三流自作小説劇場

三流の自作小説ブログです。感想、コメント、相互リンク大歓迎!尚、当ブログで掲載する文章、作品についての無断転載や転用は固く禁じます(そこまでの値打ちはないかもしれませんけれど・・・・・・)。

『赤い糸をたどって』 第四回 

赤い糸をたどって

 そこへ店員がやってきて、櫛の刺さったハンバーガー二つとオニオンリングの乗ったバスケットをテーブルの上に置いた。俺にとってオニオンリングは好物の一つで、どんな店に行っても、メニューにあれば必ず注文する。玉ねぎの持つ甘さと衣の塩辛さの組み合わせが何とも言えず好きなのだ。
 店員は続けて俺の前にコーラを、沢口の前にアイスティーを置いて、「ごゆっくりどうぞ」と言い残して席を離れていった。
 好きな物は後に残す主義の俺は、先にハンバーガーへと手を伸ばした。パンとパンの間にレタス、トマト、タマゴ、ハンバーグが挟まれていて、上から下まで一気にかじろうとすると、顎が外れてしまいそうなほどの大ボリュームだ。とりあえず、かじれるところまでかじってみた。沢口も小さく口を開けて、一番上のパンから遠慮がちに食べ始めた。
 このままだと永遠に会話が始まりそうにないので、また俺のほうから話題を提供することにした。
「沢口さんは確かバイオリンが趣味でしたよね?」
「はい」
「いつからやっているんですか?」
「小学生からです」
 本当にこういう趣味の人っているものなんだなと、紹介状を見て感心した。そして同時に「お嬢様」という言葉が浮かんだ。
「楽団みたいなのに所属していたりするんですか?」
「中学二年まではしていました。今は休みの日に少し弾くくらいです」
「結構大きな音が出るんじゃないですか?」
「そうですね」
「ご近所からの苦情とかって大丈夫なんですか?」
「音を小さくする道具もありますし、昼間に弾いている分には特に文句を言われたりすることもないです」
 沢口は実家暮らしだ。近所に音が漏れないような広大な敷地に住んでいるということは考えられないだろうか。紹介状に自宅の敷地面積は書いていない。
「春見さんは映画観賞が趣味ですよね?」
「ええ、まあ」
 初めて沢口のほうから質問された。視線がブレることもなくなった。趣味のバイオリンの話をしたことで、少しはリラックスできたのかもしれない。
「最近、何を観ました?」
「そうですね……あっ!」
 突然俺の口から飛び出した「あっ!」という声に、沢口が目を丸くした。
「どうかしましたか?」
 後から食べようと残していたオニオンリングの一つに沢口が手を付け、遠慮もなしにかじりついたのだ。シャリッという心地良い音色が俺の耳に響いた。
 確か彼女はハンバーガーとアイスティーだけでいいと言っていたはずなのに。
「あっ……『あしたが見えたら』って映画です」
 早口で言い終えて、俺もオニオンリングに手を伸ばした。作戦変更だ。うかうかしていたら全部食われてしまう。残りは四つ。
「『あしたが見えたら』って、予知能力者のお話ですよね?」
「そうです」
 もはや映画のことなどどうでも良かった。一つ目のオニオンリングの歯触りをまだ感じたまま、次に手を伸ばした。オニオンリングの入ったバスケットを手繰り寄せたい気持ちでいっぱいだったが、さすがにそれはみっともないので、ぐっと我慢した。
「あれって春くらいの映画でしたよね?」
「映画館ではそうですね。僕が見たのはレンタルだから。確か八月頃だったかな」
 沢口は再びハンバーガーのほうに手を伸ばした。
 チャンス! 残りの二つもいただきだ。
「それでも結構前ですね」
「趣味って言えるほど観てないですね」とでも言いたそうなのが、表情から読み取れた。腹は立たなかった。実際、映画観賞なんて思いつきで書いたものだからだ。
「最近は、映画館に足を運んでまでって思えるような作品が見つからないですから」
 尤もらしい言い訳をしながら、三つ目のオニオンリングを摘むことに成功した。右手と口の周りは油でギトギトだが、テーブルナプキンで拭く時間さえ惜しい。
「ねえ、春見さん」
 沢口はハンバーガーをテーブルに置き、俺の顔をじっと見た。
 なんだろう。あらたまって……。
 沢口の真剣な眼差しに、最後のオニオンリングに手を伸ばすのを中断せざるを得なかった。意識は彼女の顔に向かった。
 悪くはないなんて思っていたが、結構カワイイ部類に入るんじゃないか。
 そう感じて、胸が高鳴った。彼女の口からどんな台詞が出るのか、自ずと期待していた。出会ったばかりで「つき合って下さい」はないとしても、決して悪くはない前向きな言葉のはずだ。
「良かったら……」
 やっぱり「つき合って下さい」だろうか。自己PRにはあんなふうに書いていたが、意外と積極的なのかもしれない。
 思わず息を飲んでしまう。沢口がゆっくりと残りの言葉を紡いだ。
「オニオンリング、全部食べてくれていいですよ。好きみたいだし」
「あっ……ありがとうございます」
 俺は沢口に向かって深々と頭を下げた。

 小

 沢口と別れ、マンションに帰りついたのは午後三時過ぎ。
 途中、レンタルビデオ店に立ち寄って、映画のDVDを三枚借りた。沢口に言われたことが少々引っ掛かったからだ。早速、上映会と行きたかったが、その前にアドバイザーの梅田に電話を掛けた。
『久しぶりね。元気だった?』
 梅田は親しげにそう言ったが、本当に俺のことを覚えているかどうかは怪しいものだった。
 どうせ、俺の情報をパソコンのモニターで眺めながら話をしているに違いない。
「ちょっと教えて欲しいんですけど、他の男性会員の方ってどんなことを趣味にしていますか?」
『何? 今から新しい趣味を始めるつもり?』
「あっ、いや、そうじゃなくて……ほら、女性会員の趣味なら紹介状で見ることができますけど、男性会員の趣味ってどんなこと書いているのか絶対にわからないじゃないですか? だから参考までに聞いておこうかと」
 梅田は「ふーん」と半信半疑とも言える返事をしたものの、「私の記憶にある限りでは……」と続けた。
『スキー、スノボでしょ……それから野球、サッカー、テニス……』
 どれも今すぐ始めるには難しい。
「他には?」
『釣り、登山、ダイビング、ボーリング……』
「もっと手軽に始められそうなものはないですか?」
『やっぱりこれから始めるつもりなんじゃない』
 あっ、思わず本音が出てしまった。
「いっ、いや違いますよ」
『別に嘘つかなくてもいいのよ。前向きに努力してくれるのは、私たちアドバイザーにとって嬉しいことなんだから』
 今まで何もしてくれなかったのに、少し頼るとこれだ。
「映画観賞が趣味の人ってあまりいませんか?」
『そんなことないわよ。むしろ多いほう。ただ、春見さんみたいにそれだけって人は少ないわね。趣味の欄って三つ書けるでしょ? できれば全部埋めておくほうがいいわよ』
 なぜそういう大事なことを始めに言ってくれないのか。この人はアドバイザーというより営業として失格だな。いや、むしろ、それで俺が結婚できずに会員期間延長とくれば儲かるのかもしれない。
 そこまで考えて、俺は首を横に振った。
 歳を取るごとに、確実に嫌な人間になっているよな。
「さっきの続きなんですけど、他にはどんなのがありますか? なるべく手軽なもので」
『えーっと、そうね……読書、ゲーム、パチンコ、競馬……』
「確かに手軽ですけど、読書とゲームは地味ですよね。パチンコとか競馬ってあまり女性からの印象が良くないんでしょ?」
『確かにいいイメージを持っていない人は多いわね』
 紹介状に「ギャンブルは好きかどうか」の回答を載せるくらいだ。相手を選ぶうえで重要なポイントであることに間違いはないだろう。
『後はカメラ、鉄道模型、天体観測……』
 どんどん深いところへ入り込んでいっている気がする。趣味で使うカメラとなると、やっぱり一眼だよな。鉄道模型って一揃え買うといくらくらいするんだろう。うちは二階だから、天体望遠鏡をベランダで使ったら間違いなく誤解されるよな。
『アクアリウムっていうのもあるわね』
「何ですか? あくありうむって……」
『ほら、ペットショップなんかで、水草とか石とか使って自然の風景を作って魚を泳がせている水槽があるでしょ?』
「ああ、あれですか?」
 それなら割と手軽に始められるかもしれない。女性からのイメージも悪くはなさそうだし、散歩やフンの始末もいらない。要は魚を飼って、水草や石を適当に入れておけばいいだろう。そこまで深く語る必要はない。初めて会ったときに多少なりとも話題になれば、それ以上は望まない。
「それにします」
『えっ、いいの?』
「可笑しいですか?」
『いいえ、随分あっさりと決めたものだから』
「金魚は飼っていたことがあるのでいいかなと思って。それほど変わりないでしょ?」
 飼っていたと言っても、縁日で掬った二匹をバケツに入れていただけだ。確か二、三週間で死んでしまったっけ。
『私も詳しいことは……』
「問題はあと一つか……それ以外に何かあります?」
『あっ、ゴメン』と、梅田が慌てて俺の話を遮った。
『実は四時から新しい会員さんの入会案内の予定があるのよ。悪いけど、続きは今度にしてくれる?』
 テーブルの上のデジタル時計は午後三時三十分を記している。思った以上に話し込んでいたようだ。
「わかりました。すみません」
『あのさ、何なら昔やっていた趣味でも書いておいたらどう? お茶を濁すくらいはできると思うけど』
 梅田は俺の返事も聞かずに、「それでは失礼します」と言って、電話を切った。
 何とも有難いアドバイスをくれたものだ。確かに辞めてしまった趣味ならいくつかある。果たしてそれでいいのかと一度は首を捻ったものの、三ヶ月前に観たきりの映画を趣味だと言っているのとそれほど変わりがない気がした。
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『赤い糸をたどって』 第三回 

赤い糸をたどって

 約束の日を迎えた。
 お見合いや紹介というわけではないので、立会人はいない。ましてやスーツなどは着て行く必要もない。しかし相手は女性だ。センスを疑われるような格好はしてはいけないし、出掛ける前はちゃんと身だしなみを確認する。
 鏡の前に立ち、首を左右に振る。寝グセはなし。
 顔を前に突き出し、鏡を覗き込む。目ヤニなし。鼻毛の飛び出しもなし。
 上下の歯を合わせてニッと微笑む。食べカスなし。
 髭の剃り残しもなし。
 口の周りを両手で覆って息を吐き出すと、爽やかなミントの香りが広がった。
「口臭よし!」
 財布とケータイをジーンズの後ろポケットにねじ込んで家を出た。

 初めて会う女性が相手だ。やはり緊張はする。電車に乗り、シートに身を預けると、活発に動く心臓のせいで、体が前後に波打っているような感覚がする。気を紛らわせようと窓の外に視線を移してみたが、効果はなかった。
(沢口さんってどんな人なんだろう)
 今の時点では決して答えの出せない問いかけを、頭の中でずっと繰り返していた。
 
 待ち合わせの場所である駅の改札には、約束した時間の五分前に到着した。先程以上に膨張と収縮を繰り返す心臓の動きを感じながら、辺りを見回してみた。若い女性はたくさんいるが、その中に沢口らしい人物の姿は見当たらない。
 とりあえず待つしかなさそうだ。
 終着であるこの駅には複数の路線が交わっていて、一番から八番までのホームがある。沢口の住んでいる場所を考えると、三番ホームに入る電車に乗っているはずだ。
 ホームと腕時計を交互に眺めていると、約束の十一時三十分になった。そこへちょうど三番ホームへの電車の到着を告げるアナウンスが流れた。
 速度を落した電車が静かに入ってくる。恐らくこれに沢口は乗っているはずだ。待ち時間を挟んだおかげで穏やかになっていた胸が再びざわつき始めた。
 両側のドアが開いた。乗客たちが一斉にホームへと降り立ち、改札のあるこちら側に向かって歩いてくる。
(違う。違う。違う……)
 昨晩目に焼き付けた白黒写真の沢口の顔を頼りに、女性一人一人に対し、正否を決めていく。
(……違う。違う。違う。あれ?)
 乗客は皆、改札を通ってしまい、三番ホームは沈黙した。
 当たりの含まれないクジだったらしい。
 おかしいな。
 ポケットからケータイを取り出し、沢口から「遅れます」というメールが届いていないかを確認してみたが、新着のメールや電話を掛けてこられた形跡はない。
 ひょっとすると、俺が約束の時間を間違っているんだろうか。
 数日前に沢口とやり取りしたメールを読み返してみたが、確かに『日曜日の午前十一時半、N駅の北改札で』と書いてある。
 まさか来週の日曜日と勘違いしていることはあり得ないだろう。電車が遅れているだけなのかもしれない。

 それから待つこと十分。三番ホームに次の電車がやってきた。
(違う。違う。違う。違う。違う……)
 先程の繰り返し。結果もまた同じで、当たりの含まれないクジ。
 何かあったんだろうか。急に体調が悪くなったとか、身内に不幸があったとか。
 可能性がゼロとは言えないため、試しにメールを送ってみる。
『おはようございます。僕はもう着きましたが、何かありましたか?』
 すると、一分も経たぬうちに沢口から返事が来た。
『今、向かっています。後五分くらいで着くと思います』
 だったら、早く言ってくれ。

 次の電車に沢口は乗っていた。随分と離れたところから俺を確認できた様子で、迷うことなく、真っ直ぐこちらに向かってくる。歩調を速めることもなければ、申し訳なさそうな表情を浮かべることもしなかった。俺のそばに来ても、二十分以上遅れてきたことへの謝罪もなしに、ただ真顔で頭を下げただけだった。正直、いい気はしなかったが、小さい男だと思われたくなかったので、責めるのもやめておいた。
 ベージュのワンピースに、装飾品は特になし。写真通りの童顔で、斜め掛けにしたポーチのせいもあってか、より幼く見える。
 二人で話し合った結果、近くにあるショッピングモール内のレストラン街を目指すことになった。先に歩く俺の後ろを、沢口はちょこちょこと狭い歩幅でついてくる。
「いい天気になって良かったですよね?」
 俺の問いかけに対し、沢口はほとんど表情を変えることなく、「そうですね」と答えた。彼女からは続きが出そうになかったので、俺が言葉を紡いだ。
「来週の中頃まで晴れが続くらしいです」
「へえ、そうなんですか?」
「それ以降は週末にかけて雨になるみたいです」
「そうなんですか?」
「かなり激しく降る可能性もあるとか……」
 いかん。何を天気予報士のようなことばかり言っているんだ。別の話題を探そう。
「今日は割と寒いですよね。僕は寒いのが苦手なんですよ」
 結局、天気の話とほとんど変わらないじゃないかと、自分自身に呆れずにはいられなかった。また「そうなんですか?」で終わられては困るので、「沢口さんは?」と尋ねてみた。
「私も寒さより暑さのほうが我慢できるかな」
「じゃあ、俺と同じですね」
「そうですね」
 ここで会話は一度打ち切りとなった。俺が黙っていると、沢口も黙ったままだった。自己PRに書かれていた「大人しい性格」、「人見知りをする」、「引っ張っていって下さる方」という言葉を思い出した。自分のほうから話題を提供するのは、やはり苦手なんだろう。

 モール内にはあらゆる種類の飲食店が軒を連ねていた。パスタ、中華、ハワイアンハンバーガー、寿司、和食、ラーメンなど。沢口が約束の時間に遅れてきたおかげで、ちょうどいい具合に腹が減ってきた。
「沢口さんは何か食べたい物とかありますか?」
「えっと……何でもいいです」
 一応聞いてはみたが、やはり予想通りの答えだった。ここで俺が一緒に悩んでも仕方がないので、混み具合や自分の気分に任せて、ハワイアンバーガーの店に入った。アロハシャツを着た店員がすぐにやってきて、一番奥のテーブル席へと案内してくれた。テーブルの上に開いたメニューを、俺たちは静かに眺めた。種類が豊富というわけでもないので、何を頼むかはすぐに決まった。急かしてはいけないと思い、「決まった」ということは口にせず、そのままメニューから視線を外すことで、それとなく伝えた。沢口は悩んでいるのか、いつまでも顔を上げず、ずっとメニューと睨めっこをしている。彼女が決めるまで話し掛けるわけにもいかず、俺には店内を見回すことくらいしかできなかった。
 時刻も時刻のため、空いていた席がどんどん埋まっていく。手持無沙汰のためか、無意識に腕を組みそうになり、慌ててやめた。威圧的とも受け取られかねない姿勢はまずい。
 いつまでたっても沢口がメニューから目を放さないので、恐る恐る尋ねてみることにした。
「あの……決まりました?」
 そこで沢口がようやく顔を上げた。
「はい」
「もしかして随分前に決まっていました?」
「はい。私はすぐに決まっていたんですけど、春見さんがまだかなと思って」
 沢口の思わぬ答えに椅子からずり落ちそうになった。
 この人、結構天然なのかもしれない。いや、はっきり「決まった」と告げなかった俺が悪いのだ。
 注文を済ませて料理が並ぶまでに、また沈黙の時間が訪れた。
 まず何を話すべきか。紹介状の内容を暗記して、ある程度の話題を用意してきたつもりだったが、出だしから調子が狂いっぱなしで、少々舞い上がっていた。沢口も緊張しているのか、キョロキョロと店内を見回し、落ち着きがない。時折、俺と目が合っても、慌てたように逸らして下を向く。しばらくすると、また辺りを見回す。意図的に視線が重ならぬようにしているのがはっきりとわかった。
「沢口さんは入会してどのくらいですか?」
 そう問いかけると、沢口の視線がようやく俺のほうに定まった。
「三ヶ月です」
「まだ最近なんですね。僕は出会いがないから入会したんですけど、沢口さんもそうですか?」
「私は……親に入会させられて」と、沢口はバツが悪そうに下を向いた。
 女性会員の中には、彼女のように親同伴で入会手続きにやってくる者も多いと、アドバイザーの梅田が言っていた。
「じゃあ、沢口さん自身は、結婚なんてまだ先でいいって思っているんですか?」
「あっ、いいえ。そういうわけでは……」と顔を上げ、両手を振って答えたものの、語尾を濁したまま、その声は消えていった。

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『赤い糸をたどって』 第二回 

赤い糸をたどって

 俺の勤めているのは建築資材の製造や販売をしている会社で、俺自身の職務内容は営業だ。
 今日の午前中は溜まっている伝票や書類の処理に費やして終わった。
 昼食は大抵外食だが、今日のように事務所にいる場合は、コンビニ弁当が多い。エビフライにかじりついた瞬間、ズボンのポケットに入れたケータイが震えた。割り箸を置き、振動を続けるケータイを取り出した。
ブーケトスからのお知らせメールだ。
 本文は『以下の会員様よりお断りの連絡がありました』
 続きにはH子さん、K子さんというそれぞれの仮名と、会員番号が書いてある。先日申し込んだ九人のうちの二人だ。
 お断りのお知らせメールは毎日、午前十一時から午後一時くらいに送られてくる。この時間までに何もない場合、「無事に生き残れた」と胸を撫で下ろすことができる。残念ながら、今日は二人に狙撃された。
 再び割り箸でつまみ上げたエビフライの残りは、心なしか先程より重くなっていた。
「どうしたんですか?」
 突然、声を掛けられたため、そのままの勢いでエビの尻尾までかじりついてしまった。ガリッという心地良い音が聞こえた。香ばしい香りのする温かい緑茶が、声の主の白くて細い手によって机の上に置かれた。
 事務員の若槻留美だ。
「メール、何かショックなことでも書いてあったんですか?」
 心臓が、一瞬大きく膨れた。
 いつから見られていたんだろう。
 漆塗りの盆を抱え込んで、若槻が俺の顔を覗く。細くて小さな目だが、よく見ると奥二重になっている。
「いや、そんなことないよ。どうして?」
「だって、メールを見た途端、ふかーい溜息をついていたもん」
「本当に?」
「はい」と答えて、若槻はクスクスと笑った。
 参ったな。まさか結婚情報センターからのお断りのお知らせだとは言えない。
ブーケトスに登録していることは、彼女だけでなく、会社の連中には内緒だ。それどころか、友達にも言っていない。そういうところに入会しなければ相手を見つけられないことに対してどこか恥ずかしさがあるからだ。もちろん、めでたく結婚が決まった暁には、両親にだけは話すつもりだ。
「申し込んでいた懸賞に外れたんだ」
「なんだ。そんなことですか……ああいうのって当たらない確率のほうが高いんですよね」
 確かにそうだが、これに関してはどうにか一年以内に当たってもらわないと困る。
「また次がありますよ」
「そうだよな」
 若槻の優しい慰めの言葉に、俺は苦笑するしかなかった。
 婚活は就職活動や受験と似ている。次の面接先や受験校が残っていると、心にゆとりができる。H子さん、K子さんにはフラれたが、まだ七人残っている。

小

 仕事を終えて一人暮らしのマンションに着くのは、午後八時から九時の間が多い。どんな時間に帰ろうと、この一年必ずやってきたことがある。
エントランス部にある集合ポストの中身の確認だ。もちろん、女性会員の紹介状が届いていることへの期待を込めている。
 胸が高鳴り、ダイヤル錠を回す時間が煩わしく感じる。ロックが外れるのを確認し、勢い良く蓋を開いた。
 中身は二つ。一つは三年前にスーツを買った紳士服の店のDM。もう一つは、透明のフィルムの窓が付いた白い封筒。差出人は記入なしだが、俺にはそれがどこから来たのかがわかる。その場で開封してしまいたい気持ちをぐっと堪えて、封筒をスーツの胸ポケットに仕舞った。廊下を早足に歩き、階段は一段飛ばしで二階まで駆け上がった。玄関の鍵を開けて、中へ入り、後ろ手にドアを閉めると同時に、「よし!」と小さく右拳を握った。
 言うまでもない。差出人はブーケトスで、中身は女性会員の紹介状だ。部屋へ上がると、鞄をベッドの上に放り投げて、封筒をハサミで切り開いた。三つ折りにされたピンク色の紹介状で真っ先に確認するのは、やはり写真だ。ショートカットの丸顔、少し大きな目が印象的な女性だ。緊張しているのか、笑ってはいない。
 名前は沢口宏美。
 年齢は三十歳。先日、申し込みしたS子さんだ。改めて写真を見直してみたが、悪くはない。清楚なイメージで、年齢の割には童顔に見える。
 ただし、写真で見る限りだ。紹介状のためにスタジオで撮影をしてもらう者もいるらしいし、何しろ白黒のため、実物と多少の誤差が生じるのは止むを得ない。入会して最初に会った女性は、「他人の写真を使っていませんか?」と尋ねてしまいそうなほど、実物と違っていた。
 沢口の自己PRは、『大人しい性格で、人見知りするほうです。何に対しても慎重で、踏み出すのに時間が掛かるため、引っ張っていって下さる方がいいなと思っています』
 これまでたくさんの女性会員の自己PRを目にしてきたが、「大人しい性格」、「人見知りをする」、「引っ張っていって下さる方」という言葉を本当によく目にする。入会する理由は、出会いがないからが一番だとは思うが、その元を辿ると、積極性の不足であったり、不器用さであったりするのかもしれない。あまりにガンガン攻めてくる女性にも抵抗はあるが、何の意思表示もしてくれないのも困る。ブーケトスには、後者の女性が多いのだろう。
 上から下まで目を通した紹介状はテーブルの上に置き、夕食の準備を始めた。
 もちろん、断るつもりはない。今の時点ではその理由は見当たらない。
 夕食といっても大したものは作らない。タイマーで炊いた白飯と、スーパーで買ってきた揚げ物やサラダなど。今の時間からみっちりと料理を作るつもりはないし、作れる腕もない。
 料理を並べたり、お茶を注ぐ間も、沢口のことをずっと考えていた。
 最後に誰かの紹介状を受け取ったのは、八月の終わり。随分と久しぶりのことのため、気分は高揚していた。
 そそくさと夕食を済ませて、風呂に入る前に沢口に連絡をした。
 どの女性に対しても、ファーストコンタクトは電話よりメールを選ぶ。相手のライフスタイルもまるでわからないし、せっかく電話をしても話せない状況では元も子もない。
 メールを送るのも、ちゃんと時刻を考える。非常識な奴だとは思われたくないからだ。
『はじめまして。ブーケトスの会員、春見大地です。この度はお受け下さり、ありがとうございます。よろしくお願いいたします』
 堅苦しくて、何一つ面白味のない文章だが、出会い系サイトのように相手を引っ掛けるためのメールではなく、俺が春見大地であることが伝わればいいのだから、これで充分だ。
 そのまま二十分ほど沢口からの返事を待っていたが、ケータイが鳴る気配はなかった。そのうち送ってくるだろうと諦めて、風呂に入ることにした。
 浴槽に身を沈め、今後の予定を立てた。
 今日は月曜日。今週はメールのみとしても、来週末には一度会ってみたい。時間は限られているのだから、テンポよく進めるべきだ。
「初めはメル友から」なんて平気で言ってくる者もいる。高い金を払って出会い系サイトと同じ内容では堪らない。
 気持ちが急いてしまっているのか、知らぬ間にいつもより早風呂になっていた。ケータイのライトがピカピカと光り、着信があったことを報せている。
 沢口からのメールだった。
『はじめまして。沢口です。よろしくお願いします』
 以上。
 実にあっさりとしている。受信したのは五分ほど前。今なら返事をしても大丈夫だろう。
『沢口さんはいつも何時頃にお帰りですか? 僕は午後八時から九時の間が多いです』
 メールを送ってもいい時間の確認のためだ。
 今度はすぐに返事があった。
『六時半には帰っています』の一行だけ。
『それ以降ならメールさせてもらっても大丈夫ですか? お休みは土日ですか?』
 これは会える日を確認するためだ。あまりに事務的だが、最初はこんなものだ。飛ばし過ぎると、会ったときに話題に困る。
『土日祝です』
 前半のメールに関する質問には回答なしだ。「春見さんは?」という問いかけもない。仕方がないので自己申告する。
『僕は日祝と、土曜隔週です。近いうちに会うことにしましょう。最初ですから、お昼御飯はいかがですか?』
『そうですね。そうしましょう。今日はもう寝ます』
 一方的に会話を打ち切られてしまった。
 もう寝ると言っても、まだ十時半だ。結構早寝のタイプなのか。それとも偶然、疲れていたのか、体調が悪い日だったのか。あるいは何か気を悪くするようなことを書いてしまったとか……。
 念のため、沢口とやり取りしてメールを読み返してみたが、そんなものはどこにも見当たらなかった。

 翌日以降も時間を見つけて沢口にメールを送ってみたが、毎回、返事は二言、三言で長続きしなかった。送り返して来ないことさえあった。もちろん、沢口のほうから先にメールをしてくることもなかった。
 あまりメールは好きではないらしい。
 このまま今の状態を続けていても無駄な気がしたので、来週末に会うつもりだったところを、今週末に早めてみることにした。もちろん、沢口の予定がどうかまではわからなかったのだが、いざ誘ってみると、『はい。日曜日でいいです』と返事まであっさりとしていた。どこがいいかや何時がいいかを尋ねても、返ってくる答えは容易に想像できたので、俺のほうで全て決めてからメールを送った。
 五分ほどして沢口からの返事が届いた。
『そうしましょう』

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『赤い糸をたどって』 第一回 

赤い糸をたどって

赤糸

『会員期間終了まで残り一年です』
 色鮮やかな桜色を背景に表示されたそのメッセージを見て、思わず深い溜息が出た。僅かな崩れさえない美しいパソコンの文字は、見る者の心情によっては冷たささえ感じる。
 一年前、四十万円という大金をつぎ込んで、結婚情報センター「ブーケトス」に入会した。
「出会いの機会が増えるわけだし、二年もあれば、楽勝。俺に相手が見つからないのは、出会いがないからさ」
 入会する前はそう思っていた。
 実際のところはと言うと、この一年で個人的なやり取りをした女性は十四人。そのうち四人とは実際に会うことができたが、一度きりで次はなく、「いい人なんですけど」でお仕舞いだ。残りの十人はメールを何度か交わしたのみで、会うことなく消滅。
 つまり収穫はゼロ。
 強いて挙げるとすれば、「俺に相手が見つからない原因は、出会いが少ないからではない」と、わかったことが収穫だ。
 のんびりとしている暇はない。今日をさぼれば、残りは三百六十四日になるのだ。
 活動の基本となるのは、今開いているインターネット上のブーケトス会員専用サイト、「マイページ」の利用で、言うまでもないがログインにはパスワードが必要だ。
一番上に『ようこそ! 春見大地さん』とあり、二行目に先程の会員期間の残り日数が表示されている。「歓迎はするけど、大事なことを忘れないでね」と、警告を受けたような気がして、背筋がピンと伸びる。
マイページの主なメニューは「登録情報」、「仮交際中の会員様」、「会員検索」、「パーティ・イベントへの参加」、「有料オプションの申込」、「お問い合わせ」の六つ。
「登録情報」では、文字通り俺自身の情報が確認できる。氏名、年齢、生年月日、住所、電話番号、メールアドレス、学歴、年収、勤務先、免許及び資格、趣味、身長、体重といった基本的なことに加え、離婚歴、子供の有無、子供の好き嫌い、共働きに対する考え方、両親との同居の予定、飲酒及び喫煙の度合い、ギャンブルへの考え方、そして自己PRといった、結婚相手としての判断基準に重要なものが詰め込まれている。
 入会時には戸籍謄本や住民票、最終学歴の卒業証明書、給与明細まで必要で、嘘をつくのが難しい仕組みになっている。なお、会員期間中の情報変更に関しては、同様の書類を再提出する必要がある。ただし、身長、体重や趣味、連絡先、自己PRなど、大抵のものは、マイページ上でも簡単に変更が可能だ。
 メニューの一つ、「会員検索」が活動の肝とも言える機能で、ここから相手探しが始まる。
 画面上に表示された項目を、希望条件に合わせてクリックで選択していく。
「年齢」は二十代後半から三十代後半にチェック。俺自身は三十歳。二十代前半は離れ過ぎだし、結婚を考えるには少々幼過ぎる気がする。三十代後半も歳は離れてしまうが、幼過ぎるよりはずっといい。条件しだいでは許容範囲に入る。
「住まい」は近隣四県。遠距離は、相手も自分も骨が折れることは目に見えているし、長続きしない可能性が高い。時間が限られているため、そういうのは予め避けておく。
「学歴」は高卒以上、ただし、自分より上の大学院卒は外す。
「年収」はゼロから百万円は外して、自分の収入である四百万円までにチェックを入れる。共働きに関する俺の考え方は、子供ができるまでは働いてもらいたいし、その後も必要であれば、働いてくれることを望んでいる。独身の今でさえ働いていないような人にはその辺りを期待できそうにないし、俺より収入が多い人では、結婚前から力関係が決まりそうで嫌だった。
 検索条件で入力できるのはここまでだ。後は個別に確認する形になる。「検索」ボタンをクリックすると、待ち時間およそ五秒で条件に合致する女性会員がアルファベット表記でズラリと並ぶ。
 一度申し込みをした相手は、「申込済」あるいは「お断り」と記されており、二度と申し込めない。点在するお断りの文字を眺めると、自分の敗北ぶりがよくわかる。名誉のために言っておくが、このお断りには俺からのお断りも含まれている。
 まだ唾を付けていない女性会員のプロフィールを一つ一つ順番に確認していく。今の時点でわかるのは、「年齢」、「住所の一部」、「年収」、「趣味」、「身長・体重」、「自己PR」だ。
 身長はやはり自分より低い、百七十センチ以下を選び、体重に関しては身長とのバランスを見る。
 趣味に関してはこだわらない。世間一般を見ていると、同じ趣味を持つ夫婦のほうが少ない気がする。ただし、無趣味の人やちょっと変わった趣味の持ち主は避ける。以前、趣味の欄に『人間観察』と書かれた女性からの申し込みがあったが、丁重にお断りさせてもらった。
 俺が重視するのは、「自己PR」だ。
 
『はじめまして。素敵な人と出会えればいいなと思っています。よろしくお願いします』

 こういう女性にはまず申し込まない。
 真剣さが伝わって来ないからだ。文章を書くのが苦手な者がいることはわかっているし、俺自身も決してうまいわけじゃない。しかし、何度も書き直して自分の思いを一生懸命に伝えようとしたのか、あるいは適当にさらりと流してしまったのかは読めばわかる。生涯を共にする相手へ捧げるメッセージが在り来たりの言葉で綴った二、三行ではあまりにいい加減過ぎる。
 この会員検索機能で致命的なのは、写真を見ることができない点だ。今は文字による情報だけを頼りに「申込」ボタンを押すしかない。
 今月の申し込みは、N子さん(二十八歳)、M子さん(三十二歳)、S子さん(三十歳)、H子さん(二十九歳)、K子さん(三十歳)、A子さん(三十六歳)の六人とした。検索機能で一ヶ月に申し込める最大人数だ。これ以外に、俺の条件に合わせてコンピュータが自動的に選んだ女性を毎月三人ずつ紹介される。つまり合計九人の女性と出会いのチャンスが得られることになる。
 申し込みが受理されると、インターネット上ではわからない登録情報の詳細と白黒の顔写真が印刷された俺の紹介状が、ブーケトスから相手に郵送される。
 そこで気に入られれば、ブーケトスに「お受けいたします」と連絡が入り、今度は俺のほうにその女性の紹介状が送られてくる。ここで初めて相手の連絡先を知ることができる。つまり最初の連絡は申し込んだ者からしかできなくなっているのだ。
 これが「仮交際」の始まりだ。
 逆に気に入られなければ、俺の紹介状はブーケトスに返却され、俺には『お断りされました』という悲しいお知らせがメールで届けられる。
 お断りの手順は仮交際成立以降も同じで、どちらかの紹介状が返却された時点で二人の関係は終了となる。
「もし嫌だと思ったら、わざわざ相手に連絡しなくても、紹介状を返却してくれたらいいから」
 そう言うのは、四十代前半くらいの女性アドバイザーの梅田だ。一応俺の担当ということになっているが、言葉を交わしたのは入会時の時だけで、それ以降は「調子はどう?」の一言もない。アドバイザーによっては親身になって相談に乗ってくれたり、パーティーの無料券をくれたり、相手を紹介してくれたりする者もいるらしい。
 梅田は釣った魚には餌をやらないタイプということだろう。
「黙って紹介状を返却してくれたらいい」と言うが、それまでメールをしたり、会ったりしていた人に、一言もなしにお断りされるのはやはりショックだ。実際、俺も何人かにそれをやられた。
 そういう相手の気持ちも考えられないような人間なら、黙って離婚届を置いて出て行かれる可能性もある。断られて良かったというものだ。
 
