 そしてパーティは終わった。
 
 このまま収穫ゼロで帰りたくなかったので、まともに話ができた、初めの女性に声を掛けた。
「この後、予定とかありますか?」
 女性は目を丸くし、戸惑った様子を見せた。
「ごめんなさい。ちょっと予定があって……」
 そう言って、そそくさと逃げるように去っていった。
 彼女の目に俺はそれほど変な人間に映っていたのだろうか。
「フラれましたね」
 後ろから誰かの声が聞こえた。
 なんだと! という気持ちで振り返ると、そこには若槻がいた。
「立ち聞きしてたの?」
「まさか。会場から出てきたら、春見さんがあの人と話しているのが目に入ったんです」
 そりゃこんなところで声を掛けていたら、そうなっても仕方がないか。
「若槻さんと俺が仲良さそうに見えたらからって、断られたんだ」
「誤解もいいところですよね。前のパーティでちょっとお話ししただけの仲なのに」
「それも聞こえてた?」
「はい。小声でしたけど、聞こえていましたよ」
 嘘がバレた恥ずかしさで、顔が火照る。
「同僚だって言えばいいじゃないですか」
「それはそれで面倒なことになりそうだろ? つき合えばいいじゃないですか、とか言われたりしてさ」
「そうですよね。それは迷惑ですよね」
 若槻があははとわざとらしく笑った。
「それじゃ、私、帰りますね」
「ちょっと待って」
 背を向けて立ち去ろうとする若槻を、俺は無意識に呼び止めていた。
「迷惑っていうのは、若槻さんがってこと?」
 なぜそんなことを尋ねるんだろう。
 今まで若槻のことを避けてきたのは俺自身のはずだ。
 パーティでの収穫がまるでなかったからか。
 それとも誤解されたままでいたくなかったからか。
 俺にもはっきりとはわからなかった。
「いいえ。春見さんにとってという意味です」
「俺は……」
 胸が高鳴る。
「別に迷惑だなんて思っていないよ」
「じゃあ、どうしてパーティで話し掛けてくれなかったんですか?」
 若槻の顔が少しずつ朱色に染まっていくのがわかった。
「俺も迷惑だと思ったんだ。若槻さんにとって……」
 若槻は「私も……」と少し間をおいて、「迷惑だとは思いません」と首を横に振った。それから真面目腐った顔で、俺の目をじっと見返してきた。長い間、同じ職場にいるのに、こんなふうに向かい合うのは初めてのことだった。
「それじゃ……」
「はい」
「今からどこかでお茶でも飲んで帰らないか?」
「同僚としてですか?」
「いや、ブーケトスの会員として」
「それなら……」
 目一杯顔を赤くした若槻が優しく微笑む。
「答えはイエスです」
 
 ホテルを出た後、最寄駅のそばにある喫茶店に入った。道中も、注文を済ませてからも、お互いなかなかしゃべりだそうとはしなかった。二人ともどこか俯きがちで、目が合ってもすぐに逸らしてしまう。
 若槻はどうだかはわからないが、俺はというと、何だか急に照れ臭くなったからだ。
 黙っていても仕方がないので、適当に話題を探した。
「若槻さんって、今、何人くらいの人と仮交際しているの?」
 俺の質問に若槻が顔を上げたところで、ウェイトレスが二人分の紅茶を運んできた。テーブルにカップを置き、「ごゆっくりどうぞ」と言い残して俺たちの席を離れていった。
「あっ、ケーキとか頼まなくて良かった?」
「さっき食べましたし、今日はいいです。春見さん、そういうことは男性のほうから先に頼んでくれると、女性は頼み易いですよ」
「へえ、そういうもんなんだ。ありがとう。参考になるよ」
「さっきの仮交際に関しての質問なんですけど、春見さんっていつも女性にそんなことを聞いているんですか?」
「いや、そんなことないけど……」
 何が言いたいんだろう。
「私だからですか?」
「うーん。それも違うな」
「だったらいいんです。もしそうなら、やっぱり春見さんは私を同僚としてしか見ていないんだなと思ったんです。私たちって確かに同じ職場で働いていますけど、お互いのことを何も知らないじゃないですか? だったらもっと相応しい質問があるんじゃないかなって」
 若槻の言葉に思わず、笑みが零れた。
「そりゃ、そうだよな。若槻さんのことなら少しは知っている。いつの間にかそんなつもりになっていたんだろうな……ゴメン。失礼なこと聞いて」
 若槻が優しく微笑み、首を振る。
「別に怒ったわけじゃないです。ただ、これからどうなるかはわからないですけど、私にも他の会員さんと同じように接して欲しい。そう思っただけです。私も春見さんに対してはそうするつもりです」
「つまり断るときは容赦しませんってことだよな?」
「そうです」
「まだ申し込みもしていないうちからキツイよな」
「確かにね」と、若槻は少し笑った後、すぐに真剣な表情を浮かべた。
「でもこれだけはハッキリ言えるんですけど、例え何百人と仮交際していたとしても、『この人』だって思える人じゃなかったら、全員お断りします。だから何人と仮交際しているかはあまり関係ないですよ」
「そうか。よくわかったよ。それじゃさ、若槻さんにとって『この人だ』っていうのはどんな人なの?」
「うーん。そうですね」と、若槻は眉間に皺を寄せ、「フィーリング!」と右手の人差し指を立てた。
「フィッ、フィーリング?」
「そうですね。全て感覚です」
「随分、抽象的だな」
 まあ、多少はそういうところも必要なんだろうけど。
「というのは冗談で、ツボが全く同じ……とは言わないけど、近い人がいいかな」
「ツボって……笑いのツボ?」
「もちろん、それも一つです。でも笑いだけじゃなく、例えば、美味しいと感じるツボや楽しいと感じるツボ。怒るツボや悲しむツボ、いろんなツボが似ている人がいいな」
「なるほど、それだと一緒に暮らしていくのは楽だよな。どんなことをすれば嬉しいかもわかるし、腹が立つかもわかるから」
「そういうことです。今、春見さんと同じツボを一つ見つけました」
「えっ?」
「紅茶には角砂糖が一つってことです」
 そう言って、若槻はクスクスと笑った。
 面白い子だなと、改めて思う。
「春見さんにとって『この人だ』っていうのは、どんな人ですか?」
「在り来たりかもしれないけど、常識のある人、他人を思いやれる人……かな」
「ふーん。本当に在り来たりですね」
「でもさ、ブーケトスに入会して、その在り来たりが難しいってわかったよ」
「それはいろいろな女性と会った結果ってことですか?」
「そうだよ」
「例えば、どんな人ですか?」
 若槻が興味深そうに、身を乗り出してくる。
「遅刻しても謝らない人とか、夜中の三時にメールしてくる人とか、相手に点数を付けたりする人とか、かな」
「点数を付ける人って……春見さんは何点だったんですか?」
「五十点。いい人なんですけど、結婚相手としては微妙……だってさ」
「当たってますね」と、若槻がぷっと吹き出す。
「えー」
「今のところ、私にとっても、春見さんはその位置ですよ」
 少しがっかりした。
「やめてくれよ。若槻さんまで」
「ゴメンなさい。でも本当のことだから……真面目だし、優しいですけど、特別ルックスがいいわけでもないし、ハッキリ言って女性にモテるタイプではないですよね」
「グサッ。ハッキリ言い過ぎだよ」
 とは言いながらも、悔しいが、否定はできない。
 肩の辺りがずっしりと重くなる。
「まあ、そんなに落ち込まないで下さい。そうじゃなかったらブーケトスに入会する必要なんてないと思いますし……私だってきっと同じです。それに……」
「それに?」
「今のところはって話ですよ」
 そう念押しして、若槻はまた笑った。

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『赤い糸をたどって』 第二十三回 

赤い糸をたどって

「女はもっと現実的です」
 確か沢口も同じことを言っていた。俺の考えは現実離れしていて可笑しいものなんだろうか。いや、それにしても小谷の言葉が正しかったとは思えない。他人に対する思いやりがない。
 現実的というより、機械的だ。あんな女と結婚するくらいなら、このまま独身のほうが余程マシだ。

 夜になり、小谷からメールが届いた。件名は「ありがとうございました」
 文句でも送ってきたのだろう。仮に謝られたところで、断るという気持ちが変わることはない。「こちらこそありがとうございました」くらいは書いて送り返してやるか。
 そんな気持ちでメールを開封した。
『こんばんは。春見さん。今日はどうもありがとうございました。気を悪くさせてしまい、申し訳ありません』
 思ってもいないくせに。
『言葉の選び方はまずかったと反省はしていますが、嘘を言ったとは思っていません。せっかく春見さんが決めてくれた行き先だったので、楽しみたい気持ちはあったのですが、やはり面白くありませんでした』
 お任せだと言ったくせに。だったら始めから自分で決めろよ。
『春見さんとは二度会わせていただいたのですが、いろいろ検討した結果、お断りさせてもらおうと思います。大変申し訳ありません』
 いえいえ、むしろ助かりました。
『大きなお世話ですが、今回、私が春見さんに対して感じたことをお伝えするので、今後の活動に役立てて下さい』
 いや、マジで大きなお世話です。
『結婚に関しては真面目に考えていらっしゃるようですし、会話も積極的にしてくれます。待ち合わせ時間に遅れることもないし、礼儀正しく、常識もあります。
 ただ少しロマンティストの傾向がありますね。これに関しては詳しく書く必要ないですよね。
 貯金も少ないです。後プラス百万円は欲しいですね。
 それから素直過ぎることも減点対象です。確かに私はメールが嫌いだと言いましたけど、もらうと嬉しいものなので、もっと送ってくれても良かったです。放ったらかしにされている気がして、私なんてどうでもいいんだろうなと思いました。
 今日の行き先の件も、お任せとは言いましたけど、もう少し相談して欲しかったです。失礼ですけど、あまり女心はわかっていませんね。
 以上をまとめると、春見さんの総合得点は五十点というところですね。いい人なんですけど、結婚相手としては微妙です。どうぞ、参考になさって下さい。
 短い間でしたが、ありがとうございました。小谷』
 最後まで読み終えた俺は、右手に握りしめていたケータイを天高く掲げ、床に叩きつけるようとする態勢になっていた。
 よせ。ケータイに罪はない。
 そう言い聞かせて、右手をゆっくりと下ろした。怒りに震える手で『こちらこそありがとうございました』と、一言だけ入力して返信した。
 百パーセント外れではないにしても、こういうことを送ってくる小谷の無神経さが全く理解できない。いや、そうじゃない。これは単なる腹いせに違いない。
 彼女を総合得点で評価するなら、五点以下。
「絶対に結婚したくない相手」だ。

 小


 ゴールデンウィークがやってきた。恋人でもいれば、どこかへ旅行にでも行っていただろう。しかし残念ながらそんな人はいない。
 俺にとっての初日、五月三日は実家へ帰った。
 先日、つい口にしてしまった「結婚相手の当てがある」という言葉を、母はちゃんと覚えていた。
「それ以降、例の子とはどうなの?」と、いつの間にか結婚を考える相手がいることになっていた。母の勘違いを否定しようかとも思ったが、また婚親会の話が出ると面倒なので、「順調だよ」と適当に誤魔化した。
「だったらいいけど、相手の気持ちが変わらないうちに早くプロポーズしなさいよ。あんたなんて特に顔がいいわけでもないし、稼ぎがいいわけでもないんだから」
 息子に対して随分な言いようだ。それでも否定できないところが辛い。
 
 自分への慰めのため、久しぶりに沢口にメールをしてみた。
『ゴールデンウィークですし、どこかへ遊びに行きませんか?』
 一時間ほどして、返事が来た。
『ゴールデンウィークは両親と旅行に行きます。というか、もう行っています。笑。また誘って下さい』
 確か初詣の時も同じことを言われたな。
 沢口は随分両親と仲がいいらしい。
 明日は親友たちと夕食をとることになっている。それでゴールデンウィークの予定は終わり。
 なんだかなあ……。

 小

 五月四日。午後七時前。いつもの居酒屋チェーン店に、四人で集まった。
 離婚して独身に戻った秋山は、前回とは打って変わって上機嫌で、よくしゃべった。彼がそこまで結婚生活を苦痛に感じていたとは、正直思ってもみなかった。
「いやいや、本当に改めて自由って奴を満喫しているよ」
「やっぱり独身はいいもんだろ?」
 同じように機嫌良さげに秋山の肩をポンポン叩くのは、言うまでもない。独身貴族の冬月だ。
「今までは断ることも多かったけど、これからは頻繁に遊びに行けるから誘ってくれよ。金のこともあまり気にする必要もないからさ」
「いいね! いいね!」
 ますます冬月のテンションが上がる。
「それじゃ、盆休みに温泉にでもで行くか? 昔みたいに。なあ、夏木」
「……そうだな」
 夏木は静かに頷き、ビールを飲む。秋山が調子に乗って続ける。
「結婚しているときは風俗行くのだって気が引けたけど、もう関係ねえもんな」
「よく言うよ。店に行ったら一番最初に女の子を選んでいたくせに」
「なんかトゲのある言い方だね。春見君」
「そんなことないよ。なあ、夏木」
「……そうだな」
「春見は秋山に嫉妬しているんだよ。モテるから。実はもう次がいたりするんだろ?」
 冬月が茶化すように言うと、秋山が「まあな」と得意げに頷く。軟骨の唐揚げが口から飛び出しそうになった。
 くそっ、マジだったのか。
「会社の近所にある服屋の女の子と、時折遊びに行く程度の仲にはなってる。まだつき合うところまでは行っていないけどな」
 モテる人間というのはこういうものなんだろうな。人を惹き付ける何かがある。大した努力もせずにと言えば、怒られてしまうが、事実そうだ。
人知れず、地味ではあるが必死で婚活をし、出会いの数で言えば絶対に俺のほうが多いはずなのにうまくいかない。冬月の言うように、つい嫉妬してしまう。
そんな気持ちは決して悟られてはいけないが、「そんなもん、羨ましくもなんともない」などと言うと、却ってイジられるので、そこは素直に認める。
「いいよな」と溜息混じりに呟く。
「春見。重くなるからやめろ。まあ、これでも食えよ」
 冬月がそう言って、ブリ大根の入った皿を寄越してくる。
「お前、確か彼女募集して四年だったよな?」
「三年だって。去年の年末にも言ったぞ」
「それならもうすぐ半年経つ。本当に三年か?」
「そういや、四年目に入ったかもな……って、その辺は適当でいいだろ。相手のいることだ。なかなか難しいよ」
「募集するのをやめりゃいいじゃないか」
 冬月の言葉に秋山が口を挟む。
「そりゃ、女は面倒だっていうお前はそれでいいだろうけどさ、春見は違うだろ?」
 秋山の言葉に、俺は頷く。
「春見は女としゃべりたいし、遊びにも行きたい。エッチだってしたい。夏木だってそうだろ?」
「……そうだな」
 夏木も頷く。
「しゃべりたけりゃ、会社の女の子としゃべればいいし、遊びに行きたければ誘えばいい。エッチがしたけりゃ風俗に行けばいい」
 秋山がフォローなのか、フォローじゃないのか、よくわからないことを言う。
 またいつもの展開になりつつある。
「いいか。俺が欲しいのは、ひとときの満足じゃない。何て言うかな、こう……一人の女性と永遠を分かち合いたいわけだよ。わかるか?」
 冬月がふんと鼻で笑う。
「お前、そんなにロマンティストだったっけ? この前、秋山の口から結婚生活の現実について聞かされたばかりじゃねえか。なあ、夏木?」
「……そうだな」
「まあ、待てよ。秋山の場合は……だろ? 世の中全ての夫婦がってわけじゃないよな?」
「いやいや、皆、似たようなもんだって」と秋山が手を振り、俺の前からブリ大根の皿を持っていった。
「お前、どっちの味方なんだよ」
「確かに春見の言っていることを全部否定はしない。冬月の言うひとときの満足っていうのもわかる。ただ、『コイツと一緒にいたい』とかって思えるのは、結婚するまでなんだよ。例え、続いたとしてもせいぜい一、二年ってとこかな。飽きてくるって言ったら語弊があるけど、新鮮味がなくなる。結婚しなくても、長い間、つき合ったり、一緒に過ごしていたりしたら、自然とそうなる。だろ? 夏木」
「……そうだな」
「お前、さっきから『そうだな』しか言ってないじゃないか。中途ハンパ独身貴族としての意見を聞かせてくれよ」
 俺の言葉で、ちびちびと静かにビールを飲み続けていた夏木がジョッキを持ち上げ、一気に残りを飲み干した。「ぷはあ」と大きく息を吐き出すと、微笑みを浮かべながら、俺たち三人の顔を順に見ていった。最後に目の合った冬月が「どうした?」と遠慮がちに尋ねると、夏木の口から意外な答えが返ってきた。
「俺……結婚するんだ」
 突然の告白に残りの三人全員が「えっ」という言葉を口にした。その後、しばらく沈黙があり、最初に口を開いたのは秋山だった。
「彼女とは結婚するつもりはないってことで合意していたんじゃないのか?」
「もちろん、俺もそう思っていた。でも、ある日突然言われたんだ。『やっぱりあんたと同じ名字になりたい』って……」
 つまり彼女からのプロポーズか。
「必要以上に結婚っていう制度にこだわらなくたっていいって、お前そう言っていたよな」
「その通りだよ。今でもそう思っている。したってしなくたって一緒。だったらしてもいいんじゃないかって気がしたんだ。しないことにこだわっていたわけでもないからさ」
「あんまり悩んで決めたようには見えないよな?」
 俺がそう尋ねると、夏木が清々しい表情で頷く。
「うん。例えるなら、夕食のメニューを決めるような感覚だった」
「どんな感覚なんだよ」
「今日は鍋にしようか? いいよ。みたいな感じかな?」
「随分軽いな」
 思わず笑ってしまう。
「そう。軽かったよ。秋山は結婚したら変わるっていうけど、俺のところはそうはならない気がする。今までと同じ。変わるとすれば、彼女の苗字が夏木になることくらいかな」
 しばらく静かで穏やかな時間が流れた。
 冬月が「ビール、頼むか?」と、店員呼び出しボタンを押した。
「夏木」
 俺が名前を呼ぶと、夏木は「なんだ?」と目を細くした。
 何とも幸せそうな顔をしている。
「おめでとう」
 冬月と秋山も俺に倣い、「おめでとう」と声を揃えた。「ありがとうな」と夏木は少し照れ臭そうに、それに応えた。
 冬月と秋山の表情がどこか寂しげに見えたのは気のせいだろうか。

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『赤い糸をたどって』 第二十二回 

赤い糸をたどって

 夕食を済ませて風呂から上がると、ケータイのランプがチカチカと点滅していた。
『着信あり』と『新着メールあり』
 どちらも小谷からだった。
『こんばんは。春見さん。今日はありがとうございました。電話したんですけど、出られなかったので、用件のみメールで送らせてもらいますね。
 あの後、二人の方とお会いしましたが、一番印象が良かったのは春見さんでした。できればまたお会いしたいのですが、いかがでしょうか? 今度は今日のように忙しないのではなく、ゆっくりと時間を作ってどこかへ遊びに行きたいと思っています。
 メールで結構なので、お返事お願いします』
 良い連絡をもらったのに、素直に喜べなかった。後から会った二人と比べられた結果だというのが、どうにも引っ掛かる。あからさまに振るいに掛けられているような感じがして、あまり気分は良くない。
 しかし毎度のことながら、俺には後がない。もう少し様子を見てから決めてもいいだろう。
 返信ボタンを押して、『是非遊びに行きましょう』と送った。
 俺としては来週にでもと思っていたのだが、肝心の小谷の予定が詰まっていた。更に翌週の日曜日、午後一時から三時半までならどうにか空けられそうだということで、それに決まった。
「ゆっくりと時間を作ってどこかへ遊びに行きたい」と言った割には、結局、時間限定だ。しかしのんびりと順番が回ってくるのを待っている時間はない。
『行き先は春見さんにお任せします』
 ほとんどどうでもいいと思われているような対応で、少しずつ腹が立ってきた。
 いや、ひょっとすると、デートプランの上手下手を試されているのかもしれない。面接のような質問攻めをしてくるような女だ。可能性は充分にある。
 面倒くせえなあ……。
 あっ、いかんいかん。一生を共にする人を見つけるためだ。そんなことを考えるべきじゃない。
 ただ、気に入られようと必死になるのはやめておこう。「子供が何人欲しいか」と同じだ。先に無理をすれば、後で辛くなることは明らかだ。
 行ってみたいところならある。
 水族館だ。
 沢口と観た映画のワンシーンで水族館が取り上げられていたのと、観賞魚を飼うようになってから、興味の持ち方が少し変わりつつあったからだ。山上とのデートの時に提案してはみたものの、この前行ったばかりだと断られた。
 小谷はダイビングが趣味だし、俺にお任せだと言っていたので、断られることはないだろう。
 念のため、『水族館はいかがですか?』とメールしてみると、『オッケーです』と返事があった。会えるのは二時間半だし、恐らくそれだけで終了だろう。
 メールはあまり好きではないと聞いていたので、それ以降はメールを控えて、二、三日前に最終確認の電話を掛けることにした。

 小

 当日。待ち合わせは水族館「岬シーパーク」の最寄り駅。
 駅構内は、クジラやラッコといった水の中で暮らす生物のイラストや写真を使った看板、ポスターで賑わっていた。
 最後に水族館へ行ったのは、確か二十五の時。合コンで知り合った恋人と行ったきりだ。その女性とは一年半ほどつき合ったが、「好きな人ができた」と言われてフラレることになった。その「好きな人」というのも、合コンで知り合った相手だとわかったのは、それから随分と後のことだった。
 約束の時間に遅れること、三十分。ようやく小谷が姿を現した。「前の人との約束が予定より長引いてしまって……」というのが理由だった。
 そのためか、小谷の足取りは速い。遅れないようにと、俺もそれに続く。
「結構盛り上がったんですね」
「いえ、そういうわけじゃないんです。私の質問に対して、尋ねてもいないことばかりしゃべる人で……要するに話が長いんです」と、小谷は苦笑いを浮かべる。
「無口なのも困るんですけど、あまりしゃべる男も嫌ですね。春見さんも女性に対して同じでしょ?」
「そうですね。ブーケトスの会員の女性はやっぱり無口……というか、受身の人が多いので困ることもあります。ただ大阪のおばちゃんのノリで来られても辛いです。この前、パーティで話をした人は韓国ドラマにハマッているとかで、随分熱く語られてしまいました」
「それは強烈ですね」
 