こんな台詞、やっぱり負け惜しみにしか聞こえないよな。

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『そしてハートは今一つに』 

忙しい人たちへ(掌編集)

そしてハートは今一つに

 高校生活最後のバレンタインデーに、クラスメイトの大庭君にチョコを渡した。
「ずっと好きでした」と「付き合ってください」の言葉を添えて。
 彼と一言、二言、話すだけで顔が火照る私にとっては、随分勇気のいる行動だった。
 そこまでして思いを告げたのには理由がある。
 私は春から違う街で一人暮らしを始め、そこで大学に通うことになっていたからだ。
 その前に自分の気持ちを伝えておきたかった。バレンタインデーという、背中を押してくれるものがなければ、きっと何もせずに終わっていただろう。
 そんな私の告白に対する大庭君の答えは「考えさせて欲しい」だった。
 
 無理もない。
 私と大庭君は、話をすることはあっても、それほど親しかったわけでもない。
 私が一方的に好きになっただけだ。
 そんな彼のどこに惹かれたのかというと、クラスでは目立たない私を気遣ってくれる優しさだった。
 例えば、クラスで決め事をするときには、「泉は何か意見はないか?」と必ず尋ねてくれた。私はいつも「特にないです」としか答えられなかったけれど……。

 文化祭の打ち上げでカラオケに行って、私にマイクが回って来た時のことだ。
恥ずかしがり屋の私にとって、人前で歌を唄うなんてハードルが高過ぎた。渋る私を男子たちが皆、「唄え」コールで責め立ててきた。「どうしようか」と悩んでいると、私に差し出されたマイクを大庭君が横から奪い取って、人気アイドルの歌を唄い始めた。
それも裏声を使ったアカペラで。
皆が大笑いする中、私だけは目を丸くしていた。
「これで恥ずかしくなくなっただろ?」
 大庭君は笑って私にマイクを差し出した。私は恐る恐るそれを受け取って、好きな歌をリモコンで選んだ。
 緊張で心臓が破裂しそうで、声も手も震えたけど、彼のおかげで最後まで唄うことができた。
 誰一人笑う者はおらず、それどころか「なんだ、上手じゃないか」と拍手をもらえた。
 大庭君はというと、何も言わずに、優しく微笑んでいるだけだった。
 決して「俺のおかげだろ?」なんてところは見せない。
 そんな彼のさりげなさが好きだった。

 三月になると、すぐに卒業式が行われた。
 バレンタインデー以降、大庭君とは何度か言葉を交わす機会はあったけど、告白への返事はもらえなかった。
 自分から尋ねるのも怖かったし、いい結果ならもっと早く返事がもらえるはずだという気がした。
「きっとフラれたんだ」と結論を出して、私は新しい街へと旅立った。

 そして今日はホワイトデー。
 大庭君は誰に対しても優しい人だから、私だけが特別に扱われていたわけじゃないのは知っていた。私はむしろ、彼のそういうところが好きだった。
 きっと私以外からもたくさんチョコをもらったに違いない。
 
 そっか……。
 
 今、ふと気が付いた。
 そんな大庭君がお返しをしないなんてことは考えられない。
 もし私がまだあの街に住んでいたら、今日、お返しをもらえたのかもしれない。
 引っ越しを先に延ばすことだってできたのに、フラれることが怖くて、私は逃げるほうを選んでしまった。
 フラれる覚悟ができていないなら、告白なんてすべきじゃないよね。
 大庭君はきっと怒っているだろうなな。
「せっかくお返し用意したのに」って。
 それとも「アイツ、引っ越ししたんだ。ふーん」で終わりかな。
 今更、何を考えても遅いよね。
「はあ」っと溜め息が零れる。
 気分を変えるために、温かい紅茶でも淹れようかと思っていると、インターホンが鳴った。
 宅配便だった。荷物が来る覚えなどないが、返事をしてしまったので、玄関先まで行く。
「こちらに印鑑をお願いします」と、キャップを被った運転手の男性が荷物を差し出す。両掌に乗るほどの小さな箱だ。
 身に覚えのない物を安易に受け取るのも怖いので、伝票の送り主を確認する。そこに記された名前を見た瞬間、心臓が大きく一つ膨れた。
 大場君からだった。
 そそくさと印鑑を押して荷物を受け取ると、私はすぐにそれを開封した。
 胸の高鳴りはまだ収まらない。
 中にはもう少し小さい、白い包装紙に赤いリボンの付いた箱。
 そしてベージュ色の封筒。
『先にこっちを開けろ』と書いてある。
 手紙だろうか。
 封筒の中に同じベージュ色の便箋が入ってあった。

『返事も聞かずに引っ越してんじゃねえよ』

 決して綺麗とは言えない、崩れた字。
 そう言えば、彼の書く文字をちゃんと見たことはなかった。

『なかなか返事をしなかった俺も悪いよな。
 どうせならホワイトデーのお返しと一緒にって思ってたんだ。
 遅くなってゴメンな』

 住所は私の友達に教えてもらったらしい。
 震える手でリボンをほどき、包装紙を剥がす。
 中身は銀色のハート型のペンダント。
 ただし、片割れ。反対側と引っ付けて一つのハートになるものだ。
 箱の中にも手紙が入っていた。

『俺もずっとお前が好きだった』

 彼に想いを告げたあの日から、私はただこの言葉だけを待ち続けていた。
 嬉しさと安堵の気持ちで、涙が溢れ出る。手の震えはまだ止まらない。
 手紙にはまだ続きがあった。

『そしてハートは今一つに』

 その意味が分からなくて、首を傾げていると、再びインターホンが鳴った。反射的に玄関ドアのほうへ視線を移して、私ははっとした。

(ハートが一つになるって、ひょっとして……)

 ドックン、ドックンと私の胸がまた張り裂けそうになる。

<了>

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『今も君を見ている』 -後編- 

忙しい人たちへ(掌編集)

 翌朝。
 悠真はある駅の改札付近にいた。笹山を待ち伏せするためだ。まどかとの会話の中で、通勤にこの駅を使っていると言っていたのを悠真は聞き逃さなかった。
 十五分ほどして、笹山が小走りでやってきて改札を通った。悠真も後に続く。比較的利用者の少ない路線のため、もみくちゃにされるようなことはないが、やはり車内は混みあっていて、席は空いていなかった。笹山は吊革にだらしなく掴まって、目を閉じていた。  
 これまでの笹山には見られなかった姿だ。
 かつては電車通勤だった悠真には笹山の気持ちがよくわかった。休みの翌朝は特に体がだるくて、吊革にぶら下がってでも眠りたい気分だった。

 笹山の勤め先である『D食品』は、悠真も知っている。
 肉の加工食品を製造・販売する有名な一流企業で、大抵の者が一度くらいはここの商品を口にしたことがあるはずだ。
 給料もさぞかしいいのだろうと、悠真は勝手に想像する。
 笹山の席は都内の営業所の中にある。
 出勤してしばらくすると、笹山は立ち上がり、「朝礼始めます」と辺りを見回した。フロアにいる全員が立ち上がるのを見届けると、一番奥にある行動予定を書き記すホワイトボードの前へと移動した。
「皆さん、おはようございます。昨日の休日はいかがだったでしょうか?私は映画に行って参りました。日頃はレンタル専門のため、家で見るばかりですが、いくら大型テレビが安くなったと言っても、やはりスクリーンには勝てません。女優さんの小皺までくっきり見えました」
 フロア全体が湧く。「サイテー」という女性の声も聞こえるが、それもジョークの一つだ。
「仕事のほうですが、新商品の『気分はドイツウィンナー』がよく売れていると、私の担当店舗で聞いております。M食品さんの『シャッきりウィンナー』に比べると……」
 時折ユーモアを交えながら、笹山は立て板に水の如く、流暢に話す。
 人前で話すのが苦手な悠真には羨ましいことだった。

 小

「笹山さん、今、ちょっといいですか?」
 デスクワークに取り組んでいる笹山のそばに、一人の男がやって来た。年齢は二十代前半だろう。笹山に比べてまだ初々しさがある。
「ああ、野々村か。まあ、ちょっとくらいなら構わないよ」
「実は毎月恒例の、課長提出前の企画書チェックなんですけど……」
「またかよ。面倒臭えな」
 口ではそう言いながらも、笹山は野々村の差し出す書類を受け取る。
「すみませんねえ……僕の上司というわけでもないのに」
「全くだよ」
 笹山は黙ってその書類に目を通し、時折赤ペンで修正を加える。
「まあ、こんなもんかな」
「ありがとうございやす。どうもこれだけは苦手で」
「だいぶマシになって来てるからさ。自信持てよ」
「マジっすか?」
「いや、嘘」
「嘘っすか!」
「ありがとうございやした」と、野々村はもう一度頭を下げて笹山のそばから離れていった。
 どうやら二人は先輩、後輩の関係にあるらしく、笹山の面倒見の良さが伺える。

 小

 悠真は笹山の車に便乗して外回りにも同行したが、取引先でも彼に悪い印象を抱いているような者はいなかった。皆から一様に笑顔で迎え入れられ、帰るときには「ありがとうございました」と、感謝の言葉で送り出された。それが信頼から来るものだというのは、想像に難くない。
 午後六時過ぎに事務所に戻った笹山は、二時間ほどデスクワークをして、その日の業務を終えた。
 このまま真っ直ぐに帰らずにパチンコや飲みに行く可能性もある。ほどほどならいいが、依存しているようでは困る。以前まどかに言い寄った男にもそういう者がいた。
 それ以上に許せないのが、他にも女がいたり、節操なく誰でも誘ったりする男だ。
 地元の駅で降りた笹山は一軒の店に入った。そこはパチンコ屋でもなく、飲み屋でもない。
食品スーパーだった。割引シールの貼られたものを優先的にかごに放り込んでいく姿を見ていると、割りと倹約家であることがわかる。ビジネスバッグの底に、折り畳みのエコバッグを忍ばせていて、ビニール袋代を節約するという男にしてはなかなかの徹底ぶりだ。
 そのまま特に寄り道をすることもなく、笹山はそのスーパーの近くにある三階建てのハイツの一室に入っていった。先ほどの買い物の量を見る限り、誰かと住んでいる様子もない。
 しかしまだ彼の全てがわかったわけではない。

 小

 悠真は翌日以降も笹山の観察を続けたが、これといって問題のある言動はなかった。
 もちろん、多少愚痴をこぼしたり、仕事で失敗したり、だらしない部分があったりしたが、どれもこれも大して気にするほどではない。
 むしろ、そこに人間らしさを感じるくらいだった。
「何かボロが出て欲しい」
 悠真はいつしかそう願っていた。笹山がまどかに相応しい男だとは認めたくなかった。
「彼女が幸せになれるのなら」と思っていたはずが、いざそんな男が現れると、まどかを取られてしまうような気持ちになる。
 まどかを見守っているのは彼女のためではなく、自分のためだった。

 そんな悠真の心情とは裏腹に、まどかと笹山の関係は悪くはなかった。時折メールをするのを見掛けたし、次の日曜日も、二人は会う約束をしていた。面と向かえば、会話も弾んでいるし、お互い相手に対して笑顔で接している。
 ただ、気になるのは、そんな中でまどかがふとした瞬間に見せる憂いの表情だ。何かに怯えているようでもあり、少し寂しげでもある。
 それがなぜなのか。
 直接尋ねられないことが悠真には歯痒かった。

「悠真のことが忘れられないから」

 それが理由であることを、悠真は望んでいた。

 まどかと笹山の二人が会うようになって、三度目の別れ際。
「それじゃ、また」と、車の助手席を降りようとするまどかを笹山が止めた。
「もう少しいいかな?」
 まどかは「はい」と答えて、ドアから手を放し、もう一度前を見て座り直した。悠真はその様子を後部座席に座って見ていた。
「樋口さんとこうして会うのも三回目です。僕という男がどういう人間なのか、少しはわかってくれたと思います」
 まどかは笹山の目を見ながら、黙って頷く。
「でも樋口さんには、もっと僕のことを知って欲しいし、僕も樋口さんのことをもっと知りたい」
 後に続く笹山の言葉を想像して、悠真の胸が高鳴る。
 もちろん、気のせいだ。心臓はもう止まっている。
「だからこれからは恋人として会ってください」
 しばらく静かな時が流れる。まどかは笹山から顔を背けて前を向く。
 その瞬間、ルームミラー越しに悠真と目が合った……ような気がした。
 今までならそう思っていた。
 しかしまどかが見せた、意識的に視線を逸らす姿に、悠真の中である疑問が湧いた。

 もしかして俺の姿が見えているのか。

 やがてまどかが口を開く。
「ゴメンなさい。私、やっぱり笹山さんとはお付き合いできない」
「……やっぱりそうか」
 笹山が溜め息をつく。
「君と何度か食事をしたり、出掛けたりしたけど、どこかよそよそしさを感じていたんだ」
「えっ……」
「僕と打ち解けていないからとか、そういうのじゃなくて、何て言うのかな……誰かに見られるのを警戒している……そんな感じかな」
 まどかの動揺ぶりが悠真にもはっきりとわかる。
 やはり見えていたのか。
「誰か好きな人でもいるの?」
 まどかは俯いたままの姿勢で、なかなか笹山の問いかけに答えようとしなかった。
「もしかして、以前つき合っていた彼のことがまだ忘れられないから?」
 まどかが大きく目を見開く。
「沙耶ちゃんが教えてくれたよ。触れずにおくつもりだったけどね。事故で亡くなったんだよね?」
 まどかは再び下を向く。
「君たちがどんなつき合いをしていたか知っているわけじゃないから、気持ちはわかるなんて言えないけど……だからっていつまでも彼のことを引き摺って生きていくつもりなのかい?」
「それは……」と言ったきり、まどかはそれ以上、言葉を紡げない様子だった。
「ゴメン。答えが出せるわけないよね。でもさ、二度と帰らない人にいつまでも恋い焦がれていても仕方がないんじゃない?」
 笹山の言うことが間違っていないのは、まどかにもよくわかっているはずだ。
「僕の気持ちに対する君の返事がノーだということには変わりないけどね」と、笹山は爽やかに笑った。
 まどかは「本当にゴメンなさい」と、頭を下げて車を降りた。

 自宅近くの公園を歩くまどかの背中はとても寂しげだった。
 悠真は思い切って声を掛ける。
「まどか」
 命を失ったあの日以来、彼女の名を呼ぶのは初めてだった。
 しかしまどかが立ち止まったり、振り返ったりする様子はない。
「まどか」ともう一度呼んでみるが、結果は同じ。
 声は聞こえないのか。それとも聞こえないフリをしているのか。
 隣に並んで歩いても、まどかは悠真の顔を見ようとはしなかった。
 それならばと、前に立ちはだかったが、まどかは避けることさえせずに悠真の体を真正面からすり抜けていった。
 もしかして見えていなかったのか。
 もはや悠真にもわからなくなっていた。

 まどかが家の中へ入っても、悠真は足を止めなかった。いつもなら遠慮するところだが、今日ばかりはまどかのことが気掛かりで仕方がなかったからだ。
 まどかは両親に帰宅を知らせることもなく、二階の自分の部屋に入った。上着だけをハンガーに吊るすると、そのままベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。部屋の中は悠真が最後に訪れた時と変わっていなかった。写真くらい飾ってくれているかと思ったが、悠真のものはどこにもなかった。
 ひょっとすると、どこかに大事にしまっているのかもしれない。
 ケータイが鳴る。まどかはノロノロと体を起こして、机の上に置いた鞄からケータイを取り出す。
「もしもし」
 鼻声で電話に出る。よく見ると目が赤い。
「うん、うん」と、相手の言葉に対して頷いている。その応対の仕方から、電話の主が笹山ではないことがわかる。
「違うのよ。本当はその逆よ」
 逆とは何の話だろう。
「沙耶の言うように、私は必死に思い出に変えるようとしているのよ」
 相手は沙耶か。
 思い出に変えようとしているというのは俺のことか。
 まどかの言葉だけを頼りに、悠真は二人の会話の内容を探る。
「でもそうする度に悠真の姿が見えるのよ」
 そうか。ずっと見えていたわけではなかったのか。
「俺を忘れないでくれって言われているみたいに」
 見守っているつもりが、まるで地縛霊のような扱いを受けていたことに、悠真はショックを受ける。
「気のせいなんかじゃない。ハッキリと見えるのよ」
 まどかがまた涙を流し始める。
「悠真のことを考えると、私だけ幸せになってもいいのかって疑問が湧いてきて……好きな人ができても、何だかいけないことをしているような気がして……」
 まどかはそれ以上言葉を続けられなかった。
 悠真は項垂れた姿勢のまま、まどかの部屋を出た。
 文字どおり宙に浮いた自分の存在が、まどかにとってそれほど負担になっているとは思ってもみなかった。追い払うべきは彼女に言い寄る男たちではなく、自分自身だった。
 例え未だに彼女を愛していたとしても、死んでしまった俺に彼女のこれからの人生をどうこう言う資格はない。
 俺の役割は終わった。
 悠真はそう悟った。
 静かに目を閉じると、涙が頬を伝い落ちた。

 小

 翌日、笹山からまどかに「もう一度会って話がしたい」と、連絡があった。
 仕事を終えたまどかは、待ち合わせである駅前に向かった。すでに笹山は待っていた。まどかは昨日のことも含めて「ゴメンなさい」と、まず頭を下げた。
「いや、いいんだ。僕も今来たところだから」
 そう言って、笹山は優しく微笑む。
「それでお話っていうのは?」
「樋口さん、亡くなった前の恋人ってどんな人?」
 笹山の唐突な質問に、まどかは目を丸くした。
「どういうことですか?」
「昨日、僕の夢に見知らぬ男性が出てきてね。『まどかのことを宜しく頼む』って言ったんだ。年齢は僕や君と変わらないくらい。体型は割とガッチリしていて、男らしい顔付きだったよ」
 まどかははっとした。
 やはり悠真は自分のそばにいたのだと再認識する。
「都合のいい解釈だけど、何だかお告げのような気がしてね」
 笹山が少し照れ臭そうに下を向いて笑う。
 もし彼の夢に出た男が本当に悠真なら、死して尚、未だに自分を見守ってくれていたのだろうか。
 そうとは知らず、悠真を地縛霊のように扱っていたことを、まどかは恥ずかしく思った。
「もし樋口さんさえ良ければ、彼が言ったように僕が力になるけど……どうかな?」
「でも私……」
「一度は断ったのに、ってこと?」
「そうです」
「それなら気にすることはないよ。もし腹を立てているなら、こんなふうに誘ったりしないさ」
 本当にいいんだろうか。
 まどかにはまだ迷いの気持ちがあった。
(大丈夫)
 誰かの声が聞こえた気がして、まどかは思わず「えっ」と呟いてしまう。
 目の前に座る笹山の顔に、悠真の顔が重なる。
「大丈夫だよ、彼なら」
「悠真」
「彼は誠実で、絶対にお前を裏切ったりしない。信頼できる人だ。だからこそ俺は彼に頼んだんだよ」
「やっぱり彼の夢にできたのは悠真だったのね。ねえ、図々しいって思われたりしないかな?」
「それはさっき彼の口から聞いただろ?」
「そうだけど……」
「彼の言葉に嘘はないよ。俺が保証する。それとも、まどかは俺も信用できないっていうのか?」
「そんなわけないでしょ」
「だったらこれ以上迷うな」
「悠真、ゴメン。私のこと、ずっと見守ってくれていたのよね?」
 悠真は何も言わず、ただ笑ってそれに応えた。
「まどか、幸せになれよな」
「悠真!」

「……さん、樋口さん」
 自分の名が呼ばれていることに気が付いて、まどかははっと我に返った。
「どうかした?」
 前に座っているのは悠真ではなく、やはり笹山だった。
「いいえ……あの……よろしくお願いします」
 先程話をしたのは、本当に悠真だったのか、それとも自分自身がいい訳をしたくて見た幻なのか。
 まどかにもわからなかった。
 どちらでもいい。
 とにかく信じてみようと思った。
 笹山を。
 そして悠真を。

<了>

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『今も君を見ている』 -前編- 

忙しい人たちへ(掌編集)

今君


 午前七時五十分。
 木目調のアルミドアを開いて、まどかが玄関から出てきた。
 古い住宅街を抜け、郵便局を右手に曲がった後、公園の前を通って駅に向かう。
 普通電車に揺られること、三駅。そこからビル街を十分ほど歩いたところにまどかの勤める会社がある。
 彼女の職務は建築資材メーカーの事務。際立って「よくできる」という訳ではないが、真面目で卒なく仕事をこなすというところで、周りから信頼はされている。二十代後半に差し掛かると、愚痴の増える女性も多いが、その点もまどかは控え目のため、皆からも慕われている。
 スタイルや容姿も比較的良いほうで、何かと言い寄ってくる男も少なくはない。
 悠真にとっては、それが気掛かりだった。自分には何もできないので、せめてまどかにはちゃんとした男を見つけてやりたいと思っていた。
 つい先日も、まどかの会社に出入りするどこかの営業マンが彼女をしつこく食事に誘うので、悠真にしかできない方法で脅してやったのだ。もちろん、事前にその男がどんな人物かを調べた上でのことだ。
 まどかは賢い女性で、くだらない男に引っ掛かるとは思えないが、一方で少し天然なところもある。誰かが見守ってやる必要があると、悠真は思っていた。

 小

 午後七時過ぎ、まどかは帰宅した。
 これもほぼいつも通り。
 彼女が家に入るのを見届ければ、悠真の今日の役目は終わりだ。
 玄関ドアの取っ手を握ろうとしていたまどかが、突然カバンの中を探り始めた。しばらくして彼女が取り出したのは、ケータイだった。
 悠真のいる位置からでは、何を話しているのかはわからない。もちろん、相手が誰かということも。
 まどかがケータイを耳に当てたまま、家の中へと入っていったため、相手が誰かはわからず仕舞いだった。

 小

 日曜日の午後五時半頃、まどかは少々急ぎ足で駅に向かっていた。
 何か予定があるのだろうか。
 悠真も遅れぬように後に続く。
 券売機で五つ向こうの駅の切符を買ったまどかは、改札を通って急行電車に乗った。吊革にぶら下がりながら、しきりに腕時計を見つめている。
 誰かと待ち合わせか。
 電車を降りると、まどかは再び速足で歩き出し、素早く改札を抜けた。キョロキョロと周りを見渡し、しばらくすると、誰かを見つけた様子で手を降り、その相手に駆け寄った。
 向こうも笑顔でそれに応える。
 まどかの高校時代からの友人、沙耶だ。
 二人は軽く挨拶を済ませると、示し合わせていたように、どこかに向かった。十分ほど歩いたところで、一軒の小さな洋食レストランに入った。
 この店には悠真も来たことがある。半熟卵を乗せたハンバーグがうまいのだ。
 女性店員が出てきて、まどかと沙耶を窓際の「予約席」と札の置かれた席へ案内した。悠真も二人の会話が聞こえる位置に行く。
 気になるのは、その席が四人掛けだということだ。混雑することが容易に予想できるこの時間帯に、二人掛けのテーブルを外して、四人掛けのテーブルを予約席に充てるとは思えない。
 他に誰かが来ると考えるのが自然だ。
 沙耶がケータイを手にする。
「少し遅れるって。メールが来てたわ」
「そう」
「何だか浮かない顔ね」
「初めて会う人が相手だから、緊張してるのよ」
「ふーん。でも大丈夫よ。いい人だから。なんと言っても私の彼の友達だもん」
「あら、さりげなくノロケられちゃった」
 二人は顔を見合わせて笑う。
 悠真は沙耶の恋人には会ったことはないが、その友人と言えば、やはり男の可能性が高いだろう。
 悠真は胸がざわつくのを感じた。
 それから五分ほどすると、二人の男がやって来た。
 悠真の予想は当たった。
 まどかの向かいに座っていた沙耶が彼女の隣に移動して、男たちは前に座る形となった。
 まず沙耶が正面に座った男の紹介を始める。
「えっと、一応これが私の彼氏の俊介です」
「一応って……それに『これ』って何だよ」
「コイツのほうが良かった?」
「お前なあ……」
 二人のやり取りに、緊張気味に見えたまどかともう一人の男の表情が和らぐ。
「こちらが私の親友の樋口まどか。ショートヘアがよく似合ってますね」
「ちょっと、何の宣伝よ」
「名前だけだと愛想がないでしょ」
「もっと他にあるでしょ? 性格がいいとか」
「そういうのは自分で言わないの」
「それもそうね……じゃなくて、ゴメンなさい。樋口まどかです。よろしくお願いします」
 まどかが慌てたように、頭を下げる。
 俊介が隣の男を「おい」と肘でつつく。
「自己紹介、自己紹介」
「お前からの紹介はなしか?」
「そのほうが早いだろ」
「えっと、これの友達の……」
「また『これ』扱いかよ!」
 先程と似たようなやり取りに、再び席が沸く。その輪に入れないことを、悠真は歯痒く感じる。
「笹山弘明です」
 痩型で、整った顔立ちをしていて、物腰も柔らか。話し方にも嫌みがなく、第一印象は悪くない。
「恋人募集中です」
「知ってるって!」
 沙耶と俊介、二人から同時にツッコミが入る。
「そのための席だろ」
 やはりそうか。
 再び悠真の胸がざわつく。
 まどかの表情を窺う。
「まだそこまでは」という感じの顔。ただし、悠真が勝手にそう思っただけだ。
 それから四人は、しばらくメニューとにらめっこをしていた。

 注文を済ませると、会話が始まった。
 今回の食事会をセッティングしたのは、沙耶のようだ。「俊介の友達にいい人がいるから会ってみないか」と、まどかを誘ったのだ。最初は乗り気ではなかったまどかだが、沙耶が「是非とも」としつこく食い下がるので渋々了承した。

 笹山が勤めているのは大手食料品メーカーで、彼はそこで営業の仕事をしているらしい。趣味はバイクで、一人でツーリングに行ったりもする。その行き先での出来事を、彼はとても楽しげに話した。
 始めは表情の硬かったまどかも、いつしか笹山の言葉に笑みを浮かべるようになっていた。それは社交辞令や作り笑いではない。本当に楽しいから笑っているのだ。彼女との付き合いの長い悠真にはわかる。
 次第にまどかのほうからも笹山に話題を振ったり、自分のことを話すようになっていた。
 悠真がまどかを見守るようになって二年。
 彼女に言い寄る男はたくさんいたが、相手に対してこんなふうに接しているのは初めて見た。もちろん、親友の恋人の友人ということで安心している部分もあるかもしれないが、決してそれだけではないだろう。
 その様子を見ながら、悠真は一人苛立っていた。
 どんなに頑張っても、彼には二人の間に割って入ることができない。だからこそ余計にイライラする。

 二時間ほど話して、四人は店を出た。
 もちろん、悠真もだ。
 ただし、まどかたちと一緒に行動というわけにはいかず、ただ後ろを付いていくだけだ。
「帰る方向が逆だから」ということで、四人は駅で解散になり、男二人と女二人に別れることになった。
 当然、悠真はまどかたちのほうへ行く。

 日曜日の午後九時前ということもあって、乗客は少なかった。
 席に座ると、沙耶が「笹山さんの印象はどうだった?」と、まどかに尋ねた。
「そうね。悪くはなかったわ」
「じゃあ、良くもなかったの?」
「ゴメン……そうじゃないけど」
「けど……何?」
「付き合うことが前提みたいなのが嫌なだけ」
「そこまでハッキリとは言ってないけどね」
「でも彼はそのつもりだったでしょ?」
「確かにまどかを気に入っていたみたいね」
「困ったな」
「いいじゃない。さっき悪くはないって言っていたし、もう少し様子を見たら? 私の顔を立てるつもりでさ」
「うん……そのつもりなんだけど……」
「また『けど』か。どうにも歯切れが悪いわね」
 沙耶にそう言われて、まどかは下を向く。
「あんた、まだ悠真君のことを引き摺っているんでしょ」
 まどかが大きく目を見開く。そして悠真の心臓も大きく膨れる。
「……そんなことないわよ」
「あのね、私が笹山さんの紹介を頼んだのは、そんなあんたが心配だからよ」
 沙耶が大袈裟に溜め息をつく。
「もういい加減思い出に変えなきゃダメ。彼が亡くなってもうすぐ二年なんだから」

 小

 およそ二年前のあの日、飲酒運転の車が街中で暴走し、歩行者数人が重症、死亡した。
 そのうち一人が悠真だった。
 葬儀も納骨も済み、本来ならばすでに成仏しているはずが、未練を断ち切ることができてない悠真は、未だに現世を彷徨っていた。
 その未練とは、まどかのこと。
 別れを惜しむ暇さえない突然の別れだったため、まどかのショックも大きかった。その上事故の原因が加害者の過失となれば、やりきれない気持ちでいっぱいだった。
 悲しみに打ちひしがれ、塞ぎ込むまどかの姿を見ると、悠真は死んでも死に切れなかった。まどかがどう思っていたかはわからないが、彼は彼女との結婚も考えていた。自分にはどう頑張っても、もうまどかを幸せにはしてやれない。それならば、せめて「彼女に相応しい男を見つけてやろう」と、悠真は決めたのだ。あらゆる場所を自由に、見つからずに行き来できる彼にとっては、誰かの素性を知ることなど容易いことだった。
 もちろん、笹山のことも調べるつもりだ。ただし、まどかが笹山を気に入って入ればの話だが……。

 駅から自宅へと向かう道。
 まどかの足取りはどこか重たげに見えた。
 沙耶とも話していたように、笹山のことがあまり気に入らなかったのか。
 ただ、あの店で見たまどかの様子からして、それほど悪く思っているようには感じなかった。
 さすがの悠真にも心の中まで見透かすことはできなかった。
 まどかがふと立ち止まって、鞄からケータイを取り出す。
 静かに画面を見つめる。
 メールらしい。
 本文を読みたくて、悠真はそっとまどかのそばに近づいたが、まどかは返信もせずにメールを閉じてしまった。
 いくら元恋人とはいえ、これはやり過ぎだったなと、悠真は反省する。
 まどかが再び歩き出す。
 玄関の前にたどり着くと、まどかが後ろを振り返った。
 悠真と目が合った。
 もちろん、悠真の気のせいだろう。
 その証拠に、まどかは何事もなかったかのように中へ入っていった。
 悠真は決して家の中まで追っていくことはしない。その気になれば、中に入るのは容易いことだが、さすがにそこまではしなかった。いくら元恋人とは言え、越えてはいけない境界線はある。

 小

 翌週の日曜日の午後一時過ぎ。
 まどかはまた駅への道を歩いていた。前回とは違い、足取りもどこか落ち着いている。ただ、表情が少し硬い。
 ひょっとすると、あの笹山という男と待ち合わせなんだろうか。
 悠真は勝手にそう予想して、まどかの後に続く。

 この前と同じ駅で降りたまどかは、改札の正面にある大きな丸柱の前に立ち、腕時計で時間を確認した。
 相変わらず表情は硬い。
 五分ほどして男が一人、まどかのそばにやって来た。
「お待たせしました」
 爽やかな笑顔を見せたのは、やはり笹山だった。
「私も今来たところです」と、まどかはやや緊張気味の面持ちで応える。
 一言、二言交わしてから、二人は歩き始めた。会話が聞こえる程度の距離を保ちながら、悠真はその後を追う。
「いきなり映画なんかに誘ってしまってすみません。やっぱり最初は食事くらいにしておけば良かったかなと少し後悔していました」
 笹山はそう言って頭を掻く。
「私、映画は好きなほうなので大丈夫です」
 悠真とまどかの初デートも映画だった。二人は同僚で、休憩時間に話題になった映画を一緒に見に行ったのだ。
「実はあまり面白くなかった」と、悠真が話したのは二人が付き合うようになってからだ。

 チケットを買って、笹山とまどかは映画館に入った。もちろん、悠真はフリーパスだ。
 シートは真ん中の列の右端の通路側。悠真もそのそばに立つ。座らなくても決して疲れはしない。
 悠真がこんなことをするのは、笹山が暗闇であるのを利用してまどかに何かしないかを見張るためだ。

 小

 悠真の心配をよそに、何事もなく映画は終わった。
 映画館から出た二人は近くのカフェに入った。注文を済ませると、笹山のほうから話し始めた。
「意外な結末でしたね」
「そうですね。まさかあのカメラマンの見習いがおやっさんの息子だとは全然想像がつかなかったです」
「僕、ああいう大どんでん返しがとても好きなんです」
「私もです。やられた! って思う瞬間が悔しいけど、楽しいんです」
「えー、あの人あんなに優しいいい人だったのに! みたいな?」
「そうそう」
 二人の会話が弾むのを見ていると、悠真は胸が痛んだ。
 いや、何を言っている。彼女か幸せになればそれでいい。そう思っていたはずじゃないのか。
 悠真は自分の気持ちを否定するように、首を横に振った。

 そのカフェで一時間ほど話して、まどかと笹山は別れた。
 終始笑顔を絶やさなかったまどかは、「また会ってくれますか?」という笹山の問いかけにも、迷う様子もなく、「はい」と答えていた。
 ところが一人になってしばらくすると、突然、表情が憂いを含んだものへと変わった。
 なぜだろう。
 ひょっとすると、沙耶が言っていたように、まだ俺を忘れられない気持ちがあるのだろうか。
 ちゃんとした答えは悠真にもわからなかった。

<後編に続く>

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『その日、特急電車の中で』 

忙しい人たちへ(掌編集)