 そんなことを話しているうちに、岬シーパークに到着した。
 岬シーパークは、「海水生物の館」と「淡水生物の館」の二つで成り立っていて、アシカやイルカなどの「海の人気者ショー」というのも観ることができる。
 子供連れも多いが、カップルもそれなりにいる。
 大人一人の入場料は二千三百円。小谷に限らず、とりあえずこういうものは割り勘で、奢るのは食事代のみだ。
 しばらく並んだ後に、受付窓口で入場料の支払いを済ませてメインゲートを潜ると、アジやサバ、イワシ、スズキ、ブリ、フグ、タイ、エイ、サメといったお馴染みの魚たちが混泳する大型水槽が出迎えてくれた。
「さすが、家の水槽とは違うなあ」
 久々に来た水族館ということで、俺はすっかり興奮していた。
「そんなの当たり前じゃないですか」と、対する小谷は口調も表情も完全に冷めたものだった。
「まあ、そうなんですけど……」
「さあ、次に行きましょう」
 俺としてはもう少し見ていたかったのだが、小谷はそんな心情を確かめることもせず、床に描かれた順路の矢印に従って歩き始めた。
 先程より少し小さな水槽に、カレイやヒラメ、キス、イシダイといった、同じように日本の近海に生息する魚が泳いでいた。小谷は「何も珍しくない」とでも言わんばかりに、さっと一瞥しただけで先を急ぐ。俺が遅れていると、小谷が立ち止まって、「この辺は全然珍しくないでしょ?」と笑った。ただし、目は笑っていなかった。確かに魚屋でも見れなくないものがほとんどだ。トレイや発泡スチロールに乗ったものだが……。
 次のコーナーは南国の海水生物たち。ナンヨウハギ、ニシキヤッコ、アデヤッコ、チョウチョウオ、そしてカクレクマノミが、イソギンチャクやサンゴの飾られたエメラルドグリーンの水の中で気持ち良さそうに泳ぎ回っている。
 自宅でするアクアリウムもそうだが、やはり美しさでは淡水魚は海水魚に勝てない気がする。
 思わず見とれてしまった。
「やっぱり規模が小さいですよね。春見さんも一度ダイビングをしてみたらどうですか? こんなの比べ物にならないくらい感動しますよ」
 そう言って小谷は更に先を急いだ。
 深海魚や無脊椎生物のコーナーは「気持ち悪い」と一蹴して、流された。
 その次はアザラシやアシカ、ペンギン、ラッコといった子供にも人気のカワイらしい生物たちの展示が続いた。さすがの小谷も今までよりは長く足を止めはしたものの、それほど楽しんでいるようにも見えなかった。
「少し休みましょうか?」
 あまりにハイペースで回ってきたので、そう提案してみたが、小谷は「いいえ」と首を振った。
「時間もありませんし、進みましょう」
 小谷の言葉通り、そのまま淡水生物の館へと向かった。
 世界最大の淡水魚と言われるピラルクを始めとし、デンキウナギ、アロワナ、ピラニアといった、海水魚にはない野性味溢れるその姿に男心がくすぐられた。自然と腕組みをしてしまい、ラッコで緩んだ顔がキュッと引き締まる。
 小谷は「海水に比べて水が汚く見えますね」というわけのわからない感想を残しただけだった。
 次のフロアは「日本の川」がテーマで、アユやイワナ、アマゴ、ニジマスといった国内の代表的な淡水魚とカワウソ、オオサンショウウオが展示されていた。やはり、田舎を彷彿とさせるこういう風景は心が和む。
 小谷はと言うと、「これで最後ですよね」と、とても嬉しそうな顔をしていた。この水族館の売りの一つである海の人気者ショーは、開演までの待ち時間が長いため、見送ることになった。
 そうして俺たちは岬シーパークを後にした。
「何とか時間内に一通り見ることができましたね」
 小谷の表情は満足げだ。もちろん、水族館に対してではないだろう。
「それにしても、この内容で二千三百円は高過ぎますよね」
 自分がそういう鑑賞の仕方しかしなかったくせによく言うよ。
 そこまで出掛かった言葉をグッと飲み込んだ。
「別に来たかったわけでもないのに」
 その小谷の台詞で、俺の中に確かに込み上げてくるものがあった。
 いかん。堪えるんだ。
 ボルテージの上がる自分に必死でそう言い聞かせた。
「まあ、もう二度と来ないからいいですけどね」
 吐き捨てるように言って、「アハハハ」と機嫌良さげに笑う小谷に対して、俺の忍耐力は完全に崩壊した。
「そういう言い方はないんじゃないですか?」
「えっ?」
 小谷が目を丸くする。
「一応、僕が選んだ場所ですしね」
「水族館のことを悪く言っただけで、別に春見さんを否定したわけじゃないです」
「そうですか? 僕にはそう聞こえましたけど」
「それは誤解です」
 申し訳そうなものだった小谷の表情が、いつしか険しいものへと変わりつつあった。
「もしそうだとしても、今は言うべきじゃない。ひょっとすると、二人が初めて遊びに行った思い出の場所になるかもしれないわけでしょ?」
 俺の言葉を聞いた途端、小谷が動きを止めた。二人の間に沈黙の時が流れた。しばらくすると、小谷がぷっと吹き出した。
「春見さん……女はね、もっと現実的ですよ。記念とか思い出を大切にするとかって、誰が言ったかわからないような情報を鵜呑みにしているのかもしれないですけど、実際は違いますから。少なくとも私はそうじゃないです。三十過ぎた男がそんなこと言うなんて、ハッキリ言って気持ち悪いです」
 頭の血管がドクドクとはち切れんばかりに血を送っているのがわかる。
「それなら気持ち悪くて結構です」
 これ以上、小谷と一緒にいると、自分の口からどんな言葉が出るか保証できなかったため、「失礼します」と言って、振り返りもせずにその場を後にした。

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『赤い糸をたどって』 第二十一回 

赤い糸をたどって

 カフェに着くと、小谷は迷う様子もなく、一番入口に近い空いた席に腰掛けた。「どこへ座るか」なんて悩むことさえ彼女には無駄なんだろう。ウェイトレスが水を持ってくるなり、小谷は「私、ホットコーヒーで」と素早く注文を済ませる。「春見さんは?」と急かされてしまい、「メニューお願いします」と言える雰囲気ではなくなった。仕方なくホットコーヒーを頼むことにした。
「ゴメンなさいね。あまり時間がないもんだから、つい……」
「いいえ、いいんです。それにしても忙しいんですね。友達と約束ですか? それとも仕事とか?」
「違うんです。隠しても仕方がないので、ハッキリ言うと、別の会員さんと会うことになっています」
 わかっていることとは言え、それを言っちゃマズイだろ。
「気を悪くしちゃいました?」
 顔に出てしまったのか。
 慌てて顔を手で拭う。
「いえ、別に……」 
「今日は春見さんを含めて、三人とお会いすることになっています」
「それはまたハードですね」
「全然平気ですよ。できるだけ多くの人と会って結婚相手を決めようと思ってますから。それに一生を共にする人を探すんですから、少しも苦じゃないです」
 若槻と似たようなことを言う。
 何だか自分が不真面目なようにさえ思えてくる。
「ええっとそれじゃ」と、小谷は鞄からペンとノート、A4サイズのクリアファイルを取り出し、続けて中に挟んであった青い紙をテーブルの上に広げた。彼女が再びクリアファイルを鞄に仕舞う隙に、そっとその紙を覗き見た。
 まさかとは思ったが、ブーケトスの男性会員用の紹介状……それも俺のものだった。
「小谷さんって、紹介状を持ち歩いているんですか?」
「ええ。でも初めて会うときだけですよ。あっ、心配しなくても大丈夫。落したりしませんから」
 いや、そういう問題じゃなくて……うーん。この人ちょっと感覚ずれているよな。
「どうかしましたか?」
 小谷が首を傾げる。
「あっ、いいえ、何でもありません」
「そうですか。えっと……春見さんは入会してどのくらいですか?」
 それは紹介状に載っていない情報だもんな。
「一年半です」
「うわあ、もう崖っぷちですね」
 グサッ! 結構キツイ。
「そっ、そうなんですよ。何とかしないと……」
「四十万円がパーですね」
 グサッ! グサッ!
「小谷さんって結構はっきりとモノを言うタイプなんですね」
「あっ、ゴメンなさい。人にはよくキツイねって言われます」
 小谷はあははと笑う。悪気はないのだろう。きっと……うん。そうに違いない。
「小谷さんの仕事は営業ですよね。何の営業ですか?」
「食品メーカーのルート営業です」
「小谷さんなら、皆、信頼してくれるでしょう。ダメなところはダメだと言ってくれそうですし、企画なんかは自信を持って立ててくれそうな気がします。私に任せて下さい、みたいな」
「いいえ、そんなことはないですよ。失敗もよくしますし、得意先の方と喧嘩することもありますしね」
「失敗はチャレンジした結果でしょうし、喧嘩をするということはそれだけ熱意を持って取り組んだからじゃないですか?」
「ふーん」と小谷が何度も頷く。
 何か可笑しいことを言ってしまっただろうか。
「春見さんもさすが営業ですよね。口が上手です」
「本心のつもりだったんですけどね」
 俺が冗談めかして答えると、小谷が目を細くした。多少ずれているところはあるものの、彼女は賢い人のようだ。
「でも僕なんて本当、適当にやっているだけですよ」
「春見さんって確かA型ですよね?」
 小谷はそう言って、紹介状を確認する。
「そうです」
「血液型から言って、適当ってことはないでしょうね」
「いや、血液型なんて当てになるかどうか……」
「私の経験上、間違いないです。そして私はA型の人とは一番相性がいいんです」
「そうなんですか?」
「逆にB型とは全く合わないので、絶対に申し込んだり、お受けしたりはしないんです」
 この道が正しいと思い込んだら、なかなか方向転換しないタイプなんだろう。
「よく趣味が合うほうがいいって言う人がいますけど、私は相手の方の趣味なんて別に何でもいいんです」
 小谷の趣味はスキー、ダイビング、登山。俺とは対照的なアウトドア派だ。合うはずがない。
「結婚して、子供ができたりすれば、どうせ趣味に費やせる時間なんてグッと減るし、もし共通の趣味をって言うんだったら、歳をとって、子供が独立してから探してもいいんじゃないかな」
 確かに間違ってはいない。それにしても随分先のことまで考えている。
「それからお給料にもあまりこだわりません。私は結婚してからも働くつもりですし、夫の稼ぎだけで家族を養っていくっていう昔ながらのやり方は、もう通用しませんからね」
 彼女の確固たる独立心に圧倒されてしまいそうだった。楽と言えば楽だが、あまり働きぶりに期待されていないようで、男としては寂しい気もする。下手をすれば、「財布は別々で」なんてことも言いかねない。それって夫婦としてどうなんだろうか。
 小谷が先程鞄から取り出したペンとノートを手にする。
「まず……春見さんは家事の分担についてはどう考えていますか?」
 どうやら俺の答えをメモするつもりらしい。
「お互いの勤務時間と相談してだと思います。不公平がないようにするべきですね。得手不得手も考慮すべきだし」
「料理はできますか?」
「簡単なものなら。例えば、玉子焼とか、チャーハン、カレー、焼きそば、唐揚げくらい」
「玉子焼き、チャーハン、カレー、唐揚げと……」
「焼きそばが抜けてます」
「あっ、焼きそばもね……本当に簡単なものだけですね。でもできないより全然マシです」
「それはどうも」
 小谷の遠慮ない言葉に苦笑するしかなかった。
「春見さんは一人暮らしですよね?」
「そうです」
「それならオッケーです」
「どういうことですか?」
「私、一人暮らしの経験がない人はお断りするようにしているんです。生活力に乏しいイメージがあるし、始めから家事の分担ができないでしょ?」
「うーん。多少の時間があれば、すぐに覚えられると思いますけど……」
「教える時間が勿体ないですよ。仕事だって同じじゃないですか? 未経験の人より経験者を雇うほうが即戦力として期待できるでしょ?」
「はあ……」
 なぜだか責められているような気分になった。
「次の質問ですけど、両親との同居は考えていますか?」
「今のところは考えていませんけど、必要ならするつもりです。こればかりは両親と相談しないと決められないですね」
「例えば、私の両親と同居することになったらどうですか?」
「それも要相談です」
「なるほど。春見さんって正直ですね」
 すらすらとペンを走らせた後、小谷はそう言って笑った。
 褒められているんだろうか。
 小谷の質問は更に続く。
「子供は何人欲しいですか?」
「えーっと……」
 少し考え込んでいると、小谷が「ちょっと待って下さい」と、口を挟んだ。
「何でしょう?」
「できたらこの件に関しては、いい恰好をしようとか、私の考えに合わせようとか思わないで、正直に答えて下さい」
「どういうことですか?」
「子供のことって意外と難しくて、神経質にならないといけない部分なんですよ」
「そうなんですか?」
 今一つ、実感が湧かない。
「だって一人じゃどうにもならないことじゃないですか。絶対にパートナーの協力がいるでしょ? 自分が三人は欲しいと思っていても、相手は一人もいらないって言うかもしれない。そうなるとうまくいきません。結婚前は子供が好きって言っていたのに、いざとなると、あまり子供が好きじゃなかったって知らされて、離婚した人が私の友達にもいます」
 そこまでなのか。その辺りはどうにでもなると思っていた。
「それだけじゃないですよ。この問題はお互いの両親にも関係してきます。子供が結婚したら、大抵の親は孫の顔がみたいと思うものです。そこへ、実は相方が子供嫌いでとはなかなか言えませんよね? そうそう、さっき話した私の友達は、そんな男なら離婚しなさいって両親に言われたそうです」
 鳥肌が立った。どうやら軽く考え過ぎていたらしい。
「それでは改めて質問です。春見さん、ズバリ子供は何人欲しいですか? 一人もいらないと言うのなら、それでも結構です。とにかく嘘だけは付かないで下さい」
 ずっしりと重たい言葉だった。別に追い込まれる理由などないのに、息が苦しくなる。いやいや、深く考える必要などないのだ。正直に答えればいい。
「ひっ、一人か二人です」
 思わず声が上ずる。
「ファイナルアンサー?」
いつのクイズ番組なんだと思いながらも、自分の出した答えが間違っていたような気さえしてしまう。
「ファイナルアンサー」
「ざんね~ん!」
 小谷が嬉しそうに笑う。まるで外れて欲しかったみたいだ。
 しかしすぐに「冗談です」と真顔に戻った。
「私も一人か二人でいいなと思っています」
「なんだ。そうだったんですか」
 なぜかホッとする。
「三人以上になると、経済的なことや年齢的なことが気掛かりですからね」
「そうですよね」
 いつしかカラカラに乾いていた喉を潤すため、コーヒーではなく、水に口をつけた。

 その後も小谷の質問は続いた。
 家を買うならマンションか戸建てか、貯金はどのくらいあるか、勤務時間はどのくらいで、転勤の可能性はあるか、など。
 そうこうしているうちに約束の午前十一時がやってきた。
「それでは今日の面接を終了します」
「ありがとうございました」
 小谷の言葉に対し、流れで礼を言ってしまったが、「面接」とはなんなのだ。
「こちらこそありがとうございました。また連絡させてもらいますね」
 小谷はそう言いながら片付けを始め、テーブルに自分のコーヒー代を置いて、そそくさと店を出ていった。
 本当に会社の面接を受けたような気分で、妙に疲れてしまった。そのまますぐに帰る気力はなかったので、改めてアイスティーを注文した。

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『赤い糸をたどって』 第二十回 

赤い糸をたどって

 若槻はわざとらしく、「はじめまして」と頭を下げてくる。「あっ、はじめまして」と俺もそれに応える。もはや気まずさのようなものはない。一応、自己紹介カードを交換する。
「まさか春見さんがブーケトスの会員だったなんて、思ってもみませんでした」
「俺だって同じだよ。だって若槻さんはまだ結婚とか考えているようには見えなかったしさ」
 本当は知っていたけどね。
「そんなこと言ったらまた牛島さんがうるさいでしょ?」
「そりゃそうだよな……若槻さんは会して長いの?」
「半年くらいです。春見さんは?」
「もうすぐ一年半」
「ええっ! じゃあ、契約期間はもう後半年ですか?」
「そうなんだよ」
 改めて指摘されると、気が重くなる。
「延長するんですか?」
「おいおい、もうダメみたいな言い方しないでくれよ」
「あっ、ゴメンなさい」と、若槻は慌てたように右手を口に当てる。
「頑張って下さいね」
 まるで人ごとだ。若槻は俺に申し込むつもりは全くないらしい。
 いつも通りの無邪気な笑顔。そこで、あることに気が付いた。
「あれ? 若槻さん……」
「どうかしました?」
「いつもと化粧が違うよな?」
 厚化粧と言えば言葉は悪いが、普段のしているかどうかがわからないような化粧とは明らかに違う。何より目元がぱっちりとしている。
「気が付きました? 私だって戦場へ行くときは戦闘態勢で行きますよ」
「ここが戦場なら、会社は何なの?」
「家からちょっと離れたショッピングモールってとこかな。多少は気を使っていますみたいな」
「近所のコンビニよりマシな程度か」
「そうそう。スッピンじゃないですからね」
 お互い顔を見合わせて笑う。
 やっぱり彼女と話すのは楽しい。
「会社でも今の化粧にしてみたらどう?」
「えー、嫌ですよ。面倒臭いもん。必要ないし」
「いや、少ないとは言え、接客することもあるわけだし」
「接客はほぼ真央ちゃんに任せているからいいじゃないですか」
 真央ちゃんというのは、昨年の四月に入社した二十歳の女の子で、カワイイというより美人の類に入る。ただし、根が真面目で気がキツイため、男連中も下手なことが言えない。若槻より遥かに扱いにくいタイプだ。
「いや、そうじゃなくて……」
「何ですか? はっきり言って下さい」
 若槻がどこかイライラとしているように見える。
 ダメ出しされると思っているんだろうか。
「カワイイなって思って……」
「えっ」と呟いて、若槻は目を丸くする。みるみるうちにその顔が赤くなっていくのがわかった。
「ありがとうございます」と下を向く。照れ隠しのためか、俺の自己紹介カードに視線を移す。
「趣味はアクアリウム……だから、あの時」
「そういう訳なんだ。映画しか書いていなかったからさ」
「あれからどうですか? うまくいっていますか?」
「うーん。微妙かな。水替えは正直面倒だし、水草は枯れるし、苔は大量に発生するしで、とてもじゃないけど、『癒してくれる』なんて言えないな」
 白井に言った嘘がバレるが、もはや隠す必要がない。
「魚を飼うだけなら簡単だけど、手入れをして、綺麗な水景を作って維持していくのはやっぱり難しいよ」
「その道のプロがいるくらいですもんね」
「そうそう。趣味はアクアリウムなんて書いちゃダメなんだろうな、きっと。若槻さんの趣味は……」
 彼女の自己紹介カードに目をやってみた。
「ええっと、ペット、お菓子作り、料理か……お菓子って何を作るの?」
「あっ、えっと、それは春見さんのアクアリウムと似たレベルです」
 若槻がペロリと舌を出す。
「始めて間もないってこと?」
「いいえ、始めたのは随分前なんですけど、すぐにやめちゃって……」
「なんだ、そういうことか」
 自己紹介カードに「ギター」と書かなくて良かった。
「私もこれと言って大した趣味がなかったから……アドバイザーさんには昔やっていたことでもいいからって言われました」
 まさか……。
「若槻さんの担当アドバイザーの人、何て名前?」
「梅田さんっていう女性の方です」
 思わず吹き出してしまった。
「俺と一緒だよ」
「そうなんですか?」
 若槻が目を丸くしたところで、「はい。そこまでです」と、宇佐美が手を挙げて席を立った。
「自己紹介カードを前の方にお返しして下さい。皆様、お疲れ様でした。本日のパーティはこれにて終了です。今回の申し込み可能人数は三名までとなっています。以前お断りした方、された方にも申し込みができますので、お間違いなく。もしいいなって思う人がいたら、この後、どこかへ行くのもありですよ。男性の方は頑張って下さいね。それでは気を付けてお帰り下さい。本日はありがとうございました」
 宇佐美はまくし立てるようにしゃべって疲れたのか、「ふうっ」と溜息をついて、再び席に座った。
 会員たちがぞろぞろと店を出ていく。俺と若槻もそれに続いた。
 店から少し離れたところで、改めて「若槻さん」と声を掛けた。
「どうかしました?」
「これからどこかでもう少し話さないか?」
 いつの間にか彼女ともっと話しがしたいという気持ちが芽生えていた。
「それはブーケトスの会員としてですか? それとも同僚としてですか?」
 若槻が顔を赤くする。
「俺にもわからないんだ。両方かな?」
「だったらお断りです」と、真顔で返された。
 正直過ぎたようだ。
 若槻がいつもの笑顔に戻る。
「なんて……冗談です。別の会員さんとこの後、待ち合わせをしているんです」
「そう……」
 なんだろう。この裏切られたような感覚は……そこまではっきり言うなんて、やっぱり俺は、彼女にとってただの同僚なんだろうな。
「ゴメンなさい」
「いや、いいんだ」
「それじゃ、お疲れ様です」
「あっ、若槻さん」
「はい」
「俺がブーケトスの会員だったってことは、会社の皆には内緒にしてもらえるかな?」
「いいですけど、どうしてですか?」
「恥ずかしいだろ? 若槻さんも」
 当然そうだろうというつもりだったが、若槻は笑って首を振る。
「私は別に恥ずかしいとは思いません」
「本当に?」
「そりゃ確かに、牛島さんとかにいろいろ詮索されるのは面倒ですけど、婚活していることやブーケトスに入会していることは恥ずかしくありません」
 実に清々しい顔をしている。その言葉に嘘はないのだろう。
「だって一生を共にする人を探しているんですから。胸を張ってもいいんじゃないですか?」
 今のは俺に対する問いかけだろうか。
 答えを返さぬうちに、若槻は「それじゃ」と俺に背を向けてその場を去っていった。
 ポツンと取り残されたような気がした。

 若槻から申し込みが来るんじゃないか。
 密かにそんな期待をしていたが、結局、それは外れた。翌日以降も、若槻の態度は今までと何ら変わりがなかった。
 他の会員からの申し込みもなく、俺から申し込んだ若槻以外の女性三人からも、全てお断りの連絡が来た。他の会員からの申し込みもなし。
 つまり今回のパーティでの収穫はゼロということだ。

 小

 四月になって申し込んだ女性のうち、一人から「お受けします」の紹介状が届いた。いよいよ期限も半年が過ぎた。そろそろ当たってもらわないと困る。
 小谷亜季。
 年齢は二十九歳。キリッとしたシャープな顔つきは、どこか気が強そうに見える。
 俺としては、遠慮してしばらくメールで話をするつもりだったが、小谷のほうが「時間が勿体ないので、会ってお話ししましょう」と、最初のメールで返事を送ってきた。日時は次の日曜日、午前十時から十一時の時間限定。しかも彼女の次の予定に合わせて、待ち合わせ場所まで指定付きだった。何だか忙しなくて落ち着かない気分だが、有難いと言えば有難い。

 約束の日が来た。
 予定が詰まっているということだったため、遅れていくのはマズイと思い、いつもより早めの十五分前に到着できるよう、待ち合わせの駅の改札を目指した。
 メールのやり取りもほぼゼロの状態で会うことになったため、小谷がどんな女性なのか、全く見当がつかない。さすがに紹介状を持ち歩くわけにはいかないので、とりあえず、隅から隅まで眺めて、詰め込める限りの情報を頭に詰め込んできたつもりだ。
 待ち合わせ場所に着くなり、後ろから「春見さんですか?」と声を掛けられた。
 小谷だ。
 俺が「そうです。春見です」と答えると、小谷は「はじめまして」と少しだけ笑って深く頭を下げた。慌てて俺もそれに倣う。
 随分前に会った高崎も美人だったが、彼女もそれに劣らぬくらいの美人だと言える。ただ、高崎のような親しみ易さがないというか、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「この近くにカフェがあるので、そこで話をしましょう」
 小谷が俺の返事も聞かずに、先に歩き始めたため、俺は慌てて彼女の横に並んだ。
 時間がないって言っていたもんな。
「何だか忙しなくてすみません。でも約束の時間より早めに来てくれたので助かりました」
 小谷は足取りを緩めることもなく、せかせかと前へ進む。
「いいえ。いいんです。僕のほうこそ早々に会ってもらえて助かります。中には『まずメル友から』なんて言う人もいますからね」
「それはヒドいなあ。大金を払ってメル友探しなんて有り得ないですもんね。私、メールってあんまり好きじゃないんです。面倒だし、電話したほうが早いでしょ?」
 随分、さばさばとした性格のようだ。

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『赤い糸をたどって』 第十九回 

赤い糸をたどって

 パーティの日がやってきた。事前に郵送されてきた地図を頼りに会場へ向かった。
 とりあえず一人でもいいので、つながりを作っておきたい。
 会場である「憩い」という名の喫茶店は駅ビルの地下にあった。壁に赤いレンガタイルを張った昔ながらの造りをしていた。
 開けっぱなしのドアの内側に『本日貸し切り』の札が掛かっている。午前中は、俺の参加する二十代から三十代前半組で、午後からは三十代後半から五十代の組に別れている。
 制限時間は二時間。そこそこ時間はあるように思えるが、一対一で十人全員と話すとして、スタッフの説明やらドリンクの注文やらを考慮すると、一人の相手に割り当てられる時間は十分が限界だろう。その僅かな時間でどこまで自分をアピールできるかが勝負だ。しかし、あまりガツガツしていると思われないように気を付けなければ。そういうことは考えている以上に敏感に察知されてしまうものだ。
 開始時間の十五分前だが、入口に座るブーケトスのスタッフの女性に会員証を提示して中に入れてもらった。店内は二十人が座るといっぱいという程度の広さだ。パーティは始まっていないが、すでに前に座る相手と話をしている者もいる。こういうフライングに関しては全く問題がない。
 俺が腰掛けた席にはまだ女性は来ていない。いきなり出遅れてしまったというわけだ。
 喫茶店のスタッフに紅茶を注文して、案内状と一緒に届いた自己紹介カードを鞄から取り出した。ぼうっとしていても仕方がないので、先程入口で番号札と一緒に受け取った参加者一覧表に目を通すことにした。A4の紙を二つ切りにしたしおりに女性の名前がカタカナで五十音順に書き記してある。もちろん、女性には男性の名前を記した表が渡されている。一応、今までに申し込んだ者がいないかをチェックしてみる。パーティには、一度お断りをした、あるいはお断りされた相手に再び申し込みできるという特典がある。つまり敗者復活戦。一度断った相手とうまくいくなんて、極めてレアなケースだが、申し込みせずに紹介状を返却した場合もあるので、馬鹿にはできない。
 表の一番下に書かれた名前を見て、思わず「あっ」と声を上げそうになった。
 そこでようやく俺の前の椅子にも女性が座った。知らん顔もできないので、軽く会釈をすると、彼女も会釈を返してくれ、少しだけ笑った。格別見た目がいいわけでも、悪いわけでもなかった。
 それ以上に俺には気になることがあった。再び女性参加者の一覧表に視線を落とす。
『ワカツキ ルミ』
 十番目に確かにそう書いてある。前に座る女性に気付かれぬよう、店内をぐるりと見回す。それらしき人物はいない。
 俺の隣に、最後の男性会員が座った。
 ひょっとすると、後一人来ていないのが若槻だろうか。カタカナ表記のため、別人の可能性もある。
 違う意味で俺の胸が高鳴り始めた。
 パーティの開始時間である午前十時がやってきた。「ワカツキ ルミ」という女性はまだ現れていない。当日、急に不参加というのも珍しいことではない。そういう場合、一対一で話すところを一対二で話すことになったりする。あまりにドタキャンが多いと、男同士、女同士で話すこともあると、誰かに聞いた。
「それじゃ、お一人来られていませんけど……」と、ブーケトスのスタッフが立ち上がった。
「遅れてすみません!」
 息を切らせて店に飛び込んできたのは、紛れもなく、俺の知る「ワカツキ ルミ」こと若槻留美だった。顔を赤くして、とても慌てているのがよくわかった。
 彼女に気付かれぬよう顔を伏せていようかとも思ったが、最終的には話すことになるし、斜め前に座って気付かないほうがどうかしている。
 席に着いた若槻は、案の定俺の存在に気付き、大きく目を見開いて、「おおっ」と声にならぬ声を出した。大して動揺した様子もなく、笑顔で小さく手を振ってきた。今はとりあえず、会釈だけを返した。俺の前に座る女性が「知り合いですか?」と聞きたげに俺を見ていた。
 改めてブーケトスのスタッフが挨拶を始めた。
「皆様、こんにちは。本日は『憩いで恋して』に参加してくださり、誠にありがとうございます。私、司会を務めさせていただきます、宇佐美と申します。どうぞよろしくお願いします」
 年齢は俺より少し上だろう。自分もこれからパーティに参加するかのように楽しげに話す。
「こちらのお店はピラフが自慢のメニューだそうなので、良かったらどうぞ」というちょっとした宣伝を聞かされた後、いよいよパーティが始まった。まずは正面に座る相手と制限時間十分で話をすることになり、それぞれ自己紹介カードを交換する。カードには名前、年齢、職業、趣味、自己PRが書いてあり、それを元に話を始める。
『白井舞』
 それが俺の前に座る女性だ。年齢は三十五歳。今まで会った女性の中では一番年上だ。山上の一件もあり、年上ということに少なからず抵抗を感じていた。
「春見さんの趣味はアクアリウムですか? 素敵ですね」
「ええ、まあ」
 今はあまり触れられたくない話題だ。
「淡水魚ですか? 海水魚ですか?」
「淡水です」
「何を飼っているんですか?」
「グラミー、カージナルテトラ、後は苔対策としてオトシンクルスとヤマトヌマエビです」
「水草は?」
 まずい。この人、結構詳しいんじゃないのか。
「アマゾンソード、ミクロソリウム、ウィローモスを流木に巻き付けています」
 とりあえず覚えている物を挙げた。
「水槽の大きさは?」
「三十センチ」
「なるほど」と、白井は頷いた。
 何がなるほどなのか。
「まだ始めて間もないんですね」
 ど真ん中に投げてこられた。空振りどころか、デッドボールだ。
 若槻に聞こえやしなかったかとチラリと彼女のほうを見てみた。幸いなことに、自分の相手とのおしゃべりに夢中のようで、聞こえてはいなかったようだ。
「水槽は小さいですし、魚や水草も入門用かもしれませんが、別に始めて間もないわけじゃありません。なかなか時間が取れないので、できるだけ手間を掛けないようにしているだけです」
「そうなんですか?」
 信じていないようにも、疑っているようにも見えなかった。
「白井さんは随分と詳しそうですね。飼っているんですか?」
「いいえ」と、白井は慌てたように手を振る。
「前におつき合いしていた人が飼っていたんです。結構熱心にやっていて、家に行くと水槽がいくつも置いてあって……ちょっと引きました。でも眺めているのは好きです」
「男はハマっちゃうととことん行ってしまうところがありますから。白井さんの趣味はスポーツジムですか……どんなことしているんですか?」
「水泳がメインです。後はエアロビかな」
「どうりでスタイルがいいわけですね」
「いえいえ、これでも最近太り気味でどうしようかなって思っているんです」
 そうは言いながらも、白井はまんざらでもなさそうだ。
「お仕事もあるでしょうし、その合間を縫ってちゃんと自分磨きをしているんだから偉いですよ。派遣のお仕事って何をされているんですか?」
「今は特に何もしていないです」
「えっ?」
 思わず聞き直してしまう。
「半年前くらいに契約期間が終了して、それ以降は待機状態です。なかなかこちらの条件に合うものがなくて……」
 つまり現状は無職か。
「だってやりたくないことやっても仕方ないですし、給料が安いのも嫌ですから。そんなことないですか?」
「ええ、まあ、そうですね」
「ぼうっとしていても仕方がないからジムへ行くことにしたんです」
 白井はどこか誇らしげな表情をしている。先ほど彼女に言われた「まだ始めて間もないんですね」という言葉をそのまま返してやりたかった。
 それにしても能天気な人だ。仕事を選んでいる場合ではないと思うが。
「それにいつ結婚するかもわからないんだし、必要以上に仕事に打ち込んでも意味ないですから」
 この時点で、俺が彼女に申し込む可能性はゼロになった。
「いい仕事見つかるといいですね」
 そしてお相手も。
 嫌みを込めたつもりだったが、彼女は「ありがとうございます」と微笑んだ。
 そこで宇佐美が立ち上がり、「はい。十分が経ちましたあ~」と手を挙げた。
「自己紹介カードを相手の方に返していただいたら、男性のほうは時計回りに一つずつ席を移動して下さい。あっ、お飲み物も忘れずに持っていって下さいね」
 宇佐美の言葉に従い、ティーカップと共に席をずれる。前に座るショートヘアの女性に軽く会釈をして、腰を下ろす。この流れで行くと、若槻と話をするのは最後になる。
 例え気に入ったとしても全員に申し込みができるわけではなく、その人数はパーティの規模に依る。今日のパーティでは最大三名まで容姿や話した内容を走り書きでしおりにメモしておき、選択の基準にする。前回は解読不能で役に立たない部分もあったが……。
 とりあえず、先程話した『シライ マイ』の名前の横にはバツ印を入れておいた。

 その後も続けて別の女性と話をしたものの、「韓流にハマっています」とか、「パチンコやっています」とか、「休日は昼から一杯やっています」とか、容姿は別にして、「この人はちょっと……」という女性が多かった。
 そしていよいよ、若槻と話をすることになった。

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『赤い糸をたどって』 第十八回 

赤い糸をたどって

 待ち合わせに使ったロータリーに車が到着した。
 山上が「今日はどうもありがとうございました」と笑顔を見せた。それを見ても、「もういいか」とはならなかった。
「山上さん」
「はい」
「あれはあんまりなんじゃないですか?」
「何のことですか?」
 山上は自分のしたことに対して悪気を感じている様子はない。
「僕に断りもなしに御両親と会わせたことです」
「ああ、そのことですか。あまりに突然で心の準備をする暇もなかったですね。ゴメンなさい」
「いや、そういうことじゃないんです。僕たちってまだつき合っているわけではないですよね? ブーケトスは結婚相手を……」
「ちょっと待って下さい」と、山上が俺の言葉を遮る。
「私、春見さんとは結婚を前提としておつき合いをしていると思っていました」
 なぜそういう発想になるのか。
「確かに僕は山上さんに対して良い印象を持っていました。でもまだ結婚相手として決めたというわけではありません。プロポーズどころか、本交際を申し込んでさえいませんよね?」
 山上の顔がみるみるうちに険しいものへと変わる。
「私を騙していたんですか?」
「騙す?」
 思いもよらぬ言葉に声が裏返った。
「あれほどお金に対する価値観とか両親との同居のこととか話しましたよね? 結婚式のことも話したし、温泉旅行の約束もしました」
「あれは考え方を話しただけであって、そんなに深い意味はありません。温泉旅行の件も社交辞令と言えば表現が悪い……」
 山上がキッと鋭い目で俺を見る。
「社交辞令って……春見さんってそんないい加減な気持ちで婚活しているんですか? 真面目にやっている人に失礼ですよ」
「いや、そういうわけではありません」
「それなら、両親に会ってくれと言った時点で断ってくれれば良かったでしょ?」
「あの状況では断れませんよ」
「父も母も騙したんですか? とても嬉しそうにしていたのに……私、二人に何て言えば……」
 今度は涙目になる。
 ダメだ。なぜこんなことになった。
「もし僕の態度が、山上さんの誤解を生むようなものだったのなら謝ります。ゴメンなさい」
 そうしないと納まりがつかない。
「申し訳ありませんけど、まだ山上さんとは結婚をするとかしないとか、そこまで決め切れていないんです。もう少し様子見というわけにはいきませんか?」
 山上は何も答えずに鼻を啜っている。気まずい雰囲気は変わりそうにない。
「一度考えて下さい。すみません。僕はこれで失礼します。ありがとうございました」
 半ば強引に助手席を降りて、その場を離れた。
 しばらく行ったところで振り返ってみると、山上の車はまだ同じ場所に停まったままだった。
 完全に俺が悪いような形になってしまい、正直気が重たかった。「もう少し様子見で」なんて言ったが、彼女の思い込みの激しさと結婚願望の強さにはついていけそうもない。
 うまく断ろう。

 小

 結局、その日は山上から連絡が来ることはなかった。
 日が変わり、いつもなら出勤前にメールが来るのだが、それもなかった。こちらから様子窺いのメールを送ってみようかとも思ったが、これ以上変な思い込みをされても困るのでやめておいた。
 
 山上から音沙汰がなくなって三日が過ぎた。
 ひょっとすると、すでに俺の紹介状を返却したのかもしれない。それならそれが一番いい。
 そう思っていた矢先、アドバイザーの梅田から電話が掛かってきた。営業の途中に、コンビニでお茶を買ったところだった。
『もしもし、春見さん? ブーケトスの梅田です』
「ご無沙汰しています。珍しいですね。どうかしました?」
『ちょっと話があってね。今、お時間大丈夫?』
 一体なんだろう。
「少しなら」と答えて車に乗り込んだ。
『山上栄子さんって知っているわよね?』
 思わずドキッとする。
「はい。知っています。一応、仮交際中ですけど……」
『昨日その山上さんからうちの支社にクレームの電話があったのよ』
「クレーム?」
 予想もしない言葉にケータイ電話を落しそうになった。
『そう。結婚する気のない人が会員にいるってね』
「僕のことですか?」
『心当たりある?』
 俺は、山上との間で起きた一連の出来事を梅田に話した。
『なるほど、そういうことだったのね』
「言いがかりもいいところでしょ?」
『確かにそうねと言ってあげたいけど、中にはそんなふうに勝手に盛り上がっちゃう人もいるわよ』
「本当ですか? だとしたらこれから先、ちょっと不安ですね」
『まあ、そこまでするのは特殊だけどね』
「そうですか。気を付けたほうが良さそうですね……それで僕はどうしたらいいんですか? お菓子でも持って謝りに行ったほうがいいんですか?」
『そんなことしたら余計ややこしくなるわよ。一応こちらで話し合った結果、山上さんからのお断りを受理すると同時に、春見さんには厳重注意という形にしておいたわ。さすがに強制退会まではできないから』
「助かります」と梅田に告げて、電話を切った。
 喜んだはいいが、これでまた手持ちの紹介状は沢口だけになった。
 暦は三月。会員期間は残り半年強。

 小

 三月の申し込み分に全てお断りの返事が届いた頃、母から電話が掛かってきた。正月以来、一度も実家へ顔を出していないため、久しぶりに親子揃って夕食を食べないかという話だった。しばらく会っていないのも確かだし、特にこれといった予定もなかったため、オッケーした。
 メニューは寿司と天ぷら、そしてお吸い物。寿司と言っても、近所の回転寿司のお持ち帰りだ。もちろん、奢りのため、文句は言えない。
 そう言えば、長い間、二人を外食に連れていった覚えがないことを思い出した。
 夏のボーナス次第で考えてみるか。
 食事を終えて、食卓で緑茶を啜っていると、母が「大地、ちょっといい?」と大きな封筒を持ってきて、俺の正面に座った。ソファに移動した父が、ちらりとこちらを見たのがわかった。
 察するに今日は何か特別な話があって俺を呼んだに違いない。
「実はね、竹城さんの奥さんに教えてもらったんだけど……」
 竹城さんというのは母の友達らしいが、俺はよく知らない。聞いた話によると、俺とそれほど歳の違わない息子がいるらしい。
 母が封筒から取り出したパンフレットのようなものを俺に差し出す。白い表紙に赤いバラの絵が散りばめられており、真ん中に少し控えめな大きさで「婚親会への招待状」と書いてある。
 嫌な予感がした。
「婚親会って言ってね。未婚の子供を持つ親同士がまずお見合いをして、お互いが気に入れば、次は子供同士がお見合いをする。そういう集まりなのよ」
 予想通りだ。
「それで、いい相手がいそうってわけ?」
 恐る恐る尋ねてみた。
「まだ説明会に行っただけよ。でも参加してもいいかなとは思っている。放っておいたら、あんたいつまでも動かなそうだし」
 もうすでに動いているんですけど。
「知ってる? 三十過ぎると生活環境も変わりにくくなるから、出会いもグッと減るんだって。その通りでしょ?」
 一体誰に聞いたんだ。説明会の受け売りか。
「あんたが見つけられないなら、私が相手を探してあげるから」
 母の言い方に思わずカチンと来た。
「大きなお世話だよ。結婚相手くらい自分で探すよ」
「大見栄切って、当てはあるの?」
「あるよ。少なくともゼロじゃない」
 こういうのを「売り言葉に買い言葉」って言うんだろうな。ゼロじゃないが、限りなくゼロに近い。
「そう。それなら安心だわ。ねえ、お父さん?」
 母の問いかけに、父は視線はテレビのまま、「そうだな」と答えた。興味があるのか、ないのか、どこの家庭でも大抵口喧しいのは母親のほうなんだろう。
 しばらく実家には近寄らないほうが良さそうだ。

 小

 オプションAの効果がなくなり始めていた。あれほど大量に送られてきていた紹介状も、今ではすっかり来なくなり、以前と同じ状態に戻っていた。
 かくなる上は「パーティ・イベントへの申込」しかない。ブーケトスの支社や小さな喫茶店で十数人を集めて行われる小規模なものから、有名ホテルで百人以上の参加者が集まる大規模なものまで、毎月いくつものパーティやイベントが催されている。もちろん、無料というわけにはいかない。参加料は数千円から数万円までピンキリ。
 相手の容姿がわかる点で、マイページの会員検索機能より勝負が早いため、パーティ・イベントメインで活動している者もいるらしい。言い換えれば、瞬間的にトドメを刺される可能性もあるわけで、夢を見る時間さえ与えてもらえなかったりする。容姿にイマイチ自信がない俺は、一発アウトを恐れて避けてきたが、もはやそんなことを言っている場合ではない。今となっては、むしろ時間の短縮ができて有難いというものだ。
 マイページにアクセスし、予約受付中のパーティを検索した。大人数のパーティならばチャンスは増えるが、その分ライバルも多いし、誰の印象にも残らない可能性も高い。それならば、規模の小さいパーティに参加し、限られた相手の中からいい人を探すほうが競争率も低いし、内容の濃いものになるはずだ。
 二週間後の日曜日に、男女合わせて二十人のパーティが見つかった。つまり十対十。多過ぎず少な過ぎず、手頃な人数だ。場所は喫茶店。参加費用は二千円で、ワンドリンクがサービスされる。
 ホテルのような畏まったところより、気軽に話ができそうだし、費用も安い。
 迷うことなく「参加」ボタンをクリックした。
 その後、似たような条件のパーティを探し出して、それにも参加することにした。

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『赤い糸をたどって』 第十七回 

赤い糸をたどって

 橋添のスケジュールに合わせるため、結局、大した話をすることもなく、スイーツを食べただけで帰ることになった。
 ケーキ三つを一気に胃の中へ放り込んだため、少し気分が悪かった。車に乗り込み、シートベルトを締めると、思わず「おえっ」という声が出そうだった。
「橋添さんの家の近所まで送りますか? それともどこかの駅がいいですか?」
「じゃあ、F駅でお願いします。そこまで彼氏が迎えに来てくれるので」
「了解です」
 ギアをドライブに入れて、ゆっくりとブレーキから足を離した。車が十センチほど進んだところで、俺は再びブレーキを踏んだ。
「えっ、今、何て言いました?」
「F駅でお願いしますって」
「いや、その後です」
「そこまで彼氏が迎えに来てくれるので」
 やはり聞き違いではなかった。
「ちょっと待って下さい。橋添さんは彼氏がいるのに、別の男性を探しているんですか?」
「そうですけど、可笑しいですか?」
 橋添が目を丸くする。開き直りではなく、本気で俺の言っていることが理解できない様子だ。
「今の彼氏はどうするんですか? 結婚相手が見つかったらサヨナラですか?」
「そのつもりです」
 そんな就職活動みたいなことがあり得るのか。今の会社で働きながら次を探すような感覚。「次に行っても頑張れよ」と彼氏は笑顔で見送ってくれるのか。
「だって彼氏と結婚相手は違うじゃないですか。彼氏は遊びに行く場所をたくさん知っている人とか、話が面白い人とかがいいですけど、結婚相手は経済力があって、誠実で真面目な人じゃないと」
 確かに言っていることは間違っていない。しかしやっていることが正しいとも思えない。
「ブーケトスに入会していることは彼氏には内緒ですか?」
「いいえ、知っています」
 それはそれで驚きだ。
「何も言わないのですか?」
「応援してくれていますよ。早くいい人が見つかるといいねって。彼は結婚とかまだ興味がないからもう少し遊びたいって。それにフリーターですし、結婚相手としては相応しくないでしょ?」
「今の時点で別れたりはしないのですか?」
「嫌いじゃないのにまだ別れる必要なんてないじゃないですか。相手が見つかってからでも充分間に合いますよ」
 これが今時の若い子の発想なのか。やっぱり理解できない。
「あの、春木さん。そろそろ行かないと彼氏が待っているので……」
「俺は春見です」
 タイヤがキイッと鳴いて、車は前に飛び出した。
 マンションに帰ったら真っ先にお断りのメールを送ってやる。
 頭の中でそう決意していた。