<2017年バレンタイン特別企画作品>

 地元へと帰る特急電車の中、望の前のシートに座る若い女が突然、泣いた。
 泣くというと、語弊があるかもしれない。どちらかと言えば、涙を流し始めたという表現のほうが相応しい。激しく嗚咽するわけでもなく、顔を歪めるわけでもない。ただ静かに、視線を窓の外に向け、寂しげな表情で頬を濡らしている。
 見ず知らずの相手だ。放っておけばいい。
 望はそう考えて、雑誌の続きを読み始めた。
 女は二つ前の駅で、この電車に乗ってきた。空席はあるが、全車両座席指定のため、他の席には座れない。わざわざ望の前に座ったわけではない。
 年齢は、望と同じ二十代後半くらいだろう。細身で色が白く、肩の辺りで切り揃えられた黒髪は艶やかで美しい。手入れがよく行き届いているのがわかる。膝の上で両手を重ね合わせ、シートに遠慮がちに腰を掛けている姿から、彼女の育ちの良さがうかがい知れる。  
 ただし、表情は凛としており、何も知らない、何もできないお嬢様というわけではなさそうだ。
 女がいつまで経っても涙を拭うことさえしないため、さすがに望も知らぬふりを通せなくなってきた。
 だからといって、詳しい事情を尋ねるのも気が引けた。
 望は上着のポケットに入れてあったハンカチを、女にそっと差し出した。
 女が目を丸くした。
「いつまでもメソメソされていたら困る」
「どういうこと?」
「とにかく涙を拭けよ」
 女は「えっ?」と漏らして、人差し指で両方の目元を拭った。
「もしかして私、泣いてる?」
「少なくとも俺にはそう見えるよ」
「まさかね」と女は微笑み、望のハンカチを受け取った。
「せっかくだから使わせてもらおうかしら? きちんとアイロンがけされているみたいだし」
「失礼な奴だな」と、望は苦笑した。女はハンカチで、左右の目を優しく拭った。
「自分で泣いていることに気が付かなかったのか?」
 女が「そうね」と頷いた。
「私ね、さっき彼と別れてきたばかりなのよ。遠距離だったし、何となく予感はしていたから、悲しくなんてない。そう思っていた」
「それなのに泣いていた。だから『まさかね』か」
「そういうこと」と言って、女はハンカチを望に返す。
「ありがとう。これ、誰かからの借り物?」
「なぜわかった?」
「隅にバラの刺繍が入っているから。あなたの趣味には思えなくて」
 なるほどなと、望は笑みをこぼした。実に簡単な答だ。
「でも、もう返す必要はないんだ」
「どういうこと?」
「いや、気にしないでくれ。それより少しは落ち着いたか?」
「うん。あなたのおかげね」
「それなら良かった」
「ありがとう。ねえ、あなたはどこへ向かうの? 旅行中か何か?」
「いや、家に帰るところだ」
「どこまで?」
「三十二地区」
「私は十七地区。先に降りるのは、あなたってわけね。帰りってことはどこかへ行っていたのよね?」
 望が降りる駅に到着するのには、まだ時間が掛かる。駅で買った雑誌も大したことは載っていなかったし、女がどこか話したげな雰囲気だったので、望はそれに付き合うことにした。
「俺も恋人に会いに行っていたんだ」
「じゃあ、私と同じで遠距離なんだ。ねえ、どんな人?」
「しっかり者と言えば聞こえがいいが、男勝りで気が強すぎるくらいだな」
「あなたってそういう人が好みなの?」
「好みというわけじゃないけど、涙を武器にするよりずっとマシさ」
「それは言えてるかもね」
「ただ、ときには女性らしい弱さも見せて欲しいな」
「なぜ?」
「男の存在意義がなくなるからさ」
「なるほどね」と、女は上品にクスクス笑った。
「君はどんな男性が、あっ、悪い」
 望は慌てて口を噤んだ。
「いいのよ。気にしないで……好みのタイプというより、判断基準で言えば、いざって時にどれだけ頼れるか、かな」
「やるときはやる男か……でもさ、いざってときはそんなにあるものじゃないだろ?」
「そうね。日頃は優しい。それだけでいい。多くは望まない」
「謙虚だな」
「外見は別だけどね」と付け足して、女は微笑む。
「そこはこだわるほう?」
「多少は。だって見た目は悪いよりいいに越したことはないでしょ?」
「まあ、そうだな」
「でもストライクゾーンは広目にしているつもり。そこまで若くはないしね」
 そうは言うが、それほど歳をとっているようには見えない。
「今、いくつ?」
「へえ、女性にそういうの聞ける人なんだ」
 女の口調は少し意地悪そうなものだったが、望は気にも留めなかなった。
「別に聞かれて困るような歳にも見えないし、後で気まずくなるような間柄でもないしな」
「それもそうね」
「二十六、その辺りだろ?」
「やったわ。二つも若く見られちゃった」
 女は機嫌良く笑った。本当はそのくらいだろうとわかっていたが、望はわざと若く言ってみたのだ。
「俺も二十八だ」
「奇遇ね。同じ歳だなんて」
「もしかしたら運命かもな」
 望が真剣な眼差しでそう言うと、女もそれに応えた。静かな時間が流れる。本来なら聞こえてくるはずの電車の走行音も、周りの人間の会話も、二人の耳には届かなくなっていた。

 運命。

 望自身も冗談で言ったつもりの言葉だったが、なぜか妙な真実味を感じた。理由はわからない。
 答えを模索しようとすると、女がそれを打ち消した。
「いつもそうやって女性を口説いているの?」
 思い過ごしだ。
 感傷的になっている自分に気がついて、望は苦笑した。
「いや、ちょっとした冗談だよ。たまたま乗り合わせた相手が同じ歳だったってだけじゃ運命にならないか」
「そうね。そんなことじゃ女性の心は動かないわよ」
「だよな」
 そう言いながらも、望の胸は高鳴っていた。
「あなた、生まれも三十二地区?」
 そんなふうに女が話題を変えたが、どこか取って付けたような違和感を、望は感じた。
「いや、生まれは四十地区」
「そういうことか」
「何がだ?」
「今の恋人と知り合ったのは四十地区だけど、あなたが転勤か何かで三十二地区に引っ越して遠距離恋愛になった。そんなことを勝手に推測したんだけど、どう?」
「当たりだな」
「やっぱりね」
 女はしてやったりという顔をした。
「君は生まれも育ちも十七地区?」
「いいえ。私はあなたと逆。三十二地区で生まれ育って、就職を機に十七地区に住み始めたわ」
「そして遠距離恋愛?」
「そうよ」
 先程の予測が容易だったわけを知り、望は笑った。
「要するに、お互い似たような境遇というわけか」
「みたいね」と、女も笑った。
「どの辺りに住んでいたの?」
 女の言った場所は、望の住むところからは随分と離れていた。
 地区と一口に言っても、その範囲は広い。「同じ地区に住んでいるからご近所さん」というわけにはいかないのだ。しかし多少は話が合うのも確かで、その後は地元の話で盛り上がった。

「そうそう。良かったらチョコレート食べない?」
「チョコレート?」
 女の突然の申し出に望は目を丸くした。
「今日はバレンタインでしょ?」
「そういや、そうだな」と、望は知っていたのに忘れていたふりをする。
「せっかく用意していたのに、渡すこともなくなっちゃった。ひどい男よね。わざわざバレンタインデーに別れようなんて……捨てるのも勿体ないし、そのまま誰かにあげるのも失礼だし」
 望は了承したわけではないが、女はすでに鞄を探り始めていた。
「一緒に食べるならいいだろってことか?」
「そう。つき合ってくれる? あっ、あった!」
 女が取り出したのは掌より少し大きい、赤いリボンのついた白い包みの箱だった。
「いいよ。チョコは嫌いじゃないしな」
 箱の中には一口サイズのチョコレートが四つ。仕切りで分けられて並んでいる。たったこれっぽっちだが、決して安いものではないことが、望には察しがついた。
「不公平のないように、二つずつね」
「お先にどうぞ」と、女が望のほうへ箱を差し出す。望はその言葉に従い、一つを箱から取り出した。続けて女がチョコレートを手にする。それから二人揃って、口に運ぶ。
「美味しい」と、女が子供のように目尻を下げる。
「でも少し苦味があるわね」
「それは失恋の味だな。きっと」
「そうかしら?」
「ああ。俺にも同じ味がするから間違いない」
「えっ……」
 女が首を傾げるのを見て、望はふっと笑い、二つ目のチョコレートを頬張った。
 車内アナウンスが三十二地区への到着を告げ、電車が減速を始めた。
 望は立ち上がって、シート上部に設置されたトランクスペースから鞄を取り出した。キャスターの付いたもので、二、三日程度の旅行の荷物なら充分入る大きさだ。
「彼女の部屋に泊めてもらうつもりで、準備してきたんだが、全部無駄になった」
 望は自嘲気味に笑った。
「もしかして……」
「俺もフラれたんだ」
「そうだったの」
「どんなに気が強くてしっかり者でも、寂しさには勝てなかったらしい。好きな人ができたってさ」
「なるほど。あなたはチョコをもらい損ねたほうだったわけね」
「結構キツいな」
「歳を聞いたお返しよ」
 再び出た悪意のない女の意地悪に望は笑う。
「それにしても、こんなふうにしてフラれた二人が向かい合わせに座るなんて、やっぱり運命かもな」
 先程と似たような望の言葉に、女がクスクスと笑う。
「言ったでしょ? そんなことじゃ女性の心は動かないって」
「やっぱりダメか」
「でも……」と、女が優しく微笑む。
「さっきよりは可能性はあるかもね」
 その言葉に、望も少しだけ笑って応える。
 電車が駅に到着した。
「それじゃ、また」
 望が軽く手を挙げると、女は「うん」と頷く。
 望は鞄を抱えて車両の隅にある出入口に向かった。ホームへ出る前に振り返ってみると、女が小さく手を振っていた。望はもう一度手を挙げて、別れの合図を送った。
 望が降りると、電車はすぐにホームを出ていった。
 望の脳裏を彼女の笑顔が横切る。
 そこで望はふと思い出す。
 自分自身が別れ際、彼女に言った言葉を。

『それじゃ、また』

 確かにそう言った。
 しかしまるで無意識だった。
 もう一度会うことを望んでいるからか。
 それならば、連絡先を聞く必要があるはずだ。だが聞こうとはしなかった。
 女も同じだ。
 なぜ望の言葉に対して、何の否定もなしに「うん」と応えたのか。
 特別なことをせずともまた会える気がしていたのか。
 理由も、根拠もない。
 もし何かしらの言葉でその予感を表現するなら、「それが運命だから」かもしれない。

<了>

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『果てへ』 -後編- 

忙しい人たちへ(掌編集)

 胸の辺りをそっと撫でてみる。
 致命的とも言える場所を二度続けて撃たれたにも関わらず、俺は生きている。それどころか傷一つ付いていない。仲間たちが無事だというのも、嘘ではないのだろう。
「やはりあの城は『果て』に通じていたんだな」
「いや」と、男は首を横に振る。
「あの城は無関係だ」
「どういうことだ?」
「口で説明するよりその目で確かめたほうがよかろう。来たまえ」
 男が先に部屋の外へ出たので、俺もベッドから降りて立ち上がった。体の痛みは当然のことながら、ふらつきなどもなかった。
 廊下は水平型エスカレーターで、壁と天井は部屋と同じ銀色だった。窓はないが、所々にドアはある。その様相はまるで、どこかの基地を彷彿とさせる。
 しばらく行ったところでエスカレーターが停止した。壁の一部が消え、向こう側に通路が現れた。
「ここからは歩いていくことになる。それほど遠くはないがな」
 先に足を踏み入れた男に、俺も続く。
 いったいどこへ向かうのか。
 何を見せられるのか。
 まるで想像がつかなかった。
「麒麟よ。ここから外を見てみるがいい」
 男が顎をしゃくって、そばにある縦長の大きな窓を示す。
 俺は窓にそっと近付く。胸が高鳴っている。
 男の言う通りにしてみたが、何てことはない。
「夜空が見えるだけだ」
「夜空か」
 男がフッと笑う。
「宇宙だよ。君が見ているのは」
「宇宙! どういうことだ!」
「君は船の中にいる」
「船? 俺をどこへ連れて行くつもりなんだ! 答えろ!」
「答えてやるさ。しかしその前にもう一つ見せるものがある」
 男が再び歩き始める。
 一刻も早く真相を知りたい俺にとって、男の落ち着いた対応は腹立たしいものだった。しかしこの理解し難い状況では、奴に従うしか手はなかった。途中、いくつかの窓があり、その度に外へと視線を送ってみたが、やはり見えるものは同じ。暗闇とその中にある無数の星の光。
「ここだ」
 男が再び足を止める。目の前のオートドアが開く。
「この中に全てがある」

『全てを望む者よ。目指せ、果てを』

 まるで呪文のように、繰り返し耳にしてきた言葉が甦る。
 中に入ってすぐ左側が一面ガラス張りのショーケースのようになっていた。ケースと言っても、とてつもなく広い。隅から隅まで視線を巡らせるには、それなりの時間が必要だ。 そこに無数の白い箱が並んでいる。ここからでは素材が何なのかはわからない。
「あの箱は何だ? まるで棺のように見えるが……」
「棺か……いずれはそうなるかもしれんな」
「どういうことだ?」
「コールドスリープ(冷凍睡眠)用のカプセルだ」
「ということは、あの箱の中身は人間なのか?」
「そう。皆、あそこで眠っている」
 今、この目で見ていることがいったい何を意味するのか。俺には未だ検討がつかなかった。
 男が反対側にある、モニターの付いた操作盤に触れる。
 ガラスの向こう側、天井に設置されたレール式のクレーンが動き始める。左端のカプセルの上まで移動したクレーンは、先に付いたハンドマニピューレータでそれを掴んで持ち上げた。
 再び動き出したクレーンは、カプセルを俺の位置から見えない場所へと運んでいった。
 しばらくして、操作盤の左横にあるオートドアが開いた。中には、先程のクレーンが運んできたと思われるカプセルが置かれている。
 男がカプセルの右側面に付いたボタンを押すと、蓋の一部が白からクリアに変わった。
「そこから眠っている者の顔がわかる。見てみろ」
 いったい誰なんだ。
 仲間のうちの一人か。
 もしそうなら、なぜ俺はカプセルに入れられなかったのか。
 この船はどこに向かっているのか。
 男の狙いは何なのか。
 激しく収縮と膨張を繰り返す心臓の動きを感じながら、俺はカプセルにそっと近付いた。クリアに変わった部分から、その者の顔を見た瞬間、全身の血の気が引いた。
「こっ、これは……俺!」
「そう。君だよ、麒麟」
「馬鹿な! ここに眠っているのが俺なら、あんたと話している俺は誰なんだ?」
「落ち着きたまえ、麒麟。今から順を追って説明する」
 男が俺の肩を軽く叩く。
「この船は第二の地球を探して、コンピュータによって運航されている」
「第二の地球? どういうことだ?」
 男が険しい顔をして、スッと手を上げる。
「私が何か言う度に『どういうことだ』と聞くのはやめてくれ。話が先に進まなくなるのでな」
 確かに男が言うように一言、二言で済むような話とは思えない。今は聞くしかなさそうだ。
「すまない。続けてくれ」
「うむ」と、男は頷く。
「麒麟、君は当然覚えているだろうな? 人類が異星人から地球を守ったあの日のことを」
「もちろんだ。人類にとって名誉ある日だからな」
 赤く染まった夕焼け空をバックに、奴らの船が一斉に引き上げていったのを、俺は鮮明に覚えている。
「それが作られた歴史だとしても?」
「作られた歴史? どう……」
 また「どういうことだ」と言ってしまいそうになり、慌てて口をつぐむ。
「人類は異星人との戦争に負けたのだよ」
「嘘だ!」
「嘘ではない。あの日以降、お前の知っている日常は全てコンピュータによって作り出されたものだ。カプセルで眠る君たちが見ている夢だ。今、こうして私と話しているのも、その一部だ」
 今日までの記憶が甦る。
 勝利の美酒に酔いながらも、多大な犠牲に悲しみの涙を流した。失ったものを取り戻そうと、復興に全力を注ぎ、耐え難きを耐え凌いだ。
 それが全て虚構だったというのか。
「絶滅の危機に陥った人類は、地球を捨て、新しい星への移住を決定した。この船に乗ってな。ただし、未開の星で新たな生活基盤を築くにはそれなりの設備がいる。それを積み込むためのスペースを考慮すれば、生き残った者全てを乗せてというわけにはいかなかった」
「つまり残りは見捨てて来たわけか」
「そう睨むなよ。誰もが辛い決断だったのだからな」
「……それで……このカプセルで眠っているのが運良く船に乗れた連中か?」
「そう。君もそのうちの一人だがな」
「人選の基準は?」
「科学者と技術者、医療関係の人間を優先した。まあ、大抵のことはアンドロイドでもできる。それほど大勢はいらない。他には若い女の比率は少し高くなっている」
「アンドロイドに子供は産めないもんな」
「そういうことだ」
「俺が選ばれた理由は?」
「サバイバル能力の高さ。先の戦争でそれが証明された」
「第二の地球でも戦争をやらされるのか?」
 皮肉の一つも言わずにはいられない。
「私にも『それはない』と言ってやりたい気持ちはあるが、保証はできない」
「俺の仲間はこの船に乗っているのか?」
「いや、残念だが誰も乗っていない」
「くそっ!」
「悪く思うな。確かに基準は先程話した通りだが、それ以上はあくまで無作為に選ばれた者だ。君以外の誰かが乗る可能性もあった」
 安ホテルの一室で騒いでいた時間が妙に懐かしく、そして愛おしく思える。ただし、それも夢の一部だ。
「肉体を保存するためのコールドスリープだというのはわかるが、なぜ夢を見せる必要がある?」
「適度に刺激を与えておかなければ、脳が完全に眠ってしまい、永久に目を覚まさなくなる」
「そういうことか……しかし『果て』の情報に関しては、少々刺激が強過ぎたようだな。こんな真実が隠されているとは、文字通り夢にも見なかっただろうな」
 俺としては、軽い冗談のつもりだったのだが、男にとってはそうでもなかったらしく、再び険しい顔をした。
「『果て』の噂は、この船のコンピュータが作り出したものではない」
「何? 違うのか?」
「カプセルを保管しているここは、エリアゼロと名付けられ、君たちが見ている夢の中では存在しないエリアのはずだった」
 男の言うように、エリアナンバーの始まりは1からで、ゼロはない。
「平和な暮らしをしているはずの自分たちが、実は異星人との戦争に敗れ、新しい棲家を探して宇宙をさまよっていると知ってみろ、いくらコールドスリープ中の夢とは言え、精神に支障をきたす者が出る」
「俺たちのような『果て』の正体を知ろうとする連中が一斉に押し寄せてきたら、それこそパニックだな。治安維持部隊や警備隊が躍起になるのも無理はない」
「そういうことだ」
「そんな重要機密を漏らしたのはいったい誰なんだ? 『果て』という呼び名やあの相言葉もそいつが作り出したものなんだろ?」
「異星人だよ」
「異星人?」
「この船は強力な防御シールドを張り巡らせている。重火器は常に警戒態勢にあり、接近する敵に対して即座に迎撃が可能だ。また損傷部分が発生した場合は直ちに修復される。つまり直接的な攻撃に対しては万全だと言える。問題は間接的な攻撃に対してだ」
「間接的な攻撃とは何のことだ?」
「ウィルスだ」
「ウィルス……コンピュータウィルスか?」
「そう。武器を開発して生産するのに比べれば、ウィルスは遥かに短時間での生成が可能だ。いくら駆除をして対策を立ててもも、またすぐにセキュリティの脆弱性を突く新種が作られる。こればかりはイタチごっこでキリがない」
「今こうしているうちにも新しいウィルスが作られているかもしれないということか」
「その通り。今回のウィルスは拡散力が高いうえに、本来ならばこの船のコンピュータのみが管理できるはずの夢でさえ自在に操られてしまう厄介なものだった。まあ、それもどうにか片付きそうだ」
 男の言葉を聞き、安堵の息を漏らした。
「安心するのは早いぞ。麒麟」
 胸の内を見透かされてしまったようで、少し動揺する。
「第二の地球、かつての地球によく似た環境のものを探すのは、それほど容易いことではない。途方もない旅になるだろうな」
「ひょっとしたらカプセルの中で眠ったまま、永久に宇宙を彷徨うことだってあり得るわけか」
「そうなるな」
「さっきは運良くなんて言ったが、そうとも限らないようだな」
 自らの境遇に苦笑せざるを得なかった。
「ところで、なぜ俺に真実を話した? 精神に異常をきたすかもしれないはずだろ?」
 男が「はっはっはっ」と、わざとらしく笑う。
「君はそれほどヤワではあるまい」
「サバイバル能力の高さを評価されたんだもんな」
「それだけではない。『果て』の正体を追って、実際にここまでたどり着けたのは、君とその仲間たちだけだ。ご褒美だと思ってくれ。 他は皆、途中で挫折したり、治安維持部隊や警備隊に捕まったりしている。命を落とした者もいる」
「俺の仲間も……天馬も死んだ。ただ、それも随分前のことだったんだな。鯱、飛龍、そして大蛇も」
 俺の口調が感傷的だったのか、男は神妙な顔で頷いた。
「彼らをここに呼べないのが残念だよ」
「『お前たちは死んでいる』とは言えないもんな」
「うむ」
「ところで、あんたはいったい誰なんだ? 俺の記憶にはない顔だが……」
 男がニヤリと笑う。
「私は誰でもない。コンピュータの映し出す幻影。姿も、名前もない。役割を終えれば消えていく運命だ」
 当然のことだが、悲しみの表情など浮かべない。
「しかし、第二の地球探しという大事な役割が残っている」
「そうだな」と、男は少しだけ笑う。
「さあ、麒麟よ。帰るがいい。終わりの見えぬ眠りの世界へ」
 男がそう言った瞬間、目の前が闇に遮られた。まるで映画や芝居の終わりを告げる幕のように。

 小

「起きろ、麒麟」
 誰かが俺を呼んでいる。
 それは俺のよく知っている声。
 すぐにでも目を開きたい気持ちはあるが、なぜだか瞼が重たい。
「起きろって! 仕事の時間だぞ」
 声の主に体を激しく揺すられて、俺はようやく目を覚ました。
 窓から入ってくる朝日が眩しくて、また目を閉じてしまいそうになる。
「どうした? 体の調子でも悪いのか?」
 心配そうな目で俺を見るのは、仲間の鯱だ。
「いや、大丈夫だ」
「それならいいがな。早いところ、支度を済ませろよ。大蛇も天馬も随分前から外で待ってるぞ」
 そう言えば、微かにバイクのエンジン音が聞こえる。
「飛龍は?」
「アイツは先に行くってさ」
「冷たい奴だな」
「それがさ、今日の解体現場近くに上手い肉を食わせる店があるらしいって教えてやったんだ。しかも遺伝子組み換えの牛肉じゃなく、百パーセント天然物だ。一日に店が出す量も決まっている。競争率は高い」
「もしかして並びに行ったのか?」
「正解」
「しかしそんな肉なら安くはないだろう?」
 鯱の口から具体的な金額を聞いて、俺は溜息をついた。
「今日の稼ぎがパーだな」

 支度を終えて、家の外に出る。大蛇と天馬に「悪い」と詫びを言ってバイクに跨がった。キーを差し込んみ、電子ロックを解除すると、自動的に出力が上がる。
 進行方向に視線を写す。目の前に広がるのは、荒れ果てた街の姿。どうにか異星人を追い払ったとはいえ、やはり戦争が残した 傷痕は深い。
 そんな風景の中に、ポツンと違和感のある物が一つ。
 髪の毛を後ろに撫で付けた黒いスーツ姿の男。
 このご時世にあんな格好をしているのは政府の人間か、戦争で儲けた成金か。どちらにせよ、いけ好かない連中だ。
男がこちらに向かって歩いてくる。
 妙な緊張感が漂よう中、視線がぶつかり合った。
 男は目を反らさなかった。だからといって立ち止まって声を掛けてくる素振りも見せなかない。
 ピリピリとした空気を感じ、いつでも何かしらの行動を起こせる覚悟を決めていた。
 しかし結局、何も起きなかった。
 男は終始一定のペースで歩き、俺の横を通り過ぎていった。
「おい、麒麟。急ごうぜ」
 大蛇の言葉で我に返る。
「ああ、そうだったな」
 始めに大蛇、続いて鯱、天馬と、順にバイクを走らせ始めた。三人の姿が徐々に小さくなる。
「さて、行くか」
 自らを鼓舞するために、そんな言葉を呟いてみる。
 今の時代には必要なことだ。
 先程の男のことが気になり、後ろを振り返ってみたが、その姿はどこにもなかった。
 隠れる場所などどこにもない。そして必要もない。
 どうやら俺は幻を見たらしい。

<了>

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『果てへ』 -前編- 

忙しい人たちへ(掌編集)

「起きろ。麒麟(きりん)」
 誰かが俺の名を呼んでいる。
 聞き覚えのない、低くてずっしりと重い男の声。
 しかし相手は俺を知っているらしい。
 声の主が誰なのか。
 確かめてやりたかった。そして俺が今、どこにいるのかも。

 目を開き、最初に見えたのは銀色の天井といくつかの小さな白い光。
「目が覚めたか? 麒麟」
 横になっている俺の頭の上のほうから、黒髪を後ろに撫でつけた初老の男がぬっと顔を出した。
 こいつが声の主らしいが、やはり俺は知らない。
 俺が上半身を起こすと、男はスッと顔を元に戻し、ゆっくりと俺の正面に回った。
 部屋の中にあるのは俺のいるベッドだけ。周りは、天井と同じ銀色の壁に囲まれていて、大人が二、三人入れば、息苦しさを感じる狭さだ。
「ここはどこだ? それにあんたは誰だ? 俺の仲間は死んだのか?」
「質問は一つずつにしてくれ」
 流行る気持ちを抑え、俺は大きく一つ深呼吸をする。知りたいことに序列を付けるのは難しいが、それでも一番知りたいことを尋ねる。
「……俺の仲間は?」
「心配するな。無事だ」
 男の言葉に、俺は胸を撫で下ろす。
「次の質問だ。ここはどこだ? あの城の中なのか?」
「いや」と、男は首を横に振る。
「ここはエリアゼロ。君たちが『果て』と呼んでいる場所だ」
「『果て』……ここが……」
 男の答えに、俺はしばらく続きの言葉が出てこなかった。

 小

 異星人の突然の襲来により、俺たち地球に住む者は揃って戦争に巻き込まれることになった。
 奴らの目的は人類を死滅させ、地球を丸ごと自分たちの物にすることだった。
 戦闘には子供を除く、大抵の男たちが参加した。もちろん、俺も例外ではなかった。
 奴らは高い技術力を有していたが、俺たち人類もそれに負けず劣らずのものを持っており、決して一方的にやられるだけの戦いにはならなかった。
 ただ、奴らに比べて圧倒的に劣っていたのが、生命力だった。一体を倒すのに数十発の弾丸を必要とした。
 しかし人類は諦めなかった。
 弾丸の威力強化、銃へ装填量の増加、軽量で防御力の高い戦闘用スーツの開発……自らの不利を、絶えることのない向上心を以て乗り越えたのだ。
 こうして人類は、奴らの侵略から地球を守った。

 喜ばしい勝利の影には、多くの犠牲があった。
 生き残った俺たちに課された新たなる使命は、復興だった。絶望を希望に変えようと、誰もが必死になっているように見えた。
 しかし荒廃した大地を目の当たりにし、人々の心もまた同じように荒んでいった。
 物資が満足に行き届かぬ状況で、暴動や略奪が横行した。「地球のため」と団結し、共に戦った同志に対して刃を向けるという行為が、俺にはまるで理解できなかった。
 自分の大切な者たちを守るため、俺は再び銃を手にした。
 政府が統率する治安維持部隊や警備隊、俺が所属するような有志で結成された自警団の力により、野党紛いの不届き者たちはすっかり鳴りを潜めた。
 だからといって、物資が充分に行き渡るようになったわけではない。
 誰もがどこかに不満を感じながら、どこかで堪え忍びながら毎日を過ごしていた。

 その頃だ。
 あの言葉をよく耳にするようになったのは。

「全てを望む者よ。目指せ、果てを」

 一体誰が、何の目的で、口にしたものなのか。
 あるいはどこかに書き記したのか。
 知る者はいない。
 そして「全て」とは何を意味するのか。
 金やプラチナのような財宝。
 空腹を存分に満たしてくれる食い物や酒。
 鬱屈した気分を晴らす甘美な音楽や踊り。
「全て」という二文字に、誰もがそれぞれの思いを馳せる。そこに夢を描き、どこにあるかもわからぬ「果て」という名の楽園をただ  漫然と目指していった。
 そして誰も帰ってこなかった。
 無事に辿り着けたのか。
 あるいは、見つけることができずに諦めたのか。
 あるいは、どこかで力尽きたのか。
 果てを目指した者の行く末は何もわからない。

 そんな賭けのような話に、俺も興味があった。
 少しでも今の暮らしが良くなるというのなら、行ってみる価値はあると思った。
 何より真実を知りたかった。
 幼い頃から同じ時を分かち合い、助け合ってきた仲間五人とバイクを駆り、俺は「果て」を目指すことにした。

 想像以上に苛酷な旅だった。
 情報の真偽を確かめる方法は行動のみで、何度ガセネタを掴まされたかわからないほどだ。
 同じ「果て」を目指しているという連中に嵌められ、仲間の一人が命を落とすという不幸な事件も起きた。
 そしてなぜか、治安維持部隊や警備隊にも追われるようになり、俺は「果て」に対して次第に危険な匂いを感じるようになっていった。

 かつて暮らしていたエリア153を発って半年が過ぎた頃、「果て」に最も近いと噂されるエリア1に辿り着いた。

 小

「そこの酒場で聞いてきた情報だ」
 安ホテルの一室。
 外から戻った鯱(しゃち)の言葉に、それぞれ好きなように振る舞っていた全員が、テーブルの前の椅子に腰掛けた。
「この街の外れに中世ヨーロッパの城を模した、レンガ造りの建物がある。その中に『果て』への入口があるらしい」
「いよいよ核心に迫ってきた感じだな」
 大蛇(おろち)が楽しげに笑う。
「喜ぶのはまだ早い。城の周りには高さ五メートルの塀がそびえ立っている」
「五メートルか……俺の肩車でも無理そうだな」
 仲間では最も体の大きい飛龍が、真面目腐った顔で冗談か本気かわからぬことを言う。
「唯一の出入り口には電子ロックの鋼鉄扉。電流のオマケ付きだ。それに加えて見張りが四人」
「バイクでの強行突破も難しそうだな」
 先程まで笑っていた大蛇の表情も、いつしか硬いものになっていた。
「それだけじゃない」と、鯱の報告は続く。
「見た目のクラシックさとは正反対で、中身は最新の防衛システムによって守られている」
 想像以上の難関に、全員が腕を組む。
「思いつく方法と言えば、見張りの買収くらいだな」
 大蛇の意見だ。
「手持ちの金はあまり残っていないな」
「飛龍の言う通りだな。麒麟、お前はどう思う? 何か手がありそうか?」
 これまで黙っていた俺に、鯱が尋ねる。
「……俺は……手を引くべきだと思う」
「なんだと!」
 真っ先に噛みついてきたのは、大蛇だった。
「麒麟、本気で言っているのか?」
「どう考えても簡単に中へ入れるとは思えない」
「そんなことはわかりきったことだろうが。それをどうするかって相談だ」
「さっきからお前らの話を聞いていると、無理矢理押し入るようなことばかりだ。それじゃ、その辺りの野党と同じだ」
「今更何を言ってやがる。似たようなことはやってきただろ」
「確かに生き延びるために多少の無茶はやったさ。しかし人の道から外れるようなことはしていないはずだ。違うか?」
『果て』を目指す旅を始めて以来、何度も危険な橋を渡ってきたが、意図的に他人の敷地を荒らしたり、物を盗んだり、誰かを殺めたりといった類いのこととは無縁だった。
「ここまで来て諦めるのか? 『果て』はすぐそこなんだぞ」
「まあ、落ち着けよ」
 飛龍が大蛇の肩を軽く叩く。
「麒麟はそれも検討する必要があると言ってるだけだ」
 しかし大蛇の興奮が治まる様子はない。
「お前、天馬のことを忘れたのかよ」
「忘れるわけないだろ」
 天馬とは、この旅で命を落とした仲間のことだ。
「ここで諦めたら、アイツの死は無駄になる」
「そいつは逆だな。これ以上深入りして、揃って後を追うことなんてアイツは望んじゃいないはずだ」
 大蛇が何かを言おうとしているのがわかったが、俺はそれを遮るように言葉を続けた。
「鯱の話は聞いただろ? ここまで厳重に管理されているということは、好奇心や探求心だけで近寄るべきものじゃない。決して触れてはいけないタブーと見て間違いない」
 大蛇が黙り混む。
 しばらく誰も口を効かなかった。それぞれ頭の中で自問自答を繰り返していたんだろう。
 最初に口を開いたのは、やはり大蛇だった。
「どうしてもやるつもりはないんだな?」
 低く唸るような声だった。
「そうだな。やめるべきだ」
「けっ、聞いたかよ。どうやら麒麟さんは怖じ気づいたらしいぜ」
 大蛇は吐き捨てるように言って、嘲笑を浮かべた。
「大蛇、言い過ぎだぞ」
「それじゃ、鯱。お前も麒麟と同じ意見ってわけか?」
 鯱が再び腕を組む。
「……いや、何か方法を考えてみよう」
「飛龍、お前は?」
「ここまで来たんだ。引き下がるわけにはいかんな」
「よし、それなら隣の部屋で作戦会議のやり直しだ。麒麟、お前はさっさと帰るんだな」
 大蛇に続いて、飛龍と鯱も部屋を出ていった。
 もはや俺には三人を止める術はなく、仕方なしに帰り支度を始めた。ここに長居をしても厄介者としてしか扱われなさそうだ。
 俺だって諦めたくはなかった。『果て』がどんなところなのか、知りたい気持ちを捨てきれたわけじゃない。
 しかし命を粗末にするつもりはない。
 馬鹿げている。
 そんなに死にたければ、死ねばいい。
 俺はゴメンだ。
 扉の向こう側で三人が話すのを背にして、俺は部屋を出た。