 小

 翌週の日曜日は山上と温泉へ行くことになった。温泉と言っても足湯で、車で二時間程度のところの温泉街にある。料金は無料。それも一か所ではないため、ちょっとした「足湯めぐり」が楽しめるらしい。
 今回の行き先を決めたのも、やはり山上だった。
 俺のほうからも行き先をいくつか提案したのだが、前回と同様、「そこには行ったことがある」と切り捨てられた。
 そして言うまでもなく、運転も山上だ。もうどこでも好きなところへ行ってくれという気分になった。

 他の会員のことを話すのは気が引けたが、橋添の件について山上に聞いてもらった。とにかく誰かに愚痴りたかった。
「僕にはどうしても理解できなかったので、お断りをすることにしました。山上さんはどう思いますか?」
「それは私にも理解できないかな」
「そうでしょ?」
 自分の感覚が可笑しくなかったんだと知ってホッとする。
「今時の若い子って一括りにしてしまうのも良くはないですけど、やっぱり考え方や感じ方に多少のズレはあるかもしれませんね」
「山上さんもそんな経験ありですか?」
「ブーケトスで、というわけではないです。会社の女の子たちと接していると、時折そう思うんです。同僚ならともかく、結婚相手となると、さすがにキツイですよね」
「言えてるかも。最近は『離活』なんて言葉もあるくらいですから、密かに次の相手を探される可能性は充分に考えられますよね。怖い怖い」
 両腕を抱えて、体を震わせるフリをすると、山上が笑った。

 山を切り開いたドライブウェイを途中で降りると、目的の場所は「もうすぐそこだ」と山上が教えてくれた。これまでも何度か来ているらしく、全く道に迷わなかった。
 温泉街ということで、当然浴衣の客が多いのだが、俺たちのように普段着の者も少なくはない。
「あの人たちは多分、今、足湯に浸かっているところですね」
 山上が指差した方向を見ると、東屋の下で、数人が向かい合ってベンチに腰掛けている。足元まではよく見えないが、そこが足湯になっているのだろう。
 空いている有料駐車場に車を止めて、いよいよ「足湯めぐり」に繰り出した。予め、山上に聞いてサンダルとタオルは用意してきていた。近くに見える山には、未だチラホラと雪が残っており、素足だと少し堪える。俺が寒そうにしているように見えたのか、「お湯につかればすぐ温かくなりますよ」と、山上は笑った。
 しばらく歩いたところで空いている場所を見つけた。「あそこに入れてもらいましょう」と、山上は率先して見知らぬ人に声を掛けて、二人分の席を確保した。やはり今までのタイプの女性とは違うことを改めて実感した。
 先にベンチに腰掛けた山上は躊躇うこともなく、ズボンを巻くってすっと両足を湯船に入れた。俺も隣に座ってそれに倣う。熱過ぎやしないかと、少々警戒しながら、ゆっくり足を入れる。自分のビビリ加減に呆れてしまう。
 何の心配もいらなかった。それどころか、冷えた足を優しく温めてくれる、ちょうど良い湯加減だった。
 山上の話によると、近頃、足湯はとても人気で、鉄道の駅や道の駅、空港、サービスエリアなど、いろんなところに施設が増えつつあるということだ。冷え症の改善や心身のリラックス、疲労回復などの効果が期待できるうえ、全身浴よりも身体への負担が少ないのが魅力らしい。
 浸かり過ぎるのも良くないということで、十分ほどすると、別の場所へと移動した。
「どうですか? 春見さん。少しは温まりましたか?」
「はい。それに気持ちがいいです」
 たまにはこういうのも悪くないな。

 その後、いくつかの足場を回って、定食屋で昼食をとることにした。二人揃って山菜そば定食を頼んだ。かやくご飯と、デザートとして黒蜜きなこ餅がついている。
「春見さんは温泉なんてあまり行かないんですか?」
 そばに息を吹きかけて冷ましながら、山上が尋ねてくる。
「そうですね。仲のいい友人が三人いて、年に一度くらいは泊まりがけで行っていたのですが、そのうち一人が結婚してからは行かなくなりました。やっぱり家族が優先になりますから」
「他のお二人は独身?」
「はい。でも皆、仕事が忙しいようでなかなか予定が合いません」
「私も似たようなものです。それなら今度は一泊二日の温泉旅行にでも行きましょうか?」
「そうですね。そうしましょう」

 昼食を終え、少しだけ足湯めぐりの続きをやってから帰ることにした。
 腹が満たされ、いい加減で身体が温まったせいか、車の中で眠気に襲われた。
「寝てくれてもいいですよ」
 山上に悟られぬよう必死で欠伸を堪えていたつもりだが、うまくいかなかったようだ。
「いや、大丈夫です。すみません」
「気にしなくていいですよ。春見さんはお仕事の帰りも遅いですし、疲れていらっしゃるんでしょう」
 何とも情けない話だ。しかしこのまま眠気を堪えて欠伸ばかりするのも印象が悪い。
「じゃあ、お言葉に甘えて五分だけ。五分経ったら起こして下さい」
「わかりました」
 緊張の糸がプツリと切れてしまったのか、目を閉じるとあっという間に眠りの世界へと落ちていった。

 小

「春見さん」
 体を揺すられて、目を覚ました。五分だけとはいえ、随分頭がすっきりとした。
 今、どの辺りだろうと、窓の外へ視線を移した途端、思いもしない光景に息を飲んだ。
 どこかの家の駐車場に車が止まっているのだ。それに俺が眠り始めた頃に比べると、辺りが薄暗い。どうやら俺の睡眠時間は五分なんてものではなかったらしい。
「山上さん、ここはどこですか?」
「私の実家です」
「実家……」
「近くを通ったので、寄ったんです」
 いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃない。
「父と母が春見さんに会いたいって言っているので、会ってもらえますか?」
 まさかの展開になりつつあった。サイドミラーを覗くと、玄関前に立つ、山上の母親らしき女性の姿が見えた。この状況で「嫌だ」と言うのはなかなか勇気がいる。
「わかりました。でもさすがに長居はできないので、少しだけです」
 これが俺にできる、せめてもの抵抗だ。
 車を降りて、玄関先で母親と軽く挨拶を交わした後、リビングに案内された。「座って待っていて下さい」と言い残して、山上は部屋を出ていった。ソファに腰掛けると、溜息と言うより荒い鼻息が出た。
 ハッキリ言って俺は腹を立てていた。
 しばらくすると、山上が両親を連れて戻ってきた。無意識にすっと立ち上がって、「はじめまして。春見です」と自分から先に自己紹介をしていた。もちろん、内に秘めたる怒りの感情は決して見せないようになっている。
 営業マンとしての性だろう。
 俺の隣に山上が、その前に両親が座る形となった。テーブルにはケーキとコーヒーが並んでいる。近くを通ったから立ち寄ったという割には用意がいい。こっちは何の用意もできていないというのに。会社見学のつもりで来たのに、実は面接だったというようなものだ。
 両親は七十を過ぎていると山上は言っていたが、二人とも髪に白いものが多く見受けられるものの、肌の張りや話し方、物腰、どれをとっても元気そうに見える。
 父親がコーヒーに手を伸ばしながら、「足湯めぐりはいかがでしたか?」と尋ねてきた。
「足湯なんて初めてだったのですが、思った以上にリラックスできました」
「私も家内も温泉が好きで、よく行きます。足湯っていうのも悪くはないんだけど、やっぱりちょっと物足りなくてね」
「それはそうかもしれませんね。僕も今日行ってみて、全身で浸かってみたくなりました」
「そうでしょう」と父親は目を細くする。
 母親が「どうぞ、ご遠慮なく召し上がって下さい」と、優しい声を出す。
 どうやら歓迎はされているらしい。
「頂きます」と断って、俺はコーヒーに口を付けた。
「煙草は吸われますか? 灰皿、持って来ましょうか?」
「いえ、煙草は吸わないので大丈夫です」
「お酒は飲まれますか?」と再び、父親。
「はい……と言ってもつき合い程度です」
「私、お父さんみたいな大酒飲みは嫌よ。お金だって掛かるんだから」
 黙っていた山上が口を開いた。
「そんなに酒に金を使っているかな……最近は随分控えているだろ? なあ、母さん」
「よく言うわよ」と母親が呆れたような表情をする。
「今でこそ量は減ったけど、昔はひどかったのよ、春見さん。週末は会社の人を連れて来て、必ず宴会やっていたんだから。それも外で飲んで帰った後によ」
 酒の席があまり好きではない俺には辛いものがある。
「もう古い話です。今は正月と盆休み、上二人の娘婿たちと飲むのが楽しみです」
 まあ、そのくらいならどうにかなるか。
 いやいや、そうじゃない。
「煙草は体に悪いことしかないですが、お酒は飲み方に注意して楽しめば、別にいいと思いますよ」
「春見さんの言う通り。今度また一緒に一杯やりましょう」
 父親の機嫌が一気に良くなったのがわかった。
 
 その後は俺の仕事や両親についてなど、直接結婚につながることではないが、それほど遠くもない話をした。
「夕食もご一緒に」と言われたが、丁重に断った。
 帰りの車内で、「父も母も春見さんが気に入ったみたいです」と、山上が嬉しそうに話したが、それに対しては適当に返事をするだけにした。
 頭の中で、別れ際に何と言うかをまとめていた。

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『赤い糸をたどって』 第十六回 

赤い糸をたどって

 山上のメールは以前に比べると少しは減り、一日に二回程度になった。このくらいのペースなら苦もなく続けられるというものだ。
 そこへ橋添からのメールが一通紛れ込んできた。
『今度の日曜、休みがとれたので会いませんか?』
 実を言うと、少し前に山上から「次の日曜日も会いたい」というメールをもらっていたが、まだ返事はしていなかった。
 橋添とはなかなか休日が合わないし、これを逃すと次はいつになるかもわからない。山上とは二週続けて会ったし、今週の日曜日は橋添と会うことを優先した。
 こちらで遊びに行く場所を保険として先にピックアップしておいてから、「どこか行きたいところはありますか」と尋ねてみた。なければないで、それを出せばいい。少しは勉強したのだ。
『この前、友達とスイーツ天国っていうフードテーマパークに行ったんですけど、一緒に行きませんか? とても美味しいスイーツがいっぱい食べられますよ』
 スイーツか……正直あまり興味はないが、甘いものは好きなほうだし、俺が選んだ場所で文句を言われるよりはマシだ。
 待ち合わせの詳細については、後日決めることになった。
 誘いを断った山上からは『来週の日曜なら会えますか?』と言われ、早くも次のスケジュールも決まった。なかなかハードだが、ゆっくりしている暇はない。

 小


『日曜日はどうしますか? スイーツ天国の場所はネットで検索しました。橋添さんと僕の家の位置を考えると、S駅がちょうど待ち合わせ場所にいいかなと思うんですけど、どうでしょう? スイーツなので、時間は昼以降ですよね?』 
 そんなふうにメールを送ったのは金曜日の夜だ。
 結局、その日は連絡がなかった。
 橋添からメールの返事が来ないことは、これまでにも何度かあった。そのくせ夜中にどうでもいいことを送ってきたりもする。
「メールだから時間の空いたときに返事をすればいいじゃないですか」というのが、彼女の考え方なんだろうな、きっと。あるいは所謂ジェネレーションギャップという奴なのかもしれない。若い子と結婚するつもりなら、こういうことも受け入れる必要があるな。
 そうは思っていたものの、土曜日の夜、つまり約束の前日になっても、橋添からの連絡はなかった。こちらから電話も掛けてみたが、出なかった。留守電にメッセージを残し、再び連絡を待つ形となった。
 風呂に入ったり、テレビを見たりして時間を潰していたが、どうにも落ち着かなかった。
 そうこうしているうちに午前零時を過ぎた。いよいよ当日だ。
 ドタキャンだろうか。
 もう一度メールを送ることにした。
 時刻は遅いが……と言っても、午前三時にメールをしてくる橋添の感覚からすれば、まだ宵の口くらいだろう。
『夜分遅くにゴメンなさい。明日は都合が悪くなりましたか? 連絡待っています』
 そう書きながらも、これ以上はつき合いきれないので寝ることにした。

 翌朝、目覚まして一番にケータイをチェックしてみたが、橋添から連絡があった形跡はなかった。
 もう放っておくしかないかと思ったところで、橋添からのメールが届いた。
『F駅のロータリーに午後一時。車で来て下さい』
 謝罪の言葉は一切なし。それも「車で来ていただけますか?」ではなく、「来て下さい」だ。
 俺はいつから彼女の運転手になったんだろうか。
 あまりに一方的な振る舞いに、さすがに腹が立ったが、約束していた以上行くしかない。いや、それとも、もう断ってもいいもんだろうか。しかしこんなことでキレるような器の小さい人間だとも思われたくないし……よし、とりあえず今日のところは会うことにして、今後に関してはその上で検討しよう。

 約束の時刻にF駅のロータリーに行くと、橋添はすでに待っていた。車から降りた俺の顔を見ると、笑顔で手を振った。確かにルックスに関しては言うことがない。しかし一般常識というか、もう少し他人への気遣いがあって欲しいと思う。
 橋添を車の助手席に乗せて、スイーツ天国へ向かった。F駅からは車で二十分ほどだが、電車だと乗り換えもあるため、四十分は掛かる。俺自身も始めから車で迎えに行くつもりだったので、良かったと言えば良かったのだが、やはり勝手に車と決めつけられていたのはいい気がしなかった。
「ここ最近忙しかったんですか? 連絡が取れなかったんで心配していました」
 もちろん、心配していたというのは嘘で、皮肉のつもりだった。
「ゴメンなさい。体調が悪くて……」
 ようやく謝罪の言葉が出たが、全く信じていなかった。「体調が悪い」というのは、乗り気じゃないときに使う、女の言い訳第一位だ。と、誰かに聞いた。確かに「女性の日」というのもあるし、それだけは男にはわからない。ただメールも返せないほど苦しんでいたわけではあるまいし……そう思うと、また腹が立ってきた。しかし当の本人は実にあっけらかんとしており、悪気の片鱗さえ見せずに、楽しげにおしゃべりを続けている。
 そうか。ひょっとすると、この子って天然なのかもしれない。
 そういうことにしておこう。それしかない。

 スイーツ天国は赤レンガ造りの可愛らしい一階建ての洋館で、ヨーロッパ調の庭園の中に建てられていた。両開きの木製ドアを潜ると、最初に通るのが「スイーツ歴史館」だ。その名のごとく、世界各国のスイーツの歴史を写真や図と共に文章で紹介してあるフロアだ。せっかくなので少し読んでみるかと、『デザートの始まり』と書かれた花柄の額縁に近づいたところで、橋添が俺を呼んだ。
「春見さん、お店はこっちですよ」
 彼女はすでにスイーツ歴史館の出口にいた。どうやら歴史の勉強はさせてもらえないらしい。そこまで必死になって知りたいわけではないので、橋添に従った。
「魅惑のスイーツ館」は、フロアの四方を十五軒の店が囲んでおり、中央に椅子とテーブルが並んである。有名企業のチェーン店が大半だが、老舗と呼ばれる地元の店も入っているようだ。ケーキやアイス、パフェといった若者に人気のものだけではなく、団子やようかんといった、ちょっと渋めのものまである。
 どれを食べようかと悩んでいると、またもや橋添が「春見さん、ここにしましょう」と、一方的に店を決めてきた。
 ケーキ屋だった。他の店に比べると、並んでいる人の数も多い。味に間違いはなさそうだ。特に食べたいものがあるわけでもないが、橋添と一緒に最後尾に並んだ。レジまではざっと十五人程度。
「この後の予定ってどうなっていますか?」
 ケーキの並んだショーケースに落ち着きなく視線を向けながら、橋添がそう尋ねてきた。
 正直、全く考えていない。
「いいえ、特に何も……どこか行きたいところとかあるんですか?」
「あっ、そういうわけではないんです。私のほうで別の予定があって……早く帰らないといけないんです」
「そうなんですか?」
「ゴメンなさい。わざわざそんな日を選ばなくてもって思いますよね? でもせっかく日曜日の休みが取れたし、なかなか機会がないですから」
 そうだったのか。
 橋添の気持ちが堪らなく嬉しかった。自分本位で行動は支離滅裂だが、やはりそれほど悪い子じゃない。歳を経ていろいろな経験を積んでいけば、一般常識や相手を思いやる気持ちは自然と身についてくるに違いない。ここは年上の俺が大きな器で受け止め、気長に見守ってやるべきだ。
 そうこうしているうちに、俺たちの順番が回ってきた。まず先に橋添がケーキを選び始めた。
「南国フルーツタルト一つと……あっ、春見さんもこれ食べたほうがいいですよ」
 橋添が目を細くする。まるで少女のようだ。
「美味しいんですか?」
「いいえ、私も食べるの初めてなんです。これって日曜日限定の商品で、今日を逃したら次はいつ食べるチャンスが巡ってくるかわからないですからね」
 ひょっとして橋添が言っていた「なかなか機会がない」というのは、俺と会うことではなく、タルトを食べることだったのか。
 開いた口がしばらく塞がらなかった。

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『赤い糸をたどって』 第十五回 

赤い糸をたどって

 それを皮切りに、朝、昼、夕方、そして夜と、最低でも一日四回は山上からメールが届くようになった。内容はと言えば、挨拶と雑談がほとんどだった。四六時中ケータイと睨めっこしているわけではないが、さすがにこれだけ頻繁に送って来られると辛いものがあった。婚活の一つとして割り切るつもりだったが、やはり言うべきことは言ったほうがいいだろう。

『山上さんに一つお願いがあります。メールを送ってきてくれるのはとても嬉しいのですが、もう少し回数を減らしていただけると有難いです。返事は時間ができたときでいいと言われても、性格上すぐに返さないと気が済まないほうなので、他にやるべきことを後回しにしてしまうんです(融通の利かないダメな人間です)。気を悪くされたらゴメンなさい』
 水曜日の夜、夕食を終えてすぐにそういった内容でメールを送った。
 しばらくして返事が来た。
『ゴメンなさい。確かにちょっとしつこいかなって気はしていました。本当にゴメンなさい。控えるようにするので、このままお断りだけはしないで下さいね』
 何をビビっているんだ。
『大丈夫です。このくらいのことではお断りしません。笑』
『良かったです。そうそう。今度の日曜日は空いていますか? 特に予定がなければ、また会ってもらえませんか?』
 予定はないし、会おうと言ってくれるのは有難いことだ。進むにせよ、退くにせよ、会わなければ決めようがない。
 詳細は土曜日の夜に決めることになり、ケータイは沈黙した。
 胸を撫で下ろし、風呂に入ろうかと思ったところで、再びケータイが鳴った。
 まだ何かあったのだろうか。
 メールを確認すると、橋添だった。
『こんばんは。春木S。私のお気に入りに「ぷろヴぁんす」って洋食料理のお店があるんですけど、今日そこに行ってきました。今度一緒に行きましょうね!』
 あの……春木じゃなくて、春見なんですけど……それにそのお店には一緒に行ったことがあるんですが……あと「S」って何なんですか?

 小


 金曜日の夜、山上とどこへ遊びに行くのかを決めることになった。前回は食べに行く店を決めておらず、少々バツの悪い思いをしたので、今回はいくつか候補を用意しておいた。ところがそれもうまくいかなかった。
『ゴメンなさい。そこは行ったことがあるんです』

『そこもなんです』

『本当に申し上げにくいんですけど、そこも最近行ったばかりで……』
 そんな具合に、俺の案はことごとく却下されたため、『それじゃ、山上さんの希望を聞かせて下さい』とメールを返した。
 正直いい気分ではなかったが、そうしないと一向に話が進まない。
『ショッピングモールに行きませんか?』
 何とも意外な答えだった。というより、腹が立った。
 俺の案に対しては「そこへは行ったことがある」の一言で片付けたくせに、自分の出してきた案は、今や歩けば当たるほど、どこにでも建っているショッピングモールなのか。
 もう何だか面倒臭くなってきたので、『それでいいです』と返事を送った。

 小

 当日、前回と同じ駅のロータリーに、やはり山上が車で迎えに来てくれた。時刻は午後一時過ぎ。お互い昼食は済ませてある。
 例えば、最近、できたばかりだとか、激安店ばかりが軒を連ねているとか、そういうのがあれば、まだ納得できたのかもしれない。ところが山上が行くつもりだったのは、比較的近所にある、しかも開業したのはもう十年近く前の、これと言った目玉のないショッピングモールだった。強いて特徴を挙げるなら、海が見えるということくらいだ。ただし、恋人たちが愛をささやき合うのに相応しい美しさとは言えない。
 予想以上に退屈しそうな展開に力が抜けてしまい、助手席に体がめり込んでいきそうになった。欠伸が出るのを必死で堪えた。
「眠いですか?」
 山上に突然そう尋ねられて、慌てて姿勢を正した。
 気付かれていたらしい。
「すみません。昨日、寝るのが遅かったもので……」
 嘘だ。
「春見さんは仕事の帰りが遅いですもんね。テーマパークとかだとゆっくりできないかなと思って、ショッピングモールにしてもらったんです」
 そういうことだったのか。
 ひょっとすると、新しくできたところや激安店の多いところだと人が溢れ返るため、敢えて少し寂れたところを選んでくれたのかもしれない。
「着いたら起こしますから、寝ていてくれていいですよ」
 優しい言葉だ。嘘をついてしまったことに心が痛み、それ以降は少し前向きに会話を楽しもうという気持ちになった。
 
 駐車場に車を止めた後、一階から順に店を見て回った。女性の買い物につき合うのは正直苦手だが、結婚すれば日常的にしなくてはならなくなる。これもある意味、婚活の一つだ。
「ここ、入っていいですか?」
 山上に誘われて入ったのは、全国にチェーン店を展開する、カジュアルファッションの店だった。価格はリーズナブルで、幅広い年齢層が手軽に着こなせるものを取り揃えてある。
「春見さんはいつもどんな服を着ているんですか?」
 棚に並んだ服の一つを手に取りながら、山上がちらりと俺の顔を見る。
「大抵は今着ているようなカジュアルな感じのものかな。ここの店で買うこともありますし……そもそも社会人になってから普段着というのがあまり必要なくなってきました」
「日頃はスーツで通勤ですか?」
「はい。会社では社名入りの作業服を着ています」
「じゃあ、高いものは買わないんですか?」
「それなりのものを買って、長く着るほうです。もしくは値下げ率の高いものを買うとか」
「買い物上手なんですね」
「そんなに頻繁に買うわけじゃないですけどね」
 そうは言いながらも、褒められて悪い気はしなかった。
「山上さんはどうなんですか? ブランドものとか好きだったりするんですか?」
 そこは是非知っておきたいところだ。誕生日のたびにブランドの鞄やら財布をねだられても困る。
「ブランドへのこだわりとかはあまりありません。ボーナスが出たときなんかに頑張った自分への御褒美で買ったりする程度かな。それも毎回じゃありませんし」
 うん。悪くない答えだ。

 その後はインテリアと生活雑貨の店に入った。専門店より品数は少ないが、ソファや棚などは雑貨とうまく絡めて、客の販売意欲をそそるようレイアウトされている。
「春見さんは将来、御両親と同居されるつもりですか?」
 この質問に対する答えは、割と神経を使うところだ。両親との同居を望まない者はやはり多い。
「今はまだそこまで考えていないというのが正直な意見です。ただ、両親も嫁さんに気を使って生活するのは嫌だと思うし、始めから同居は望まないんじゃないかな。それでもできるだけ近くに住むに越したことはないと考えていますけど」
 自分で言いながら、そういうことを意識する年頃になったかと、改めて認識した。
「山上さんは同居に抵抗がありますか?」
 断固拒否という場合もある。山上とこれからどうなるかはまだわからないにしても、はっきりさせておいて損はない。
「もちろん、喜んで……というわけではないですけど、必要なら構わないです。あっ、でも御両親との相性にも依るかな……とだけ付け足しておきます」
「それはそうですよね」

 モール内の店を一通り見終えると、フードコートでお茶を飲むことにした。
 窓際に腰掛けると、海を見渡すことができる。視界に入るのは、白い砂浜ではなく、高速道路の吊り橋と点在するビル、そして漁船がほとんどだ。しかしその隅っこにただ一つ、このロケーションに相応しくない建物が建っている。
「あれって、教会ですよね?」
 俺の指差す方向へと、山上も視線を移した。
「はい。結婚式場があるんです」
「以前から?」
「そうですよ」
「ここには随分前に来たことがあるんですけど、全然記憶にないです」
 自分の注意力のなさが、少し恥ずかしくなった。
「多分、結婚なんて意識していなかったからじゃないですか?」
「そうかな」
 山上のフォローに頭を掻くしかなかった。
「海が見えるって言っても、こんなところですから……あまり人気はないみたいですけど、料理はとても美味しいって話ですよ」
「へえ、そうなんですか? 山上さんってそんなふうに結婚式場を調べたりしているんですか?」
「そういうわけじゃないです」と、山上は右手を振って俺の言葉を否定した。
「同僚の友達があそこで式を挙げたらしくて……要するに又聞きです」
「演出も大事ですけど、やっぱり料理は美味しいほうがいいですもんね」
「はい。春見さんはこういう式がしてみたいとかってあるんですか?」
 この辺りが男と女の考え方の違いだろうか。正直言って、俺は式にはあまり興味がない。それより新婚旅行の行き先のほうが悩みそうだ。 
 もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
「あまり派手なのはちょっと……って感じです。人並でいいと思うんですけど、やっぱりその辺りは話し合って決めるべきかなと」
 盛大にやってすぐに離婚というのはカッコ悪い。いやいや、始めから離婚を想定するのはマズイだろう。
「じゃあ、私と同じ考えですね」と、山上は満足げに何度も頷いていた。
 相手を選ぶための判断基準としてはこだわり過ぎのような気もするが、彼女にとっては必要なものなんだろう。

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『赤い糸をたどって』 第十四回 

赤い糸をたどって

「他の男性に会われるときもやっぱり車なんですか?」
「そうですね。大抵は」と、山上は前を向いたまま答えた。その横顔をじっと見た。
 とり立てて美人でもなく、ブスでもない。ごく普通のどこにでもいる女性だ。
「運転が好きだからですか?」
「それもありますけど……」
 そう言ったまま、山上が黙り込む。
「どうかしましたか?」
「あっ、いいえ。あの……笑わないって約束してくれますか?」
 何が言いたいのか、さっぱりわからなかった。
「ええ、約束します」
「自分で運転すれば、どこかへ連れ去られることはないかなと思って……」
 山上の発言に吹き出しそうになったが、そこは約束なのでぐっと我慢した。
 ひょっとして男性不信なんだろうか。しかし嘘か真かはわからないが、女性の体を目当てに入会する男もいると聞く。案外笑ってばかりもいられない。
「最近、変な人が多いですからね。用心するに越したことはないですよ」
「そうですよね」
「ドライブってどんなところへ行くんですか?」
「海とか山とか。泳いだり、ハイキングしたりというわけじゃないんですけど、単純に景色を見に行って、それを写真に撮って帰って来ます」
「一人でですか?」
「友達と一緒に行くこともありますけど、一人のほうが多いかな。周りは既婚者が多いですから」
 山上の口調はどこか寂しげだった。一緒に出掛ける相手が減ってしまったことに対してか、それとも自分が結婚していないことに対してか。
「春見さんはドライブとか行かないんですか?」
「仕事で散々車に乗っていますからね。敢えて休みの日まではって感じかな」
「じゃあ、これからは毎回、私が車を出しますね」
「そうですか? それならお言葉に甘えようかな」
 運転は男がするものといった沢口の考えとは正反対だ。それとない言葉だったが、また次も会ってもいいという合図と受け取ってもいいものだろうか。
 しばらくしてファミレスが見つかったので、そこへ入った。
 食事をしながらもお互いのことを尋ね合う時間は続いた。
「春見さんは入会してどのくらいですか?」
「一年と四ヶ月くらいかな。だからもう後がないんです」
 俺が苦笑いをすると、山上も同じように苦笑いで応えた。
「私も似たようなものです。実は私、三姉妹の末っ子なんですけど……」
 紹介状には家族構成は書かれていないため、会話でしか知り得ない情報だ。
「姉二人は随分前に結婚していて、後は私だけです。父も母も七十を過ぎているので、早めに相手を見つけて安心させてあげたいなと思っているんです」
 その口調から山上の切実な思いがひしひしと伝わってくる。
「ブーケトスに入会したのも、そのためなんですけど、現実はなかなか……」
「うまくいきませんよね。僕も同じです」
 だからと言って、「じゃあ、結婚しましょうか」というわけにはいかない。
「実はいい感じに話の進んでいる会員さんがいたんです」
 山上の表情は暗い。話して欲しいと頼んだわけでもないのだが、勝手に話し始めたため、聞くしかなかった。
「ちょうど一年くらい前のことです。年齢も同じで、優しくて感じのいい人でした。結婚に関しても前向きで、将来のことも少し話したりしていました」
 ひょっとして詐欺だろうか。
「でも、去年の三月半ば頃に突然、しばらく会えないと言われました」
「はい」
「その人は海釣りが趣味で、これから温かくなって釣りには絶好の時期になるから、休日はずっと釣りに行きたいということでした」
「それっていつくらいまでですか?」
「秋の終わりまでと言っていました」
「長いですね。メールや電話はできたんでしょ?」
 俺の質問に山上は静かに首を振った。
「多少は……でもメールへの返事はほとんどと言っていいほどなかったですし、電話をしても、留守電にメッセージを入れても掛け直してはくれませんでした」
「一緒に連れていってくれと頼んだりはしました?」
 何だか悩みの相談じみてきたな。
「もちろん、しましたけど、船に乗るし、足場の悪いところだから女の人には無理だと言われました」
 確かにその男の言う通り、一緒に行くにはハードルが高そうだ。
「そんな状態になるので、もしなんなら俺の紹介状は返却してくれということでした。辛い思いをさせるのは目に見えているしって」
 随分と卑怯で、勝手な言い分だ。
 山上が「はあっ」と深い溜息を吐いた。突然の打ち明け話に始めは驚いたが、きっと誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
「そんなことがあったんですか。でも断って正解だったじゃないですか」
「それが……」と、山上がバツの悪そうな顔をする。
「まだその人の紹介状を返していないんです」
「秋が終わってからまた会えたんですか?」
「いいえ。一度も会っていません。連絡もありません」
「だったら、どうして……」
 どう考えても体良く断られていて、相手に結婚の意志などないことは目に見えている。
「期限が来て、もし誰の紹介状もなかったらと思うと怖くて……」
 山上の言っていることがわからないわけでもないが、それが正しいとも思えなかった。紹介状を手元に残しておいたところで、そんな男が「じゃあ、結婚しましょうか」なんて言うはずがない。
「春見さん、私、とにかく早く結婚がしたいんです」
 一変して力強い表情へと変わった山上の気迫に、俺は思わず息を飲んだ。

 小


 月曜日の朝、目を覚ますとどこか体が重たかった。いや、それ以上に重たいのは心だった。
 間違いなく山上のせいだ。俺だって結婚について真剣に考えているつもりだが、何だかそれを口にすることさえ申し訳ない気がした。お互いの結婚に対する考え方に温度差を感じため、断ることも考えたが、入会した理由も明確に答えられない他の会員に比べれば、前向きに結婚を考えている人であることは間違いない。
 もう少し様子を見ようという結論に至った。

 通勤電車の椅子取り合戦に勝利し、僅かな眠りの時間を堪能しようとしているところへ、ズボンのポケットに入れたケータイが震えた。
 山上からのメールだった。
『おはようございます。昨日はどうもありがとうございました。私は今、会社に着いて制服に着替えたところです。春見さんはまだ通勤途中ですか?』
 質問で終わっているため、無視するわけにはいかない。
『はい。電車の中です。月曜日の朝は憂鬱ですね。それはともかくとして、今日から一週間頑張りましょう』
 朝一のメールだし、山上もこれから仕事だ。この程度の内容で切り上げるのが無難だ。間もなく、山上から返事が来た。
 きっと『頑張りましょう』で終わりだろう。
 そう思いながらも、念のため開封してみた。
『電車の中ですか。ゴメンなさい。どのくらい電車に乗るんですか? その時間はメールを控えたほうがいいですよね?』
 そこまでわかっていながら、なぜ質問を続けるのか。
『二十分くらいです。やっぱり電車の中ではそうするのがいいでしょうね』
 返事を送ったところで、降りるべき駅に電車が到着した。せっかく座れたというのに、眠ることは愚か、目を閉じることさえできなかった。改札を出ると、また山上からメールが届いた。
『もう電車は降りましたか? 今日一日頑張りましょうね』
 とりあえず、これで話はお仕舞いだと判断して、メールは返さなかった。
 
 小

 昼休み、出先で立ち寄った店で食事をしていると、山上からメールが届いた。
『お仕事お疲れ様です。私は今、お昼を食べ終わったところです。いつも同僚(と言っても、私より若い女の子ばかり。苦笑)たちと一緒にお弁当を食べています。春見さんの今日のお昼は何でしたか? いつも一人で食べているんですか?』
 なぜ急に積極的にメールを寄越すようになったのか。
 昨日抱いた山上の印象では、人を騙したり、狡賢く立ち回りができたりするほど器用な女性には見えなかった。深読みせずに考えるなら、気に入られたということだろう。

 午後五時三十分頃、またメールが届いた。
『今、仕事が終わって、帰りです。春見さんはまだお仕事ですよね? 家に帰って落ち着いたらメール下さい。春見さんともっとお話ししたいので』
 ほんの一瞬だが、眩暈を感じた。

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『赤い糸をたどって』 第十三回 

赤い糸をたどって

 橋添の案内してくれたのは、「ぷろヴぁんす」という名の店で、白い壁に赤茶色の洋瓦の屋根を乗せたカワイらしい外観をしていた。店先のプランターに植えられたオリーブの木に木製の縁がついた黒板がぶら下がっていて「本日のシェフのオススメは心も体も温まるまろやかパンプキンシチューです』と白チョークで書いてある。女性ウケしそうなので、別の誰かを連れてきてもいいなと、 橋添には口が裂けても言えない考えが頭を横切った。
 店内は暖色系のライトで演出され、落ち着きのある雰囲気になっていた。美味しそうな匂いが漂ってきて、思わずフゴフゴと豚のように鼻を動かしてしまいそうになった。
 時刻が夕食時ということもあり、二十分ほど待たされて、ようやく一番奥の席に座ることができた。シェフのオススメと橋添のオススメ、どちらを選ぶか悩んだが、ここはやはり橋添オススメの「美味しさうわのせ目玉焼きハンバーグ」を注文した。彼女も同じものを頼んだ。
 これでゆっくり話ができる。
「ピアノはいつ頃から習っているんですか?」
 橋添の自己PRには、将来はピアノの先生になりたいと書いてあった。
「幼稚園の年少からです」
「それじゃもう二十年近くやっているってことですか?」
「はい。そうなります」
「本当に好きなんですね。今も発表会に参加したりしているんですか?」
「もちろんです。年に数回ですけどね」
「でもどうしてすぐにピアノの先生にならなかったんですか?」
 そこへセットのポテトサラダが二人分運ばれてきた。もうすでに腹は充分過ぎるほど減っていて、先にサラダだけでも食べたい気分だが、橋添が手をつけないので我慢することにした。
「学校や楽器メーカーの経営する音楽教室から求人募集はあるんですけど、とても競争率が高いんです。腕もコネも両方とも必要で、私にはちょっと難しいかなって」
 橋添がペロッと舌を出して照れ臭そうに笑った。「カワイイなあ」と思わず頬が緩みそうになった。
「だから自宅でピアノ教室を開くつもりなんです。だけど収入にはあまり期待できないので、主婦と兼業でやれたらなと……」
 なるほどそういうことか。
 橋添の考えが読めた。
「それで早く結婚したいと思っているわけですか」
「あっ、バレちゃいました?」と、橋添は無邪気な笑顔を見せた。
 何とも正直な子だ。となると、家はやっぱり一戸建てか……防音壁のついた部屋がいるよな。それにピアノって一体いくらくらいするんだろう。
 頭の中で答えの出ない試算をしていると、ようやく美味しさうわのせ目玉焼きハンバーグが運ばれてきた。「いただきまあす」と橋添が手を合わせたので、俺もそれに倣った。鉄板がジュージューと心地良い音を立てている。ハンバーグの上に乗せたナイフが吸い寄せられるように中へ入っていった。切り分けたものをフォークで刺して口へ運ぶと、見事に絡み合った肉汁とソースの味が溢れんばかりの勢いで口の中に広がった。
「うまい!」
「そうでしょ? 卵の黄身を潰して一緒に食べるとまた格別なんですよ!」
 橋添はまるで自分が作った料理であるかのように誇らしげだ。会話も忘れて俺はハンバーグを食べ続けた。
「そう言えば、春見さんはギターが趣味でしたよね」
「んぐっ!」
 ハンバーグが喉に閊えた。
「あっ、大丈夫ですか!」
 右手を上げて「待った」の意志を示して、俺は水の力でハンバーグを喉から胃へと通過させた。
「ゴ……ゴメンなさい。あまりに美味しくてついついガッついてしまいました……そうですね。趣味というほどではないですけど、少しは弾けます」
 嘘だ。最後に触ったのは確か五年前……いや、七年前か。梅田に言われた通り、昔やっていたものを趣味の欄に書き加えただけだ。
「じゃあ、セッションもできますね」
「だといいんですけど……」
 帰ったらクローゼットの奥から引っ張り出すか。
「そうそう。早く結婚したい理由はそれだけじゃないんですよ」
「と言うと?」
「子供ですよ。私、子供が三人は欲しいなって思っているから、できるだけ若いうちに一人目を産みたいんです。やっぱり歳をとればとるほど出産はキツイって聞きますからね」
 年齢ばかり気にしていたが、結構現実的に結婚を考えているようだ。
「後、犬も三匹飼いたいですね。ミニチュアダックス」
 俺の頭の中に若槻の顔が浮かんだ。
「三匹もですか?」
「はい。だって子供たちが一人一匹ずつ散歩させているのって見ていてカワイイじゃないですか?」
 前言撤回! やっぱり若いよな。この子。
 その後も、ところどころ「それはちょっと違う気がする」と言いたくなる話も聞かされたが、少なくとも結婚を前向きに考えていることだけは伝わってきた。

 橋添と別れてマンションへ帰ると、午後十時前だった。とりあえず『今日はありがとうございました。目玉焼きハンバーグとても美味しかったです。違う料理も是非食べてみたいです。また行きましょう』と、お礼のメールだけは送っておき、風呂に入った。
 風呂から出てメールをチェックしてみたが、返事は届いていなかった。無事に帰れたのだろうかと少し心配だったので、しばらくテレビを見ながら眠らずに待っていた。
 いつまで経っても一向に返事が来ないので、「きっと読んでいないだけだろう」と割り切って、寝ることにした。

 小

 ブーブーと枕元のケータイが振動する音で目が覚めた。ランプの部分がチカチカと点灯を繰り返している。目覚ましにセットしたアラームではなく、メールだった。
 時刻は午前三時。ディスプレイの光が眩しい。
 送り主は橋添。ぼんやりする頭をどうにか活動させてメールを開封した。
『こんばんは。今、ケーブルテレビでミニチュアダックス特集やってます。メッチャカワイイです!』
 すみません……うちのマンション、ケーブル契約していないんです。
 返信することもできぬまま、俺は再び深い眠りへと落ちていった。
 
 小

 翌週の日曜日、橋添とは別にメールをしていた、山上栄子という四つ年上の女性会員と会うことになった。山上や橋添以外ともメールのやりとりだけはしていて、少しずつスケジュールがハードになり始めていた。これが必ずしも実を結ぶとは言い切れないが、何もないよりはずっといい。
 いつものようにどこかの駅で待ち合わせをするつもりだったが、山上のほうが「私の車で迎えに行きます」と申し出てきた。そう言えば、趣味の欄に「ドライブ」と書いてあった。
 さすがに最寄りの駅まで来られて、近くに住む若槻と出くわすのも嫌だったので、少し離れた駅のロータリーを待ち合わせ場所にしてもらい、昼食を一緒に食べることにした。
 
 俺が到着したときには、山上はすでに待機していた。車種とナンバープレートを事前に聞いていたので、間違えることはなかった。白い軽自動車は手入れがよく行き届いているらしく、とても綺麗だった。フロントガラス越しに会釈を交わした後、助手席側のドアに近づくと、パワーウィンドウが開いた。
「春見さんですか?」
「そうです」
 助手席のドアロックが外れる音がした。
「どうぞ、乗って下さい」
「失礼します」と断って、俺は助手席に乗り込んだ。今までにないパターンなので少し戸惑う。車内もとても綺麗で、芳香剤のいい香りがした。やはり女性の車はこうであって欲しい。
「お昼、どこで食べるか決めてありますか?」
 その口調はとてもハキハキとしたもので、責められているような気さえしてしまう。
「すみません。今回、車ということで、いつもと勝手が違うので決め切れなかったんです。駐車場のこととか、どの辺りまで行っていいものかとか」
「尋ねて下されば良かったのに……」
「そっ、そうですよね。気が回らずにすみません」
 頭を下げるしかなかった。また相手に主導権を握られる形になった。
 何だかやりにくい人だ。初めてなんだし、話し合って決めればいいかと思っていたが、やはり店くらい決めておくべきだったんだろうか。ひょっとしたら今まで断られ続けてきた原因はそこにあったとか。
 一人反省会を開いていると、山上が「ファミレスでもいいですか?」と尋ねてきた。
「はい。構いません」
「それじゃ、適当に探しますね」
 山上が静かに車を発進させた。行き先が決まったのと、彼女が高級志向ではないことに胸を撫で下ろした。結婚相手を決める要因として、そういうことは大切だ。ファミレスを選んだことを責めるような相手では先行きに辛いものがある。

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『赤い糸をたどって』 第十二回 

赤い糸をたどって

 有料オプションAへの申し込み効果はちゃんと出た。正月休みが終わり、仕事が平常業務へと落ち着き始めた頃、続々と女性会員の紹介状が届くようになった。年齢は二十歳から四十歳までと幅広いが、有難いことに俺のストライクゾーンである、二十代後半から三十代前半が特に多かった。
 遠方からの申し込みもいくつかあった。新幹線やフェリー、あるいは飛行機を利用しなければ会えないような所だ。申し込みをしてくれたのは嬉しいが、うまくいく自信がないのでお断りすることにした。
 遠距離はともかくとして、今回は選択の基準を少々下げることにした。時間も限られているし、もはや贅沢を言える立場ではない。それに「お受けします」といい返事を送ったところで、断られてしまう可能性もある。いや、これまでの傾向を考えると、むしろそっちのほうが多くなるに違いない。どうするべきかを悩んだときは、とりあえず「お受けします」を選んだ。

 そうしているうちに一月も終わりを迎えた。この一ヶ月で届いた紹介状は、オプションA効果によるものが全部で十六通。そのうち十人と、会員検索とブーケトスの紹介分九人を合わせて、合計十九人に申し込みをした。
 このうち四人からは「よろしくお願いします」とメールが届き、十三人からはお断り。残りの二人は未だ連絡なし。
 返事の遅い者からいい結果が出るとは思えない。お断りと見なして間違いはないだろう。それでも新たに四人と繋がりができたことは立派な収穫だ。二月、三月とオプションAは有効なため、少しは期待してもいいだろう。うまくいく保証などないが、ほんの少し気持ちが楽になった。