 しかし廊下の端のエレベーターホールまで行ったところで、自分がひどく薄情な人間に思えてきた。
 もう一度何か手がないかを考えてみるか。
 そう思いなおして、踵を返すと、エレベーターのドアが開いた。
 静寂を破るブーツの音に振り返ると、武装した四、五人の治安維持部隊の連中が俺の横を走り抜けていった。
 嫌な予感がした。
「まさか!」
 俺はその場にバッグを放り出し、奴らの後を追った。
 突き当たりの角を曲がると、奴らが俺の仲間がいる部屋の扉を蹴破り、中へ入るのが目に映った。
 そして、銃声が三つ。
 俺は足を止めることはせず、そのままの勢いで見張りの一人に体当たりをした。思っていた以上に簡単に相手を吹き飛ばすことができた。
 部屋の中を覗くと、奴らの足元に俺の仲間の三人が倒れていた。先頭に立つ一人が声を荒げる。
「後一人いるはずだ。探せ!」
 俺のことだろう。
「貴様ら! よくも!」
 武器の類いは持っていなかったが、逃げるわけにはいかない。部屋の隅にある鉄製のポールハンガーを掴み、奴らの一人の後頭部目掛けてそれを降り下ろした。ヘルメットを被っているとはいえ、さすがに不意打ちは堪えたらしく、そいつはその場にひれ伏した。
「いたぞ!」
 奴らの一人が銃を向けたが、発砲されるより先に俺はそいつの腹にハンガーで突きを入れた。うめき声を上げてその場にひざまずく。
「残りの二人も」と、身を翻したところで、二度の銃声が轟いた。胸の真ん中に激しい痛みを感じながら、俺は冷たい床を舐めた。
 そのまま身動きすることができない状態に陥り、直に意識も遠退いていった。

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『神様にお願い』 

忙しい人たちへ(掌編集)

 元日、午前十時十七分。
 少し時間は遅いが、いつもと変わらぬ目覚め。
「新年、新年」と世間は騒いでいるけど、何か特別なことが起きるわけでもない。昨日までと同じ、一日の始まり。
 着替えを済ませて、リビングへ降りて行くと、父と母はテーブルで年賀状を眺め、妹はコタツに座ってテレビを見ていた。
「おめでとう」と挨拶をすると、三人揃って顔を上げ、「おめでとう」と返事をした。
 母が席を立ち、お雑煮の支度を始める。テーブルの上に置かれたおせちの入ってた重箱を開けると、中身は半分ほどになっていた。
 起きるのが遅い僕を放っておいて、皆で先に食べてしまったのだ。
「壱輝もいよいよ今年は就活だな?」
 年始早々、父が嫌なことを言う。
「正直気が重いよ」
「希望の職種とか会社はあるのか?」
「まあ、ぼんやりとは決めてるよ」
 嘘だ。
「どんな仕事だ?」
「もう少しはっきりしてから話すよ」
「そうか」
 父がすんなりと聞くのをやめてくれて助かった。
 ただし、もう一つ嫌なことがある。
「バイトは何時から? 昼ご飯はたべるのよね?」
 お雑煮の入った碗をテーブルに乗せながら母が尋ねてくる。まだ朝食に口もつけていないというのに。
 気が重いのは父の就活の話のせいだけじゃない。元日にもかかわらず、スーパーでのバイトがあるからだ。
 世間はゆっくりと正月気分を味わっているというのに。
 昔は大晦日や正月と言えば、大抵の店は閉まっていたらしい。
 ところがコンビニができ、二十四時間が始まると、スーパーなどの営業時間も長くなった。
 大晦日や正月も関係なく営業し、年末年始が特別に思えなくなったと、父も母も言っている。
 そして僕も、そんなイマドキの風潮に振り回されている一人というわけだ。
 
 昼飯におせちの残りを食べた後、父は友人のところへ飲みに出かけた。
 残った三人で、コタツに入ってバラエティ番組を見ていた。
 時間が徐々に迫ってくる。
 母と妹は実に平和な顔をして、楽しげに笑っている。その気楽さが純粋に羨ましい。
「う~」
 堪らず、テーブルにひれ伏す。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「行きたくねえ。元日からバイトなんて最悪だ」
「そんなの凹んでも仕方ないじゃない」
「わかってる。わかってるけど、行きたくねえ」
「正月手当とか付くんでしょ?」
「付く。付くけど、行きたくねえ」
「だったらいいじゃん」
「いいんだ。いいんだけど、行きたくねえ」
「……ゴメン。もう付き合いきれない」
 妹はそれ以上何も言わなかった。
 いかん。これじゃ、自分で自分の首を絞めているようなもんだな。こういうときこそシャキッとせねば。
 顔を上げて、シュッと背筋を伸ばす。
「よし!」
 姿勢を保持。一、二、三……ダメだ。やっぱり行きたくねえ。
 再びテーブルの上にひれ伏す。
「壱輝、いつまでバカなことやってるの? そろそろ行く時間でしょ」
 母の声で顔を上げる。
 しゃあない。行くか。
 コタツから足を抜き、勢い良く立ち上がった。
「あっ、立ちくらみ。ダメだ、ちょっと落ち着いてから……」
「もういいって!」
 母と妹、同時にツッコミが入った。

 小


 バイト先のスーパーには自転車で十分ほどだ。ペダルを漕ぐ度に体を吹き抜けていく風の冷たさに、思わず「寒っ」と溢してしまう。
 元日の出勤は昨年、一昨年と経験済みだが、食品と日用雑貨がメインの決して大きな店ではないため、客足は遠い。

 従業員用の駐輪場に自転車を止めたところに、ちょうど誰かがやってきた。
 心臓が大きく一つ膨れる。
 少し前にレジのバイトとして入ってきた、一つ年下の大学生、漆崎彩さんだ。色白で二重瞼の目がとてもカワイイ。
「明けましておめでとうございます。本上さん」
「おめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」と、お互い馬鹿丁寧な頭の下げ合いをする。
 僕としては「今年も」ではなく、「今年こそ」彼女ともっと親密になりたいと思っている。
「元日からバイトなんて本当最悪だよね。漆崎さんだって初詣に行こうって思っていたんじゃない? 彼氏と」
 あっさりと言ってのけたつもりだが、実は心臓が破裂しそうだった。
「そうですね」と言われてしまったら、俺の希望は絶望に変わる。
「彼氏なんていないですよ。残念ながら」
 よし! 絶好のチャンス。幸先のいいスタートが切れた。しかしあくまで平静を装う。
「へえ、そうなんだ。それならさ、俺と一緒に初……」
 そこへ誰かが割って入る。
「本上君、明けましておめでとう!」
 僕の漆崎さんへの誘いの言葉を遮ったのは、彼女と同じレジのバイトである、丸山恵子さん。俺とは同い年で、縦にも横にも大きい女性だ。
「今年こそよろしくね」
「今年こそって……」
 丸山さんは密かに……ではなく、公然と僕に思いを寄せている。未だ告白などはされてはいないが、恐らくお断りをしても、すんなりとは受け入れてはくれない気がする。
「とっ……とりあえず、ヨロシク」
 僕と丸山さんのやりとりに漆崎さんは苦笑いを浮かべていた。

 小

 予想していた通り、客の数は少なかった。そして僕たち店員の数もいつもに比べて少ない。閉店時間も通常より一時間早い、午後八時。
 漆崎さんを初詣に誘うのならば、やはり今日しかない。

 僕の担当は、お菓子や調味料、飲料カップ麺、缶詰めなどの比較的賞味期限の長い食品の売り場だ。
 この時間からの出勤なら、恐らく閉店までの勤務のはずだ。しかし、もしかしたらということもある。途中で帰られてしまっては元も子もない。
 レジのそばにも陳列棚があるため、品出しだけでなく、商品整理をするフリをして、時折漆崎さんの様子を伺いにいった。

 小

 幸いなことに、漆崎さんは閉店時間まで残っていた。
 後は駐輪場に先回りして、漆崎さんが出てくるのを待つだけだ。今からすでに緊張していた。
 売り場の責任者である社員さんに、閉店作業を終えたことを報告すると、すぐさま更衣室へ向かった。素早く着替えを済ませて、 駐輪場に行き、近くの商品保管用のカゴ台車の陰に身を潜めた。
 後は邪魔が入らないことを願うのみだ。

 誰かの気配を感じるてはドキッとし、漆崎さんではないことを知って落胆の息を溢す。
 何度かそれを繰り返した後に、ようやく漆崎さんが従業員用の出口から出てくるのが見えた。
 他には誰も見当たらない。
 彼女を先に自転車置き場に向かわせて、僕は何食わぬ顔で後ろから近付いた。
「お疲れ様です」
「あっ、本上さん。お疲れ様です」
「今日はここでよく会うよね?」
 あくまで偶然を装う。
「そうですね」と、漆崎さんはクスクス笑う。怪しまれてはいないようだ。
 待ち伏せしていたなんて知られたら、引かれるかもしれないもんな。
 のんびりしている暇はない。誰かが来る前に話を進めないと。
「漆崎さんって、今から予定ある?」
「今からですか? いえ、特に」
「それじゃあ……」
 そこで言葉に詰まった。緊張と断られることへの怯えからだ。
 いや、ここまで来て諦めるわけにはいかない。
「そっ、それじゃあ、今から初詣に行かない?」
 情けないことに声が裏返った。
「えっ……」
 漆崎さんの表情に戸惑いの色が滲んだ……ような気がした。
「いや、そんな大袈裟なものじゃないんだ。この近くにある、小さい……本当に小さい神社に、お賽銭を……お賽銭って言っても、 五円とか十円くらいでいいと思うんだけど……それをチャリンと放り込みに行く程度なんだ。そう、その程度」
 動揺で自分でも驚くほど多弁で、呆れるほど言い訳じみた言葉を並べてしまう。
「うーん……そうですね……」
 やっぱり強引過ぎたかな。
 高ぶっていた気持ちが急速にしぼんでいく。
「あの……無理なら別にいいんだ。せっかくなら元日に行くほうがいいかなって思っただけで……」
 今ならまだ傷は浅い。
「その神社ってどこですか?」
「えっ、あっ、ああ……」
 想定外の質問で少し慌てたが、彼女に場所を説明する。
「少し遠回りになるけど、帰り道だし、いいですよ」
 漆崎さんが目を細くする。
「やった! あっと……」
 自然に上がった両手を慌てて下げる。あくまでバイト仲間としてだ。
 今はまだね。

 小

 その神社には、歩いて行くことにした。自転車に乗れけば二、三分で着くのだが、少しでも長く漆崎さんと二人きりでいたかったからだ。申し合わせたわけではないが、僕が自転車を押して歩き始めても、彼女は何も言わなかった。
「この近くに神社があるなんて全然知らなかったです」
「俺もあの店でバイトを始めてから知ったんだ。たまには違う道で帰ってみようかなって思ったら偶然ね」
「そうなんですか?」
「うん。去年も一昨年も、元日には初詣に寄ってから帰ってるんだ」
「一人でですか?」
「うん」
「へえ。本上さんってそういうの、一人でも平気な人なんですね」
「まあね。一人は嫌いじゃないし、友達は少なくてもいいから、本当に仲のいい奴らだけで騒ぎたいって思うほうかな」
「一人が嫌いじゃない」イコール「恋人はいらない」に取られなかっただろうか。
 言ってしまってから気が付いた。
「私も大勢で集まって……っていうのは苦手です。人が話をしているのに、割って入る度胸もないですし」
「それ、俺も同じ。俺、今年は就活なんだけどさ、会社によっては試験でディベートがあるらしくてさ。正直今から憂鬱だよ」
「うわあ、キツイですね。私、絶対無理です」
「だよな……なんか俺たちって似てるよね?」
 さりげなく共通点があることをアピールしてみせる。
「そうですね」
 漆崎さんの答えもそれほど悪くはない感じだ。
 これはひょっとしたら、ひょっとするかも。
 僕の口は自然と綻んでいた。

 小

 神社にいる人は、例年と変わりなく本当に、まばらだった。
 特に何かにご利益があるようなところでもないし、屋台が出ているわけでもない。もちろん、おみくじなんてない。ただお賽銭を入れて、鈴を鳴らすだけ。
 来ているのは地元の人くらいだろう。
 ここを選んだのは、本格的になり過ぎると断られる気がしたからだが、実際に連れてきて、あまりに何もないので心配になった。
「ゴメン。どうせならもう少しちゃんとした場所のほうが良かったかな? 何だか漆崎さんに悪いことした気がしてきた」
 そっと彼女の表情をうかがってみるが、ぼんやりとした提灯の頼りない灯りではよくわからない。
「そんなこと、気にしなくてもいいですよ。だってバイト帰りに少し寄るだけなんだし。それに私、人混みが苦手だから、このくらいがちょうどいいです」
 助かった……。

 賽銭箱も例外なく空いていた。前に立つのは三人だけで、大して並ぶことなく、すぐに順番が回ってきた。
「漆崎さんは何をお願いするつもり?」
「そうですね。いろいろです」
 照れ臭そうに微笑む姿がとてもカワイイ。彼女の言う「いろいろ」に恋愛成就は含まれているんだろうか。
「本上さんは何をお願いするんですか?」
「いろいろかな」
「じゃあ、私と同じですね」
 僕たちはお互いの顔を見て笑った。財布から取り出した小銭を、二人揃って賽銭箱に投げ入れた。漆崎さんが先に鈴を鳴らし、 パンパンと両手を二度打って目を閉じる。
 続けて僕が鈴を鳴らして、両手を二度打つ。
 そして目を閉じる。
(神様、正月出勤手当の五百円をお賽銭として入れさせていただきました。どうか、今僕の隣に立つカワイイ女性と付き合えますように! 何卒良き計らいをお願い申し上げます!)
 目を開けて、漆崎さんに視線を移す。
(神様、この女性が……)
 全身の血の気が引く。
「ゲッ!」
 そこにいたのは漆崎さんではなく、丸山さんだった。
「丸山さん、いつからそこに……」
「随分前からいたわよ。本上君と漆崎さんがどこかに行くのが見えたから、つけてきたのよ」
 ストーカーだよ。完全に。
 漆崎さんはと言うと、丸山さんの後ろで苦笑いを浮かべている。
「本上君が漆崎さんに何かするんじゃないかと心配だったけど、本上君に限ってそんなことあるわけないわね。疑ってゴメンね」
「いえ、いいんです……」
「ところで本上君、随分長い間手を合わせていたけど、何をお願いしたの?」

(今僕の隣に立つカワイイ女性と付き合えますように!)

 そう願を掛けたときには、まだ漆崎さんが隣にいたんだろうか。
 それともすでに丸山さんに入れ替わった後だったんだろうか。
 二人の顔を交互に見比べる。

 色白で大きな二重瞼のこっちか……。

 縦にも横にも大きいこっちか……。

 いったいどっちなんだ……。

「もしかして私と同じ願い事だったりして」
 丸山さんがにんまりする。
「そっ……そうかもね……ははっ、はははは」
 自分でも顔が引きつっているのがわかった。

 神様! さっきのお願いキャンセルで!

<了>

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『星の欠片を探して』 

忙しい人たちへ(掌編集)

「なあ、昴。何か欲しいものはないか?」
「欲しいもの?」
「うん。兄ちゃんがプレゼントしてやるよ」
「本当に?」
 昴の顔がパッと明るくなった。
 リビングのソファで話す兄弟二人の様子を、キッチンから眺めていた涼香は少し落ち着かない気持ちになった。昴が深く考えもせず、思いつくまま欲しいものを口にするのではないかと心配だったからだ。
 生まれつき心臓に病気を持つ昴は、一週間後に手術を受けることになっている。小学二年生の彼にとっては初めての経験で、手術の話を聞いてからは、一様に不安と恐怖に押し潰されそうな気分で毎日を過ごしていた。
 そんな昴を励まそうとしているのが、三つ年上の兄、拓海だった。
「それじゃあ……」
「うん」
「星の欠片が欲しい」
「星の欠片?」
 涼香の胸がざわつく。
「この前テレビで見たんだ。宇宙から時々星の欠片が落ちてくるって」
 昴が熱心にそんな番組を見ていたことを、涼香はふと思い出した。夕食の準備を中断して、涼香も二人のそばに腰掛けた。
「昴はどうして星の欠片が欲しいの? オモチャとか漫画のほうが良くないの?」
 例え高価な物だったとしても、それなら拓海の小遣いにお金を足してやるだけで済む。
「だってもし手術が失敗したら、僕死んじゃうから……その前になかなか見れないものを見ておきたくて……」
 昴の言葉に涼香は目を丸くした。昴が手術を不安に感じ、怖がっているのはわかっていたが、まさか死を意識しているとまでは思ってもみなかったのだ。子供の気持ちを理解していないダメな母親と、涼香は自分を恥じた。
「大丈夫よ、昴」と、涼香は昴の手を握る。
「病院の先生が言っていたでしょ? 簡単な手術だから心配ないって」
「そうだけど……」
「それに星の欠片なんて簡単には……」
 見つからない。
 涼香がそう昴を諭そうとしたところで、拓海が口を挟んだ。
「わかったよ、昴。兄ちゃんが探してやる」
 拓海の言葉に涼香は慌てる。
「拓海、そんなこと……」
「いいじゃないか。やってみなさい」
 涼香、昴、拓海の三人が一斉にリビングの入口へと視線を向けた。この家の長、啓治が外出先から帰宅したのだ。
「おかえりなさい」
 三人が声を揃える。
「宝探しみたいで面白そうじゃないか。なあ、拓海?」
「うん」
「明日から早速探しに行かないとな」
 拓海と啓治の言葉に、昴は「やった!」と両手を上げた。啓治は息子二人の頭を撫でると、上着をハンガーに吊るして、ダイニングの椅子に座った。涼香も夕食の準備のため、キッチンへ戻ろうとする。その途中、啓治のそばに寄り、小さな声で「大丈夫?」と尋ねた。
 啓治は何も答えず、優しく笑って頷いただけだった。
 地球に向かって落下する隕石のほとんどは、大気圏で燃え尽きてしまう。運良く残っても、人の住まない場所に着地ちるケースがほとんどらしい。
 それを啓治が知らないはずはない。
 そんな無責任なことを言って、いったいどうするつもりなんだろう。
 涼香には啓治が何を考えているのかわからなかった。

 ☆ ☆ ☆

 翌日の放課後、拓海はランドセルだけを家に置きに帰り、宿題やオヤツは後回しにして『星の欠片』を探しに出掛けた。
 目指したのは、自転車で十五分ほどの河川敷。
 当てがあるわけではない。何となくそこにあるかもしれないという感覚に従っているだけだ。
 ところどころ雑草の茂った川沿いを、石ころを探して歩く。
 拓海のイメージする星の欠片は、表面がゴツゴツしていて、形がいびつなものだ。少し変わった形のものを手に取り、拓海なりに吟味する。
 どれもこれも似たような感じでそれほど違いはなかった。しかも人の手によって整備され、管理されているこの川では、それほどたくさんの石は落ちていなかった。
 暦は三月。もうすぐ春とは言え、まだ寒く、暗くなるのも早い。それでも拓海は時間の許す限り石を探し続けた。

 拓海が家に帰ると、昴が真っ先に「どうだった?」と、星の欠片探しの成果について尋ねた。
「川沿いを探してみたんだけど、見つからなかった」
「そっか。残念」
「心配するなって。まだ時間はあるし、ちゃんと見つけてやるよ」
 根拠などないが、昴の寂しげな顔を見ると、そう言ってしまう。

 ☆ ☆ ☆

 翌日以降も、拓海は学校から帰ると、星の欠片探しに出掛けた。
 高台の公園、少し離れたところにある丘、漂着物がたくさん流れ着く港。少しでも星の欠片が落ちていそうな気配のするところへと足を運び、日が暮れるまで石ころを拾っては捨てを繰り返した。

 初めは元気の良かった拓海も、次第に疲れが出始め、言葉少なくなっていた。
 昴の手術まで後二日。入院の前日になっても、拓海はまだ星の欠片を見つけることができていなかった。
 意気消沈して帰宅した拓海に昴が無邪気に尋ねる。
「お兄ちゃん、見つかった?」
 その言葉に拓海が鋭く目を尖らせる。
「そんなに簡単に見つかるわけないだろ!」
 昴の体がビクンと跳ね上がる。
「拓海!」
 二人のやり取りを聞いていた涼香が声を荒げる。拓海は返事もせずに二階へと駆け上がった。
「拓海! 待ちなさい!」
 涼香の言葉に対する答えは、激しく閉められたドアのバタンという音だけだった。
「僕、怒らせちゃったのかな」
 昴が泣きそうな声を出す。
「大丈夫」と、涼香は昴のそばに寄り、肩を抱いた。
「少し疲れているのよ」

 夕食の時刻になり、涼香に声を掛けられても、拓海は部屋に籠ったままだった。ベッドに横になり、星の欠片探しが上手くいかない苛立ちを、昴にぶつけたことを後悔していた。すぐに謝れば良かったのだが、変な意地を張ってしまい、タイミングを逃してしまったのだ。バツが悪くて、出ていくに出ていけない。
 そしてそれ以上に、未だに星の欠片を見つけられず、昴に合わせる顔がないからだ。
 自分の行ける範囲で、思い当たる場所へはもう全て足を運んだ。
 やっぱり星の欠片を探すなんて無理だったんだろうか。
 拓海の頭にそんな考えが浮かんだ瞬間、誰かがドアをノックした。
「拓海」
 啓治の声だ。
「開けてくれないか?」
 これを逃すと、永遠にこの部屋から出ることができない。そう思った拓海は、自分からドアを開いて、啓治に顔を見せた。
「入ってもいいか?」
 啓治の問いかけに拓海は黙って頷く。
 ベッドに腰掛けた拓海の隣に、啓治も並んで座る。
「お母さんから聞いたよ。星の欠片、なかなか見つからないんだって?」
「……うん。父さん、俺、どうしたらいい? 昴に星の欠片をプレゼントしてやるって約束したのに……アイツ、手術が失敗して死んじゃうかもしれないって思っているんだ。俺が勇気づけてやらないといけないんだ」
 拓海がギュッと啓治のセーターの袖を掴み、涙目で必死に訴えかけてくる。
「父さん、何とかして! 僕一人で行けるような所は全部探したんだ。どこでもいい。父さんが思い当たる場所に連れて行ってよ!」
 啓治は改めて拓海の熱い思いを知った。
「よし。わかった。明日は昼には家に帰ってくるから、父さんと一緒に星の欠片を探しに行こう」
「本当に?」
「ああ。ただし、昴を病院へ送っていかなくちゃならないから、時間はあまりないぞ」
「うん。それでもいい」
「さあ、晩御飯を食べよう。昴には『さっきはゴメンな』って言うんだぞ」
「うん。あの、父さん……」
「なんだ?」
「ありがとう」
 拓海の素直な感謝の言葉に、啓治は少し照れ臭くなった。

 ☆ ☆ ☆

 午後0時三十分頃に啓治が帰宅した。「次男の入院」という理由で、会社を早退したのだ。
 昼食は適当に済ませて、啓治と拓海は最後の星の欠片探しに出掛けた。
 午後三時前には病院へ向かう必要があるため、決して時間があるとは言えないが、拓海にとっては無駄にできないチャンスだった。

 啓治が車を止めたのは、自宅から四十分ほどのところにある河原だ。先日、拓海が行った河川敷に比べると、整備も不十分で、辺りは拓海の背丈の半分ほどにまで雑草が多い茂っている。しかし雰囲気だけで言うなら、こちらのほうがどこかに星の欠片が落ちていそうな可能性を感じる。
「随分と前のことだけど、この辺りに隕石が落ちたって話があったらしいんだ」
「えっ?」
「もちろん、嘘か本当かはわからないよ」
「そっか……」
「時間だって限られているんだし、何の手がかりもないよりはマシだろ?」
啓治の言葉に、拓海は「そうだね」と力強い表情を見せる。
「それじゃ、手分けして探そう。あまり遠くに行くなよ。雑草だらけだし、どこにいるかわからなくなるからな」
「わかった」
 雑草が体に纏わりついて歩きにくい。そして何より痛いし、痒い。それでも拓海は懸命に石を探す。
 これがもし自分のためならば、とっくの昔に投げ出していただろう。

「昴のため」

 それが拓海を突き動かす力だった。 
 拓海は心臓に病気を抱える昴を、多少は気にかけていたが、余所の兄弟に比べて格別仲がいいというわけではない。プレゼントの件にしても、拓海にしてみれば、いつもと変わらぬ軽い気持ちからだった。
 しかし「手術が失敗したら」という昴の言葉を聞き、拓海は実際に昴がいなくなってしまったときのことを想像した。
 その瞬間、今までにない喪失感を抱いたのだ。
 祖父母も健在である彼にとっては、誰かが亡くなったという経験はないが、それでも大切な者を失ってしまうことの辛さを感覚的に悟ることはできた。
 手術の成功率は高いというが、そんなことよりも、不安を抱える弟のために何かをしてやりたい気持ちのほうが強かった。
 しかし拓海の心情とは裏腹に、星の欠片らしきものはなかなか見つからなかった。ここにある石も余所にあるものと、それほど変わりがない。
 時間は刻一刻と過ぎていく。時計を持たない拓海にとっては、啓治から呼ばれることが、星の欠片探し終了の合図だ。いつか来るその時まで、拓海はただひたすら、まだ見ぬそれを探し続けた。

「拓海!」
 啓治の声。
 ついにタイムリミットか。
 拓海は悔しい気持ちを噛みしめながら、雑草の上から顔を出し、啓治に向かって右手を振った。
 啓治が雑草を掻き分け、歩きにくそうに拓海のそばへ近づいてくる。
「拓海! あったぞ」
「えっ、本当に!」
 自分でも驚くほどの大きな声が出た。
「ほら」
 啓治の右掌には、三、四センチほどの黒い石が乗っている。真っ黒というわけではなく、ところどころ茶色や銀色の部分もある。表面はゴツゴツとしており、触ると突き刺さるような感覚がある。
 拓海が今までに探した場所では、どこにもこんな石は落ちていなかった。
「これって……本当に隕石?」
 ようやく見つけられたであろう嬉しさと興奮で胸が高鳴る。
「ああ。きっとそうだよ。早く帰って昴にも見せてやろう」

 帰りの車の中でも、拓海は上着のポケットに入れた石をずっと握り締めていた。
「拓海、その石はお前が見つけたと、昴には話せばいいからな」
「えっ……」
「大切なのは、誰が見つけたかより、誰が一番一生懸命になったかだと父さんは思うんだ」
「でも……」
「よく頑張ったな。きっと昴もお前を見習うぞ」
 啓治の誉め言葉に、拓海は少し照れ臭くなった。

 ☆ ☆ ☆

「おかえりなさい!」
 家に帰った啓治と拓海を、昴は大きな声で出迎えたが、「見つかった?」と、尋ねたりはしなかった。
 拓海からすれば、今日こそ尋ねて欲しかった。
「昴、見つけたぞ」
「えっ! 本当に!」
 ソファに腰掛けていた昴が、拓海のそばに駆け寄ってくる。
「ほら、手を出して」
 昴は恐る恐るといった感じで、微かに震える両掌を差し出す。
 涼香もその様子を見守っている。
 拓海は星の欠片を握りしめた右手を、昴の掌に重ねた。
「いいか? 落すなよ」
「うん」
 拓海が右手をゆっくりと開き、昴の両掌に星の欠片を乗せた。
「うわあー、すごい!」
 初めて見るそれを目の前にして、昴が心躍らせているのが、拓海にははっきりとわかった。両掌に乗った欠片を、目を輝かせながらいろいろな角度から眺めている。
「まだ少し温かいね。宇宙から落ちてきたばかりだからかな?」
 石が温かいのは、拓海が上着のポケットの中で握りしめていたからなのだが、拓海は何も言わずにおいた。 
「すごいよ! お兄ちゃん。本当に見つけてくれたんだね!」
 しかし屈託のない昴の喜び様が、逆に拓海を苦しめた。
「昴……ゴメンな」
「何? どうして謝るの?」
 昴はよくわからないといった様子で首を傾げる。
 涼香にもなぜ拓海が謝っているのかがわからなかった。
 理由を知っている啓治だけは、神妙な顔つきで拓海の次の言葉を待っていた。止めるつもりはなかった。
「それを見つけたのは……お兄ちゃんじゃなくて、父さんなんだ」
「そうなの?」
「うん。お兄ちゃんも一緒に探したんだけど、見つけられなかった」
 申し訳なさげ、そして悔しげな表情を拓海は浮かべる。「俺が見つけた」と報告したかった。父がどれほど頑張りを評価してくれようとも、昴に対して嘘を付きたくはなかったのだ。
「そんなのいいよ。別に……だって、大切なのは気持ちでしょ?」
「えっ……」
 昴の口から思いも寄らず大人びた言葉が出てきたため、拓海は目を丸くした。
「お母さんが言ってたよ。もし見つからなくてもお兄ちゃんを怒らないであげてねって。大切なのは気持ちだって」
 啓治が涼香に視線をやる。涼香は何も言わずに、ただ笑顔で静かに頷くだけだった。
「それよりさ。手術が終わったら、僕も星の欠片を探しに行きたいな!」
 昴が興奮気味に話す。手術が怖いと縮こまっていたのが嘘のようだ。昴のその表情を見て、拓海も嬉しくなる。
「よし。じゃあ、一緒に行こう。言っとくけど、簡単には見つからないからな」
「うん。わかってる」
 昴と拓海は顔を見合わせて笑った。
 
 無邪気な二人の会話を聞いていると、啓治は自分自身のしたことが正しかったのか、間違っていたのかがわからなくなっていた。
 涼香が彼のそばに寄り、小さな声で尋ねる。
「あの石、どうしたの? まさか本当に星の欠片……ってことはないわよね?」
 彼女は全てお見通しのようだ。
「うん。ペットショップに売っている溶岩石の欠片だよ。アクアリウムなんかでよく使われているんだ」
「そうなんだ。ねえ、始めからこうするつもりだったの? 隕石なんか簡単に手に入らないってあなたもわかっていたのよね?」
「うん。もちろん、わかっていた。でも、それより拓海の気持ちを大切にしてやりたくてね」
「そうか……あなたらしいわね」
 涼香は彼の優しさを改めて知り、微笑まずにはいられなかった。
「でも少しやり過ぎたかなって後悔しているんだ」
「どうして?」
「あれが偽物だって知ったときに、あの子たちがどれほど落胆するかと思うと……」
 苦笑を浮かべる啓治の左手を、涼香がギュッと握り締めた。
「心配いらない。あの子たちならきっと笑って許してくれるわよ」
 
<了>

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『憧れのスポーツカー』 

忙しい人たちへ(掌編集)

 どうしてスポーツカーに憧れるようになったかと聞かれると、私にも理由はよくわからない。衝動的に何かを始めたり、興味を持ったりすることは誰にでも経験のあることだと思うが、恐らくその類だろう。
 ただし、理由はなくともキッカケはあった。
 
 小
 
 三十歳の頃、会社の先輩と外回りの途中で入った知らない喫茶店。
 席に着いて注文を済ませると、先輩がマガジンラックから適当に抜き取った雑誌の一つを私に差し出した。私から読ませてくれと頼んだわけでもないし、先輩だって私にどれが相応しいかを吟味したわけじゃなかっただろう。恐らく手に触れたものを「暇つぶしで読め」というつもりで寄越しただけに違いない。
 それは車の情報誌だった。
 スポーツカーは愚か、車も単なる移動の手段としか考えていなかった私は、当然その雑誌をじっくり読むということはなく、パラパラとページを捲る程度にしか見ていなかった。
 ところが、半分を過ぎたところに掲載されていた、メタリックブルーのスポーツカーに私は釘づけになった。
 スポーツカー特有のシャープさの中に適度に曲線が取り入れられた、力強く、美しいフォルムが文句なしにカッコ良かった。夕焼けをバックに高速道路らしき場所を駆る写真は、今にも私のそばを走り抜けていきそうなほどスピード感のあるものだった。
 雑誌を手にした時の心情など忘れ、私はその車の記事を隅から隅にまで目を通した。
 欲しいと思った。
 乗りたいと思った。
 この車で夕焼け空をバックに高速道路をぶっ飛ばしたいと思った。
 気になるお値段は一千万円。言うまでもなく外車だ。
 買いたい気持ちはあったが、当時は結婚したてで、軽四を買ったばかりだった。それも妻の両親が嫁入り道具の一つとして持たせてくれたものだ。
 それ以前に、しがないサラリーマンである私にはそんな大金が出せるわけなかったし、ローンを組めたとしても、維持していくだけの甲斐性もなかった。
 結局、その時は夢に終わった。

 しかし一度欲しいと思うと、なかなか諦められないのが私の悪い癖で、その後もスポーツカーへの興味が薄れていくことはなかった。
 コツコツと金を貯め、いつかスポーツカーに乗ることを目標にしながら、インターネットでカタログを収集して、それを眺めることで どうにか欲求不満を解消していった。
 ただし、ショールームなどに現物を見に行くことはしなかった。店員に言い寄られるのも嫌だったし、欲しい気持ちが抑えきれなくなりそうだったからだ。

 それからしばらくして息子が生まれた。
 これまで以上に金が必要になることは明らかで、その影響は私の小遣いの減額にまで至った。当然、貯金も減った。
 それでもスポーツカーを買うという夢は捨てられなかった。軽四のハンドルを握りながら、信号待ちで時折、隣に止まるスポーツカーをただ羨ましいという気持ちで見る日々が続いた。

 息子が幼稚園に通い始めるようになる頃、今度は娘が生まれた。
 そこで、妻との間に車の買い替えの話が出た。
 絶好のチャンスが来たと言いたいところだが、そうではなかった。
 チャイルドシートを二つに増やすことや旅行などに出掛ける際に荷物を載せるスペースを確保することが主な理由のため、軽四以上に車内が狭いスポーツカーを買いたいとは、とてもじゃないが口にできなかった。。
 チャンスどころか、むしろ、夢の実現はさらに遠のいたと言って良かった。
 新しく買ったミニバンは確かに重宝した。チャイルドシートを二つ装着しても充分な広さがあったし、目一杯荷物を詰め込んでも、苦もなく走れるだけの馬力があった。
 しかしスポーツカーのようなカッコ良さやスピード感のようなものは、当然実感できなかった。

 いつしか子供たちはチャイルドシートが不要になる年頃になったが、その分、学費を始めとする養育費が増えた。残念ながら毎年の昇給は、それに正比例というわけにはいかなかった。
 その頃の私がどうやってスポーツカーに対する欲求不満を張らしていたかというと、テレビゲームとプラモデルだった。「息子につき合って」というのが表向きの理由だが、実際は私のほうが息子以上に熱中していた。
 テレビゲームでは、ハンドル式のコントローラを買って、レースに臨んだ。稼いだ賞金をひたすらカスタムパーツの購入に注ぎ込み、最速のスポーツカーを作り上げることに成功した。
 プラモデルも同じだ。組立書通りに作り上げるのではなく、百円均一などで材料を揃えて、シートに革を張ったり、ライトが点灯する仕掛けを作ったりと、ディティールにとことん拘った。完成したそれを眺め、一人自分が運転する姿を想像してニヤリと笑ったものだ。

 ミニバンに乗り続けること十五年。今度こそ本当のチャンスがやってきた。
 息子が免許を取れる歳になったのだ。言うまでもなく、彼とスポーツカーを共有しようというのが私の目論見だった。