 二月一日。会社から帰ってきてポストを開くと、また新しい紹介状が届いていた。
 封筒の厚みから察するに中身は一通だろう。どんな女性だろうかと、期待は高まる。すぐにでも開封したい気持ちを抑えて、先に着替えを済ませた。
 床に腰を下ろし、こたつに足を突っ込んで待ちに待った開封の瞬間を迎える。そこまで勿体つけるのは期待の気持ちとがっかりしたくない気持ちの両方からだ。
 紹介状まで誤って切ってしまわぬよう慎重にハサミを使って封筒を開いた。紹介状の写真を見た瞬間、心臓が大きく一つ跳ね上がった。女性の名前と写真を何度も見直し、続けて勤務先を確認してみたが、やはり間違いない。
 若槻だった。
 まさか彼女がブーケトスの会員だなんて……。
 思わぬ事態に少々戸惑いはしたものの、俺だってこうして誰にも内緒で婚活しているわけだし、若槻が同じことをやっていても何ら不思議ではない。
『仕事と私生活、どちらもすっかり落ち着いてしまい、このまま独身でもいいかと思っていましたが、やっぱり結婚に対する憧れが強くなってきました。素敵な男性と出会って、カワイイ子供を産んで、楽しい家庭を築きたいと思っています。こんな私ですが、どうぞよろしくお願いします』
 自己PRにはそう書かれている。趣味は『ペット(ミニチュアダックス)』『お菓子作り』『料理』 

「私、彼氏なんて別にいらないんです」

 いつも言っているその言葉を鵜呑みにしていたが、あれはゴチャゴチャうるさい同僚たちを寄せ付けないための嘘だったというわけか。
 うちの営業所は結婚して落ち着いている連中が多く、皆、変化のない日常に退屈を感じている。そのため、他人のスキャンダラスなネタに敏感だ。特に色恋沙汰は大好物で、必要以上に食いつきが良い。もし俺たちがつき合うことになって、それを知られたら「昨日はどこへ行った?」とか「いつキスした?」とか、果ては「昨日はセックスしたのか?」とか……恥じらいや遠慮などそっちのけで根掘り葉掘り尋ねてくるのは目に見えている。
 シャイな若槻がそれに耐えられるとは思えない。
 紹介状の「お断りします」の欄にレ点をつけて、ブーケトスの返信用封筒に入れた。
 若槻は嫌いじゃないが、彼女のためにもこうすることがベストだ。

 小

 自分の紹介状が同じ職場の男に届いたことなど知るはずもない若槻は、昨日までと何ら変わりがなかった。
 若槻は入会してからどのくらい経っているんだろう。もうすでにいい男を見つけたんだろうか。俺に紹介状を送ってくるくらいだから、まだそこまでは行っていないのか。いや、単なる保険としての申し込みだったのかもしれない。
「……見さん、春見さん」
 自分の名前が呼ばれていることに気が付いた。
「はい」
「私の顔に何かついていますか?」
 他でもない若槻だ。
「あっ、いや、そんなことないよ。どうして?」
「だって私の顔をじっと見ているから」
 若槻が頬を膨らませた。少し怒っているように見える。
「それは春見が若槻にホの字だからじゃないからかな」
 俺が弁解する前に、また牛島が口出ししてきた。
「今時、ホの字って……つまらないこと言わないで下さい。若槻さんが困っているじゃないですか」
 若槻の顔はすでに真っ赤だった。
「恥ずかしがることないだろ。お前たちがくっつくのは、先輩の俺としても大歓迎だ」
 牛島が冷やかしの種が増えることを喜んでいるのは明らかだ。
 そんな言葉を誰が信じるか。
「私は別に……」
 消え入るような声で呟いて、若槻はそそくさと逃げていった。
 若槻の中で俺は恋人や結婚相手としてセーフかアウトか。一体どちらなんだろう。
「おい、春見。お前も顔が赤いぞ」
 牛島が心底楽しげに笑っていた。
 やっぱり若槻の申し込みはお断りにしておいて正解だった。

  小

 久しぶりに新しい女性と会うことになった。大抵の女性は最初の連絡から数週間はメールで様子見をするが、この橋添恵理佳という女性はニ、三度メールをやりとりしただけで「会いませんか?」と切り出してきた。もちろん、時間のないこちらとしては有難い話だった。
 彼女の年齢は二十三歳。昨年、音大を卒業したばかりのようで、今まで会った女性会員の中では一番若い。正直、話が合うかもよくわからないが、せっかくできた縁だ。ここで切ってしまうのは勿体ない。
 橋添は宝石店に勤めていて、休日はローテーションでとることになっているらしい。入社一年目ということもあって、土日や祝日は休み辛いため、「会うなら平日で」とお願いされた。俺のほうは週の真ん中である水曜日なら都合がつき易いということで、仕事を早めに切り上げて、夕食を一緒にとる約束をした。
 
 橋添の指定してきた待ち合わせ場所は、彼女の自宅に近い繁華街にあるケータイショップの前だった。俺の帰り道とは全く正反対で、最初から主導権を握られるような形となった。まあ、この程度のことで文句は言っていられない。
 待ち合わせ場所に着いたのは今日も俺が先だったようで、橋添らしき女性の姿は見当たらなかった。大抵の者は明日も仕事のはずなのに、辺りは人でごった返している。平日の夜にこの混雑ぶりは気が滅入る。ここへ来た目的も忘れて、「早く帰りたい」とぼやきそうになっていた。これだけ人が多いのだ。ひょっとすると、ケータイショップの前ではなく、少し離れたところにいるのかもしれない。
『今、どちらですか? こちらはもう着きました』とメールを送ると、『私も着いています』と返事があった。
 一体どこだろう。
 キョロキョロと辺りを見回すと、一人の女性が俺と同じように右へ左へと視線を泳がせていた。
 目が合った。
(あっ、この人だ)
 お互いにそう思ったようで、俺と彼女は同時に頭を下げた。
 
 橋添が近所に美味しい洋食料理の店があると言うので、俺はそれに従った。「中でも目玉焼きの乗ったハンバーグがオススメなんです」と、彼女ははしゃいだ。話し方や服装、そして体中から発する空気が、今まで出会ってきた女性とは違う。
 とにかく若いのだ。普通ならば、まだまだ自由な時間を満喫したい年頃のはずなのに、なぜ結婚情報センターなんかに入会しているんだろう。俺にはそれが不思議で仕方がなかった。ひょっとすると、今は結婚するつもりはなくて、将来のことを見据えて相手を探しておく考えなのかもしれない。
 俺のほうも別にそれで構わない。要するに婚約者なり、結婚を前提としたおつき合いをする女性を期限内に見つければいいのだ。退会後すぐに結婚する必要はない。

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『赤い糸をたどって』 第十一回 

赤い糸をたどって

 そこで冬月が店員呼び出しボタンを押してくれた。
 意外と気が利く奴だ。
「結婚願望のない女なんて今はいっぱいいるよ」
 冬月が決め台詞のようにそう言って、四杯目のビールを飲み干すと、ちょうどいいタイミングで店員がやってきた。冬月は「生」と自分のお替りだけ注文して、「最近は……」と話を続けた。
 別に俺に気を利かせてくれたわけではなかったようだ。立ち去ろうとする店員の背中に、俺も慌てて追加のビールを注文した。
「女の社会的地位は上がっていて、下手すりゃ男より稼いでいるんだからさ、男に頼る必要なんてないんだよ。お前が言うように歳をとってから寂しいのなら、将来は老人ホームにでも入るよ。そうすりゃ友達もできるし、一人寂しく死んでいくこともない」
「女は面倒」というのは冬月の口癖だ。彼が自分で老人ホームの入所届に記入をしている姿は容易に想像できる。
「例えば、俺みたいに結婚はしないけど、ずっと同棲って方法もある」
 そう口を挟んできたのは、中途ハンパ独身貴族の夏木だ。今の恋人と二年近く一つ屋根の下に暮らしながら、結婚はしないことで双方同意しているらしい。
「共同出資で何かを買う場合は割り勘で、それ以外に関しては基本的に財布は別。時間の使い方だって夫婦ほどシビアじゃない。法的な義務は発生しないし、別れるときに面倒な手続きもいらない」
 得意げに語る夏木に、俺は少々苛立ってきた。
「まるで別れることが前提みたいじゃないか。なあ、秋山?」
「……まあな」
 秋山はメニューと睨めっこしたままだ。俺の形勢が不利なまま試合は続く。
「例えばの話だよ。そのまま一生を共にしたっていいんだからさ」
「子供はどうする? そっちも作らないこと前提か?」
「別にどちらかの戸籍に入っていれば法的に問題ない。金のことは認知って形にすればいい」
「それって子供がかわいそうじゃないか? そんな事情を理解できるって一体何歳なんだよ」
「ムキになるなよ、春見。これも例えばの話なんだよ。俺が言いたいのは必要以上に結婚って制度に拘らなくたっていいんじゃないかってことだな」
「別にムキになってない」
「まあ、飲めよ」と冬月がニヤつきながらジョッキを差し出してきたが、俺はそれには応えなかった。
 あっ、やっぱりムキになってるかな。俺。
 ひとまず大きく深呼吸をする。
「まあ、冬月みたいに完全な独身貴族は置いといて……結婚は男女の関係における一つの区切り、もしくはけじめみたいなもんじゃないかな。苗字も同じになって、これから家族としてやっていくんで、世間の皆様よろしくっていう決意表明だよ。そうなると、しっかりしなきゃって気持ちになるだろ。そうだよな、秋山?」
「……まあな」
「お前、さっきから『まあな』しか言ってないじゃないか。唯一の既婚者として何か言ってやってくれよ」
 秋山がようやくメニューから目を離し、顔をゆっくりと上げた。微笑み一つない真面目腐った表情で、俺たち独身三人組の顔を順に見ていった。最後に目の合った冬月が「どうした?」と遠慮がちに尋ねた。秋山は再び視線をメニューに落した。
「俺……離婚するんだ」
 秋山の突然の告白に残り三人全員が「えっ?」という言葉を口にした。その後、しばらく沈黙があり、最初に口を開いたのは秋山自身だった。
「結婚してアイツと一緒に暮らすうちにさ、違うなって思うようになっていったんだよ」
 俺の体が自然と前に出ていた。
「違うって、何が違うんだよ」
「一言で言えば、嫁に失望した」
 秋山の答えに、冬月が鼻を鳴らした。
「失望って……お前、嫁さんに何を期待していたんだよ」
「別に大したことじゃない。結婚前と同じように二人で仲良く暮らすことと、いつまでも綺麗で女らしくいて欲しかっただけだ」
「何、女みたいなこと言っているんだよ」
 冬月が再び鼻を鳴らすと、秋山は「お前は何もわかっていないよな」と、冬月を憐れむように言うと、目を閉じて首を横に振った。
「いいか、女はな、俺たちが思っている以上に現実的で冷めているものなんだよ」
 そう言えば、沢口も同じことを言っていた。
「誕生日に何かしても喜んでくれないし、どこかへ行こうって誘っても金がないって言われる。映画はレンタルだし、セックスは排卵日だけだ。基本はすっぴんで、化粧は冠婚葬祭のときだけ。体重は上昇カーブで、俺の前で屁だって平気でこく」
 オブラートに包まれることなく出てくる秋山のカミングアウトに俺たち三人は呆然としていた。
「ドラマや映画みたいにロマンチックなものなんかじゃないんだよ。だから春見、結婚には必要以上に期待するな。なっ!」
 秋山の両手が俺の肩にずしりと重くのしかかってきた。体がソファの中へと沈められてしまいそうだった。
「はい。程々にしておきます」
 そう答えるしかなかった。

 小

 新しい年を迎えた。元旦は実家に帰って、両親が百貨店で購入したお節料理を一緒に突いた。実家は俺の住むマンションから車で一時間程度のところだが、帰るのは数ヶ月に一回がいいところだ。
 両親が俺の結婚に関してどう思っているのかというと、今はそれほど口やかましくはない。ただ、時折母の口からは「誰かいい人はいないのか?」という言葉が出たりするし、知り合いにも「いい人がいたら紹介して」と声を掛けたりはしているようで、俺の結婚を望んでいることに間違いはない。父は何も言わないが、恐らく母と気持ちは同じはずだ。
 俺がブーケトスに入会したのは、そんな両親を安心させたいからという理由がないわけではない。
 しかし一番の理由は他にある。冬月の問いかけにもあったが、「結婚に何を求めているのか」と言えば、「在り来たりな幸せ」だと思う。
 結婚して妻と一緒に子供を育て、ちっぽけなことに一喜一憂しながら毎日を過ごし、いずれは死ぬ。
 大抵の人間はそれを望んでいるのではないだろうか。だからこそ見合いをしたり、高い金を払って結婚情報サービスに入会する者がいるに違いない。
 そして俺もその「大抵の人間」の一人というわけだ。

 小

 新年の挨拶と併せて、沢口を初詣に誘ってみたが、「家族と行くのでゴメンなさい」と断られた。
 元々俺には初詣に行く習慣なんてない。男同士や家族でというのは当然のことながら、恋人と一緒にというのもなかった。
 今年に限っては一人で行ってみることにした。実家の近所に割と大きな神社があって、いろいろと調べた結果、縁結びの祈願もできるとわかったからだ。一人ということに全く抵抗がなかったと言えば嘘になる。ただ、警備員の誘導が必要なほど参拝者が多いところだ。他人のことを気にする者などほとんどいないはずだ。

 予想通り、神社の周辺からごった返していて、敷地の中へ入ることさえ一苦労だった。
 縁結びの神様が祭られた賽銭箱にも例外なく人だかりができていた。しかも他の賽銭箱に比べてサイズが小さいため、列を作る形になっている。一人で来たと思われる女性もいたし、男もいた。恋人あるいは夫婦であろう男女もいる。縁結びと言っても、恋愛や結婚に関する祈願だけではなく、子宝祈願や就職祈願も含まれている。
 五分ほど並んで、ようやく俺の番がやってきた。財布から五百円玉を取り出して、賽銭箱へそっと放り込んだ。硬貨と硬貨のぶつかる音が心地良かった。一万円札を入れたい気持ちはあったが、実際に放り込む勇気はなかった。
 目を閉じ、両手を合わせて心の声で神様に願いを伝えた。
(今年こそは結婚を約束できる女性と出会えますように。容姿に関して贅沢は言いません。人並で結構です。ただ痩せ型より少しくらいぽっちゃりしているほうがカワイくていいかな。性格に関しては優しくて思いやりのある人がいいです。あまり口数が少ないのもツライので、そこそこ話し好きがベストです。それと最低限の一般常識を持っているほうがいいですね。他にはお金の管理をしっかりと……)
 後ろから咳ばらいが聞こえてきた。目を開けて振り返ると、若いカップルが険しい顔で俺を睨んでいた。「すみません」と頭を下げ、慌てて彼らに順番を譲った。
 少し離れたところへ移動して、改めて縁結びの神様に向かって手を合わせた。
(その辺りで一つよろしくお願いします)

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『赤い糸をたどって』 第十回 

赤い糸をたどって

 映画館へは俺の車で行くことにした。軽より大きい小型の普通車であまり広くはないが、一応掃除だけはしておいた。車がステータスの一つだなんて、無理して高級車を買う奴もいるが、俺はそうは思わない。特に婚活中なら尚更だ。「今の給料ではせいぜいこの辺りが身分相応なんです」と、それとなくアピールしておくほうが後で楽だ。
 待ち合わせは、沢口の自宅の最寄り駅に午後一時。昼食は各自済ませてくることにした。
 前回と同様、五分前には到着したのだが、沢口の姿は見当たらなかった。辺りにはほとんど車が止まっていないし、車種と色は伝えてあるので、探しているということはないはずだ。
 遅刻で間違いない。
 そのまま五分、十分と時間は過ぎていった。
「またか……」
 独り言と溜息が零れる。
 寒い中、外へ出て待っていると、遥か遠くから沢口が歩いてくるのが見えた。二人の距離が次第に縮まり、視界に入っているのが自分の待ち合わせている相手だとわかるようになっても、沢口が急ぐ様子はなかった。
 すぐそばまでやってきたところで、「こんにちは」と、俺は声を掛けたが、沢口は軽く頭を下げただけだった。今回も遅れてきたことに対する謝罪の言葉はなし。
 車に乗り込んで、カーナビの時計を確認してみると、午後一時二十五分。遅れ具合は前回よりも酷くなっている。ここでネチネチと沢口を責めて空気が悪くなっても良くない。映画の時間までには充分に余裕があるし、とりあえず今回も目を瞑ろう。
 交通手段に車を選んだのは、ドライブも兼ねてだった。
「沢口さんは運転はよくするほうですか?」
「買い物へ行くのに少しです」
「月に二、三回とか?」
「はい」
「家の車?」
「いいえ、軽ですけど、一応私のものです。父が買ってくれました」
 羨ましい限りだが、運転手付きではないことに安心した。
「じゃあ、疲れたら交代して下さいね」
「運転は男の人がするものでしょ?」
 極めて真剣な口調で返された。冗談のつもりだったのだが、沢口には通用しなかったらしい。
「運転中は……というか運転中じゃなくてもいいですけど、沢口さんはどんな音楽を聞くんですか?」
「モーツァルトが好きです」
 ん……そんなバンドいたっけ? 一人だけ思い当たるアーティストはいるが……。
「他にはビバルディもよく聞きます」
「あの……もしかしてクラシックですか?」
「はい」
「普通のポップスとかロックとかそういうのは聞きませんか?」
「はい」
 参ったな。これはついていけそうにない。
 俺が頭を掻いていると、沢口が突然、エアコンのスイッチに手を伸ばして温度を上げた。
 彼女の意外な行動に唖然とした。家族や気心の知れた間柄ならともかく、それほど親しくもない相手の運転する車の機器を、普通勝手に触るだろうか。「温度上げてもらえますか?」と一言言えば済むはずだ。
 沢口の表情は先程までと何も変わらない。「寒いから温度を上げた。ただそれだけ」といった感じだ。
 ようやく彼女という人間が見えてきた。遅刻の件にしても、オニオンリングの件にしても、悪気などない。ただ常に自分のペースを守っているだけなのだ。
「クラシックしか聞かないんだったら、カラオケに行くと困りませんか?」
「別に。私、唄いませんから」
 マイクを差し出されて、あっさりと跳ね退ける沢口の姿が容易に想像できた。
 しかしそんな沢口でも、恋愛に対しては多少の興味はあるのだろう。そうでなければ、わざわざ恋愛映画を観たいなんて言うはずがない。
「今日の映画、ずっと観たいと思っていたんですか?」
「あっ、いいえ、そういうわけでは……他にいいのがなかったので、一番マシなのにしただけです」
 それなら俺は他に観たいものがあったのに。

「それでも私を愛してくれますか」の観客は、若いカップルや女の子同士が多かった。
 映画が始まると、ほぼ満席になった。
「永遠の愛ってどんなものだと思いますか?」というのがキャッチコピーで、イケメンとは少しかけ離れた男優演じる主人公克己が、冒頭でいきなり結婚を約束していた美由紀にフラレる。美由紀役は俺好みの女優だが、はっきり言ってよく知らない。
 帰ったらインターネットで検索してみよう。

 美由紀にフラれ、気持ちの整理ができない日々を過ごしていた克己は、コンピュータの映し出す女の子と話やデートを楽しんだり、触れることまでできてしまう一風変わったサービスを提供してくれる「ヘヴンズガール」という店を知る。
 仮想の世界にすっかりハマってしまった克己の前に、かつての恋人、美由紀が現れる。
 実在するはずの美由紀がなぜ仮想の世界に? 
 なぜ自分のことを覚えていないのか? 
 疑問を残しながらも再び彼女のそばにいられることを彼は嬉しく思っていた。
 物語が進むにつれ、謎の真相が明らかになった。
 コンピュータの映し出す美由紀の姿は保存された脳内データを利用したもので、彼女はすでにこの世の人ではなかった。
 あの日、美由紀が克己に別れを告げたのは、自分に未来がないからだった。記憶を取り戻し、今でも克己を愛している美由紀は、彼のために再び別れることを望んだが、「たとえ死んでいても美由紀は自分にとって最高の人であることに変わりはない」と、克己は「作られた世界」で彼女を愛することを決意した。そして美由紀もそれを受け入れた。

 全く期待していなかったが、エンドロールが流れると、俺も涙を流しそうになっていた。映画の余韻に浸っていると、沢口がすっと席を立った。
「出ましょうか?」
 冷めた口調でそう言い捨てると、俺の返事も聞かずにそそくさと出口の階段へと向かっていった。
 人気のなくなったところで、「面白くなかったですか?」と、沢口に恐る恐る尋ねてみた。
「まあまあかな。恋人が病気でもうすでに亡くなっていたってところが在り来たりですよね」
 製作者に媚びない率直な意見だ。
「後はラストシーン。作られた世界でしか会えない女性とこれからも一緒にいることを選ぶっていうのが、私の中でははっきり言ってあり得ないです。ああ、作りものだなって気がしました」
 障害があることを知りながら、尚も美由紀を愛し続けると決めた克己の選択に俺はひどく心を打たれたというのに、沢口の言葉はそれを真っ向から否定するものだった。
「映画好きの春見さんもそう感じたでしょ?」
 それが当然とでも言いたげ、まさに有無を言わせぬ口調に、「いいえ、感動しました」とは口にできない雰囲気だった。
「そっ、そうっすね」
「女って男の人が思っている以上に現実的なんですよ」
 意外とこの人は恋愛経験が豊富なのかもしれない。
「勉強になりました」
 俺は沢口に向かって深々と頭を下げた。

  小

 クリスマス……というイベントがやって来はしたが、二人きりで過ごす相手も、一緒にケーキを囲う家族もいないため、いつも通り朝から晩まで仕事で終わった。
 それを過ぎると今年も残り数日。あっという間に仕事納めとなった。
 忘年会というほど大袈裟ではないが、十二月三十日は毎年、中学からの親友三人と近所の居酒屋チェーン店で夕食を食べることになっている。皆、忙しいため、四人全員が集まるのは、この夕食会を含めてせいぜい年二、三回だ。職場も違えば、ライフスタイルも違う。例え近くに住んでいても、そう会えることはない。話題と言えば、近況報告か昔話のどちらかだ。
「春見、お前、彼女できたのか?」
 四人の中で最も体が大きく、稼ぎの多い冬月が三杯目のビールを口にしながら、俺にとって痛いところをついてきた。しかし見栄を張る必要もないので、そこは正直に答える。
「いや、未だに募集中のままだよ」
「もう四年くらい募集しているよな?」
「三年だよ」
「そうだったか? まあ、結婚するつもりはないんだから、焦る必要もないけどな」
「おい。ちょっと待てよ。誰も結婚しないなんて言ってないだろう」
 俺の言葉に冬月が目を丸くした。
「えっ、お前、俺が独身貴族の素晴らしさを語ってやったとき、偉く賛同していたじゃないか」
 こいつは時折、物事を自分にとって都合のいいように解釈しようとする。
「それもいいかもしれないなとは言ったけど、結婚しないとイコールじゃない」
「お前は結婚に何を求めているんだよ。金は思い通りに使えないし、自由な時間はないに等しいし、いいことなんてないだろ? 秋山を見てみろよ。ちっとも幸せそうじゃない」
 秋山はルックス良し、頭良し、営業成績良しで、四人のうち唯一の既婚者だ。結婚生活は三年目。
「そんなことないよな? 秋山」
「……まあな」
 秋山は苦笑いを浮かべた。そりゃ百パーセント幸せとは言えないのもわかるが、そこは景気良く「もちろん」と答えて欲しかった。秋山は黙ってネギマを頬張り、我関せずという感じで、俺の援護には加わってくれなかった。
「ずっと一人っていうのも寂しくないか? 今は良くてもやっぱり歳をとってからとかさ。それに女は最終的には結婚を望む人のほうが多いだろ。結婚もなしでいつまでも一緒にはいてくれないんじゃないか?」
 そこで俺は二杯目のビールの残りを飲み干した。興奮しているつもりはないが、今日はいやに喉が渇く。
 追い込まれているからか。

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『赤い糸をたどって』 第九回 

赤い糸をたどって

 十一月も終わりに近づく頃には、高崎を含めた今月の申し込み相手九人全員からのお断りの連絡が届いた。手元にあるのは沢口の紹介状だけで、先月から状況は何も変わっていないことになる。
 沢口には時折メールを送ってみてはいるが、大抵二言、三言でお仕舞いで、彼女のほうから進んでメールを送ってくることはない。やはり彼女には結婚するつもりなんてないのかもしれない。
 沢口のことを非難している場合ではない。このままでは何もないまま会員期間が終わってしまう。今の時点で努力できることをすべきだ。
 手っ取り早いのは有料オプションへの申し込みだ。通常、マイページ上の「会員検索」の対象となるのは、入会三ヶ月までの会員のみだ。つまり俺の情報はいくら検索しても女性の目に触れることはない。
 三万円の有料オプションAに申し込めば、三ヶ月は検索対象に戻ることができる。五万円のオプションBならば、カラーのスナップ写真を一枚掲載することができ、検索対象期間への復帰は五ヶ月間になる。
 容姿にはイマイチ自信のない俺としては、同じお金を出すのならオプションAに二回申し込んで、検索対象期間を六ヶ月にするほうがいい。二回申し込むかどうかは別として、今回はオプションAを選択しよう。
 それに紹介状の写真も変えたほうがいいかもしれない。高崎には写真よりも実物のほうがずっといいと言われた。今、紹介状に使われている写真は、入会時にアドバイザーの梅田にデジカメで撮影してもらったもので、正直いい写真だとは言い難い。
「写真変更は一回目だけ無料だから、いつでも変えてくれていいわよ。とりあえず、今は登録に必要な一枚だけ撮らせてね」
 その「とりあえずの一枚」が現在の紹介状に使用されている。責めるとすれば、梅田のカメラの腕前より、写真変更をせずに放ったらかしにした俺の怠慢だろう。
 自分の手持ちの写真から選んでも構わないが、元々写真嫌いなうえに一人で撮ったものとなると、見つけるのは不可能に近い。友達に撮ってもらうという手もあるが、使用目的が説明できないし、結局は梅田が撮影したものと大して変わらない気がする。
 この際、思い切ってプロに撮ってもらうか。確か入会時に、写真スタジオの割引券が付いたチラシをもらった記憶がある。
 チラシは、ブーケトスに関する資料一式と一緒に仕舞ってあった。A4サイズの黄色い紙に『婚活は写真が命!』と大きな字で書いてある。料金は男性三千円、女性二千五百円。「男性の方に関してはメイクのサービスはございません」と但し書きがついている。
 それにも関わらず、なぜ女性のほうが安いのか。男女平等が叫ばれて随分経つが、未だにこういう差別がまかり通っている。『ブーケトス会員様限定割引券』とたいそうに謳っているくせに、割引額はわずか五百円だ。

 小

 日曜日の午後六時頃、ブーケトスの支社近くにある写真スタジオを目指して、静かに家を出た。服装には散々迷ったが、無難にスーツを選んだ。知り合いと偶然顔を合わせる確率が如何ほどのものかはわからないが、コートのボタンを全部締め、尚且つ数年前に買って一度も使ったことのなかった黒縁の伊達メガネを掛けて行くことにした。カツラも買っておくべきだった。

 店に近づくに連れて恥ずかしさが膨らんでいった。何度か引き返そうかとも考えたが、一時の恥ずかしさでいい結果が出るならと勇気を振り絞った。もちろん、いい結果が出る保証などどこにもないのだが……。
 写真スタジオ「コスモス」は、「足立ビルディング」という五階建ての雑居ビルの二階に店を構えていた。ガラスのショーケースには振り袖姿の女性やタキシードとウェディングドレスの男女、七五三の子供の写真といったサンプルがいくつか並んでいた。正確な写真の良し悪しなどよくわからないが、任せて間違いなさそうな気はした。
「よしっ!」と改めて気合を入れ直して店内に入った。派手なメイクをした若い女性がカウンター越しに俺を出迎え、「いらっしゃいませ~!」と鼻に付く甘えた声を出して、顔全体で笑いかけてきた。
 この人がカメラマンだろうか。
「あの……」
 そこで言葉に詰まった。
 なんと説明すべきだろうか。お見合い写真の撮影とは少し違う気がするし……。
 そうか、割引券を見せればいいんだ。
「これ、お願いします」
 囁くような小さな声になっていた。カウンター脇の長椅子に腰掛けた見知らぬ男女に笑われてしまう気がしたからだ。
 受付の女性は割引券を見ただけで、全てを理解したらしく、「は~い。それでは掛けてお待ち下さいね~」と、俺に椅子を勧めた。「紹介状の写真ですね」と言われなくて助かった。
 こんなところで写真を撮るのは、就職活動をしていた大学四年生の時以来だ。履歴書に貼る写真が「三分間写真」では印象が悪いと、就職センターの部長が言っていた。今の会社に入れたのがあの写真のおかげだったかどうかはわからないが、勝てば官軍。結果が出れば、何とでも言える。今回だってそうありたい。
「春見さん。どおぞ~」
 先程の受付の女性に呼ばれて奥の部屋に入った。狭い空間に長テーブル四つで島を作っており、隅のほうに髪の毛を茶色に染めた二十代前半くらいの男女が四人座っていた。キャアキャアと甲高い声を上げてはしゃぎ回っていたが、俺の姿を見ると急に静かになった。
 客には見えない。外見から察するに、受付の女性の知り合いか何かで、ここはいい溜まり場になっているのだろう。
 俺がブーケトスの会員だということはバレているんだろうな。
「結婚相談所の会員なんだって」
「どうりでモテなさそう」
 そんなふうに笑われている気がして、居たたまれなくなった。
 受付の女性は鏡の前に俺を座らせると、前髪をヘアピンで止め、顔にファンデーションを塗り始めた。
 チラシにはメイクのサービスはないと書いてあったはずだが……。
 予想外の展開に少し慌てたが、口紅やチークとまではいかなかった。髪の毛に櫛が通されて、準備完了となった。
「お待たせしました」と、隣の部屋から白いワイシャツにジーンズといったラフな格好の女性が顔を出した。先程の連中より年齢も上のようで、明らかに落ち着いた感じがする。ショートヘアとナチュラルメイクの組み合わせに爽やかな印象を受けた。
 この人がカメラマンで間違いないだろう。
 照明とレフ板の設置されたステージに上がると、撮影が始まった。
「真っ直ぐに立って下さい。左肩を上げて」
「ちょっとだけ体を斜めに、そうそう。あっ、行き過ぎです。少し戻って」
 カメラマンの女性の細やかな指示に戸惑いながらも、俺は被写体となった。両腕を交差してそれぞれ反対側の肘の下に手を当てるという、普段ならまずしないポーズまでやらされた。
 撮影が終わると、パソコンのモニターで画像を見せてもらい、三十枚撮ったうち五枚を買って帰ることにした。まるで別人とまではいかないが、今まで紹介状に載せてあった写真よりはずっと良かった。 

 小

 十二月に入ると、仕事が急に忙しくなった。「年内完成」、「年内入居」という具合に区切りをつけたがる者が多いため、建築資材がよく売れた。婚活そっちのけで仕事に没頭した。と言いたいところだが、そっちにのけるほど婚活は大変ではなかった。十二月の申し込み分も十日が過ぎる頃には、半分がお断りだった。
 オプションAへの申し込みが有効になるのは来月からのため、今の俺がどうこうできるのは、沢口との関係だけだ。
 休日である土曜日の昼過ぎに、様子見のメールを送ってみた。
『ご無沙汰しています。お元気ですか?』
 返事はすぐに届いた。
『はい。元気です』
『十二月ですし、仕事は忙しいでしょ?』
『そうですね』
 相も変わらずの短文だ。
 断ろうか……いや、まだ結論を出すには早過ぎる。メールに関してはこれが彼女のスタイルなのだ。多分。
『もしお時間が空くようなら、映画でも観に行きませんか?』
 それから一時間以上返事がなかった。
 やはりこういう話は電話ですべきなんだろうか。
 今更、電話を掛けるのも追い立てるようで嫌なので、気長に待つほうを選んだ。
 
 夕食の買い出しに行こうかというところで、ようやく沢口からメールが届いた。
『すみません。今、起きました』
「寝てたんかい!」 
 思わず声に出してツッコんでしまった。しかも映画に関しての返事はない。仕方なしに先程送ったメールをもう一度送った。
『いいですよ。それなら観たいものがあります』
 初めて積極的な言葉を聞いた気がして、どういうわけか少し安心した。
『どんな映画ですか?』
『「それでも私を愛してくれますか」です。恋愛映画ですが、大丈夫ですか?』
 恋愛か……正直、あまり観たいとは思わないが、珍しく沢口が自分から希望を言ってきたのだ。それに応えるくらいの器の大きさは持ち合わせたい。
 予め、上映中の映画館と日程を調べてから沢口に返事を送った。「この日、この映画館で、この時間に」という具合だ。
 沢口からは『それでいいです』と至ってシンプルな答えが返ってきた。万事読み通りに進み、どこか誇らしかった。

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『赤い糸をたどって』 第八回 

赤い糸をたどって

『春見さんにはどこか行ってみたいところがありますか?』
 高崎からのメールだ。昼食後に彼女とメールをするのが、ちょっとした日課になりつつある。締まりのない顔になっていることは、自分でも容易に想像できた。
「何だか最近、機嫌がいいですね」
「はい、どうぞ」と、俺宛のファックスを手渡してくれながら、若槻が白い目で俺を見る。
「何だよ。その目は」
「だって顔がイヤらしいんだもん」
「イヤらしいって……別にいいだろ。嬉しいときくらいニヤけても」
 高崎のメールに対する返信は後回しにして、ズボンのポケットにケータイを仕舞った。
「あっ、もしかして彼女できたんですか?」
 若槻の顔がぱっと明るくなる。
「いや、まだそこまでは……うわっ!」
 いつの間に近寄ってきたのか、俺と若槻の背後から牛が……じゃなくて、牛島がぬっと顔を出していた。
「そうか。春見君。君にもついに彼女ができたか!」
 随分遠くにいたはずなのに、よく盗み聞きしている。
「いや、だから、そんなんじゃないですって」
「別に隠すことはないだろ? なあ、どんな人?」
 馴れ馴れしく肩を組んでくる。
「普通の人ですよ。それにまだつき合っているわけじゃありませんし」
「でもいい雰囲気なんだろ?」
 牛島はまるで自分のことのように嬉しそう……なんて上品なものじゃない。それこそまさにイヤらしいニヤけ面だ。
「まあ、今のところはいい感じですね」
「そうかあ……いいなあ、いいなあ」
 声に力が入っている。本気で羨ましがっている様子だ。
「何言っているんですか。自分は結婚しているじゃないですか」
「そりゃそうだけどさ。結婚して十年以上一緒にいると、飽きてくるというか、新しい恋がしたくなるというか……」
 溜息混じりに、しみじみといった感じで話す牛島の声は次第に小さくなっていった。
「ひどい! 奥さんがかわいそう」
 若槻の口調は冷たい。牛を柵の外に追い払うなら今しかない。
「本当にひどいよな。俺もそう思う」
「うっ……」
 牛島の顔が引き攣る。
「私、こんなことが言える男の妻には絶対なりたくない」
「俺、こんな夫になりたくない」
「なっ、何だよ。お前たち、二人揃って……あっ、そうだ! 俺、銀行に金を下ろしに行かなくちゃ」
 牛島の体が靴に車輪でもつけているかのようにスーッと離れていく。
「今日、嫁の誕生日でさ。プッ、プレゼントは何にしようかなあっと」
 絶対に嘘だろ。

 小

 高崎と植物園に行く約束をした。ショップくらいはあるだろうから、「何か買ってあげよう」というところまでは計画済みだった。
 はっきり言って、俺は植物に関しては何の知識もない。さすがにそれでは高崎に呆れられてしまう可能性もある。
 そのことに気が付いたのは、約束の三日前だ。
 仕事を終えてマンションに帰った俺は、まずはパソコンの電源をオンにした。有名な草花の情報だけでもインターネットで仕入れておくつもりだった。
「春見さんって植物のことに詳しいんですね」
 高崎の俺に対するポイントが上昇する光景が目に浮かんだ。そういう場合、何と答えれば追加ポイントがもらえるだろうか。
「いいえ、詳しいうちには入りませんよ」か。いや、あるいは「まあ、少しは」か。
 どちらも言い方一つで、謙虚にも嫌味にも聞こえる。ここは敢えて「今日のために少し勉強してきました」と、前向きさをアピールするほうがいいか。
 高崎は知ったかぶりをするタイプより、知らないことは知らないと認めるタイプのほうが好きそうなので、やはり三つ目の……。
 そこまで考えたところでケータイが震えて、テーブルの上で騒音を立てた。
 高崎からのメールだ。
 件名は『ゴメンなさい』
 約束の日に急用でもできたんだろうか。
 軽い気持ちで開封して中身を読み始めたが、次第に胸が高鳴っていき、最後には手が震えて「嘘だ」と零していた。
 念のため、もう一度読み返す。
『こんばんは。春見さん。今日も一日お仕事お疲れ様でした。今度の日曜日に植物園へ行くお約束をしていましたが、こちらの都合で行けなくなってしまいました。
 ゴメンなさい。実はこの度、一人の男性会員さんとおつき合いすることになりました。春見さんを含めた他の方にはお断りの連絡をさせていただくと同時に、活動を休止してその方との交際に専念しようと思います。勝手を言って本当に申し訳ありません。短い間でしたけど、ありがとうございました』
「嘘だ!」
 二度目の「嘘だ」があまりに大声だったのに驚いたのか、若槻お気に入りのレッドグラミーが水面から飛び上がった。ポチャンと軽快な音を立てて水中に戻ってからも、しばらくは水槽の中を落ち着きなく泳ぎ回っていた。
 いや、待てよ。このメールは高崎ではなく、沢口からのメールだったのかもしれない。
 深呼吸をして送り主を確認してみたが、間違いなく『高崎美沙子』となっている。
 そりゃそうだ。沢口と植物園に行く約束などしていない。
 もしかすると、高崎は別の会員に送るつもりだったのを、間違って俺に送ったのかもしれない。
 二度目の読み返し。
『こんばんは。春見さん』
 あっ……間違いなく、俺宛だ。
 しかしこんなことで諦めるわけにはいかないと、俺は返信ボタンを押した。
『そうですか。それはおめでとうございます。あの、とても押し付けがましいのですが、こういうのはどうでしょう? とりあえず僕の紹介状は返却せずに高崎さんの手元に置いて頂いて、もし残念ながらその男性と結婚に至らなかった場合に』
 そこまで入力して、俺は手を止めた。
 本当に押し付けがましいよな。
 クリアボタンで全文を消去して、改めて始めからメッセージを打ち直した。
『それはおめでとうございます。お気になさることはありませんよ。結婚までの道のりは長くて大変なことも多いでしょうけど、どうぞお幸せに。こちらこそありがとうございました』
『送信完了』の画面を確認すると、深い溜息が出た。パソコンのモニターには、花の散った桜の画像が表示されていた。

 小

「はあ……」
「また溜息。これで何度目ですか?」
 若槻が呆れたように尋ねる。
「そんなの数えていないよ」
「昨日までのニヤけ顔はどこに行ったんですか?」
「人生ってさ、天気みたいなもんだよな。今日が晴れだからって、明日も晴れだとは限らない」
「まあ、そうですね」
「天気と違って厄介なのは、予報もなしに台風が直撃することだね」
「直撃したんですか?」
「そう。壊滅的」
「フラれましたか?」
「グサッ」
 高崎のことはかなり気に入っていただけにショックも大きかった。しかし考えてみれば、あんな美人で非の打ちどころのない女性と俺がうまくいくはずがない。今のうちに断られて良かったのかもしれない。会う回数が増え、気持ちが傾いていけばいくほど、フラれたときのショックは更に大きくなる。
「あれ? 春見君。何だか元気がないな」
 牛島だ。俺と若槻の会話をずっと聞いていたくせに、今気が付いたかのようなフリがわざとらしくて腹立たしい。
「若槻に聞いたんだけどフラレたんだって?」
「私、何も言っていません」
 若槻の言葉を無視して、牛島の俺に対する横やりは続く。
「まあ、そういうこともあるさ。人生って天気みたいなもので、今日が晴れだからって明日も晴れとは限らないからな」
「それ、俺が言ったんじゃないですか」
「とにかく元気出せよ。お前がそんな顔していると俺まで辛くてな」
「笑っているじゃないですか」
「若槻、俺、笑ってるか?」
「満面の笑みです」
 その後も牛島はチクチクと傷口を針で突き刺すようなことを言ってきたが、適当にあしらっておいた。
 ブーケトスの性質上、今回のようなことは避けては通れない。それは俗に言う「二股」とか「浮気」とかいうものとは全くの別物だ。紹介状を受け取った相手が自分以外に何人とどれだけの関係なのかは、本人の口から語られない限り、わかることはない。
「あなた以外に八人の方と仮交際していて、そのうち三人とは何度か会いました。一人の人とは結構いい感じで、今のところ、婚約に一番近いのはその人です」
 こんな具合に現状を語られてしまうのも嫌だ。
 高崎を責めることなどできない。もしその男より先に彼女が俺と出会っていれば、結果はまた違っていたかもしれない。
 月並みな言葉だが、縁がなかったと割り切るしかない。

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『赤い糸をたどって』 第七回 

赤い糸をたどって

 モール内の飲食店街をぐるりとひと回りした後、高崎にどこか希望の店があったかを尋ねてみた。
「私はパスタがいいです。春見さんは?」
「ちょうど良かった。僕もパスタがいいなと思っていたんです」
「じゃあ、決まりですね」
 こんなふうにきっちりと自分の希望を話してくれると、こちらとしてもやり易い。
「引っ張っていって欲しい」と「自分の意見を言わない」はイコールにはならない。「黙って俺に着いて来い」の亭主関白にしても、百パーセント相手の意思を無視する、単なる頑固親父ではないはずだ。
 多分……。
 席に着いて注文を済ませると、高崎が先に話し始めた。
「毎日、お仕事大変そうですね」
「いや、そうでもないですよ」
「いつも『今、帰りの電車です』ってメールしてくださるじゃないですか? 遅くまで頑張っているなって思っていたんです。建築資材の製造や販売をしている会社に勤めていらっしゃるんですよね?」
「はい。仕事は営業で、具体的には自分の担当の代理店や工事店さんに商品の紹介をしたり、そのためにカタログやサンプルを届けたりします。クレームが出たら現場に行ったりもしますし、力仕事をすることもあります。他にはイベントへの参加などです」
「イベントってどんなことをするんですか?」
「毎年、新商品の出る春頃に、うちみたいな製造メーカーが何十社も集まって展示会をやるんです。会社ごとにブースが分かれていて、来場者の人に商品説明をしたり、パンフレットを配ったり、アンケートに答えてもらったり……などですね」
「就職博みたいなイメージですか?」
「そうそう。あんな感じです」
「なるほど、何となく想像できました。春見さんは大学を出られてからずっと今の会社にお勤めなんですか?」
「はい。そうです」
「今のお仕事が好きなんですか?」
「うーん。どうなんでしょうね。好きというか、合っているというか……」
 正直言って、俺にもわからなかった。ここは「好きです」と答えたほうが好印象だったんだろうか。
「でも継続して同じ会社に勤めていられるっていいことですよ」
「そうかな?」
「ええ」
「高崎さんは今の会社でずっと経理事務を?」
「会社は同じですけど、始めは一般事務だったんです。電話の応対、書類の作成、郵送の手配なんかです」
 若槻の仕事と同じだ。
「そのうちに経理のほうもやってみたいと思うようになって、簿記の資格を取りました。それほど大きな会社ではないですけど、今では経理に関しては、ほぼ任せてもらえています」
「経理をやらせて下さいって、自分から申し出たんですか?」
「そうです」
 高崎はあっさりと言って退けるが、大したものだと思う。新しい仕事に挑戦したい気持ちはあっても、実際に未知の領域へと踏み込んでいくことは、考えている以上に勇気のいることだ。彼女はただの美人ではない。男の俺でさえ圧倒されるほどの向上心と行動力を合わせ持った強い女性のようだ。
 注文したパスタがテーブルに並んだ。高崎は両手を合わせて、小さな声で「いただきます」と言った後、フォークで絡め取った麺を口に運び、「美味しい」と満足げに微笑んだ。
「高崎さんが料理が得意なのは知っているんですけど、何かレシピを見て作られるんですか?」
「普段は作り慣れたものや料理教室で習ったものをメインに作りますけど、時間のあるときはレシピを見て新しいものを作ったりします」
「料理教室に通われているんですか? じゃあ、大いに期待しても良さそうですね」
「あっ、ちょっとプレッシャーかけられちゃいましたね」
 さりげない「あなたが気に入っています」というアピールのつもりだったが、それも上品な笑顔でスルリとかわされてしまった。
 退屈や沈黙を感じることはなかった。高崎は話し上手であり、聞き上手でもある。彼女がとても頭のいい人であることが会話を通じて伝わってくる。