「免許なんて別になくてもいいじゃん」

 息子の言葉に私は目を丸くした。
「ちょっ、ちょっと待て。免許がいらないって……どういうことだ」
「だって俺、別に車が運転したいと思わないし」
「車がないといろいろ不便だぞ」
「そう? 今までそんなの感じたことないけど」
「それはお前が高校生だったからだろ」
「そうかな。行きたいところがあれば電車で行けばいいし」
「電車が走っていないところへはどうやって行く?」
「友達に乗せてもらう」
「友達にって……」
「まあ、身分証明書としては役に立ちそうだけどさ。それならたまに乗る程度なんだから、今ある家の車で充分だし」
 まさに今時の若者らしい発想だった。
「でもな、恋人ができたらどうする? 自分の車くらい持っていないと格好がつかないぞ」
「車がなければ付き合えない女なら、こっちから願い下げだよ」
 息子は自分から相手に条件を付けられるほどのモテ男だったんだと、私はその時初めて知った。
 そこまで言われてしまうと、諦めざるを得なかった。
 
 それからしばらくして、息子は免許を取った。しかしスポーツカー共有の話には、結局、食いつかず仕舞いで、車が必要なときは家のミニバンに乗っていた。

 三年後、今度は娘が免許を取れる歳になった。
 息子と違って行動派の彼女は、高校を卒業すると、すぐに教習所へと通い始めた。
 これなら可能性はあると、私は静かに微笑んだ。

「スポーツカーなんていらないわよ」

 息子の時ほどの衝撃はなかった。
 それはそうだろう。助手席ならともかく、スポーツカーを自分で運転したがる女の子なんてあまりいないことは容易に想像できたからだ。
「だって私、丸っこくてカワイらしい、ピンク色の軽に乗りたいんだもん。それなら共有でもいいよ」
 娘は無邪気に笑ったが、そんなことをしても得するのは彼女だけだ。
「例えば、サングラスを掛けた女性がスポーツカーから颯爽と降りる姿ってカッコ良くて絵になると思わないか?」
「それはカッコいいとは思うけど」
「そうだろ?」
「でも私が目指しているのはそういうのじゃなくて、カワイイ系女子なのよね」
「カワイイ系?」
「そう。だからスポーツカーとかカッコいいなんていうのは、全く不要なわけ。それよりさ、お父さんこそさっきの話に乗らない?」
「さっきの話?」
「お父さんみたいなおじさんがさ、丸いピンクの軽から降りてきたら絶対カワイイよ」
 私は開いた口がしばらく塞がらなかった。

 やがて子供たちは独立し、家を出ていった。
 スポーツカーを共有するという私の目論見は、とうとう果たすことができなかったが、同時にまた買い替えを検討する必要ができた。大量の荷物を積み込むことや家族四人でどこかへ出掛けることがなくなるため、ミニバンに乗り続ける理由もなくなった。
 しかしその時も、スポーツカーは候補に挙がらなかった。というより、挙げることができなかった。六十を過ぎてスポーツカーの助手席に乗る妻の気持ちは容易に想像できたし、この先年金暮らしへと向かっていくことを考慮すると、やはり昔のように軽四を選ぶのが妥当だった。

 小

 その後、ほぼ買い物専用と化した軽四に乗り続けて八年。 
 妻が他界した。六十八歳だった。平均寿命からすれば若いが、私自身もそう遠くないうちに後を追う形になるだろう。
 スポーツカーへの情熱はというと、昔に比べれば、随分と冷めていた。
 しかし乗ってみたいという気持ちはまだあった。
 後数年もすれば、免許の返却を検討しなければならない歳になりながらも、私はスポーツカーの購入へと踏み切った。
 あの時雑誌で見たメタリックブルーのスポーツカー。
 もちろん、同じものを買う金はない。コツコツと貯めていた金も、妻のため、子供のため、孫のためと使っているうちにほとんどなくなった。
 そんな私に買えたのは、国産のスポーツカー。当然、中古で、値段はたった三十万円。随分と型も古い。色だけは同じメタリックブルーだが、美しい光沢はなく、どこかくすんで見える。
 もう妻や子供たちを乗せることはない。
 私一人が満足するための専用車ならば、充分だ。

 十日ほどして、車は自宅へ届けられた。
 それまで乗っていた軽四は下取りしてもらえるため、車を届けてくれた中古ショップの店員が乗って帰った。

「さてと」
 私は一人呟き、滑り込むように車に乗り込んだ。
 長年の夢がいよいよ叶うとなると、年甲斐もなく、胸が躍った。
 運転席に座り、エンジンを掛ける。ブオンというエンジン音が辺りに木霊した。見た目はイマイチでもやはりスポーツカーだ。
 若いときによく聞いていた、ハードロックのCDをプレイヤーに入れる。エンジンと同じ、低くて重い音が車内に流れ始めた。
 クラッチを踏み、ギアをローに入れる。
 スポーツカーと言えば、マニュアル。オートマなんて邪道だ。
 アクセルを踏み、クラッチから足を離した瞬間、エンジンがプスンと停止した。
 エンストだ。なにしろ、マニュアル車に乗るのは教習所以来だ。無理もない。

 それからしばらくエンストを繰り返して、ようやく車が前へと進んだ。
 国道へ出ると、調子に乗って少しスピードを出してみた。アクセルを踏むと、エンジンの回転数が気持ちいいほどスッと上がり、車体が後ろに沈むのがわかる。軽四やミニバンでは味わえなかった感覚だ。
 隣を走る車を次々と交わしていくのは、堪らなく気分が良かった。
 目指すのは海だ。あの雑誌のように、夕焼け空をバックに高速道路を駆け抜けるつもりだった。
 信号待ちで車を止めると、右手に建つマンションが目に入った。
 昔はここにスーパーがあった。結婚したばかりの頃、妻と二人でよく買い物に来た店だ。ここだけじゃない。妻は所謂「ハシゴ」というのが好きで、できるだけ安い物を求めて一日でいろんな店を一緒に回らされたものだ。
 運転は二人交替でするのだが、妻は運転が決してうまいわけではなく、よく車をぶつけた。その度に落ち込むため、慰めるのに随分苦労した。
 昔を懐かしんでいると、後ろからクラクションが鳴った。
 慌てて車を発進させる。
 しばらく走って高速道路に乗った。
 これから目指す海も、家族四人でよく行った場所だ。
 出発したての頃は子供たちも機嫌が良いのだが、車に乗っている時間が長くなってくると、二人とも退屈して狭い車内で騒いだ。
そう言えば、ミニバンが新車のときにジュースを零されて、怒ったことがあった。
 子供たちは随分しょげていたっけな。今思えば、そんなに頭に来ることでもなかったのに。
 道に迷って、妻と喧嘩したこともあった。事前に地図で経路を確認していたのに、渋滞を避けようと私が違う道へ入ったのが原因だ。
 ゴールデンウィークと盆休みは、毎回どこへ行っても渋滞に巻き込まれた。息子や娘がトイレをしたくなってよく困った。サービスエリアで「トイレはいいか?」と確認したにも関わらず、後になってそんなことを言う。
 一番参ったのは、行き先まで半分のところまで来て、妻が忘れ物をしたので戻ってくれと言ったときだ。もちろん、大喧嘩になり、しばらく口を利かなかったほどだ。

 車に乗っていた妻と子供たちの顔が、私の頭の中に浮かぶ。その時に見た三人の表情を今でも鮮明に思い出すことができる。
 憧れのスポーツカーに乗れて、嬉しくて仕方がないはずなのに、なぜ楽しめないんだろう。満足だという気持ちはどこにもない。
 太陽が西へ向かって、少しずつ傾き始めていた。
 帰りはちょうど夕方になるが、例えどんなに綺麗な夕焼け空が見えても、何も感じない気がする。

 今になってようやくわかった。
 私はスポーツカーなんて好きじゃないって。

<了>

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『息子たちへ』 其の四 厄介な連中に絡まれたら 

息子たちへ(シリーズ)

 昔から「待つ」というのが好きじゃない。
 試験の結果、先方からの見積、踏み切り、新商品の発売日、告白の返事と、例を挙げればキリがない。
 見た目はのんびりとしていることが多いが、実はとてもせっかちなのだ。

 今日は二十五日。給料日の会社が多いらしく、ATMには列ができていた。いつもならこんな日は避けるのだが、どうしても今日中に金を振り込む用があり、並ばざるを得なくなったのだ。
 人通りの多い駅前というにも関わらず、ここの出張所にはATMが一台しか設置されていない。
 並び始めておよそ十分。順番が回ってくるまでに、ようやくあと二人となった。何とか昼休みのうちに用は済みそうだ。
 やはり待つというのは好きじゃない。何かして待とうにも中途半端だし、集中できない。とにかく無駄な時間を過ごしているようで、損をした気分になる。
 そうこうしているうちに、先の一人が中に入っていった。
 後は前に並ぶお婆さんだけだ。
 ここまでくれば、イライラも随分と和らいでいた。
 そこへ突然、角刈りに小太りの男がやってきて、お婆さんの前に割って入った。
「婆ちゃん、悪いなあ。急いでるから入れてくれや。なっ」
 言葉は柔らかいが、目が笑っておらず、態度は威圧的だ。お婆さんは何か言い返せるはずもなく、ただ黙り込んでいる。
 後からやってきてよくもぬけぬけとそんなことができるものだ。
 男と目が合った。
「なんや、お前。文句あるんか?」
 唸るような低い声を出し、鋭い目で私を睨んでくる。
 こちらが何も言っていないにも関わらず、そういうセリフが出るということは、自ら悪いことをしていると認めているようなものだ。
 本当に急いでいるのなら、別に一人くらい入れてやってもいいと思っているが、いかんせんコイツ態度が気に入らない。
「ありますよ。みんな順番を守って並んでいるでしょ」
 私の目も鋭く尖っていたに違いない。私は気が弱くて、ケンカもからっきしで、典型的な小心者だ。その証拠に今、心臓は激しく膨らんだり、萎んだりを繰り返していた。
 ただ、こんなふうに他人を脅して自分の思い通りにしようという奴にすんなり従うことはしたくなかった。
「急いどる言うとるやんけ!」
「ほんなら頼み方があるやろ!」
 男が声を荒げたことで、私も反射的に大声を出していた。
「誰に物抜かしとんねん、コラッ!」
 男はお婆さんを押し退け、私に駆け寄ると、胸ぐらを掴むでもなく、いきなり私の顔を殴った。左の頬に激しい痛みを感じて私は地面にひれ伏した。
(あっ、これ完全にヤバいパターンやわ)
 私は横になった姿勢のまま体を丸め、執拗に繰り返される男の蹴りを耐え凌いだ。歯向かったところで勝ち目がないことがわかったからだ。
「もうやめてあげて。今、空いたからあんた先に行ってちょうだい」
 お婆さんがそう言うと、男の暴行はやんだ。
「今度会うたら殺すからな」
 男はそう言い捨てて、ATMの中へ入っていった。
「お兄ちゃん、大丈夫か?」
 お婆さんが優しく声を掛けてくれる。私はゆっくりと上半身を起こした。
「はあ、何とか」
 今のところ、どこかが激しく痛むということはない。
 そこへあの男がATMから出てきた。まだ何か言ってくるのではないかと、身構えたが、チラリと一瞥しただけでどこかへ行ってしまった。
「あんまり無理したらあかんよ。警察へ行くか?」
 お婆さんが泣きそうな顔をするので、安心させるために、私は笑って見せた。
「いいえ。大したことありませんから」
 とは言うものの、体中がズキズキ痛い。
「ワシら、散々並んで待ってたのに、後から来て入れろはないわなあ」
 私の後ろに並んでいた年輩の男性が呆れた口調でそう言った。
 私が一方的にやられるのを黙って見ていただけのくせに、今更味方のような顔をされるのは腹立たしかった。

 それから予定通り、金を振り込んだ。昼からは会社を休んで、念のため、病院へ行くことにした。
 診断の結果は打撲と内出血。骨折などはしておらず、湿布をもらって帰ることになった。
 脅しに屈せず、言いたいことはちゃんと言って自尊心は守ったはずなのに、スッキリとした気分ではなく、
 むしろ情けない気持ちしかなかった。

 小


「どないしたん!」
 顔が腫れ、湿布を貼って帰宅した私に、妻の美智子はおろおろと慌てた様子を見せた。
「いやあ、えらい目に合うたわ」
 ソファに腰掛け、ここまでの経緯について説明した。
 妻を安心させるために、できるだけ軽い口調で。
「……というわけで、大したことないってさ」

「よう言うた! 名誉の負傷やな」

 勝ち気な妻ならきっとそう言うだろう。これで私の気分もスッキリするというものだ。
「この……」
「えっ?」
「アホ! ボケ! カス!」
 ソファから立ち上がった妻が、私の頭に岩でも叩きつけんばかりの勢いで罵声を浴びせた。思わず「ヒッ!」と頭を抱え込む。
「そんなことして何の得になるねん!」
「いや、損得やなくて……」
「その男がちゃんと並び直したわけでもないし、あんたは顔がボコボコやし、病院代は掛かるし、何もええことないやないの!」
「せやかて、ミッチー。言いなりになるのも癪やん」
「あんた、ニュース見てるか? ホンマに些細なことで大怪我させられたり、殺されたりしてるやろ」
「そりゃまあ……」
 確かに妻の言うように、最近、常識では理解し難い事件に耳を疑うことが多い。
「あんたの気持ちがわからんわけやないんやで。ウチかてそんな奴は嫌いやし、言いなりになるのもイヤや」
 妻の口調は先程より穏やかになっていた。
「あんたは損得やないって思うかもしれんけど、やっぱり何かあったら損や。相手にせんに限るわ」
 悔しいが、妻の言っていることは正しい。
「それでも自尊心のほうが大事やって言うんやったら、もう止めへん。せやけどな……」
 妻は再びソファに腰を下ろし、腫れた私の左頬に右手でそっと触れた。
「あんたがこんな目に合うて一番辛いのはウチなんやで」
「ミッチー……」
 妻は静かに頷き、優しい笑顔を見せてくれた。
 この幸せを守るためやったら、自尊心なんか捨ててもええよな。
 そう思ったの束の間、次の瞬間、妻の表情は眉を吊り上げた恐ろしいものへと豹変した。
「それだけは忘れんといてや!」
 彼女の右手が私の左頬を捻り上げた。
「うぎゃあああああー!」

 小

 息子たちへ
『敬遠は逃げではなく、勝つための作戦です』




 今年の一月十二日に次男が誕生しました。
 それを機にタイトルを『息子へ』から『息子たちへ』に改題しました。

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『キッカケをください』 

忙しい人たちへ(掌編集)

「あれ? 野上じゃん」
 堤防の上から俺が名前を呼ぶと、野上は慌てた様子で振り返り、目の前を流れる川に向かって何かを放り込もうとしていたのを止めた。
 野上と俺は、同じ高校のクラスメイトだ。
 と言っても、それほど仲がいいわけでもない。
 傾斜のついた芝生を駆け降りて、野上のそばへ行くと、彼女は手に持っていたそれを後ろに隠した。
「それ、何だよ?」
「別に」
「田辺には関係ないよ」と、野上は首を横に降る。一つに束ねた後ろ髪が揺れる。
「もしかしてさ、チョコか?」
 俺の言葉に野上は顔を赤くする。
「知ってて聞いたの?  意地悪なんだね」
「いや、それは誤解」と、俺は慌てて否定した。
「リボンの付いた箱がチラッと見えたんだ。今日はバレンタインだから、もしかしたらって」
「そっか。そうだよね」と、野上は呟くように言って、隠していた箱を見せた。右掌に乗る小さなもので、赤い包装紙に銀色のリボンが結んである。
「受け取ってもらえなかったのか?」
「うん。好きな子がいるからって」
 野上は寂しげな目でチョコの箱をじっと見つめる。
「一年の時から好きでさ、覚悟を決めるのにすごく時間が掛かったんだよ。チョコだって手作り。でもね、失恋するのは一瞬」
「空しいよね」と、野上は笑ったが、表情で強がっているのがわかる。今にも泣き出しそうだ。
「それでチョコを川に捨てるつもりだったのか?」
 野上は唇を噛んで、黙って頷く。「田辺には関係ない」と言っていたのに、本当は誰かに聞いてもらいたかったに違いない。
「ショックだよな」
「うん」
「でもさ、川に捨てるのは良くない」
「そうね。川が汚れるよね」
「うん。それに勿体ないじゃん」
「食べられるもんね」
「いや、そうじゃなくてさ」
「ん?」と、野上が首を傾げる。
「野上の気持ちが込もっているからだよ」
 俺の言葉に、野上はハッとしたような表情を浮かべ、「ありがとう」と、照れ臭そうに笑った。
「田辺とは今まであんまり話したことなかったけど、結構いい奴なんだね」
 そんなふうに言われると、俺も恥ずかしくなる。それに次の頼みごとがしにくくなる。
 少しだけ話題の方向を変えてみる。
「けどさ、女子はいいよな」
「何が?」
「バレンタインっていう告白のためのキッカケがあるから」
「どういうこと?」
「告白する勇気がない奴にとっては、バレンタインみたいに背中を押してくれる何かがあるのはいいよなってことだよ」
「なるほどね」と、野上は頷いた後、あはははと実に楽しげに笑った。
「それって田辺のことでしょ? 結構気が小さいんだね。男だったらさ、バレンタインに頼らなくても告白くらいできなくちゃ」
「そりゃそうだけど……やっぱりフラレるのは怖いよ」
「ふーん。好きな子、いるんだ」
 野上が悪戯っぽい目で俺の顔を覗き込んでくる。幼い子供のような表情が可愛らしくて、ドキッとしてしまう。
 俺は慌てて目を逸らす。
「まあな」
「それじゃあ、頑張らないと」
「そうだな」
「私さ、そろそろ帰る。ありがとう。何か田辺と話して、少し元気が出た」
「じゃあね」と、背中を向ける野上を慌てて止めた。
「あっ、野上」
「何?」
「もし良かったらさ……」
「うん」
「そのチョコ……俺にくれないか?」
 思ってもみない言葉だったのだろう。
 野上は目を丸くしている。
「でもこれは田辺に渡すつもりで作ったんじゃないし……悪いよ」
「どうせ川に捨てるつもりだったんだろ?」
「そうだけど……」
「さっきも言ったけど、勿体ないよ。せっかく野上が作ったんだし」
 野上は何も言わずに下を向く。
「それとも俺にやるくらいなら、ここの鯉にやるほうがマシか?」
 意地の悪い言いように受け取られないよう、「もしそうなら諦めるよ」と付け足して俺は笑ってみせた。
 野上はしばらく悩むような表情を浮かべた後、渋々といった感じで、俺にチョコを差し出す。
「そこまで言うのなら、あげる」
「へへ、ありがとう」
 野上のチョコを受け取ると、かすかに彼女の温もりを感じた。
「あんたってさ、ちょっと変わってるよね。人にあげるつもりだったチョコが欲しいなんて」
「そうか?」
「まっ、いいけど。でも私がチョコをあげたことは内緒にしておいてね」
「わかってる」
「あと、私がフラレたこともね」
「もちろん」
「じゃあ、また」
 そう言って手を振った野上の顔は、河原で見つけたばかりのときより、ずっと明るいものになっていた。
 小さくなっていく野上の背中に、今はまだ言葉にできない気持ちを、俺はそっと伝えた。

(本当はさ、野上の作ったチョコだから欲しかったんだよ)
 
 本命でも義理でもないけど、もらったからにはお返ししろよ。

 掌に乗せた小さなチョコの箱を見つめて、俺は自分にそう言い聞かせた。

<了>

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『相方よ』 -最終回- 

相方よ

 しかし私たちの目標は永遠に実現しないものとなった。
 まさに夢にも見ない不測の事態が起きた。
 大村が交通事故で亡くなったのだ。
 葬儀には、校長と担任、クラスメイト全員で出席した。
 棺で眠る大村に向かって私は心の中で声を掛けた。
(アホか、お前。なんで死んどんねん。一緒に漫才師になるって約束したやろ。こんなことしても、誰も笑うてくれへんわ)
 大村は何も答えてくれなかった。
 私にも当然友達が何人かいた。皆、大村よりも付き合いが長くて、仲のいい者ばかりだった。
 大村を友達だと思ったことは一度もなかった。大村は単なる友達という言葉ではいい表せない、特別な存在だったからだ。
 葬儀が終わって、斎場を出ようとしたところで、大村の母親に「畠山君」と声を掛けられた。
「文化祭の漫才、見せてもろうたよ」
「はい」
「あの子、えらい喜んどったんよ。やっとええ相方に巡り合えたって」
 目を赤くし、鼻を啜りながら話を続ける大村の母親の姿に、私は胸が詰まり、ただ「はい」と返すことしかできなかった。
「あの子が言うたように、畠山君と漫才しているときは、ホンマに生き生きしとったわ。二人で漫才師になろう思うてたのにな……ゴメンね、ありがとうね」
 大村の母親がハンカチで目元を抑えるのを見て、私はついに堪えきれなくなって、涙を零した。

 小


 その後、私は受験勉強を始めた。大村がいないのであれば、タレント養成学校へ行っても意味がないと思ったからだ。
 しかし精神的なダメージは大きく、翌年は浪人生として過ごすことになった。
 次の年にどうにか四年制の大学に合格し、卒業後は一般企業に就職した。
 漫才に関しては、テレビで見る以外は全く無縁の生活を送ることとなった。

「こいつら、漫才師や言うとるけど、大しておもろうないな」
「そう?」
「その証拠にトーク番組とかの司会はやってへんやろ? ホンマにおもろい奴はそういうのも任せてもらえるはずや。その場の思いつきで皆を笑わせることができるからな」
「ふーん」
 頭が固くて、お笑いというものにほとんど興味のない妻は、私がそんなふうに語っても、理解ができないというようなリアクションを返すだけだった。ボケてもツッコんでくれないし、自分からボケることもない。容姿もそこそこで、家事もそつなくこなすが、私にとってはやはり物足りなかった。
 大村の遺志を継いで、もう一度漫才師を目指したこともあったが、彼以上の逸材は見つけることができなかった。
 
 しかし私の目の前に、その大村に匹敵する男が現れた。
 こいつとならきっと漫才師になるという夢……いや、目標を共に実現することができると私は確信した。
 まだまだ子供だが、みっちりと鍛え上げれば、モノになる。
 そう考えた私は、彼に「お笑い」というものを一から仕込んでいった。
 時間は随分とかかったが、彼は私の期待に見事応え、一人前の漫才師を目指すのに恥ずかしくない力を身につけた。
「これはいける」と思い始めたときに、また私の邪魔をする者が現れた。
 
 妻だった。
「いい歳して、何を夢みたいなこと言うてんの」
「歳は関係ないやろ。それにこれは夢やない。夢はいつか覚めてしまう現実味のないものやけど、俺らにとって漫才師になることは、努力すれば成し遂げられる目標や」
 妻は溜息を零しながら、首を横に振った。
「そんなもん、いったいどれだけの可能性があるねん」
「やってみなわからんやろ」
 あの時と同じだ。
「可能性は決して高くはないやろ。そりゃあんたはその僅かな可能性に賭けてるんかもしれへんけど、あの子はどないするの?」
 妻の言う「あの子」というのは、相方のことだ。
「あんた一人で盛り上がってるだけちゃうの? ホンマにあの子は漫才師になりたいって思ってるんか? 趣味でやってるだけかもしれへんやろ」
「それは俺がちゃんと確認する。先にお前の意見だけは聞いとこうと思ってな」
「私は反対や」
「あいつが望んでててもか?」
 私の問いかけに、妻はしばらく返事をしなかった。即答をしない分、母よりはマシだったかもしれない。
「先にあの子に確認して。話はそれからや」
 そう言って、妻は話を切り上げた。
 
 私は早速彼にその気があるのかを尋ねてみることにした。
 これまで漫才をしてきたのは、知り合いや身内の前、町内会の飲み会の余興というごく小さな場所のみだったが、彼は一度も「イヤだ」と言ったことはなかったし、私の目から見ても楽しんでいるように見えた。
 しかし本気で漫才師を目指すとなれば、どうだろうか。
 妻が言うように、彼にとってはあくまで趣味でしかなく、他にやりたいことがあるのかもしれない。
 もしアイツの答えがそうなら、私は諦めるしかない。
 私を漫才に誘った大村の心境がその時になってわかった。
 
 彼の部屋で、私と彼は小さなテーブルを挟んで、向かい合せに座った。改まった雰囲気に、彼は少し緊張気味だった。
 そしてそれは私も同じだった。
「お前、本気で漫才師を目指す気はあるか?」
「なんや唐突に」
 彼が戸惑ったような表情を浮かべた。
「俺が昔、漫才師を目指してた話は何度かしたよな?」
「うん。一緒に漫才をしてた人が事故で死んでもうて、諦めたんやったよな?」
「そうや。諦めたつもりやった。でもな、お前という才能のある人間に会うて、もう一回漫才師を目指してみたくなったんや。お前、漫才嫌いか?」
 彼はすぐに答えなかった。静かに下を向き、あれこれと考えを巡らせているようだった。
しばらくして彼が口を開いた。
「好きやで。やってておもろい。せやけど……本気で漫才師になるかって言われると、正直、自信はないな。俺って、ホンマにおもろいんかなあって」
 昔の自分を見ている気がした。
「さっきも言うたけど、お前には才能があるんや。皆の前で漫才やったこと、思い出してみ、よう笑ってくれてたやろ?」
「そりゃ、そうやけど……」
そこまで言っても、彼は首を縦には振らなかった。
「何か他にやりたいこととかあるんか?」
「いや……まだ今はわからん。大学出たら、とりあえず就職しようかなって思ってる」
「そうか……それやったら、大学卒業するまで俺にチャンスをくれ。もしその間にお前がやりたいことを見つけられたら、そっちを目指してくれたら構へん」
 苦肉の策だった。しかし彼の人生を決める資格は、私にもない。
 ただ、彼に私の気持ちだけはちゃんと伝えておこうと思った。 
「俺はお前やから一緒にやりたいねん。お前以外の奴とやるつもりはない。お前に断られるんやったら、諦めるしかないんや」
 かつて、私が大村からもらった言葉だった。
 彼は私の目を真っ直ぐに見る。
 これでもノーだと言われたら、私は何と言えばいいだろう。
「もしうまくいったら、アイドルと結婚できるかも知れへんで」
 私がそう言うと、彼は鼻を鳴らした。
「ふん。そんなことで俺が転ぶと思ったら……」
 そこで彼は、床にワザとらしく転んだ。
「転んどるやないかい!」
 それが彼の答えだった。
 こうして私と彼は、漫才師を目指すことになった。
 
 小


 漫才師を目指すと決めた二人にとっての初舞台が、この夏祭りの余興だった。
 司会者がステージに上がり、私たちの紹介を始めた。
 いよいよ出番だ。
「そしたら、いつものやるぞ」
 私の言葉に、彼が景気良く「おう」と答える。
「日本で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「世界で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「宇宙で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「この世で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「よし。それを証明してやろうや」
 二人揃って、勢い良くステージへと駆け上がると、観客の大きな拍手が私たちを迎えた。
 胸が高鳴っていた。
 アガリ症はいくつになっても、何度場数を踏んでも、直りそうもない。しかしそれは緊張のせいだけではない。それ以上に、再びこの場所へ帰って来れたことに興奮しているのだ。
「どうもー、モン☆ペアレンツです」
 声を合わせて自己紹介を済ませ、まずは彼が話し出す。
「いやあ、皆さん、このクソ暑い中、僕らの漫才にお集まり下さってありがとうございます」
これまでにない大きな舞台にも関わらず、彼のしゃべりに淀みはない。
「僕らね、えらい歳の差あるように見えるでしょ? 実際、歳の差は三十なんですよ。どういう関係に見えます? 親子なんですよ」
 次は私の番だ。
「私が息子の弘志です」
「そう。僕が父親の……なんでやねん! 逆や逆! ボケとんのかい」
「そら、この歳になったら、ボケもするで。足が震えとるのも、緊張しとるからなんか、歳やからなんかわかれへんわ」
場内が湧く。
 そこで私は観客の中に、妻の姿を見つけた。
 思わず笑みが零れる。
「勝手にすればええ」と、半分ヤケクソ気味に言っていたが、ちゃんと観に来てくれていたようだ。
「僕がなんで漫才始めたか言うとね、高校のときに、大村いうおもろい奴がおったんですわ」
「ほう。そりゃまたエライ古い話やな。どんな奴やったん」
「天パに黒縁の丸眼鏡掛けてたわ」
「なんや、生まれながらにして芸人のような男やな」
「そうやろ? そいつに誘われたんがキッカケや。お前には才能がある言うてな。ほんでマクドのテリヤキバーガー奢ってもらった」
「安っ!」
「ポテトとコーラもついてた」
「それ、バリューセットや! お買い得や!」
「あと、スマイルもつけてくれたわ」
「無料やがな!」
 息子の右手が、私の胸をバシッと叩くと、再び場内が笑いに包まれた。

 大村、見てるか。
 俺、コイツと漫才師目指すことにしたけど、ええよな?
 
 どれだけ耳を澄ましても、大村の「なんでやねん!」という声は聞こえてこなかった。

<了>

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『相方よ』 -3- 

相方よ

 文化祭が終わったことが、私たち三年生は進路について真剣に考えるきっかけとなった。早い者は二年の終わりから大学や公務員試験に向けて勉強を始めていた。
 私も四年制の大学へと進学するつもりだったが、大村は本気で漫才師になることを望んでおり、タレント養成学校へ行かないかと私を誘ってきた。そこは卒業生の多くをお笑い芸人や漫才師として輩出している、言わずと知れた有名校だった。
 大村の気持ちはわかるが、私はすぐには「わかった」とは言えなかった。
 もちろん、「人前で話すのが苦手だから」や「うまくいく自信がないから」といった理由からではない。
 悩みの種は両親だった。
 私の両親は決して厳格な人たちというわけではなく、「自分の好きなことをやればいい」といつも言っていた。
 しかし漫才師になりたいとなれば、話は別だろう。人気が出るまでは随分と貧しい暮らしをしなければならないらしいし、仮にデビューできても、その後ずっと続けていけるかどうかも定かではない。
 苦労や不安が付きものであることは、誰の目にも明らかだろう。
「お前が決めた道なら」と、子供を応援してくれる親もいるが、少なくとも私の両親は、普通に大学を出て、会社員になることを望んでいた。もちろん、会社員になってもすぐに辞めてしまったり、会社自身が倒産してしまったりすることもある。つまりどちらが正しいかなんてわからない。問題は一般的な可能性なのだろう。
 両親の希望に従って安心させたい気持ちもあったし、一方で大村を落胆させたくない気持ちもあった。
 それだけではない。あんなに引っ込み思案だった私が、大村と漫才をしているうちに、自分がどこまで通用するかを試してみたいと思うようになっていたのだ。
(とにかく一度話してみよう)
 私は覚悟を決めた。

「そんなもんあかんに決まってるやないの」
 それが母の答えだった。「なあ、お父さん」という問いかけに、父も黙って頷いた。
「確かに皆、お金ようさん稼いで、ちやほやされて華やかに見えるけど、あんたはそこしか見てへんやろ。あそこまでなるのにどんだけ苦労するか、わかるか?」
 はっきり言ってわからなかった。そう言う母だって、きっとわかっていなかったはずだ。
「せやけど、あんたのやりたいことやったらええって、いつも言うてるやん」
「そりゃ、もちろんそうやけど、漫才師なんて……そんな苦労することが目に見えてることを、お父さんもお母さんも賛成できへんわ。夢みたいなこと言うとらんと、もっと現実的なことを考えや」
 吐き捨てるように母は言って席を離れた。そこで話は打ち切りになった。父は最後まで無言で頷いているだけだった。
 
 それ以降も、二度、三度と私は両親を説得しようとした。しかし結果は同じ、ノー以外の答えはもらえなかった。
 次は大村にそのことを告げるという、気の重い仕事を果たさなければならなかった。大村の進路にも関わることのため、翌日に話をした。先伸ばしにすれば、余計に言い辛くなるとわかっていたからだ。
 私も本気で漫才師を目指したかったこと、何度もしつこく食い下がったこと……くどくどとしゃべり過ぎると、言い訳じみてしまうと思ったため、できるだけストレートな言葉を選んで謝った。
「そうか。まあ、親の言うことは無視できへんもんな」
 気にすんなやと、大村は笑って私の肩を叩いた。
 思ったよりあっさりと引き下がったため、何だか拍子抜けした感じだった。

 翌日、夕食を終えて自分の部屋で宿題をやっていると、父が尋ねてきた。
「ちょっと話があるんやけど、入らせてもらってええか?」
 とても珍しいことだったので、少し驚いたが、拒む理由もなかった。父はベッドに腰掛けて、「お前も座れ」と、私に椅子を勧めた。
「お前、ホンマに漫才師になりたいんか?」
「えっ?」
 父の意外な問いかけに、私はすぐに言葉が出てこなかった。その件はすでに解決……というか、終わってしまったはずだった。
なぜ今更そんなことを尋ねるのか。私にはまるでわからなかった。
「どうや?」
 父にも何か思うところがあったのだろうか。ここは正直に答えるほうが得策だと感じた。
「なりたい。俺、大村と漫才やるまで人前で話すのとか苦手やった。でも今ではそれが楽しくて仕方ないねん」
 父はいつものように黙って頷くだけだった。
「おかんは夢みたいなことって言うけど、やってみなわからんし……自分がどこまでできるか試してみたい。それにもし上手くいかんかったとしても……なんていうか、何かしら成長できる気がするねん。だから……えっと……何やろ……」
 もっともっと父に伝えたいことがあるのに、思うように言葉が出て来ず、とても歯痒かった。
 黙っていた父が口を開いた。
「確かにお前の言う通りかもしれんな。俺が思っている以上に、お前は成長してるみたいやしな」
 そう言って微笑む父の目は、とても優しいものだった。
「実はな、昨日、大村君に会うたんや」
「えっ、大村に?」
「そうや。家の前で俺が会社から帰ってくるのを待ってたんや」
 それは私の全く知らないことだった。今日も大村と話をしたが、アイツはそんなことを一言も言わなかった。
「どうしてもお前と漫才がしたいって言いに来たんや。それができへんのやったら諦める。他の奴とやる気はないって……えらいお前のことを買ってくれてるみたいやな」
 かつてアイツが私に言った言葉だった。
「僕らが見ているのは夢やない。夢はいつか覚めてしまう現実味のないものや。僕らにとって漫才師になることは、努力すれば成し遂げられる目標やって、そう言うてたわ」
 私が上手く言い表せなかったこと……アイツはきっと何の予行演習もなしにさらりと言ってのけたに違いない。
 やっぱりアイツには勝てない。
 そう思った。でもそれが堪らなく嬉しくて、私は自然と笑みを零していた。
「ええ友達やな」
 父はすっと立ち上がり、私の肩を叩いた。
「お前の漫才を見るの、楽しみにしてるわ」
「えっ……、ほんならええんか! 大村と漫才続けても……」
「お前らの目標やろ?」
「せやけど、おかんが……」
「お母さんのことは俺にまかせとけ」
 そう言って、父は目を細くした。
 
 母が父の説得をすんなりと承諾したのかどうかはわからないが、私は晴れて漫才師を目指すことができるようになった。
 もちろん、それも全て大村のおかげだったことは言うまでもない。
 私と大村は手を取り合って喜んだ。二人とも「絶対に漫才師になれる」と、信じて疑わなかった。

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『相方よ』 -2- 

相方よ

 金曜日の放課後。場所は教室。観客は部活をしていない男子と女子、合わせて十二人。
 実際にその場に居合わせれば、緊張なんてしないんじゃないか。そんな期待もしていたが、やはり甘かった。ドアの向こう側で皆が待っていると思うと、心拍数が急上昇した。
「大村」
「なんや」
「息ができへん」
「深呼吸せえ。ゆっくりやぞ」
 大村に言われた通りに、私は吸ったり吐いたりを繰り返した。
「とりあえず何でもええからしゃべれ。最後に俺が『もうええわ』って言えば、オチがつくから大丈夫や」
「うっ、うん」
「よし! ほな行くぞ」
 最後は私の返事も聞かずに、大村はドアを開き、自分で手を叩きながら黒板の前へと走っていった。私も慌てて後に続いた。覚悟を決める暇もなかった。
 そこで思ってもみない事態が起きた。私が教壇の段差で足を滑らせて、危うく転びそうになったのだ。もちろん、わざとではなく、事故だ。
「いきなりスベっとるやないか!」
 大村が上手く拾い上げてくれ、そこで早速笑いが起きた。
 気を取り直し、私は大村の右側に並んだ。
「どうもー、モン☆(スター)ペアレンツです」
 これが私たちのコンビ名だった。決して『つのだ☆ひろ』の真似ではない。大村曰く、『スター』という言葉をどこかに入れたかったらしい。
「いやあ、皆さん、お集まり下さってありがとうございます。今日が僕らの記念すべき初舞台言うことでね。ちょっと緊張してますが、最後までお付き合いくださいね」
 さすがに漫才師を目指しているというだけあって、大村は立て板に水の如く、言葉を紡いでいく。
「ところで『なんで相方が畠山やねん』って、皆さん、思ってるでしょ? 実はこいつ、ごっつおもろい奴なんですよ。なあ?」
 大村の問いかけに対して、私は何も答えられなかった。しゃべることはある程度台本で決めていたし、練習もその通りにやっていたが、やはり緊張が先に立った。
「おい。とりあえず、なんかしゃべれよ。一言でええから」
 皆の視線が集中する。
 ええっと、なんだったかな。これに対する返しは……あかん。思い出されへん。とにかく何か言わんと。
「ひっ、一言」
「一言って! 典型的なボケすんな!」
 大村の右掌が私の頭を叩く。かなりキツイ力で、一瞬星が飛んだように見えた。そこで再び笑いが起きる。
 台本とは全く違ったが、大村が機転を利かせてくれたのだ。
 その一撃で、私は目が覚めた。
「いや、一言でええからって言うたやろ」
 詰まることなく、言葉が出た。
「違うがな。もっとこう面白い奴、一発かましたれ!」
私は左腕をすっと大村の前に差し出した。
「はい。手羽先」
「カプッ。この醤油タレがまた格別……違うがな! 一口噛ませてどないんすんねん!」
 手を打って笑う者も出てきた。
 先程までの緊張が嘘のように、私は大村との漫才を楽しんでいた。

 そして無事に初舞台は終わった。反省会と言う名の打ち上げは、またマクドで開いた。
 大村がエビフィレをかじりながら、「どうやった、初舞台は?」と、優しい口調で尋ねてきた。
「緊張したけど、お前のおかげで何とかやれた。皆、結構笑ってくれてたし、俺自身も楽しかった。大満足や」
「せやろ? やっぱりあんなふうに笑ってもらえたら気持ちええよな」
 大村はケラケラと実に楽しげに笑った。
「次はもっと人数が増えるかもしれんなあ」
 そう言われると、また不安になった。
「いけるかなあ」
「大丈夫や。何人来ようがそんなもん関係ない。俺らは俺らの漫才をやればええんや。失敗してもええ。それでウケたら、むしろオイシイと思わんと」
 大村が根っからの芸人なのだいうことを、私は知った。
「だだし、芸の安売りはせんとこな。俺らが笑わせるのはステージの上だけや。それ以外は池上と中条に任せとけばええんや」
 大村の言葉を聞いていると、自分も芸人という高見へ近付いていっているような気分になった。

 その後も三週に一度のペースで、私たちは放課後の教室で漫才をやった。噂が広まったのか、余所のクラスから見に来ることもあった。
 私は自分で自分のことを面白いと思っていたが、それを引き出してくれているのは、間違いなく大村だった。
 どう頑張っても大村には勝てない。
 そう自覚すると共に、「これから先もずっと彼と漫才をやっていきたい」と思うようにもなっていた。

 三年生になっても、クラスは同じだったため、今まで通り練習も捗った。
 そしていよいよ文化祭を迎えた。
 視聴覚室に設けられたステージでは、一日目はロックバンドによる演奏、二日目に漫才が行われた。それぞれ参加するグループは十組程度。
 クジによって決まった私たちがステージに上がる順番は、一番最後。つまりトリ。
 順位を決めるわけではなく、楽しむこと、楽しませることが目的だとわかっていても、やはりプレッシャーは大きかった。どうせなら五番目辺りになれば良かったのにと、自分運の悪さを憎んだ。
 しかしそれも大村に言わせれば、違った。
「ええやん。遣り甲斐があって。ドカンと笑いとって、文化祭の幕を下ろしたろうや」
 そう意気込んでいた。やはり彼は凄いと、改めて実感した。
 
 文化祭二日目、私は朝から緊張していて、ほとんど文化祭の空気を楽しむことができなかった。
 午後一時に一組目がステージに上がった。参加するコンビとはリハーサルの時に顔を合わせていたが、皆、自分たちより面白そうに見えた。
 二組目、三組目と順にステージに上がっていくのを、私と大村は袖から見ていた。彼らの中に本気で漫才師を目指している者がいるのかどうかは定かではなかったが、さすがに自分から漫才をやろうと思っている連中だ。皆、それなりに笑いをとっていた。
 九組目が袖からステージに向かって駆け出していった。度々起きる観客たちの笑い声に、私は密かなプレッシャーを感じた。唾を飲み込むと、ゴクリと喉が鳴った。
「なあ、畠山」
 大村ステージに視線を向けながら、私に声を掛けた。
「お前、アイツらのこと、『おもろいなあ、俺は勝たれへん』。そない思うてるんやろ?」
 心の中を見透かされてしまい、私は下を向いた。大村が私の背中をバシッと叩く。
「心配すんな。俺らもおもろいコンビや。初めてクラスの皆の前でやったときのこと思い出せ。『俺自身も楽しめたし、大満足や』ってお前そう言うたやろ? 楽しむつもりでやろうや」
 大村の言葉で、私は心も体もふっと軽くなったような気がした。
 九組目の持ち時間が終わりに近づいていた。
「そしたら気合をいれるぞ」
「気合って?」
「お前が自信がなくて緊張する言うから、俺がそれを解す方法を考えて来たんや。俺が掛け声を出すから、お前は『俺らや』って続け」
 大村が言っている意味がよくわからなかったが、この緊張が少しでも解れるのなら何でも良かった。
「行くぞ……日本で一番おもろいのは?」
 すぐにはピンと来ず、私は何も答えられなかった。
「『俺らや』って続けって言うたやろ」
「あっ、そうか」
「ほな、もう一回……日本で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「世界で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「宇宙で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「この世で一番おもろいのは?」
「俺らや」
「よし。それを証明してやろうや」
 大村がニヤリと笑うと、九組目が向こうの袖へとはけていき、マイク放送で私たちのコンビ名が告げられた。
「ほな、行こか」
 大村が先にステージの階段を駆け上がった。私も意気揚々とそれに続いた。私たちが自ら手を叩かずとも、観客のほうから自然と拍手が巻き起こった。教室の時とは比べ物にならぬほど、大勢の生徒や保護者と思われる大人たちがおり、私と大村に一斉に視線を向けていた。
『俺らはこの世で一番おもろい』
 その言葉を信じ、私は大村の右隣に胸を張って立った。
「どうもー、モン☆ペアレンツです」
 大村に百パーセント任せきりで決めたこのコンビ名も、愛着のあるものになっていた。
「いやあ、全校生徒の一部の皆さん、そしてお父様、お母様、お兄様、お姉様、おじいちゃんもおばあちゃんも、お孫さんもお集まり下さってありがとうございます。今日は文化祭二日目言うことで、この素晴らしい舞台でトリを務めさせてもらうことになってホンマに光栄です。今日は笑わせることより、とにかくスベらんことだけ目標に頑張ります」
 何人来ようがそんなもん関係ない。
 以前そう言っていたように、大村はいつも通りのキレのある挨拶をこなしてみせた。大村がチラリと私を見る。
「なんや、お前またアガっとるんかいな」
 大村のフリで会場が少し静まり返る。
 この空気に飲まれたら負けだと、私は自分に言い聞かせた。
「大丈夫や。今日は野菜いっぱい食べてきた」
「なんや、えらいヘルシーやないか」
「野菜食べたら緊張せえへんって聞いたからな」
「ほう。それは誰に聞いたん」
「お前や。掌に野菜の絵描いて食べたらええって」
「それ『人』の字や! 野菜は、『お客さんの顔を野菜や思え』って話やろ!」
 大村が捲し立てるような口調のツッコミで会場が湧いた。
「なんや、違うんかいな。今もこうやってしゃべりながら掌にトウモロコシの絵描いてたんやけど」
「トウモロコシって……また難しいな、それ」
「一粒一粒丁寧に書いてたんや。ところどころ焦げ目とか入れながら」
「しかも焼きトウモロコシかいな! 焼き上がる頃には終わっとるわ!」
 更に笑いが起きる。とりあえず、ツカミは上手くいった。
 
 そしてそのまま失速することなく、最後まで突っ走った。
 大村の「もうええわ」の言葉が出ると、観客から大きな拍手を送られた。
 先に漫才を終えた連中が皆、ステージに上がってきた。全員横一列に並び、一斉に礼をした。
 いつまでも途切れることのない拍手の中で、私は確かな満足を感じていた。

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『相方よ』 -1- 

相方よ

「なんや。緊張してるんか? 顔が恐いぞ」
 私の隣に立つ男が不敵な笑みを浮かべる。彼のほうが私より三十ほど年下なのだが、遠慮などはまるでない。しかし私もそれを不快に感じることはない。
「何を言うとんねん。お前のほうこそ震えとるやないか」
「これは寒いからや」
「ほう。真夏のこの時期にかい」
 神社の敷地内の一角に設けられた特設ステージ。
 夏祭りの余興として、私たちはそこで漫才をすることになっている。今は、舞台裏の所謂袖と呼ばれる場所で出番を待ちながら、お互いの緊張を解そうと、わざといがみ合っているところだ。

 子供の頃の私はとても引っ込み思案で、人前で話したり、目立たったりするのが嫌いな人間だった。
 幼稚園の劇は森の木の役、小学校の学芸会は主人公のクラスメイトB。どちらもほとんどセリフがなかった。
 そんな私だが、人を笑わせること、笑わせてもらうことは好きだった。会話や行動に笑いの要素を盛り込むことは常に考えていた。オチのない話はつまらないと思ったし、下ネタは認めなかった。
 体を張ったり、でかい声を出したりするだけの、若手の勢い頼みの笑いより、ベテランのしゃべくりに本当の面白さを感じた。
 クラスの単なる「おしゃべり」で目立っている奴より、「俺のほうが遥かに面白い」と思っていた。
 だからと言って、私の性格上、それを前面に押し出すこともしなかった。
 影の薄い私がポツリと漏らした言葉で皆がウケる。それだけで快感だったので、漫才をするなんてことはまるで考えていなかった。

 小


「畠山、俺と漫才せえへんか?」
 私にそう声を掛けてきたのは、高校二年の時の同級生で、天然パーマに丸い黒縁眼鏡の大村だった。
 大村とはそれまでほとんど話をしたことがなく、遊びは愚か、漫才に誘われるなんて、全く想像もしていなかった。
 それは二学期が始まって、二、三日が経ったある日の放課後のことだ。細かいことは何一つ教えてもらえずに、学校から少し離れたところにあるマクドへ連れて行かれた。
 大村は「何でも好きなもん注文したらええよ。俺が奢ったるから。ビッグマックのセットでもかまへんで」と、とても気前が良かった。とりあえず、私はテリヤキバーガー、大村はエビフィレオのバリューセットを注文して、窓際の席に座った。周りには私達のような高校生も数人いたが、同じ学校の連中ではなかった。
「それで、さっきの話やけど、どうや?」
「漫才やろうって話か?」
「せや」
「なんでまた、漫才やねん」
「俺、子供の頃から漫才がメッチャ好きでな。親に劇場に連れて行ってもらったりもしてるんや」
 大村の目は生き生きしていた。
「ほんでいつしか俺自身も漫才をやってみたいと思うようになってん。この髪の毛、天パや言うてるけど、ホンマはパーマあててるねん。眼鏡も伊達やし」
「第一印象でインパクト与えるためか?」
「せやないと、俺ってビジュアルは至ってフツーやからな」
 パーマと眼鏡、どちらもしていない、元の大村の顔を知らないため、同意も否定もできなかった。
「眼鏡の件はともかく、パーマの件は黙っといてくれよな」
「そんなんわざわざバラさへんよ」
「おおきに」と、大村はエビフィレオにかじりついた。彼が「まあ、とりあえずお前も食えや」と言うので、私もテリヤキバーガーの包みを開いた。
「お前が漫才を好きなんはわかったけど、なんで俺を誘うねん。俺はな、人前でしゃべんのは苦手なんや。それやったら、池上とか中条とか誘ったらどうや?」
 池上と中条。この二人はクラスでもよく目立ち、笑いやムードを作る存在であることは自他共に認められていた。
「あかん、あかん。アイツらは確かに声もでかくて目立ってるようにみえるけど、俺からしたら大しておもろうない。所謂若手の笑いに過ぎん」
「勢いに任せた笑いゆうことか?」
「そうや! ようわかっとるやないか。さすが俺の見込んだ男だけのことはあるなあ。ところで、ホンマにビッグマックじゃなくて良かったんか?」
 大村は機嫌良さげに笑ったが、私は首を横に振った。私の反応が薄いので、大村が「ええか、お前には才能があるんや」と念を押してくる。
「池上とか中条にはない、優れた才能がな。それを人前でしゃべるのが、苦手やからで埋もれさせるのはあまりに勿体ないで」
 大村の目を見ていると、嘘やお世辞のようには聞こえなかった。ただ……。
「俺ってお前とそんなに話したことないよな? それやのに、なんで才能があるとかってわかるねん」
「俺はこう見えても、相方探しを中一の頃からずっとやっとるんや。直接会話せんでも、俺以外の誰かとしゃべってるところとか、動きとかを見れば、そいつがどのくらいおもろいかくらいはわかる。お前がこまめにネタを仕込んでるのはお見通しや」
 大村は得意気に椅子にふんぞり返って、ストローでコーラを啜った。
 確かに大村の言う通りだった。私は日頃の言動のところどころに笑いの要素を盛り込んでいた。
「ただ残念なことに、お前のそれを拾い上げれる奴は、ウチのクラスにはおらんな。俺を除いては」
大村が体をぐっと前に乗り出してきた。
「お前は安心してボケまくれ。俺が必ずツッコんだる。だから俺と漫才せえへんか?」
「せやけど、俺、人前では……」
「そんなもんはすぐに慣れるって。目指すは来年の文化祭や」
「文化祭!」
 想像しただけでも心臓が張り裂けそうだった。
「心配せんでも、いきなり文化祭とは思ってない。ある程度練習したら、まずはクラスの連中の前でやってみるつもりや」
 私が即答できずに黙り込んでいると、大村は「そうか」と言って、静かに腰を下ろした。
「俺、お前の気持ちを全然考えてやれんかったな。すまん」
 私はホッとした。いくらお笑いが好きでも、漫才師なんて柄じゃない。
「わかってくれたらええよ」
「それならそうと言うてくれや」
「だからさっきから……」
「マックシェイクがないから返事を渋ってるんやろ!」
「なんでやねん!」
 私は反射的に大村の胸に右手をぶつけていた。
 はっとしたときには、大村がニヤリと笑っていた。
「さすがやなあ。ボケもツッコミもできるとは……冗談はさておき、これだけは勘違いせんといてくれよな」
 大村が表情を真剣なものに変えた。
「俺はお前やから一緒にやりたいねん。お前以外の奴とやるつもりはない。お前に断られるんやったら、諦めるしかないんや」
 そこまで言われてしまうと、さすがの私もノーとは言えなかった。

 それからの放課後は、大村との練習に費やした。二人とも部活はしていないし、塾にも通っていないため、それなりに時間はあった。
文化祭は受験のある三年生のことを考慮して、毎年五月に行われる。つまり本番まではおよそ九ヶ月。問題は二人の息が合うかより、私のアガリのほうだった。練習では上手くやれても、皆の前で上手くやれるか。はっきり言って、自信はなかった。

 十月に入って、いよいよクラスメイトの前で漫才を披露することになった。その旨を発表したときの皆の反応は決していいものではなかった。大村はともかく、私に関しては「畠山に漫才ができるわけがない」と、皆、口を揃えてそんなことを言った。大村は「気にせんでええ。すぐにわかる」と慰めてくれたが、自信がないことに変わりはなかった。。

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『その手を差し伸べて』 -後編- 

忙しい人たちへ(掌編集)

 幼い頃、俺がつまずいて転ぶと、父はいつも右手を差し出して俺が起き上がるのを助けてくれた。すぐに抱え上げないのは、優しいアイツが考えた精一杯の厳しさだったのかもしれない。
 父は馬鹿が付くほど人の良い男だった。
 自分のことより他人のことを気に掛け、何かあったらすぐに力を貸していた。
 貸したのは力だけじゃない。
 金もだ。未だに返って来ない金がいくらかある。
 最期は見知らぬ人間の代わりに車に撥ねられて死んだ。
 俺が中学二年生の時のことだ。
 母は自分自身が亡くなるまで、そんな父を「立派だ」と言っていたが、俺には理解できなかった。
 父にはもっと守るべきものが他にもあったはずだ。
 赤の他人のために自分を犠牲にして死ぬなんてどうかしている。
 それから俺は、父を嫌いになった。
(父さんのような生き方は御免だ。他人からどう思われようと構わない。要領よく、狡賢く、損得だけを考えて生きてやるんだ)
 父の遺体を睨み、唇を噛みしめながら、俺はそう誓った。
 
 小

 目を覚ますと、白い天井が目に入った。ほのかに薬品の匂いがする。
 ここが病院であることは疑う余地がなかった。
 試しに上半身を起こしてみる。
 体中に痛みが走るが、それほど強いものではない。右手首には包帯が巻かれているが、動かすことに支障はなかった。
 ナースコールで、目が覚めたことを報せると、すぐに医師と看護師がやってきた。
 医師から聞かされた怪我の症状は、背中や腰、肩などの打撲と右手首の骨の不全骨折。所謂ヒビのことで、鉄骨が頭に倒れてくるのを庇った際にできた可能性が高いらしい。倒れてきた鉄骨が比較的軽いものだったことや高い位置からによるものではなかったこと、倒れてくる際にばらけてしまったことなどが幸いし、大事に至らずに済んだのだろうと医師は言っていた。
 救急車を呼んでくれたのは、あの男なんだろうか。
 医師にそのことを尋ねてみたが、どこにも通報者は見当たらなかったらしい。
 逃げたに違いない。
 だからと言って、別に腹も立たない。俺がアイツでもそうしただろう。

 医師が出ていった後、もう少し眠るつもりで横になったが、入れ替わりに中年の警官が尋ねてきた。そばにいるのは、俺を騙したあの男だ。酷く項垂れていて、随分と反省しているように見える。
 警官は手帳を見せて、自分の身分を証明した。そんなことは制服を見ればわかるのだが、形式上のためだろう。
「実はこの男が、あなたのために救急車を呼んだ後、暑のほうへ出頭してきましてね。事の発端は、自分があなたから金を奪おうとしたことにあると話しているんです。間違いありませんか?」
 馬鹿正直な男だ。そのまま逃げることだってできたかもしれないというのに。
 男は先程からずっと下を向いたままだ。申し訳なさそうというより、今にも泣き出しそうな情けない顔をしている。
 
 似たような顔を俺は随分前に見た。
 会社帰りに飲みに行った父が、偶然居合わせた遠方から来ている他人にタクシー代を貸し、自分は朝まで掛けて歩いて帰ってきたことがあった。
 怒り狂う母に、父は何度も頭を下げていた。「またいい人やっちゃいました。すみません」という表情でありながらも、「でも、これが僕なんです」と主張する表情のようにも見えた。
 あの時の父の顔にそっくりだ。

「いかがですか?」と、警官が再び問いただしてくる。
「はい。その通りです」
 俺の言葉に、警官が男を一瞥する。男がより一層縮こまったように見えた。
「お巡りさん、彼は私の友人ですが、本当にクソ真面目な人間でしてね。手を抜くことを知らないのです。そのせいもあってか、時折、こんなふうにハメを外して悪ふざけをするんです」
「悪ふざけ?」
 警官が目を丸くする。その隣で男も目を丸くしている。
「普通に金を貸してくれと言えばいいものを、わざわざ強盗の真似までして……きっとそれも彼の性格ゆえなんです。とことん拘るっていうのかな? 私もそういうのが嫌いじゃないので、ついつい悪ノリしてしまうんですよね」
「ということは、今回の一件は全部あんたたちのお遊びだと言うんですか?」
「そうです。大変お騒がせしました。今後は自粛します」 
 警官の表情がみるみるうちに険しいものに変わった。
「いったい何を考えているんだ! あんたらは!」 

 小
 
 警官が帰った後、俺は煙草を吸うために、病院の屋上にある喫煙所へ行くことにした。
 要件はもう済んだはずなのに、あの男も一緒に来ると言った。男は「大丈夫ですか?」と、必要以上に俺に気を遣ってきた。
 ベンチに腰掛けたのは、俺だけだった。男にも座るように言ったのだが、頑なにそれを拒んだ。
 煙草に火を着けようとして、初めて右手に不自由を感じた。ライターを使いたいのに、ちゃんと力が入らないのだ。悪戦苦闘していると、男が慌てて手を貸してくれた。
 すっと一息吸い込んで、煙を吐き出すと、それを待っていたかのように、男が「ありがとうございました」と頭を下げた。
「ああ、さっきのことか」
「そうです。あんなふうに庇ってくれるなんて、想像もしてませんでした。あなたはてっきり怒っているもんだと思っていましたから」
 腰が低く、しゃべり方も馬鹿丁寧。これが本当の彼に違いない。あの時は余程無理をしていたんだろう。
「別に怒る理由なんてない。まだ金を取られたわけでもなかったし、救急車を呼んでくれたのもあんただしな」
「でも先に助けてくれたのはあなたのほうだ」
 自分のためだけに生きてきた俺が、なぜこの男を助けたのか。
 未だによくわからない。
 あの時は損得など考える暇もなかった。
『俺の意思とは無関係に、体が勝手に反応した』
 それが今まで貫いてきた俺の生き方に対するせめてもの言い訳だ。
「あんたさ、結婚はしてるのか?」
「いや、残念ながら……」
「悪いけど、恋愛はうまそうにみえないもんな」
 俺がそう言うと、男は何も言い返すことがないといった感じで自嘲気味に笑った。
「友達は?」
「多くはないけど、少しくらいならいます」
「両親は?」
「未だ健在です。元気にやっています」
「そうか。それはいいことだ」
 他人のことなのに、なぜだか嬉しかった。
「あんたさ、今までいい人で来たんだ。無理に悪い人間になる必要なんてない。最期までいい人でいればいいじゃないか」
 男はバツが悪そうな表情をして、下を向いた。
「いい人だったのにって……そう思われながら死んでいけよ」
 男は俯いたまま、しばらく目を閉じていた。
 静かな時間が流れた。時折、吹いてくる少し冷たい風の音に紛れて、男が鼻を啜る音が聞こえる。
 やがて男がゆっくりと顔を上げ、「そうですね」と頷いた。
「僕は本当に馬鹿でした」
 実に清々しい顔をしている。
「あの時会えたのが、あなたで良かった。ありがとう」
 男がすっと右手を差し出す。
 あの日以来、俺は自分に差し出された手を掴むことも、誰かに手を差し出すこともしなくなった。
 最後にこんなふうに誰かに感謝されたのは、いつだっただろう。
 不慣れなことに戸惑ってしまい、素直にそれに応えられない。
「そうか。右手は駄目でしたね」
 男が笑いながら出し直した左手を、俺は恐る恐る握り返した。
 お互いの手にぐっと力が入る。
「ありがとう」と、男が再び感謝の気持ちを口にする。
 俺の頭の中に父の顔が浮かぶ。
 
 父は馬鹿が付くほど人の良い男だった。
 父のような生き方は御免。
 俺はずっとそう思っていた。
 しかし、今、ようやく父の気持ちがわかった気がする。
 ほんの少しだけ……。

<了>

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『その手を差し伸べて』 -前編- 

忙しい人たちへ(掌編集)

 膝が痛い。
 まだ傷を見たわけでもないのに、擦り剝け、血だらけになったことを勝手に想像してしまう。
 地面に這いつくばった姿勢のまま、必死で涙を堪える。
 泣きたいのは、傷が痛むからか。
 あるいは、つまずき、転んでしまったことが惨めだからか。
「さあ、掴まって」
 優しい声と共に、目の前に差し伸べられた大きな右手。幾重もの深い皺と小さな傷が刻まれたそれは、お世辞にも美しいものとは言えなかった。
「ほら」
 その不格好な右手が、早く捕まれと催促してくるので、俺も右手を伸ばして、それに応えた。
 相手の手にギュッと力が入ったかと思うと、俺の体はふわりと浮き上がり、次の瞬間には地面の上に足を揃えて立っていた。
 膝は少し擦り剝けているだけで、想像していたよりもずっと軽い傷だった。
「大丈夫。大したことはない。これくらいすぐに治るさ」
 右手の主は、楽しげに笑いながら俺の頭を撫でた。
 もう膝は痛くない。
 転んだことに対する惨めな気持ちも、どこかへ行ってしまった。
 それなのに……どうして涙が止まらないんだろう。

 小

「残念ですが……」
 神妙な面持ちで語る医師の言葉に、俺はただ「そうですか」と答えるしかしなかった。
 その後も話は続いたが、あまり聞いてはいなかった。
 今更処方されるような薬もないため、会計だけをさっさと済ませて病院を出た。
 電車で帰るため、駅を目指す。
 少し前なら、歩いて五分というその僅かな距離だけでシャツが汗で湿っていたが、今は違う。むしろ、吹き抜けていく風を冷たく感じるほどだ。
 駅前で、数人の若い男女が首から白い箱をぶら下げて、募金を呼び掛けていた。
 学生だろうか。
 足元の看板に貼られたポスターには、『恵まれない子供たちに愛の手を』のキャッチコピーと共に、鼻を垂らして悲しげな目をする黒人の男児の写真が映っている。
 大抵の者は、募金は愚か、若者たちの声に耳を傾けることやポスターに目を向けることさえせずに、その場を通り過ぎていく。
 俺もそのうちの一人だった。
 募金なんてしたのは、小学校の時だけだ。それも教師に言われるがまま、半ば強制的にだ。代わりに何の役にも立たない小さな赤い羽根をもらった。
 あんなことに果たして意味があるのか。
 いつかそいつらが一人前になって、俺のところへ感謝の言葉を伝えに来てくれるとでも言うのか。

 エスカレーターを登ると、すぐに切符の販売機がある。一番空いている列に加わったのだが、俺の前にいる年老いた女が頭上の路線図を眺めながら、どこかの駅名を繰り返し呟いている。
 恐らく自分が降りる駅を探しているのだろう。
 なぜ順番が回ってくるまでに確認しておかなかったのか。あるいは先に料金を確認しておいてから列に並べば済む話のはずだ。
 要領の悪い女に苛立っていると、隣の販売機が空いたため、素早くそちらへ移って切符を買った。
改札を潜ると、ちょうどいいタイミングで電車がホームへと入ってきた。あの女に構っていたら、もう一つ後の電車に乗る羽目になっていた。急ぐ理由はないが、他人のために時間を取られるのは馬鹿げている。
 運良く空いている席が見つかったため、そこへ腰掛けた。年寄りの男がやってきて、「駄目だったか……」と、酷く残念そうな表情を浮かべ、溜息を零しながら吊革に手を伸ばした。
 電車が揺れる度に、その男が左右にふらついているのがわかったが、俺は席を譲ったりはしなかった。目を閉じて、知らぬ振りをした。
 なにせ、俺は病人だからな。それも重症だ。

「持って後一年」

 医師から与えられた死の宣告に、俺が「そうですか」としか答えなかった理由は、絶望したからじゃない。
 特に何も感じなかったからだ。
 運命なら仕方がない。そう思った。
 俺には守るべき家族もいないし、恋人も友人もいない。両親は随分昔に亡くなったし、会社の連中は仕事だけの付き合いで、帰りに一杯やるような間柄でさえない。
 俺は常に自分にとっての損得のみを考えて生きてきた。警察にこそ世話になっていないが、そのためには人を騙したりもしたし、こっそりと何かを盗んだりもした。
 決していい人間などではない。
「罰が当たった」と言う者はいても、「まだ若いのに」と悲しむ者はいないだろう。
 後悔などない。俺自身が選んだ生き方だからだ。

 小

 地元へ戻り、夜までパチンコ屋で遊んだ後、適当な飲み屋で一杯やって、家へ帰ることにした。
 賑やかな表通りから離れ、薄暗くて狭い裏通りへと入った。人の往来が少なくひっそりとしており、俺のような人間に相応しい帰り道だ。今夜は満月のためか、いつもより少しばかり明るい気がした。
 コインパーキングのところを曲がり、緩やかな坂道を下っていくと、直に俺の住むマンションが見える。安いワンルームマンションで、外も中もお世辞にも綺麗とは言えない。
 ただ、その前に、随分昔に潰れてしまった工場のそばを横切る必要がある。幽霊だとか怪奇現象だとか、その手の話は信じない質だが、やはり気味が悪い。
 工場が視界に入ったところで、歩く速度を上げた。
 さっさと通り過ぎてしまおう。
 そう思っていたのだが、幽霊や怪奇現象ほど非現実的ではないにせよ、いつもとは違った光景を目にしてしまい、勝手に足が止まった。
 背広を着た一人の男が、塗装がボロボロにはげ落ちた工場の壁にもたれかかっていたのだ。
 年齢は俺と同じ四十代後半くらいか、あるいはもう少し若いか。
 ワイシャツの腹の辺りが赤く染まっており、単なる酔っ払いの類ではないことは、容易に察しが付いた。
 突然のことで、つい足を止めてしまったが、下手に関わり合っては厄介だ。
 このまま、素知らぬ振りを通そう。
 再び速足で歩き始め、男の脇を通り抜けようとすると、男に左足を掴まれた。
 全身の血の気が引く。
「お願いします。助けてください」
 痛みを堪える表情を浮かべながら、男が縋るように、俺の左足に両手でしがみついてくる。
「放せ! 面倒に関わるのは御免だ」
「そんなこと言わずに頼みます! 刺されたんです。見知らぬ男に」
 男の手の力が次第に強くなってくるのがわかる。そのまま、俺の頭の先まで這い上がってきそうな勢いだ。
 こうベタベタと触られたのでは、男の血は間違いなく俺の服に付着しているだろう。そうなると、もしこの男が死んだ場合、俺が疑われることにもなりかねない。
 放っておくのは得策じゃない。
「わかった。わかったから、とりあえずその手を放せ」
 それに助けてやれば、多少は礼がもらえるかもしれないしな。
「放した途端、逃げるつもりじゃないでしょうね?」
「心配するな。そんなことはしない」
 男は「助かります」と言って、両手の力を緩めた。
「傷はどんな具合だ?」
 俺は男のそばにそっと腰を下ろし、傷口があるであろう腹の辺りに視線を移した。血の色の薄さに違和感を感じた瞬間、痛みに歪んでいたはずの男の表情は、不気味な笑いに一変した。
「引っ掛かったな」
 その右手には果物ナイフが握られていた。