 二時間ほど過ごして、その店を出た。
 今までなら一度目の面会は、食事かお茶を飲んでサヨナラというパターンがお決まりだった。今日も例外なくそのつもりでいたが、高崎の口から思わぬ言葉が出た。
「ここの屋上に庭園があることをご存知ですか?」
「はい。知っています。でも行ったことはありません」
「それじゃ、一緒に見に行きませんか?」
 もちろん、断る理由なんてない。高崎も俺を気に入ってくれたんだと考えていいだろう。そうでなければ、次に誘うはずなどない。
 屋上に向かってエレベータが上昇するのに合わせて、俺の気分も高揚していった。
 エレベータを降りると、一面ガラス張りのホールになっており、建物の中からも庭園を見ることができるようになっている。自動ドアを抜けて外へ出ると、急に冷たい風を感じて、思わず体が縮こまった。
 季節はもう冬だ。葉を落し始めている樹木もあるが、大半は常緑樹のようで、青々としている。屋上全体を縁取るように設置された長方形の陶器のプランターに植えられている花は、開花時期が冬のものばかりらしく、寂しさは感じない。レンガ造りの大きな壁泉から零れ落ちる水は冷たげだが、子供達はお構いなしのようで、溜まった水を手で掬って遊んでいる。
 ぐるりと庭園を一回りした後、ツル性植物の絡んだパーゴラベンチに高崎と並んで座った。足元に敷かれているレンガは俺の勤める会社の商品だ。
「高崎さんもここへ来るのは初めてなんですか?」
「いいえ。もう何度目かわからないくらい来ています。季節ごとに咲く花は違いますし、時折、植え替えもされているようなので飽きないんです」
「本当に植物が好きなんですね」
「はい。大好きです」
 会話をしている間も、高崎の視線は当たりの草花や樹木に注がれている。
「自分でも育てているんですか?」
「はい。マンションなので室内で育てるものが多いですけど、お日様の光が必要なものはベランダで育てています。狭い部屋なのにプランターばかりが増えてしまって……」
 高崎は照れ臭そうに、ペロリと舌を出した。少女のようなその仕草に、心臓が大きく一つ膨れた。
「私ね、結婚したら自宅にガーデニングができるスペースが欲しいと思っているんです。それほど大きくなくてもいいから、プランターではなく、直接地面に植えて育てたいんです」
 長い髪を束ねた高崎が土を掘り、優しく草花を植える姿が俺の頭に浮かんだ。額の汗をシャツの袖で拭い、「大地さん、どう?」と満足げに笑っている。
 うん。悪くない。いや、それどころか最高だ。
「春見さん? どうかされましたか?」
「あっ、ゴメンなさい。それじゃあ、家は一戸建てですね」
「そうなりますね」
 住む地域や土地の大きさ、建物の規模にもよるが、最低三千万……いや、三千五百万円くらいの金は必要だな。
「頑張ってみますね」
「えっ?」
「あっ、いいえ、こっちの話です……高崎さんはなぜブーケトスに入会したんですか?」
「それは入会した理由そのものですか? それとも結婚相手を探す理由ですか?」
「後のほうです」
 親に入会させられたのではないことは、答えを聞かずともわかる。
「今の会社に入って独り暮らしを始めて、家族の温かさを改めて知ったんです。在り来たりな言葉ですけど、喜びや悲しみを分かち合うってよく言うじゃないですか? 楽しいことや辛いことがあったときに誰にも伝えられないことは、意外と寂しいものなんだって」
 独り暮らしや独身は、時間的にも経済的にも自由だ。ただ、そういう毎日が長く続くと、高崎のような寂しさを感じるようになる。
「花のつぼみが開いたことも誰かに教えたいし、お料理だって誰かに美味しいって言ってもらえるほうが作り甲斐がありますから」
 高崎は右腕を曲げて力瘤を作り笑ってみせた。
 どこまでも魅力的な女性だ。なぜ彼女のような人に相手が見つからないのだろう。俺の申し込みをオッケーした時点で「理想が高い」という理由は消える。

 駅に戻り、改札を通ったところで、「今日はこの辺で」ということになった。
「高崎さん、どうもありがとうございました」
 俺の会釈に、高崎も「こちらこそ」と頭を下げた。髪が揺れ、シャンプーの甘い香りがほのかに漂ってきた。
「また会ってくれますか?」
 とても簡単な言葉だし、高崎にはさらりと言ってのけたように聞こえたかもしれないが、俺の胸は張り裂けそうなほど高鳴っていた。
「はい。私もお願いしようと思っていたところです」
「本当ですか? 良かった」
 喜びというより、安堵から自然と顔が綻ぶ。「また連絡しますね」と高崎は手を振り、自分が乗車するホームへと歩いていった。彼女の姿が見えなくなったところで、俺は両手をギュッと握り締めた。
(よしっ! 一次選考通過だ)

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『赤い糸をたどって』 第六回 

赤い糸をたどって

 十一月になり、新たに申し込んだ九人のうち、一人の紹介状が届いた。手持ちの札……いや、紹介状の少ない俺にとっては有難いことだった。
 封筒を開いて、中からピンク色の紙を取り出した瞬間、思わず声が出た。
「カッ、カワイイ!」
 白黒写真でもはっきりと美しさのわかる、髪の長い女性の顔がそこにあった。
 何かの間違いかもしれないと、紹介状をじっくりと見直してみたが、受取人は確かに俺の名前になっているし、備考欄には『あなたの紹介状を見てお受けされました』と記してある。立ち上がって万歳三唱をしたい気分だったが、喜ぶのはまだ早い。就職活動に例えるのなら、まだ書類選考にパスした段階だ。
 高崎美沙子。
 年齢は三十一歳で、職業は経理事務。趣味は植物栽培、読書、料理。
 自己PRは『おっとりしているように見えて、しっかりしていると周りの人にはよく言われます。言葉にしなくても、お互いの考えていることや気持ちがわかる夫婦を一緒に目指せる方を探しています。焦らず、ゆっくりと共に人生を歩み、理想に近付ければいいなと思っています』
 彼女が前向きに結婚を考えているということは疑う余地がない。はっきりとした意志のない者は、結婚後の人生についてなど口にはしない。
 俺の本心は「今すぐにでも会いましょう!」だが、そういうわけにはいかない。ガツガツしているなんて思われたら、そこでアウトだ。「お綺麗ですね」なんて露骨な褒め言葉は避けて、「はじめまして」から始まる在り来たりの文章でファーストメールを送った。

 小

『今、休憩時間中で、コンビニ弁当を食べ終わったところです。高崎さんはお昼はどうされているんですか? 外食ですか? でも料理が好きということなので、きっと手作り弁当でしょうね』
 入力し終えた文章を一度だけ読み返して、メール送信ボタンを押した。ケータイの画面が、羽根の生えた封筒が空を飛ぶアニメーションへと切り替わり、『送信完了』の文字が表示された。
 こんなふうに空き時間を見つけて、時折高崎にメールを送っている。あまり頻繁に送ると煙たがられそうなので、一日に一、二通程度にし、返事が届いたら少し続けるようにしている。
 弁当のゴミを給湯室のゴミ箱へ捨てて席に戻ると、高崎から返事が届いた。
『お疲れ様です。私も今、食事が済んだところです。私は自分でお弁当を作っています。と言っても、本当に簡単なものですよ。春見さんはいつもコンビニのお弁当なんですか?』
 できたら俺の分も作って欲しいです! なんてね。
 自然と口元が綻びてしまったため、すぐに真顔に戻ろうとする。
「楽しそうですね。春見さん」
 後ろから若槻に声を掛けられ、驚きで背筋がピンと張った。メールを見られまいと、慌ててケータイをズボンのポケットに仕舞った。
「隠さなくてもいいじゃないですか」
「別にそういうわけじゃないよ。読み終わったから仕舞っただけだけだよ」
「本当に? さっきのニヤけ顔といい、今の慌てぶりといい、普通じゃなかったな」
 若槻が少し意地悪そうに笑う。
 いつから見られていたんだろうか。
 恥ずかしさで体温が上がる。特に顔が熱い。
「まあ、生きていれば、たまにはいいこともあるよ」
「そりゃ、そうですよね。ねえねえ、春見さん。あれから水槽に魚入れたんですか?」
 若槻が声を潜めた。二人で秘密を共有し合うようで、何だか少し照れ臭くなる。
「うん。でもあの大きさの水槽だと十匹くらいがちょうどいいんだって。数が多過ぎると、水も汚れやすくなるらしいし、魚にとってもストレスになるらしいよ」
「そうなんですか?」
 長髪の店員に言われたように、あの日は魚を買わずに帰った。魚を飼育するためには、まず水作りをしなくてはならないのだ。水槽に水を張り、フィルターを作動させて一週間から二週間ほど水を循環する。そうすると、魚の食べ残しやフンなどから出る有害な物質をできるだけ無害なものへと変える働きをするバクテリアが繁殖する。バクテリアの繁殖が不十分な状態で魚を入れると、死んでしまう可能性が高いらしい。
 無知とは恐ろしいもので、何も知らずに生き物を飼おうとしたことが、我ながら安易だったことに気が付いた。
「心配しなくても大丈夫。若槻さんが気に入ったのはちゃんと買っておいたから」
「ありがとうございます」
 若槻は丁寧に頭を下げた後、白い歯を見せて笑った。
「おいおい。お前ら随分仲がいいよな?」
 俺より五歳年上の先輩、牛島からヨコヤリが入った。まるでテレビドラマに登場する、主人公とその恋人に絡むチンピラの台詞だ。それもかなり昔の。
「そっ、そんなんじゃありませんよ」
 若槻が過剰に反応し、少しきつい口調で否定した。顔が真っ赤だ。ひと際肌の白い彼女のため、その紅潮ぶりが余計に目立つ。こうなっては牛島の思うツボだ。
「若槻、顔赤いぞ」
 牛島に冷やかされて、若槻の顔はますます赤くなった。
「さてと、昼からも頑張ろっと」
 若槻は逃げるように自分の席へと戻っていった。そういうシャイなところも俺は嫌いじゃない。
「お前たちさ、実はつき合ってるんじゃないの?」
 牛島の攻撃目標が俺に変わった。一度追尾され始めると、なかなか振り切れないのがこの人の厄介なところだ。
「まさか」
「隠さなくてもいいって」
「違いますって」
「何も恥ずかしがることなんか……」
 牛島の言葉を遮るように、俺のケータイに着信があった。
「すみません。電話です。あっ、もしもし?」
 メールであることはわかっていたが、ケータイを耳に当てて、廊下に出た。
 ブーケトスからのお知らせメールだった。
『以下の会員様よりお断りの連絡がありました』
 これで今月申し込んだ全員から返事が届いたことになる。結局、高崎以外の八人はお断りだ。
 肩を落して席に戻ると、牛島がニヤケ面で俺を待ち構えていた。
「二股か?」
 頼むから、消えてください。

 小

 待ちに待った日がやってきた。高崎と初の顔合わせだ。美人の紹介状をもらうことはこれまでに何度もあったが、こちらが「お受けします」の返事を送ると、すぐにお断りの連絡が来た。やはり相手に対しても相応の容姿を求めているのだろう。自慢じゃないが、俺はルックスがいいほうじゃない。「モテる」なんて言葉は縁遠いものだし、「男前だ」なんて言ってくれるのは、母と年齢の変わらぬ、近所のおばちゃん連中くらいのものだ。
 身だしなみのチェックをいつもより入念に行ってから家を出た。
 彼女の紹介状は隅々まで熟読し、プロフィールはしっかり頭に入っている。「それって紹介状に書いてありましたよね?」と、はっきり言われることはないにしろ、思われるだけでも減点の対象になる可能性は充分にある。話題もそれなりに用意してきたつもりだ。「会話の続かない退屈な人」と感じさせてはならない。
 待ち合わせ場所は、沢口の時と同じN駅の改札で、約束の時刻は午前十一時だ。
 十分前に到着したが、高崎はまだ来ていないようだった。
 なぜか少し安心した。ひょっとすると、こうして相手が来るのを待っている時間が一番いいのかもしれない。期待に胸を躍らせているだけの今なら、フラレて落ち込むこともないからだ。その代わり先へ進むこともないが……。
 まだ時間もあるし、念のためにトイレにでも行っておくか。
 そう考えて、その場を離れようとすると、一人の女性が俺の顔をじっと見ていることに気が付いた。
「春見さんですか?」
 白黒写真ではなく、カラーの、それも実物の高崎美沙子だった。特徴の一つである長い髪はよく手入れが行き届いているらしく、艶やかで縮れや絡みがなくとても美しい。体型はすらりとしていて、肌は透き通るように白いが、病人のような青白さではない。服装はタートルネックのセーターにスカート。ラフ過ぎず、フォーマル過ぎずの、初対面に相応しいものだと言える。見るからに清楚で上品な感じがして、出会う前以上の好印象を抱いた。
「春見大地さんですか?」
 まるで射られてしまったかのように身動き一つしない俺に、高崎が不安げに小さな声で繰り返す。
「えっ、ああ……はい」
 声が上ずった。
「良かった。人違いかと思いました」
 高崎は胸に手を当て、ふうっと微かに息を吐いて、二重瞼の大きな目を細くした。
(この人と結婚したい!)
 出会って一分も経たぬうちに、俺は恋に落ちていた。
 
 二人で話し合った結果、沢口の時と同じように、近くのショッピングモールに足を向けた。
「緊張していますか?」
 高崎が俺の顔をそっと覗きこんできた。長い髪が垂れ下がり、耳につけた青い宝石の入ったイヤリングが見えた。
「わかりますか?」
「はい。顔に書いてあります」
 美人にからかわれてみっともなくなった俺は、慌てて両手で顔を拭った。
「あなたのような美しい方の前でなら、どんな男でも緊張しますよ」
 そんな台詞が許されるのは、外国映画やドラマに登場する二枚目俳優だけだ。俺にはとてもじゃないが口にできない。
「実は私も少し緊張しています」
 高崎がまた微笑みをくれた。
「春見さんって写真で見るよりずっと素敵ですね」
「そっ、そうですか?」
 お世辞も上手だ。

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『赤い糸をたどって』 第五回 

赤い糸をたどって

 十月も二十五日を過ぎた。結局、今月申し込んだ女性からの返事は沢口以外全てお断りだった。落ち込むというより、焦りの気持ちが大きくなったというほうが正しい。
 沢口からは未だお断りの連絡はない。俺に対してどんな印象を持ったのかはまるでわからないが、彼女の性格を考えると、自分のほうから次のお誘いをしてくるとも思えない。
 俺自身の彼女に対する印象はと言うと、正直微妙なところだ。ルックスは悪くはなかった。むしろカワイイほうだと思う。ただ二十分以上遅れて来て一言もなしというのは減点の対象だったし、会話があまり続かなかったのも引っ掛かる。致命的なのはオニオンリングを勝手に……まあ、そこは大目に見よう。
 以前の俺ならこれでお断りを決めていたが、今は贅沢を言っていられない。とりあえず、紹介状は手元に残しておいて、時期を見てもう一度誘ってみることにしよう。

 小
 
マイページを利用して趣味の欄に「アクアリウム」と追加したものの、実際に魚を飼ったり、水草を育てたりするまでには至っていなかった。そろそろ腰を上げねば本当にデタラメになってしまう。

 十月最後の日曜日、近所のホームセンター内にあるペットコーナーに足を運んだ。
 はっきり言って詳しいことは何もわからない。ただ、展示用として置かれているレイアウト水槽に僅かな魅力さえ感じなかったと言えば、嘘になる。限られたスペースに自然界の姿を濃縮させているところには、やはり心惹かれた。魚しか入っていない水槽より、魚たちの動きもどこか生き生きとしているように見えた。
(ここまでやれたらきっと楽しいんだろうな)
 そんな考えが頭の中をチラリと過ったが、実際にやれる自信はなかった。とりあえず、入門用の小型水槽セットを手に取った。水槽のサイズは「30センチ(幅315mm×奥行85mm×高さ244mm)」で、フィルターとライトがついて、三千九百八十円だ。
 まあ、この程度の出費は当然だろう。
 次に必要なのは水槽の底に敷く砂利だ。粒の大きさや色合いによって値段も違う。想像していたよりずっと種類が豊富だった。オレンジやピンクも明るい感じがして悪くはない気がしたが、一応自然の情景を目指しているので、茶色やグレーの大きさが異なる砂利を混ぜて袋詰めされた「川砂利」というものを買うことにした。
 次は飾りだ。水草は魚と一緒に選ぶとして、流木くらいは入れておきたい。
 ダンボール箱に無造作に放り込まれた流木を一つずつ手に取って吟味した。同じ形のものは二つとしてない。あまり大きなものは入らないので、小さくてもできるだけ個性的な形状のものを選ぶことにした。全く想像の領域だが、くるくると回してどういうふうに水槽に入れるのかも考えてみた。頭の中に少しずつ美しい情景ができ上がりつつあった。
 流木が決まったので、いよいよ魚だ。
「春見さん……ですよね?」
 後ろから突然名前を呼ばれて、体が少し宙に浮いた。誰にも知られずにこっそり買って帰るつもりだったからかもしれない。恐る恐る振り返ると、そこに俺のよく知る顔があった。
 若槻だった。茶色と白のストライプのカットソーにベージュのパーカーを羽織り、ジーンズを履いている。見慣れた制服姿と違うカジュアルな格好で、とても新鮮だった。ただし、化粧はほぼしていないに等しい。それはいつもと同じだ。
「やっぱり春見さんだ」と言って、若槻は目を細くした。
 動揺を覚られぬよう、できるだけ平静を装う。
「すごい偶然だよな。もしかして若槻さんの家って、この近く?」
「そうですよ」
 若槻の口にした住所はここから十分ほどのところだ。「俺の住むマンションからもそんなに遠くはない」と話すと、今度は目をぱっと大きく見開いた。
「へえ、そうなんですか。じゃあ、私たちって意外とご近所さんだったんですね」
「らしいね。全然知らなかったよな」
 日頃、若槻と言葉を交わすのは、大抵仕事に関してで、プライベイトに踏み込むような話はほとんどしたことがない。ただ、お互い一人暮らしで、恋人がいないことだけは知っている。
「魚、飼うんですか?」
 若槻の視線は、俺の手にした買い物カゴに向けられていた。この状況で「飼わない」と答えるのは不自然だし、嘘をつく必要もない。
「うん。一人暮らしだとちょっと寂しいしね。それに俺の部屋って殺風景だから、少しは賑やかになるかなと思ってさ」
「その気持ちわかりますよ。私が犬を飼ったのも寂しいからだもん」
「あっ、そういや飼ってるって聞いた気がするな。ミニチュアダックスだっけ?」
「そう。ココアって名前なんですけど、カワイイですよ。写真、見せたことなかったですか?」
 見るとも見ないとも答えないうちに、若槻は肩にぶら下げたポーチからケータイを取り出した。待ち受け画面に、濃い茶色の毛で覆われたミニチュアダックスが映っている。子犬ではなくもう立派な成犬だが、ソファの上にちょこんと座り、大きな目でこっちを見ている姿は確かにカワイイ。
「春見さんも犬にしたらいいのに。犬は嫌い?」
「いや、そんなことないよ。むしろ、好きなほう。でもさ、飼うってなると世話が大変だろ?」
「私は大変だと思ったことがないです。子供みたいなものなんだし」
 若槻はとても優しい目をしている。彼女にとってココアはただのペットではなく、家族なのかもしれない。
「俺は帰るのも遅いし、朝晩の散歩なんかも続けられるかどうか自信がないな。餌だって自分の分を用意するのも面倒って思っているくらいなんだから」
「そうですよね。春見さんは仕事が大変だもんね」
 若槻たち事務員は定時である午後六時には会社を出られるが、俺たち営業はそれ以降も仕事が残っている。ほぼ毎日サービス残業だ。
「そう。だから、魚くらいなら何とかなるかと思ってさ」
「そのうち話し掛けるようになりますよ」
「言えてるね」
 二人で声を揃えて笑った。
「魚を見に行きましょうよ。金魚じゃなくて熱帯魚ですよね?」
 まるで自分が飼うかのように、若槻は目を輝かせ、先に生体コーナーへと足を向けた。俺もそれに続く。
「春見さん、この子たちカワイくないですか? あっ、この子たちもいいかな」
 小さな水槽を覗き込んではしゃぎ回る若槻は、まるで子供のようだった。
「春見さんはどれか気に入った魚はいますか……あれ、どうかしました?」
 若槻の言葉で我に返り、いつの間にか彼女の横顔に向けていた視線を慌てて逸らした。
 同僚たちに「お前たち、くっついたら?」とからかわれたことがある。若槻は顔を真っ赤にして「結構です」と否定していたが、俺は「それもいいかな」と思った。フラフラと遊び回っている印象もないし、他人に対しての気配りもよくできる。言葉遣いや常識という点では間違いなく合格だし、冗談がまるで通じない頭の固い子でもない。なんといっても、体中からにじみ出るような明るさに魅力を感じる。体型も太過ぎず、細過ぎず、ごくごく標準的。年齢は二十七で、ちょうどいい年頃だ。俺が若槻を拒んでいる理由は「社内恋愛だから」ということ。そして何より、彼女自身が「彼氏なんていらない」と公言しているからだ。
「いや、何でもない……これ、カワイイよな?」
 俺が指差したのは、「ハニードワーフグラミー」という名の魚だ。楕円の黄色い身体には、背びれと尾びれの他に二本の髭のようなものがついている。小さな黄色い体を懸命にくねらせて泳ぐ姿をみていると、自然と口元が緩む。
「私もいいなと思っていたんですよ。赤い子もいるんですね」
 若槻が言っているのは、「レッドグラミー」という魚だ。
「それじゃ、黄色と赤、一匹ずつにしようか」
「そうですね。他に気に入ったのは……」
 その後も二人で相談して、合計十五匹を買うことにした。
 俺の家で飼う魚をなぜ若槻と話し合って決めたのか。
 そんな疑問が湧いたのは、それからずっと後のことだった。
 魚を掬ってもらうために、長髪の男性店員に声を掛けると、「いらっしゃいませ!」と景気よく応えてくれた。
「魚が欲しいのですが……あっ、あと水草も。初心者にオススメのものを適当に見つくろってもらっていいですか?」
 俺の注文を聞いた途端、店員の得意げな表情は苦笑いへと変わった。
「もしかして初めて飼われるんですか?」
「ええ、そうですけど」
 店員の視線は買い物カゴに入れた水槽セットに向けられていた。
「それなら今日のところは、生体を買うのはやめておいたほうがいいですね」
「えっ、あっ……どうしよう? 若槻さん」
 思ってもみない言葉に動揺した俺は、無意識に若槻に助けを求めていた。
「私に言われても……」と、若槻も困惑した表情で俺を見ていた。

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