 小

 男に促され、そのまま工場の中へと入った。
「有り金を全部おいていけ」
 男は俺にナイフを向けたままの姿勢で、顎をしゃくった。
 照明などなく、辺りは真っ暗だったが、壁やガラス、天井など、至る所に穴が空いているため、そこから入ってくる街灯の光と月明りで、男の表情はよくわかる。
「残念だが金なんてない。さっきパチンコでスッてきたばかりなんでな。それにあったとしてもあんたにやるのは御免だな」
「何? あんた、これが怖くないのか? 俺は本気だそ」
 男がナイフを俺のほうへスッと差し出す。刃先が揺れている。
 やはりそうか。
「やれるもんなら、やってみろ。俺はそんなもん、怖くはない」
「うっ、嘘を付け! じゃあ、なぜ中に入った? 刺されるのが怖いからだろうが!」
「残念だが、違うな」
 じりじりと俺が詰め寄ると、男の足はそれに呼応するかのように後ろへと下がっていく。
 思った通り、コイツはそんなに度胸のある奴じゃない。
「あんたの手が震えていたのがわかったからな。逆に金を取ってやるつもりだったのさ」
 男の顔が歪む。
「まあ、金がないから『金を寄越せ』って言うんだろうけどな。その気になれば、いくらでも金を巻き上げることくらいできる。カードなり、消費者金融なりで金を借りさせたりしてな」
 もちろん、本気でそんなことをするつもりはない。
 俺はワザと目を尖らせて、更に男に詰め寄った。
 騙された腹いせに、少しからかってやろうと思っただけだ。
 もうこの辺りで勘弁してやってもいい。多少の憂さ晴らしにはなったしな。
 ところが男の後ずさりはそこで止まった。ナイフを両手で握り直し、キッと鋭い目で俺を睨んでいる。先程までの怯えた表情が嘘のようだ。
「やるならやれよ。俺はカードローンも消費者金融の取立ても怖くはない。死ぬことさえ怖くない。どうせ、後一年の命なんだ」
 その言葉で、俺は一瞬、大きく目を見開いた。
「後一年?」
「そうさ。癌だよ。俺はな、今まで定規で計ったかのように、真っ直ぐな人生を歩んできた。誰が見ても、真面目でいい人。自分を犠牲にしてでも、他人のために行動する。そんな人間だ」
 俺の脳裏をある人物の顔が横切った。
「当然、警察の世話になるようなことはないし、人を殴ったことも、万引きさえしたこともない。やったのは信号無視と駐禁くらいで、決して後ろ指を差されるような生き方はしていない」
 そうだ。アイツと同じだ。
「それなのに……なんで俺なんだよ。死んで当然の奴なんて他にいくらでもいるだろうに……腹が立って仕方がないよ」
 今度は今にも泣き出しそうな顔になる。感情の揺れが手に取るようにわかる。
 しかし俺は男を気の毒だとは思わない。
「それでヤケになって強盗か?」
「そうだ。真面目にやっているのが馬鹿らしくなったのさ。本当は金なんてどうでもいい。何でも構わない。今まで自分がやらなかったことをやってやるつもりだった」
 俺は鼻を鳴らし、吐き捨てるように「くだらねえ」と言った。
「なんだと!」
「それがあんたのやりたいことか? 刺したけりゃ刺せよ。そんなことをして本当に満足できるならな。さあ、刺せ」
 先程のように、俺は男へと滲み寄った。
 こんなに腹が立つのは、アイツと似ているからに他ならない。
 男が「クソーッ」と声を張り上げ、ナイフを構えた姿勢のまま俺のほうへと踏み出した。
 俺がそれを避ける体勢を整えた瞬間だった。
 足元がぐらぐらと揺れ始めた。
 男も俺も反射的に上を見た。電球の割れた照明や吊り下げ型のクレーンが揺れている。
 地震のようだ。
 男の頭上に鉄骨が数本倒れてくるのが、俺の目に入った。
「危ない!」
 そう叫ぶと同時に、俺は両手で男を突き飛ばしていた。その後すぐに、体中に激しい痛みを感じて、地面にひれ伏した。
 説明されなくても、状況はよくわかった。

 俺はいったい何をしているんだ。
 なぜ自分を犠牲にして、こんな見知らぬ男を助けたんだ。 
 どんな時も自分の損得だけを考えて生きてきた俺が……なぜだ。
 余命後一年とか言われて、頭がどうかしたのか。

「さあ、掴まって」
 薄れゆく意識の中、俺に向かって右手が差し出されるのが見えた。

<後編へ続く>
 
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『時間ができたら』 

忙しい人たちへ(掌編集)

 元旦。
 玄関ドアを開けた瞬間、ひんやりとした風が体に吹き付けてきて、思わず両腕を抱えてしまう。体を震わせながら、道路際に建てられたブロックの門柱に小走りで近付いた。ポストから朝刊と輪ゴムで留められた年賀状の束を取り出すと、慌てて家の中に戻った。
 人付き合いの少ない私に届く年賀状と言えば、大半が会社の連中で、その他は親兄弟とDMまがいのものだ。
 親友はいるが、どうにも面倒臭がりの奴らばかりで「もうそんな間柄でもないだろう」と尤もらしい言い訳をして、メールで済ませる。だから私もメールで返してやる。
 輪ゴムを外して、私宛の分を抜き取り、残りを妻に差し出す。妻は「ありがとう」と言ってそれを受け取り、顔を綻ばせながら一枚一枚目を通していく。
 私も彼女に倣う。
 同じ年頃の者ばかりのため、自分の息子や娘の写真を載せて送ってくる者が多い。どれも本人が映っておらず、差出人の名前を確認しないと、誰からのものなのかがピンと来ない。そういう私も同じで、今年は息子のピースサインの写真を載せて送った。
『昨年はいろいろとお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします』という、写真屋で印刷された定型文どまりのものもあるが、大抵は手書きで何かしらのメッセージを添えている。私にしかわからないような小ネタも書いてあったりして、一人クスッと笑ってしまう。
 一通り見終えて、枚数を数えると、十三枚だった。そのうち二枚が紳士服と眼鏡屋のDM。私が出したのが十三枚なので、もしそのまま返ってくるとすれば、後二枚だ。
 一人は毎年、遅れて返してくる者で、届くのは大抵、一月三日か四日だ。まあ、今年も同じだろう。
 もう一人は毎年必ず元旦に届くよう送ってくれる者だが、今年はなぜか届いていなかった。
 彼は、私にとって所謂同期の入社組だった。どこか気の合うところがあって、すぐに仲良くなった。
およそ二年間、苦楽を共にしてきたのだが、彼がある日突然、「辞める」と言い出した。
 自分に今の仕事は向いている気がしないので、別の仕事を探すというのが理由だった。その言葉を聞いた瞬間、何とも言えない寂しさを感じたのをよく憶えている。
 
 彼が退職してからも、私たちの関係は続いた。時折、近況報告を兼ねて電話をしたり、食事に行ったりをした。
 私は引き続き今の会社に残ったが、彼は一年ほど、専門学校に通って資格を取り、経理のプロになることを選んだ。
 しかしそれを期に、彼とは疎遠になった。
 私が職場でのポジションが上がって忙しくなったことと、彼が新しい職場に近い場所へと引っ越し、住む場所が遠くなってしまったことなどが主な理由だ。
「また連絡する」と言ったものの、どちらもなかなかそれを実行しなかった。
 そんな中で、唯一相手の近況がわかるのが、一年に一度送られてくる年賀状だった。
 お互いの結婚も年賀状で報告し合うだけで、式には出席しなかった。子供ができたときも同じだ。

『時間ができたら、また会おう』

 毎年、決まり文句のように彼はこう書いて送ってくる。
 そして私も同じだ。
 今年こそはどこかで時間を見つけて、彼に会いたい。お互いの家族にも会えば、楽しい時間が過ごせるかもしれない。
 実際に年賀状を書くときには、そう思っている。
 しかし年が明けて仕事が始まると、忙しい日々がやってきて、余裕がなくなってくる。平日はほとんど時間がないため、やりたいことは日頃の休日である日曜日や祝日に消化することになる。まとまった休日であるゴールデンウィークや盆休みは、実家巡りや家族旅行などを優先してしまい、彼との約束はつい先送りになってしまう。
 そしてまた年賀状を出す時期が来る。
 
 気が付けば、十年もそんなことをやっている。
 今回、彼から年賀状が届かなかったことが多少は気掛かりだが、単なる出し忘れの可能性もある。
 まあ、ここニ、三日のうちに届くだろう。
 そう思っていた。

 しかし一月五日が過ぎても、彼からの年賀状は届かなかった。
 十年経っても一向に実現する見込みのない約束に、ついに呆れてしまったんだろうか。
 もしそうだとしても、それはそれで仕方がない気がした。
 私に彼を責める資格はない。

 ところが、その日の午後の便で、彼からの手紙が届いたのだ。
 ただし年賀状はなく、白い封筒でだ。
 メールという便利なものがある、このご時世にわざわざ封筒で送ってきたところに、どこか只事ではない気がした。
 胸がざわつくのを感じ、私は家には入らず、その場で封筒を開いて、手紙を読み始めた。
 書き出しで、この手紙の主が彼ではなく、彼の奥さんだとわかった。
『せっかく年賀状を頂いたのだが、主人は昨年の十月に交通事故で亡くなりました』と、記されており、思わず目を疑った。最後には、ご連絡が遅くなり申し訳ありませんと締め括ってあった。
 なぜ今まで連絡してくれなかったのだろう。
 そんな考えがチラリと頭を過ったが、すぐに「無理もないか」と思い直した。私と彼はもうすでに年賀状を交わすだけの関係でしかなくなっていたことは、明らかだ。恐らく、彼ら夫婦の間で、私の話題が上ることはまずなかっただろう。私の存在がそれほど重要には見えなくて当然だ。
 つまり結婚式にも葬式にも呼ばなくてもいい人。
 手紙を読み終えると、「もっと早く会っておくべきだったな」とは思っても、悲しみは湧いてこなかった。彼との関係を考えれば、「彼が亡くなって悲しい」なんてことはとても言えないし、奥さんに「線香を上げさせて下さい」と頼むのもおこがましい気がした。
 十年と言う長い歳月ならば、家族サービスや親友との時間より、一度くらい彼と会うのを優先することだってできたはずだ。
 しかし私は敢えてそれをしようとはしなかった。
 彼が嫌いだったからでもないし、毎年の決まり文句が社交辞令だったからでもないのだが、彼のことは常に後回しにしていた。
 なぜそうなったのか。
 ただ面倒だったからなのか。
 それともどこかに「今更」という気持ちや遠慮があったからなのか。
 どちらも正しい気がする。
 要するにその程度の関係だ。
 そしてそれは彼も同じだったに違いない。
 どちらかが積極的に動き出せば、一度くらい接点を持つことができたはずだが、結果的には私も、彼も動こうとはしなかった。
 もし彼が亡くなっていなかったら、私は今年の終わりも、『時間ができたら、また会おう』と、年賀状に書いて送っていたんだろうな。
今年だけじゃない。きっと来年も。再来年も。
 
 手紙を封筒に戻してポケットに放り込むと、自然に溜息が零れた。
「明日からまた仕事か」

<了>

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『願い集うとき』 みんなの願い -後編- 

願い集うとき

腹ごしらえを終えた隆文と陽太は、先程の広場でサッカーをしていた。まずは陽太が苦手とされるドリブルから始め、今はパスの練習をしている。
 隆文は陽太のパスを右足で受け止め、「よし」と頷いた。
「次はドリブルをしながらのパスだ」
「うん」
「とにかく今はボールを取りこぼさないことに集中するんだぞ」
「うん」
 練習と言っても、しごきのような厳しいものではなく、隆文の口調も優しいため、陽太は楽しんでやっていた。
「行くぞ」
 隆文の掛け声で陽太は走り出したが、隆文は動かなかった。陽太も少し走って足を止める。
「どうしたの? お兄ちゃん」
 隆文が遠くを見ている。陽太も同じ方向へと視線を移す。
 二人の女性が、樹木を一本ずつ順に眺めながら歩いている。ちょうど親子ほどの歳の差だろう。
 隆文は気になったので、ボールを陽太に渡して、二人のそばへと駆け寄った。陽太もボールを手に持ち変えて、隆文に続いた。
「どうかされましたか?」
 隆文が突然話し掛けたため、、女性二人は驚いた表情で、一斉に振り返った。
「ハウチワカエデという木を探しているんです」
 若い女性のほうが少し戸惑ったように答える。
「ハウチワカエデか……駅前のほうの出口辺りにモミジは植わっているけど、ハウチワはなかったな」
「そうですか……」
 返事をしたのは若い女性だか、隣にいる年上の女性が落胆するのが、隆文にははっきりとわかった。
「どのくらいの大きさのものがいいんですか?」
「大きさには特にこだわらないです」
 今度は年上の女性が答える。
「ここじゃなくてもいいのなら、植わっている場所を知っていますよ」
「本当ですか?」
 女性二人の顔がパッと明るくなる。
「ええ。今は紅葉の時期でどこも人がいっぱいですけど、そこはこことそう変わらない程度の、小さな公園ですから、気楽に見れますよ」
「良かったですね。和枝さん」
 若い女性が目を細くする。一見すると、しっかり者で気が強そうだが、その笑顔は親しみの湧く優しげなものだった。
「少し遠いので、良かったら僕が車で案内しますよ」
「いいえ、場所だけ教えていただけたら……」と、和枝は遠慮した。
「いいじゃないですか。連れて行ってもらいましょうよ。私も紅葉が見たいなって思っていたんです。皆で行けば楽しいですよ。きっと」
 若い女性の声が弾んでいる。
「それに悪い人には見えないし」
「ねっ」と、女性が陽太を見て微笑む。
 黙って頷く陽太の姿に、和枝も安心したのだろう。「樹里さんがそう言うのなら」と、固い表情を崩した。
「それじゃ、お願いします」
 樹里が頭を下げると、和枝もそれに倣った。

小

 それから十分ほどして、隆文が紺色のミニバンに乗って戻ってきた。
 助手席に陽太、後部座席に和枝と樹里が乗り込んだ。
「これ、皆で分けて下さい」
 隆文が暖かいお茶の入ったコンビニのレジ袋を差し出す。三人がそれぞれ順に礼を言って、お茶を受け取る。
 気の利く人だなと、樹里は改めて隆文に対して好印象を抱いた。
 車が静かに走り出す。
 隆文の言う公園はここから車で三十分ほどだ。
「お二人は兄弟なんですか?」
 樹里が尋ねる。
「いいえ、つい先程知り合ったばかりなんです」
「そうなんですか?」
「この子が一人で遊んでいるのを見て、かわいそうなんでサッカーの練習に付き合ってやることにしたんです」
「本当はもっと複雑だけどね」
 陽太がわざとらしく不満げに口を挟んだので、樹里と和枝が笑った。
「複雑ってどんなふうに?」
 和枝にそう聞かれて、陽太は自分のことを話し始めた。忙しい父親のこと、日曜日は遊び相手がいないこと、隆文と知り合った時のこと。
「そうなの。陽太君はお父さんのこと、嫌い?」
 陽太の話を聞き終えた和枝が、優しい顔で尋ねる。
「嫌いじゃないけど、もう少し構って欲しいかな」
 陽太が口を尖らせる。
「寂しいのね」と、和枝はしみじみとした口調で呟く。
「隆文さんって優しいんですね。そんな陽太君の遊び相手になってあげるなんて。ねえ、和枝さん」
 樹里が同意を求めると、和枝が「そうね」と頷いた。
「でもあなただって優しい人よ。私が一人でハウチワカエデを探していたら手伝ってくれたんだから」
「改めてそう言われると、少し照れ臭いです。木を眺める和枝さんがどこか寂しげに見えたんです」
「僕も陽太に対して同じ気持ちでした。何となく放っておけないと言うか……そう言えば、和枝さんはなぜハウチワカエデを探しているんですか?」
「前に住んでいた家に植わっていたの。大きな敷地じゃないから、木はそれ一本だけだったんだけどね」
「もしかして特別な意味があったんですか?」
「ええ。娘の誕生の記念に植えたのよ。その名前にちなんで」
「楓ちゃんですか?」
「そう」
 樹里が目を細くする。
「いい名前ですね」
「でもね……」と、和枝は表情が曇らせて、娘が亡くなった時のことを語った。三人はそれに、静かに耳を傾けた。
「不思議なことに、あの子が亡くなると、木も育たなくなってね。しばらくして枯れてしまったわ」
 和枝が少しだけ笑う。
 その表情にはどんな思いが込められているのだろう。
「それからはカエデやモミジの木を見るのが辛くなって……紅葉を見に行くのもずっとやめていたの」
「そうだったんですか……でも、それならどうしてまた?」
 三人の疑問を、隆文が代表して言葉にする。
「主人も亡くなってしまったし、いよいよ独りで生きかなくてはならないからね。悲しい過去とも向き合って、強くなるっていう覚悟かしら」
 和枝の、切なくも強い決意の言葉に、車内がしんと静まり返った。
 沈黙を破ったのは、陽太だった。
「一人じゃないよ」
「えっ?」
「今日、三人も友達ができたじゃん」
 無邪気な陽太の言葉に、和枝が微笑む。
「そうね。ありがとう」
 車内を漂う少し重たい空気が軽くなるのを、隆文も樹里も感じた。

小

 たどり着いたのは、川沿いの住宅街のそばにある公園だった。シラカシやタイサンボク、ヤマモモといった常緑樹をメインに、ハナミズキやサルスベリなどの落葉樹がアクセントで植えられている。
「あそこに一本、イロハモミジに紛れてハウチワカエデが植わってますよ」
 隆文の言うように、公園の隅、シーソーの向こう側に、紅や黄色に色づく葉を付けた木が何本か見える。
 他には見物人もおらず、じっくり見ることができそうだ。
 一番始めに木に近寄ったのは、陽太だった。落ちて間もないと思われる落ち葉を拾い上げて、仰ぐ真似をする。
「本当に団扇みたいだね」
 その姿を見て、和枝が涙ぐみながら笑う。
「楓も同じように遊んでいたわ」
 娘のことを思い出し、辛くて泣いているわけではない。どちらかといえば、娘と過ごした時間を懐かしむ気持ちから浮かべた涙だ。
 少し離れた場所からその様子を見ていた樹里も胸を熱くした。
「連れてきてあげて良かったよ」
 隆文が樹里にそっと囁く。
「そうですね。それにしても、ここにハウチワカエデが植わっているってよく知っていましたね。余程印象的だったんですか?」
「いえ、そうじゃないんです。この公園の木は僕が管理しているんです」
「えっ?もしかして植木職人さんですか?」
「そうです」
「へえ、スゴい!素敵じゃないですか!」
 樹里が体を乗り出してくる。
「そっ、そうですかねえ……」
 思ってもみない樹里の反応に、むしろ隆文のほうが戸惑った。
「でもね、そんな仕事大丈夫?って言う人もいるんですよね」
 隆文は、昨日真由に言われたことを樹里に話した。経済的なこと、年齢的なこと、肉体的なこと……ただし、プロポーズして、フラれてしまったことは内緒だ。
「そんなことがあったんですか……でも、今の仕事は隆文さんが誇りを持ってやっているんでしょ?」
「そうですね」
「だったら気にすることはないですよ。自分の仕事に胸が晴れるって立派です。それに比べたら、私なんて……」
 樹里が小さく萎んでいくのが、隆文にはわかった。
「仕事のことで悩んでいるんですか?」
 樹里が黙って頷く。
「話してみたら?」
 いつの間にか和枝がそばに立っていた。二人の話を聞いていたようだ。
「それだけでも随分と楽になるわよ」
 その優しい顔に、樹里は母を重ねる。
「じゃあ、聞いてもらおうかな」
 樹里は、うまくいかない仕事について話した。好きで始めたこと、自分には向いていない気がすること、母に見栄を張ってしまったこと。
「辞めたい気持ちもあるけど、もう少し頑張りたい気持ちもあるんです」
「樹里さんが頑張りたいのは、仕事が好きだから?それともお母さんに対する意地かしら?」
 和枝の問いかけに、樹里が答えるまでには少しだけ沈黙の時間が必要だった。
「好きじゃなくなりかけているかもしれません。ある意味、母への意地のおかげで続けられている気もします。でもそれ以上に……」
「それ以上に?」
「悔しいんです。このまま終わりたくないって」
「だったら続けるべきよ。辞めるのは、この仕事が好きじゃないって思ったときでもいいんじゃないかしら。見栄や意地だけで続けていくほどつまらないことはないでしょ?」
「そうですね。ありがとうございます。どうするべきか迷っていて、自分では決められなくなっていたんです」
 樹里の顔がパッと明るくなる。
「あなたは負けず嫌いで、頑張り過ぎるところがあるようね」
「人にはよくそう言われます。あの……和枝さん」
「何?」
「またこうして話を聞いてもらえますか? 仕事意外のことも」
「私、人生経験がそれほど豊富じゃないから、聞くだけになると思うけど……」
「別にアドバイスが欲しいとか、どちらが正しいか教えて欲しいとかじゃないので、それで構いません」
「だったら、いつでも話して」
 和枝の言葉に、樹里は気持ちがすっと楽になるのを感じた。
「ねえ、これ見てよ」
 得意げにそう言うのは、陽太だ。両手一杯に落ち葉を抱えている。カエデやモミジだけでなく、イチョウの葉も混じっている。
「よく集めたな」と、隆文が関心する。
「公園中探し回ったんだ」
「そんなに集めてどうするんだ?」
「こうするんだ」
 隆文にも、樹里にも、和枝にも、陽太が何を企んでいるのかが、まるで予想がつかなかった。
「せーの」の掛け声と共に、陽太が落ち葉を天高く放り投げた。
 全員の視線が一斉に、少し寂しげな秋の空に向く。
 ひらり、ひらりと静かに、ゆっくりと舞い落ちる紅や橙の葉の中に、四人はお互いの顔を見つけ、それぞれの思いを馳せる。
 流れゆく星に願いを捧げた、あの夜のように。

<了>

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『願い集うとき』 みんなの願い -前編- 

願い集うとき

 恋人にフラレてしまい、休日の予定もなくなってしまった隆文は、昼前まで寝ていた。
 一晩が明けると、昨夜の腹立たしさは落胆に変わっていた。別に真由とは結婚を前提に付き合っていたわけではないが、やはりどこか寂しい気持ちになる。
 このまま家にいても、余計なことを考えて腐ってしまいそうなので、とりあえず、弁当を買いにコンビニへと向かった。
 見慣れた道を歩いていると、公園で小学校五、六年くらいの少年がサッカーボールで遊んでいるのが見えた。ボールに翻弄される、お世辞にも上手いとは言えないドリブルで、誰もいない広場を突き進む。
 隅まで行ったところで、少年は右足を高く上げ、力一杯ボールを蹴った。ボールはその先にある大きなクスノキの幹に当たって跳ね返り、少年はそれをトラップして、再びボールを蹴る。ボールは今度も同じクスノキの幹に命中した。
 明らかに狙って蹴っているのがわかる。
 ドリブルは下手だが、シュートやパスは上手いようだ。
(あのガキ……)
 隆文は少年のいるほうに向かって走っていき、ちょうどクスノキが跳ね返したボールを右足で拾い上げて横取りした。
 少年は突然のことに驚きながらも、すぐに事態を飲み込んで、キッと眉を吊り上げた。
「何するんだよ!」
「木にボールを当てるんじゃない!」
「えっ?」
 少年は隆文の意外な言葉に目を丸くした。
「木だって人間と同じで生きてるんだ。ボールをぶつけられたら痛いんだぞ」
「こんなに太いのに?」
「お前のクラスに太った奴はいないか?」
「吉田と山下かな」
「そいつらは痛みなんて感じない奴らか?」
 少年は少しだけ考える表情を見せた後、「そんなことはないよ」と、首を横に振った。
「吉田は先生のゲンコツで半泣きだったし、山下は小指をちょっと切っただけでうるさかったなあ」
「木も同じだ。それにボールが逸れて、他の細い木の枝を折るかもしれないだろ」
 隆文の言葉に納得したのか、少年は黙って下を向いた。
 そんなに落ち込ませるような言い方だったかなと、隆文は首を傾げた後、ボールを軽く蹴って少年に返した。
「お前さ、友達いないのか?」
 少年が隆文を睨む。
「友達くらいいるよ! ただ、今日は……って言うか、日曜日は相手がいないだけだよ」
 言い終わる頃には、少年は小さく萎んでいた。
「日曜日は?」
「そう。日曜日はみんなさ、父さんと遊んだり、家族で出掛けたりするんだ。一家団欒って奴?」
 意外と難しい言葉を知っているんだなと、隆文は苦笑した。
「お前の両親は?」
「父さんは仕事が忙しいし、母さんにサッカーの相手を頼むなんてカッコ悪過ぎだろ?」
「そりゃ、そうだよな……でもな、やっぱり木に向かってボールを蹴るのは良くない」
「……わかったよ。じゃあさ、この辺りにゴールがあるところ、知ってる?」
「ゴールなあ……」
隆文の記憶の限りでは、いくつか見たことがある。ただし、どれもサッカークラブなどが所有しているものばかりのようで、自由に使えるというわけではなさそうだ。
「はっきり言って、誰でも使えるようなところは知らないな」
「やっぱり……」
 少年が肩を落とす。
 木に向かってボールを蹴るなと、注意はしたものの、だったらどこでやればいいのか、隆文自身にもわからなかった。
 しかし別の方法ならある。
「なんならさ、俺が相手をしてやろうか?」
「えっ! 本当に?」
 少年の顔が瞬く間に明るくなる。
「これでも中学と高校はサッカー部だったんだ。ちょっとくらいなら教えてやれるぞ」
(それに特に予定もないし)
 隆文は心の中で自分の境遇を笑った。皮肉を込めて……。
「お願いします」と、少年が頭を下げる。急に腰が低くなったように見える。
「お前、名前は?」
「陽太。お兄ちゃんは?」
「隆文」
「隆文さんって呼べばいいの?」
「お兄ちゃんのままでいい」
「わかった」
「陽太。悪いけど、腹ごしらえだけさせてくれ。お前はどうする? コンビニの弁当くらいなら奢ってやるぞ」
「いいの?ラッキー」
 陽太は隆文の言葉に甘えることにした。
 本当は家に帰れば、昼食が用意してあるが、その間に隆文がいなくなるんじゃないかという気がしたので、やめにした。
「それじゃ、行くか?」
「うん」
 
小

 昼食を終えた樹里は、一人で買い物に出掛けた。
 車や自転車は使わない。行く店は毎回違い、少し遠くても、歩いていく。何も買わずに帰ることもあるが、これといった趣味を持ち合わせない彼女にとっては、運動も兼ねた、休日のストレスの解消法だった。
 今日の目的地は、ひと駅向こうにあるショッピングモールで、近所にある公園を横切って、国道沿いを歩いていくつもりだ。
 公園を通るのは、近道だからというわけではなく、樹木や草花の姿形を見て、癒され、季節の移ろいを感じたいからだ。
 この公園には特別な何かがあるわけではないため、日曜日だからといって混雑もしない。元気に遊具で遊ぶ子供たち、ベンチに腰かけて会話をする老人、仲良く並んで歩く若い男女……皆、それぞれの時間を、気ままにゆったりと楽しんでいるように見える。
 その中に頭に白髪がポツポツと見え隠れする、六十代半ばくらいの女性がいる。連れはいないようで、一人で樹木を一本ずつ見上げながら歩いている。
(何をしているんだろう)
 列植された樹木というのは、全体を流すように眺められるのが普通だ。一本ずつ見ていくのは、その道のプロ、あるいは余程興味を持っているかだが、それほどじっくりと観察しているようにも思えない。
 だとしたら、何かしらの事情があって、ああしているのだろう。
 樹里はその女性のことが気になった。自分の母とそれほど歳が変わらないように見えたからかもしれない。
「どうかされたんですか?」
 自然と女性に歩みより、そう声を掛けていた。女性が驚いた表情で、樹里をじっと見る。
「あっ、いいえ。大したことじゃないの」
 女性が恥ずかしそうに、手を横に振る。
「もしかして何かの木を探しているんですか?」
 樹里の問いかけに女性が目を丸くする。
「よくわかったのね」
「あなたの動作を見ていたら、そんな感じがしたので。木の上に落とし物なんてしないでしょうし、業者さんにも見えなかったし」
「そういうことね」
「何の木を探しているんですか? 良かったら手伝いますよ」
「そんなの悪いわ」と、女性はまた手を横に振る。
「お出掛けするところなんでしょう?」
「いいえ、別に構いません。どうしても、今日行かなければならないわけでもないですし。私、植物は好きだから、少しくらいなら力になれるかもしれませんよ」
 女性は少し考えてから、「それじゃ、お願いしようかしら」と優しげな笑顔を見せた。
「ハウチワカエデという木を探しているの」
「ハウチワカエデ?」
「知っているかしら?」
 植物は好きだからとは言ったものの、恥ずかしながら樹里は知らない木だった。
「カエデっていうことはモミジと同じ種類なんですよね?」
「そう。モミジより葉っぱの切れ込みが小さくて……天狗が持っているウチワよく似ているの。わかるかしら?」
「それでハウチワなんですね。モミジの仲間なら紅葉する落葉樹ですよね」
 樹里の記憶では、ここに植えられているのは、カシノキやクスノキのような常緑樹が多い。小さな公園のため、落ち葉の掃除などの手間を減らしたいからだろう。
 しかしそんなことを正直に言って、女性をがっかりさせたくない気持ちが樹里にはあった。
 きっと思い入れのある木に違いない。
「わかりました。じゃあ、一緒に探しましょう」

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『願い集うとき』 -和枝の願い- 

願い集うとき

(独りぼっちってこんなに寂しいものなのね)
 夫の遺影を前に、和枝は孤独を実感していた。
 夫が亡くなったのは、一週間前。
 見合いで結婚して三十五年。
 格別稼ぎが良かったわけではないが、余所に女を作るようなこともないし、真面目で、優しくて、文句なしにいい人だった。
 夫のほうが五つ歳上のため、自分のほうが後に遺されることはわかっていたが、実際に独りになると、その寂しさは予想以上で気持ちが重たい。
 葬儀が終わってしばらくは何かとしなくてはならないことが多かったため、 まるで意識していなかったのだ。
 子供はいない。
 いや、正確にはいなくなったと、言うべきだ。
 結婚から五年、和枝が三十五歳のときに、女の子が産まれた。二人にとっては待ち望んだことで、随分とその子をかわいがった。
 和枝も、夫も心から幸せだと感じていたが、思わぬ出来事が起きた。
 娘が交通事故で亡くなったのだ。
 小学校三年のことだった。下校中の出来事のため、和枝たち夫婦にはどうしようもなかった。
 小さな棺を見て、二人は再び子供を持つことを望まなかった。産まれてくる喜びより、失うことへの悲しみのほうが強く心に刻み込まれると知ったからだ。
 
 その選択が正しかったのかどうか、和枝はずっと答えが出せずにいる。独りになったことで、尚更悩んでいる。
 もし次の子ができていたら、まだ家族と呼べる存在がいるだろうし、孫の顔くらいは見れたかもしれない。
 ただ、「自分の寂しさをまぎらわせたいだけ」という勝手な理由で、そんなふうに考えることは、亡くなった娘にも、新たに産まれたかもしれない子供にも申し訳ない気がしてならない。
 和枝の両親や姉は、義理も含めてもう随分前に他界している。
 人付き合いが苦手な和枝には、友達もいない。若い頃、交流のあった者たちも、結婚を境にすっかり疎遠になった。
 まだまだ長い人生、独りぼっちで生きて行くことを考えると、不安になる。
 いっそのこと、ボケてしまって何もかも忘れてしまったほうが楽なんだろうかと。
 家族が欲しいとは言わない。せめて友達が欲しい。
 小学生の時に仲の良かったあの子とは、どうやって仲良くなったんだろう。
 友達の作り方なんてとうの昔に忘れてしまった。
 時刻は午後十一時過ぎ。
 いつまでもこんなことを考えていても仕方がないと、和枝は眠ることにして、カーテンに手を伸ばした。
 窓の向こうに夜空が広がっている。
 天国から夫と娘は私を見守ってくれているんだろうか。
 ついつい感傷的になってしまい、そんなことが頭を過る。
 カーテンを閉めようとすると、夜空に輝く星が一つ、ゆっくりと流れ落ちていくのが目に入った。
 和枝は反射的に目を閉じ、手を合わせた。
(友達ができますように)
 和枝が目を開くと、流星はもう見えなくなっていた。
「叶えばいいけれど」と、和枝はひとり微笑んで、静かにカーテンを引いた。

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『願い集うとき』 -樹里の願い- 

願い集うとき

(仕事……やっぱり辞めようかな)
 ごった返す終電にウンザリしながら、樹里はそう思った。
 吊革を持つ手がダルい。
 うまくいかない仕事に、心も体もクタクタ。そこへ来て、この混み具合だ。気分が滅入らないほうがおかしい。
 
 四年制の大学を卒業した樹里は、イベント企画の会社に就職した。
 仕事は営業だ。事務がやりたいとは思わなかったし、祭りや人の集まるところ、人と接することが好きな彼女は自分自身自身それに向いていると思っていた。
 ところが実際はそんなに簡単ではなかった。
 通常、入社して二年は、皆、先輩の元で資料作りや書類の整理といったアシスタント業務を行い、仕事のいろはを叩き込まれる。
 その後、小さなイベントの企画から任されることとなり、少しずつ営業マンとしての独り立ちを目指していく。 しかし樹里は、三年と五ヶ月がたった今もアシスタント業務をやっていた。もちろん、何度かは実際に企画もやらせてもらったが、うまくいかなかった。
「とにかく段取りが悪いわね。この仕事は、企画の内容以上に段取りが大事なのよ。段取りが悪いのにイベントが成功するなんてあり得ないからね」
 先輩の言葉にただ黙るしかできなかった。
 同期の連中は皆、曲がりなりにも独り立ちし始めている。アシスタントへ戻されたのは樹里だけだ。
 情けなくて涙が出た。
 ひょっとしたら、自分はこの仕事に向いていないんだろうか。
 最近になり、ようやくそう思い始めた。
 
 就職が決まって実家を出るときに、母の言った言葉を思い出す。
「あなたがあまりに嬉しそうだったから、今まで言えなかったけど……、あなたにはその仕事、向いていない気がするのよ」
 母の意外な言葉に、樹里は腹を立てた。
「やってもみないうちからそんなこと言わないでよ」
 樹里が声を荒げると、母はシュンと小さくなった。
「ゴメン。ただね……辛くなったらいつでも帰っておいで」
 その言葉で、母が自分をどれほど心配してくれているのかを樹里は知り、強く言い過ぎたことを反省した。優しく笑った母の顔は今も忘れない。
 だからこそ、うまくやりたいという気持ちが強かった。
 でもうまくいかない。
 母は樹里以上に樹里のことをわかっていたのだ。

 車内アナウンスが聞き慣れた駅の名を告げ、扉が開いた。
「ゴメンなさい。降ります」
 消え入りそうなか細い声を出しながら、樹里は人を掻き分けてホームに降りた。
 押し潰されそうな状態から解放された安堵で、ふうっと大きく息を吐き出す。
 毎日毎日、人混みに紛れて会社と家の往復。辛い思いをしながら通勤して、わざわざ失敗するために会社へ行っているような気分にさえなる。
 せかせかと改札に続く階段へと向かう他の者に対して、樹里だけがとぼとぼとホームの上を歩いていた。
 さっさと辞めてしまえば、楽になるのかもしれない。でもできれば、もう少し頑張りたい。
 葛藤に苦しみ、心が折れそうになる。
 その時、夜空に輝く一つの星がすっと流れてゆくのが、樹里の目に映った。
 咄嗟に願いを込める。

(例え、ほんの一時でも甘えさせてくれる人ができますように)

 私、何言ってんだろう。
 どうせなら、仕事がうまくいくようにってお願いすれば良かったのに。だからダメなのよね。
 反省の意味を込めて樹里は自分の頭を拳で軽く小突いた。
 心なしか、気持ちが楽になっていた。

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『願い集うとき』 -隆文の願い- 

願い集うとき

「私、そんなつもりはないから」
 隆文が意を決して口にした言葉に対して、真由の答えは冷たかった。
「それじゃ、お前は遊びのつもりだったのか?」
「そういうわけじゃないわ。もちろん、あなたのことは好きよ。優しいし、一緒にいて楽しいし……でもそれは恋人としてであって、結婚となると話は別」
「別って……いったい何が違うんだよ」
 自分が思い描いていたものとは異なる展開に動揺し、隆文の語気は強くなる。
 真由は黙って下を向く。
「はっきり言ってくれ」
 直せることなら直すつもりだった。
 長い沈黙が続く。
 それほど言いにくいことなのか。
 追い打ちをかけようとしたところで、真由がようやく口を開いた。
「不安なのよ」
「不安? いったいどんなことが?」
「あなたの仕事が」
 それは隆文の全く予想していない言葉だった。
 隆文は植木職人。植物の手入れだけではなく、石を組んだり、灯籠を据えたり、竹垣を作ったりもする。造園全般が仕事だ。
「この仕事のどこが不安なんだよ。給料か?」
「一番はそれね」
 随分ハッキリ言う。
 確かに世間的に見て、格別稼ぎがいいというわけじゃない。
「私の体のことは知っているでしょ?」
 真由は体が弱く、少しのことで体調を悪くしたり、風邪をこじらせたりする。当然、仕事も休みがちだ。
「それにあなた自身の体のことも心配なのよ。いつまで続けられるかわからないでしょ」
「そんなのは余計な心配だよ。親方だって六十過ぎても現役の職人として頑張っている」
「そうだけど……」
 真由がまた言葉を詰まらせる。
「ただ……いつまでもあるような仕事には思えないのよ。少しずつ減っていくんじゃないかってね。とにかくゴメン。やっぱり結婚は考えられない」

小

「くそっ」
 真由の最後の台詞を思い出し、隆文は車のハンドルに拳を叩きつけた。
 この仕事がなくなるだって……何、馬鹿なこと言ってるんだ。
 周りを見回してみろよ。あっちもこっちも緑だらけじゃないか。
 春が来れば、至る所がサクラで賑わうし、それが終われば、ハナミズキが咲く。アジサイは綺麗だし、サルスベリは夏の間、咲き続ける。秋になればキンモクセイのいい香りがするし、冬でさえサザンカやツバキ、ウメが花をつける。
 人間はな、緑のおかげで四季を感じながら、癒されて生きているんだぞ。

 隆文は自分の仕事に誇りを持っていた。結婚相手にはそれを知っていて欲しいし、同じようにこの仕事を好きでいて欲しかった。
 信号待ちで車を止めた隆文は、窓の外に目をやった。
 モミジの葉が紅色に染まっている。街灯が放つ暖色系の光のおかげで、より美しく、一層映えて見える。
(やっぱり綺麗なもんだよな)
 傷ついた心を癒され、隆文が笑みを零した瞬間、小さな星が夜空を横切った。
 まさか……流れ星……。
 隆文は咄嗟に願いごとを口にした。

「緑が好きな女性と出会えますように」

 いったい何を言っているんだか。
 自分のロマンチストぶりに呆れて苦笑すると、後ろからクラクションが鳴った。

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『願い集うとき』 -陽太の願い- 

願い集うとき

「また日曜日か……」
 ベランダから夜空を見上げて、陽太は深い溜息をついた。
 彼を悩ませているのは、明日の日曜日、どう時間を潰すかということだった。
 手元にあるゲームはもう充分にやり尽くしたか、難し過ぎてやる気が起きないかだ。
 どんなに好きな漫画も、アニメも、さすがに何度も同じものを見たいとは思わない。
 宿題はもう終わったし、予習や復讐をするほど勉強が好きなわけでもない。

 友達がいないわけじゃない。学校のある日は、遊び相手がちゃんといる。
 
 問題は日曜日や祝日といった休日だ。
 友達は皆、父親や兄弟と遊ぶ。
 陽太は違う。兄弟はいないし、父は仕事が忙しく、休日も会社かゴルフ。家にいても大抵ゴロゴロと横になっている。たまに動いているかと思えば、母に家の手伝いをやらされている。

 同じ年頃の子供たちが、父親や兄弟と遊ぶ姿を眺めては、陽太はそれを羨ましく思う。
 父に比べれば、母にはまだ時間的に余裕があるように見えるが、さすがにサッカーやゲームの相手をしてくれとは言えなかった。
 陽太にとって、遊び相手のいない休日は苦痛でしかなく、今日のように、前の日から溜息をつくことが多かった。
 
 せめて兄弟がいてくれたら……。

 そんなことをチラリと考える。
 小学五年生にもなれば、父と母にそんな兆しがないことはわかる。
 それでもそう願わずにはいられなかった。
「はあ……」
 陽太が何度目かわからぬ溜息を零したときだった。
 夜空に浮かぶ小さな星が、ゆっくりと流れていくのが、彼の目に映った。

『流れ星に願いを込めると、叶うんだって』

 クラスの女子がそう言っていたのを、陽太は聞いたことがある。
「そんなこと、あるわけがない」と、その時は馬鹿にしていた。

 でも、ひょっとしたら……。

 陽太は、流星に向かって慌てて手を合わせ、ギュッと目を閉じた。

(兄弟ができますように)

 陽太が次に目を開いたときには、星の姿はもうどこにも見当たらなかった。

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『正義の味方』 

忙しい人たちへ(掌編集)


 駅からやや離れた通りに一軒の喫茶店がある。
 店の名は『ザ・ヒーロー』
 店内には、マスターの趣味である、特撮ヒーローのフィギュアやグッズがガラスケースに入れられて並んでいる。壁には大型テレビが据え付けられ、常時ヒーローものの映像が流れている。
 地元のヒーローオタクはもちろん、はるばる遠方からやって来て、仮面ライダーの等身大フィギュア、並びにマスターと写真を撮って帰る者もいる。
 産まれた時からこの街で暮らす若者、本庄隆史も『ザ・ヒーロー』の常連客の一人だ。高校三年生の時に仮面ライダ一1号の存在を知って以来、仮面ライダーシリーズにはまった。ファン歴は十年近くになる。「若いのによく知っているなあ」と、その世代の人であるマスターを唸らせるほどのライダーオタクだ。
 そんな本庄にとってマスターとのおしゃべりは堪らなく楽しい時間だった。休み前の金曜日には必ず、会社帰りにコーヒーを飲みに行く。
 しかし必ずマスターがいるとも限らない。彼は急な外出が多く、店の切り盛りは大抵アルバイトの星と大文字の二人がやっている。
 いつものように、ガラス張りのドアを開くと、「いらっしゃい!」というマスターの景気の良い声が聞こえてきた。
 どうやら今日はマスターと話ができそうだとわかり、本庄は胸を撫で下ろした。
 店内の壁はコンクリートの打ち放し仕上で、テーブルやイスは皆、シルバーを基調としたものを使っている。マスター曰く、無機質な基地をイメージしたらしい。
 午後八時の閉店が間近なせいか、客は中年の男が二人だけ。ポツポツと聞こえる声から察するに、ウルトラマンが話題のようだ。
 本庄はカウンター席に座り、いつものようにブラックを注文した。マスターが「ラジャー」と右手の親指を立てて作業に取り掛かる。ヒーローに憧れて鍛えているせいか、体格はとてもいい。
「最近、仕事はどうだい?」
「まあまあだよ。暇でもないし、忙しくもない」
 話題がいつもヒーローものというわけではない。こういう世間話もちゃんとする。
 しばらくすると、ウルトラマンの話をしていた二人が席を立った。
「お愛想、いい?」
 大文字がレジに向かう。
 会計を済ませると、客の二人は「シュワッチ!」とポーズを決めて帰っていった。まるで子供だ。
 二人が座っていた席を片付け終えたマスターが、改まった口調で「本庄さん、今から少し時間ある?」と訪ねてきた。
「特に用事はないです。うまいもんでも食べに連れて行ってくれるんですか?」
 本庄が冗談混じりに言っても、マスターは笑わなかった。
「ちょっと話があるんだがな」
「構いませんよ」
「少し待ってもらえるかい? 星君、大文字君。今日は上がってくれていいよ」
 マスターにそう言われて、星と大文字は軽い足取りで帰っていった。これからどこかの店にフィギュアを見に行くらしい。
 マスターは二人を見送って、店のドアにかけられた札を「OPEN」から「CLOSED」に変えた。鍵を掛ける音が本庄にも聞こえた。八時にはまだ時間があるが、他人には聞かれたくない話のようだ。
「こっちに移動してもらってもいいかい?」
 本庄はマスターの言葉に従って、テーブル席に移動した。マスターもテーブル席に座り、本庄と自分のカップに、コーヒーを注いだ。
「なんですか、話って?」
「あんたさ、ヒーローにならないか?」
 真面目腐った顔をして何を言い出すのかと、本庄は思わず吹き出した。
「何の冗談ですか?」
「いいかい? 今から言うことは全部マジだと思って聞いて欲しい」
「はあ……」
「実は俺、ヒーローなんだよ」
 本庄は再び吹き出しそうになった。今までヒーローの話は散々してきたが、こういう冗談は初めてのことだった。
 さすがのマスターもそろそろネタ切れか。
「そんなこと言ってもテンション上がらないですよ。子供じゃないんですから」
 マスターは不服そうな表情を浮かべた後、「そうだよな」と一人頷いた。
「わかった。初めから信じてくれと言うつもりはない。とりあえず話を聞いてくれ」
 結末がどこにたどり着くのか、本庄にはわからなかったが、真剣なマスターの眼差しに話くらいは聞いてみることにした。
「公にはされてはいないが、ヒーロー連盟という秘密組織があってな、本部はロサンゼルスだ。世界中のヒーローたちがそこに加入している。もちろん、俺もだ。逆に言えば、加入していない奴は潜りだ」
「そんなにたくさんヒーローがいるんですか?」
「世界中の平和を一人で守るのは無理があるからな」
 これを見てくれと、マスターは地図を広げて、右手の人差し指で大きく丸を描いた。
「だいたいこの辺りが俺の守備エリアだ」
 そこには、本庄たちの住むK市はもちろん、隣のN市とB市の一部も含まれていた。
「一人で手に負えない場合や冠婚葬祭のときは他の者がフォローしてくれるから安心して休める」
 有難い話だ。本当なら。
「それで僕にも加入しろって言うんですか?」
「そうなんだか、連盟には真のヒーローじゃないと加入できないんだ」
「真のヒーロー? どういうことですか?」
「ヒーローのフリをした偽物じゃなく、本当に特別な力を持つ者のことだ」
「マスターにはそんな力があるんですか?」
 マスターは黙って頷く。
「ただし、特撮ヒーローみたいに巨大化や変身ができるわけじゃない」
「だから」と、マスターがズボンのポケットから黒い布を取り出した。大小さな穴が二つずつ。
「マスク?」
「そうだ。連盟では、加入者に変装が義務づけられていて、俺はリザードマンとして活動している」
 確かによく見ると、マスクには鱗のような柄が入っている。ただし、あまりカッコよくはない。
「巨大化や変身ができないなら、マスターにはどんな力があるんですか?」
「身体能力が常人の数倍になっている。不死身とまではいかないが、大抵の病気や怪我は死に至る前に治癒する」
「すごいですね」
 そうは言ったが、本庄は決して信用したわけではなかった。
「でもそういうことなら僕は加入できませんよね? 普通の人間ですし」
「それなら問題ない」と言って、マスターはコーヒーを一気に飲み干した。
「後継者選任制度というのがあって、現職の者は自分の持つ能力の全てを譲る者を選ぶことができる。ただし、その時点でヒーローだった時の記憶は全てなくなる。そうやって俺も前任者から力を授かった」
「どうして辞めようと思ったんですか?」
「疲れたんだ」
「疲れた?」
「確かに体は疲れ知らずだが、年齢はそうはいかない。そろそろ普通の生活に戻りたくなったのさ」
「誰でもいいから、役割を押し付けようってわけですか?」
 本庄は次第に腹が立ってきた。
「本庄さん、それは誤解だ。誰でもいいなら星君か大文字君に頼むさ。俺はあんたにやってもらいたいんだ」
「どうしてですか?」
「星君や大文字君、それにここへやってくる客はただヒーローが好きなだけの連中だ。その証拠に実際の事件のことはあまり話題にしない。でもあんたは違うだろ?」
 そう言われても、本庄にはまるで自覚がなかった。意識はしていない。
「どうすれば犯罪が減らせるかとか、平和な世の中になるかとか、あんたは真剣に考えている。だから俺はあんたを選んだ」
「僕を高く評価してくれるのは嬉しいですけど、痛い目に合うのも怖いのも嫌です」
 自分でもヘタレのような気がしたが、本庄は正直に話すことを選んだ。ヒーローに憧れるのと実際にヒーローになるのはまるで別物だ。
「心配するな。痛みならすぐに慣れるし、恐怖も消える。何より体中で燃えたぎる正義の炎があんたを放っちゃいない」
 そう言われると、本庄は自分にもやれそうな気がしてきた。ただどうしても気になることがある。
「給料は?」
「ゼロ」
「ゴメン。無理」
「本庄さん、金の問題じゃなくて……」
「問題ですよ。建前だけじゃヒーローなんてやれません。他を当たって下さい」
「誰でもなれるわけじゃない。あんたは選ばれたんだ」
「マスターにでしょ?」
本庄は冷たく言い捨てて席を立った。
「そうだ。肝心なことを言ってなかった」
「まだ何か?」
「福利厚生はしっかりしている。健康保険もあるし、ヒーロー年金というのもある。新年会も忘年会もあるし、二年に一度慰安旅行もある」
「全額支給で?」
「積み立てだ」
「やっぱり無理です」
 本庄は軽く手を挙げると、出口に向かった。これ以上は相手になれない。
「そうか! わかったぞ」
 マスターがバンとテーブルを叩く。
「あのトカゲのマスクが嫌なんだな? あれは俺がやっていただけで、別にあんたが合わせる必要はない。カンガルーでもラッコでも……」
「はい、はい。続きはまた今度ね」
 本庄がドアの鍵を外そうとすると、店の前に黒いワンボックスカーがやってきて、後輪を浮かせるほどの急ブレーキで止まった。
 後部座席の窓が静かに開いた。
 その瞬間、マスターが本庄に向かって怒鳴り声を上げた。
「伏せろ!」
 マスターの声が本庄に届くより先に、車の窓から目出し帽の男が身を乗り出し、マシンガンを乱射し始めた。
 銃声が響き渡る。フィギュアの飾られたショーケースのガラスが割れ、マスターの愛したコレクションが粉々に砕け散る。
 突然のことに避けることができなかった本庄は、無数に打ち込まれる銃弾の格好の餌食となり、マリオネットのように激しく体を揺らした。
 マスターは自らの体に銃弾を浴びながら、本庄に駆け寄った。後ろから本庄の体をがっちりと受け止めると、マシンガンに背を向けて奥にあるカウンターを目指した。的を絞らせないために左右に体を翻しながら走る。
 銃撃は一向にやまない。弾丸を全て打ち尽くすつもりだろう。
 銃弾がマスターの右足の踵を直撃した。思わず地面に膝をつく。動きの止まった的ほど、狙い易いものはない。
 マスターは立ち上がるより先に、銃弾を集中的に背中に受けて地面にひれ伏した。それでも体は本庄に覆い被さる形になっていた。
 そこで銃撃も止んだ。目出し帽の男が甲高い声で笑った後、車は走り去っていった。

 しばらくしてマスターはゆっくりと体を起こした。筋肉が体内に入り込んだ弾丸を外へと押し出していく。あの程度のことでは死にはしない。
 命が危ないのはむしろ本庄のほうだ。至近距離から全身に銃弾を受け、傷は酷いなんてものではない。微かに息をしてはいるものの、死んでいるのとほぼ変わりがない。
「すまない。本庄さん……俺がついていながら……」
 マスターがいかに常人を超越した力を持っていようと、他人の傷を癒すことはできない。
 しかしたった一つだけ本庄を救う手がある。
 普通なら誰でも躊躇う選択だが、マスターに迷いはなかった。
「本庄さん、あんたはやっぱりヒーローになる運命にあったようだな」
 血だらけの本庄の胸に、マスターはそっと右手を当てた。

小

 誰かに呼ばれた気がして、本庄は目を覚ました。床一面に散らばるガラスの破片と壊れたフィギュア。硝煙と鼻を衝く火薬の臭いが、まるで戦場にいるような気分にさせる。
 本庄の記憶は、店を出ようとしてマシンガンで撃たれたところで止まっている。
 服の至る所に穴が開き、周りは血で赤く染まっている。もしこれが銃弾の跡ならば、すでに死んでいるはずだが、血は止まり、傷もない。それどころか、僅かな痛みさえない。
 自分の身に何が起きたのか、本庄にはわからなかった。
 後ろを振り返ると、マスターがうつ伏せで倒れていた。
「マスター!」
 激しく体を揺すってみるが、返事はない。首に触れ、脈を取る。指先に血管の膨張と収縮が伝わってこない。
 そんな馬鹿な……大抵の傷は死に至る前に治る。マスターはそう言っていたはずだ。
 本庄ははっとした。そして全てを悟った。
 自然と涙が溢れ出る。
 よく見ると、床に零れたコーヒーで文字が綴ってある。

『Go! Fight! You're the  Hero』
 
 そう。今やるべきことは泣くことではない。
 本庄の中で沸々と湧き上がるものがあった。マスターのズボンのポケットを探って、トカゲのマスクを取り出した。 
「後は僕に任せてください」 
 そう言い残して、店を出た。
 道路に立つと、見えるはずのない、遥か遠くを走る黒いワンボックスカーが見えた。距離はおよそ四十キロ先。中には若い男が二人、煙草を吸いながら、如何にも機嫌が良さそうに豪快に笑っている。
 追いつける自信があった。
 何も怖くはない。それ以上に奴らが憎い。
 
『体中で燃えたぎる正義の炎があんたを放っちゃいない』
 
 本庄はようやくマスターの言葉を理解した。
 マスクを被り、拳をギュッと握ると、全身に力が漲るのがはっきりとわかった。

<了>

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『UFOを見に行こう』 

忙しい人たちへ(掌編集)

 脚立にデジカメをセットする。角度はやや上向きにし、空を狙う。場合によっては脚立ごと移動する必要はあるが、最低限の撮影の準備は整った。
 この丘でUFOを見たという話を聞いたのが四日前。三組の永瀬の証言だ。
 俺としては、この話をくだらないデタラメで終わらせるわけにはいかなかった。
 なぜなら、俺はUFO研究会の会長だからだ。

 授業が終わると、急いで自宅に帰り、デジカメと三脚を持って丘に上がった。「今、そこにUFOが来ているかもしれない」と思うと、僅かな時間さえ惜しくて仕方がなかった。
 副会長の本間も「今回はマジであって欲しいよな」と、興奮気味に語って俺に同行した。
 研究会の主な活動として、目撃情報のあった場所へと実際に出向いてレポートを作成するというものがあるが、発足以来、俺たちは一度もUFOを見たことがない。毎回期待をはするものの、結果報告はいつも「目撃には至らず」だ。
 親の脛をかじっている、高校生という肩身の狭い身分のため、張り込みができるのは、せいぜい午後十一時までだ。準備や移動を考えると、あまり時間に余裕があるとは言えない。そもそも月食や流星群のような天体観測と違って、この時刻に必ず見られるとは限らないのが辛いところだ。
 しかも季節は夏真っ盛り。夕方と言えど、容赦のない暑さが襲ってくる。
 マイナス要因はそれだけではない。蚊を始めとする虫の存在だ。虫除けスプレーを吹いてはいるが果たしてどこまで効果があるか。
 そんな過酷さにそそくさと音をあげたのが本間だった。理由は体調不良らしいが、嘘だろう。アイツのUFOへの情熱は本物だが、何しろ忍耐力がなくて、すぐに諦める。
 研究会の会員は俺と本間の二人のため、残りは俺一人でやらざるを得ない。しかし今日辺りに結果が出なければ、もう諦めざるを得ない。連日の遅い帰宅にそろそろ父が黙っていないだろう。
 雑草の生えた地面の上にレジャーシートを敷いて腰を下ろした。とりあえず後はUFOの出現を待つしかない。当然、本を読んだり、ケータイでゲームをしながら、というわけにはいかない。そんなことをしていて見逃した、なんてことになったら一生後悔する。
 とは言うものの、やはり退屈な気持ちはゼロではない。考えてみれば、昨日までは話し相手がいたのでマシだったのだ。
「あー、早く来ねえかなあ」
「そんなに簡単に来ないわよ」
「ははは、そりゃそうだよな」
 えっ……、今、誰かが俺の独り言に答えたよな。
 慌てて振り返ると、クラスメイトの鎌田麻里がそこにいた。
「鎌田……どうしてこんなところに?」
 声が裏返った。なぜなら鎌田は俺にとって、ただのクラスメイトではないからだ。
「本間君に聞いたんだけど、UFOを見に来てるんだって?」
「う、うん。まあね」
 あの馬鹿。余計なこと言いやがって。
「実はね、私もUFOとか宇宙人とか好きなのよ」
「えっ、マジで?」
 テンションが急上昇する。
「でもさ、女子にはそういう子ってあんまりいないから、みんなには秘密」
 そう言って鎌田はペロッと舌を出す。
 カッ、カワイイ!
「私も一緒に待っててもいいかな?」
「もちろん、大歓迎だよ。一人で退屈していたんだ」
 ナイス、本間君! 研究会始まって以来のファインプレイだ。後でほめてやらんとな。
「ここに座りなよ。汚ないところだけどさ」
 素早くレジャーシートの上を手で払って鎌田の席を用意する。
「虫除けスプレーがあるけど、使う?」
「ううん。大丈夫。ここにくる前に吹いて来たから」
 服装もそれに備えてか、ちゃんと長袖にズボンを履いている。
 鎌田が俺の隣に座る。肩が触れ合いそうな距離に彼女がいる。そう思うと、緊張して落ち着かない。クラスメイトと言っても、俺が鎌田と話したのはごく僅か。明るくて、性格の良い彼女は女子にも男子にも人気があり、周りにはいつも誰かがいて、なかなかゆっくり話す機会に恵まれない。
 つまり、邪魔者のいない今日は絶好のチャンスというわけだ。
「それにしても、鎌田がUFOや宇宙人に興味があるなんて意外だよな。どちらかと言えば、スポーツとかオシャレのほうが似合っているし。こっちは地味でオタクっぽいもんな」
 だからUFOを見に来ているだなんて、彼女にはあまり知られたくなかった。
「確かにスポーツやオシャレは好きだけど、それ以上にUFOや宇宙人は魅力的で神秘的だと思うのよね。こんなに広い宇宙で高度な文明を持っているのが地球人だけっておかしいはずなんだけど、いるのか、いないのか誰も証明することができない。そう考えると、とてもワクワクしてくるのよ」
「そうそう。夢がある。そもそも高い文明を持っているのが自分たちだけだって考えが驕りだよな」
 鎌田がクスクスと笑う。
「なかなか言うわね。でも間違ってはいないかな」
「そうだろ?」

 その後も鎌田とのUFO談義は続いた。さすがに好きと言うだけあってよく知っていた。研究会に入会して欲しいくらいだ。調査を三日で投げ出すような本間はクビにして、彼女に副会長をやってもらおう。
しばらく話をした後、鎌田が改まった口調で「あのね」と呟いた。表情は真剣そのもので、冗談混じりに話していた先程までとは明らかに違う。
 いったいなんなのだろう。
「実は私、みんなに秘密にしていることがあるんだ」
「秘密って、UFOや宇宙人が好きってこと以外に?」
 鎌田は静かに頷いて、俺の顔をじっと見る。心拍数が急激にグッと上がる。
 まさか、ひょっとして俺のことを……いやいや、それはあり得ない。そう思いながらも、鎌田の熱い瞳を見つめていると、可能性を感じてしまう。
「私ね」
「うん」
 ゴクリと唾を飲み込む。
「この星の人間じゃないの」
「えっ……」
 俺の思っていた以上の予想外の言葉に、そう返すしかなかった。
「遥か遠い星からやってきた異星人なのよ」
「そんな馬鹿な」
「私だけじゃない。地球の至るところに私と同じ星で生まれた人が生活しているのよ」
 鎌田の表情は嘘を言っているもののようには見えない。
「いったい何のために……まさか、侵略?」
「ううん」と鎌田は笑って首を振る。
「研究のための情報収集。でも心配しないで。いつか遠い未来、私の星と地球が友好的に交流するための研究だから」
「それを聞いて安心したよ。でも驚きだな。すぐそばに異星人がいたなんて」
 俺の興奮は頂点に達しようとしていた。
「良かったらさ、君の星のことを教えてくれないか?もちろん、秘密は守るから」
「ゴメンね。それはできないの。私、そろそろ帰らなくちゃならないから」
「そうか。もう時間も遅いし、仕方ないよな。また日を改めて……」
「そうじゃなくて、星に帰らなくちゃならないってことよ」
「えっ」
「三組の永瀬君が見たUFOって、きっと私を向かえに来た船なのよ。あの日はどうしても外せない用があってコンタクトのポイントに行けなくて」
「まさか、そのポイントって」
「ここよ」
 鎌田がすっと立ち上がる。俺も釣られて立ち上がった。
「今、そこまで……」
 心臓がはち切れんばかりに膨張と収縮を繰り返す。
「来てる……」
 いったいどこに。
「私たちの頭の上に」
 鎌田が頭上を指差す。反射的に上を見た。
 そこには確かにUFOの姿が……なかった。
「なんてね。嘘よ」
「えっ!」
 鎌田があはははと、実に愉快に笑っている。
「ゴメンね。宇野君があまりに簡単に騙されちゃうからつい調子に乗っちゃって」
「えー、なんだよ。酷いな」
 完全に彼女に乗せられてしまったわけだが、悪い気はしなかった。むしろ、鎌田とのやり取りを楽しんでいた。それは彼女に本当の意地の悪さを感じないからだ。
 今なら言っても大丈夫かもしれない。
 再び胸が高鳴る。今日を逃せば、次はいつこんなチャンスが巡ってくるかはわからない。
 言え。言うんだ。勇気を絞り出せ!
「あのさ」
「実は俺も秘密があるんだ」
「宇野君も?」
「うん」
「どんなこと?」
 鎌田が俺の顔を覗き込む。かわいらしいその表情に、カッと体中が熱くなる。初めてのことで余計に緊張する。
 やっぱりやめようか。
 自信がなくなる。
「ねえ、なになに?」
 もはや「何もないとは言えない雰囲気になっていた」
 ええい。覚悟を決めろ!
「おっ、俺さ、鎌田のことが……」
 そのとき、轟音と共に激しい風が俺たち二人を襲った。セットしていたデジカメが倒れ、足元のレジャーシートが波打ち、めくれ上がった。木の葉と草花が一斉に同じ方向を向く。
 あまりの力強さに、鎌田もよろめき、俺のほうへと倒れてきた。俺はそれをしっかりと受け止めた……つもりだったが、結局は風の勢いに負けて鎌田を抱き抱えたまま尻餅をつく形になった。
 風はしばらく狂ったように吹き荒れると、すっと消えてなくなるかのように止んだ。
 鎌田が伏せていた顔を上げる。
「ゴメンね。大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。鎌田こそ怪我はないか?」
「うん。ありがとう」
 鎌田が微笑むのを見て、安心すると同時に、彼女との密着ぶりを知った。慌てて離れようかと思ったが、せっかくくっついたんだしと、 邪心が働いてしまう。鎌田の体温が伝わってきてドキドキする。心臓の音が聞こえやしないかと心配になる。彼女の顔を見ていると急に恥ずかしさが込み上げてきて、思わず視線を空へと移した。
 その瞬間、はっと息を飲んだ。
 驚きのあまり口は動いても声が出ない。いつもはどんなふうにして「喋る」という行為をやっていたのかがわからなくなる。それでも力一杯もがいてどうにか声を出すことができた。
「……また、鎌田」
「何?」
「上」と言ったつもりが再び声が掠れてうまく出ない。仕方がなしに、視線と人差し指で合図を送った。鎌田がそれに応える。
 薄明るい夏の夜空に浮かぶ巨大な黒い球体に、鎌田も俺と同じように目を丸くした。どのくらい巨大かと言えば……フェリー? 新幹線? 旅客機? いや、どれも比べ物にならないほどの大きさで、とにかくデカい。
 ただ浮いているだけでなく、静かに回転し、ほのかに青白い光を放っている。
 これはいったい何なのか。
 お互い言葉に出さない……というより出せないが、俺と鎌田の頭の中では同じ答が浮かんでいるはずだ。
 鎌田は俺の腕にギュッとしがみつき、体を少し震わせている。
 俺の心臓の動きが、これまで以上に早く、大きくなっている。もちろん、鎌田と密着しているせいじゃない。
 テレビで見た「宇宙人に連れ去られて人体実験に利用されました」という外国人の体験談を思い出す。体内にカプセル型の機械を埋め込まれたとか……。
 思わずゾッとする。
 これから何が起きるのか、全く予測がつかず、全身に力が入る。
 例えば、中からエイリアンが出てくるとか。あるいは球体からビームのようなものが発射されて溶かされるとか。
 いや、鎌田の作り話のように、友好的なエイリアンの可能性だってある。
 せっかくの未知との遭遇に逃げるべきかどうかを迷っていると、その物体がゆっくりと上昇を始めた。
 鎌田も先程から黙ったままで何も話さず、ただじっと成りゆきを見守っている。
 十メートルほど昇ったところで物体は静止した。穏やかだった回転が徐々に速くなっていく。再び風が巻き起こり、全身に力をいれていないと、吹き飛ばされそうになる。下心は抜きにして、鎌田をグッと抱き寄せる。
 回転を続ける物体から出る青白い光が点滅へと変わった。チカチカと一定間隔で時を刻むように光る。
 まさか。カウントダウンか。
 いったい何のための……飛び立つため、あるいは……爆発!
「かっ、鎌田!」
 彼女の名を呼んだ瞬間、眩く突き刺すような白い光が頭上から降り注いだ。

 これで終わりかもしれない。

 そんな考えが頭を過った。

 目をギュッと閉じ、覚悟を決めた。

 しかし……何も起きなかった。
 意識が遠退くわけでもなければ、どこかが傷むわけでもない。
「ただ眩しくて目を閉じた」
 そんな感覚だ。
 瞼の向こうで、光が穏やかに収縮していくのがわかる。静かにゆっくり目を開くと、辺りは薄暗く、いつもと変わらぬ夏の夕暮れ時の景色が広がっていた。
 いろいろな意味で俺たちを騒がせたあの物体も、もはやどこにも見当たらなかった。
 あの一瞬で遥か彼方へと飛び去ってしまったというのだろうか。
 どうやら無事で済んだ。
「ビックリしたね」
 鎌田の声を聞き、彼女に絡めた腕を慌てて解く。危機は去った。いつまでもこんなおいしいシチュエーションが続いていいはずがない。
「あれってさ、絶対にUFOだよね?」
「うん。間違いないよ」
 そうでなければ、夢を見ているんだ。
「まだドキドキしてる。体も少し震えてる」
 鎌田は胸に手を当て、興奮気味に話す。
「写真、撮れなかったね」
 デジカメは三脚が付いたまま、地面に転がっている。
「いいんだ。この目でしっかり見たから」
 証人だっている。
 夏の初め、ずっと好きだった女の子と見たUFO。
 絶対に忘れるはずがない。
「そうだよね、私もしっかり見た」
 鎌田も「うん」と改めて頷く。
「ところでさ、宇野君の秘密って何なの? 話、途中だったよね?」
 鎌田がじっと俺の顔を見る。また胸が高鳴る。
「あっ、あれか」
 わざとらしくとぼけてみせた。
「俺の家にUFOがあるって、嘘を付こうと思ったんだ」
「ひょっとして、騙されたお返し?」
「まあ、そんなとこ」
「お生憎様だけど、私、宇野君ほど単純じゃないから、騙されないと思うよ」
「そりゃ、そうだよな」
 今思い付いた小学生レベルの嘘だ。無理もない。
「さて、見るもの見たし、そろそろ帰ろうかな」
 鎌田が膝をポンと叩いて立ち上がった。震えはもう収まったようだ。
「宇野君はどうする? 二回目に期待する?」
「ううん。『最近、帰りが遅い』とかって親父に怒られそうだから帰るよ」
「お父さん、結構うるさいんだ」
「今日で四日目だからさ。そろそろ雷が落ちる頃かな」
「そっか。どこも一緒だね……片付け、手伝うよ」
「いいよ。大した荷物でもないし」
「いいの?」
「うん」
「そう? じゃあ、悪いけど、先に帰るね」
「あっ、一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。まだ明るいし」
「本当に?」
「うん」と鎌田が力強く頷いたので、それ以上は言うのを止めた。
「じゃあ、気をつけて」
「ありがとう」と、鎌田は俺に背を向けて歩きだしたが、二、三歩行ったところで足を止めた。
「宇野君さ……」
 鎌田の顔は帰り道を向いたままだ。
 なんだろう。改まって。
「UFOが飛び上がった時、私に何か言ったでしょ?」
「えっ、あっ……」
 確かに言った。死ぬことを覚悟して、思わず口走ってしまった言葉がある。
 まさか……。
「ちゃんと聞こえたよ」
 鎌田が俺のほうを振り返って、優しく笑った。
 体温が瞬間的に上昇し、さっきのUFOのようにこの場から飛び去ってしまいたくなった。
「また一緒に見に行こうか? UFO」
 えっ……。
 頭脳が今起きている出来事を処理しきれなかった。
「じゃあね」と言って、鎌田は再び家路を辿り始めた。
 しばらくして、停止していた頭脳が正常に動き出し、鎌田の言葉を分析し始めた。
 さっきのはひょっとして……。
「かっ、鎌田!」
 彼女の名を呼びながら、レジャーシートを丸めてリュックに放り込んだ。デジカメを三脚ごと担ぐと、俺は慌てて鎌田の後を追いかけた。

<了>

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