三流自作小説劇場

三流の自作小説ブログです。感想、コメント、相互リンク大歓迎!尚、当ブログで掲載する文章、作品についての無断転載や転用は固く禁じます(そこまでの値打ちはないかもしれませんけれど…・・・)。こちらの掲載している作品は改稿前のものが多いです。

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『ハリケーン』 -後編- 

忙しい人たちへ②

 私たちの席は二階の一列目。リングからは少し遠いが、一階の後ろのほうなんかよりずっと試合が見え易い席だった。
 さすがに「今最も熱い」と銘打っているだけあって、試合開始の三十分前に会場は満席となった。
 第一試合の始まりがアナウンスされると、胸が高鳴り始めた。いよいよという気持ちは、試合の開始と久しぶりに娘の姿を見ることに対してだ。
「赤コーナー、128パウンド……三好~富美花~!」
 アナウンサーにコールされ、青地に金色の稲妻模様の入ったユニフォームを着た富美花が姿を見せる。もちろん、入場曲など流れない。それでも多少は人気があるらしく、拍手と声援が起こる。時折「富美花コール」も聞こえてくる。
 ロープをジャンプで乗り越え、リングに上がった富美花は、両手を振ってファンの声援に応えている。
 その姿は、私の知っている富美花ではなかった。人一倍目立つことを嫌う彼女があんなことをするなんて、以前なら考えられなかった。
 体もホームページの写真よりずっと大きく見える。
「続きまして青コーナー、155パウンド……柴崎~忍~!」
 黒地に赤い炎の模様のついたユニフォーム。肩で風を切って歩く姿には、格闘家としての貫禄が充分だ。軽やかにロープを飛び越えた富美花とは対照的に、一本目のロープを右腕で持ち上げて二本目との間を潜るといったリングへの上がり方は、その腕っぷしの強さを見事に物語っている。
 身長は富美花とあまり違いはなさそうだが、体は一回り大きく見える。襟足を刈り上げ、髪全体を尖らせた、そのヘアスタイルはまるで男だ。
「おい、1パウンドって何キロだ? 母さん、知っているか?」
 周りの客に聞き取られぬようヒソヒソと、尋ねる。
「約450グラム。つまり相手のほうが富美花より10キロ以上体重が上ね」
「おお、そうか」
 リングで富美花と柴崎選手が睨み合っている。あんなに鋭い目をした富美花を見るのは初めてだった。
 パフォーマンスであって欲しいと思う反面、浮わついた気持ちでは勝てないだろうし、何より怪我に繋がるということは、容易に察しがついた。
 ゴングが鳴った。いよいよ試合開始だ。
 始めはどちらも相手との距離を取り、お互いの様子を伺っている感じだ。
 富美花がジャブで牽制するボクシングスタイルなのに対して、柴崎選手はやや腰を落とし、両手を広げる柔道やレスリングのような構えをしている。
 二人とも相手の顔を見ながらリングを回る。腕を伸ばしては引き、一旦距離を取るを繰り返す。
 観客席から「行け!」や「攻めろ!」という声が上がる。一方、リングサイドからは、「焦るな!」、「相手をよく見ろ」の声。
 私と妻は、黙ってその動向を見守る。
 先に攻撃を当てたのは富美花だった。ジャブが顔面に二発、立て続けにヒットした。
「よし!」と、思わず叫んでしまう。
「今のは当てたうちには入らないわ」
 意外にも妻が冷静なコメントをする。
「わかっているよ。つい声が出てしまっただけだ」
 その後も富美花がジャブを何度か当てただけで、これといった進展がなく第一ラウンドは終わった。
「なかなか当たらないものだな」
「篠崎選手のほうがパワーがあるからね。捕まって力比べになったら勝ち目はないわ。だから富美花は間合いを広く取っているのよ」
「なるほどな」
「それに富美花はリーチも長いわけじゃないから」
「リーチってあと一つで上がりだろ? 時間制限なんてあるのか?」
 私の質問に妻が首を傾げる。麻雀のリーチとは似ても似つかぬものらしい。
「すまん。リーチって何だ?」
「腕の長さのことよ」
「そういうことか……お前、随分詳しいな」
「あなたと違って勉強したのよ」
 妻の言葉に私は小さくなる。
 なかなかキツい一言だ。
「とにかく今のままじゃ勝てないわ」
 そう言っているうちに第二ラウンド開始を告げるゴングが鳴った。
 両選手がリングの中央へと足を進める。
 第一ラウンドと同じ、お互い適当な距離を取り、相手を牽制する試合展開が続く。
 一分が経過する頃、再び富美花のジャブが柴崎選手の顔面を捉え、続けて右フックが炸裂した。柴崎選手がよろめく。試合開始後、初めての有効打だった。
「うまく当てたもんだな」
「そうね」
 またしばらく様子見が続いた後、今度は左フックを当てた。
「第一ラウンドより間合いが詰まってかていないか?」
「確かにね」
「いい感じに自分のペースに持ち込めたな」
 私の言葉に対して、妻は何も答えなかった。
 リングサイドからも「富美花、前に出過ぎるな!」という声が聞こえる。
 どうも私が考えているほど単純ではないらしい。
 富美花にはその声が届いていないのか、先程と同じように前へと踏み込む。ジャブが当たり、もう一度右フックが炸裂。
 そう思ったが、柴崎選手に上半身を下げられ、フックは空振り。
 フックを避けた柴崎選手のタックルが富美花を襲った。
 そのまま持ち上げられるような形で、富美花はコーナーポストに背中を叩きつけられ、自然と上を向いた。柴崎選手がすかさず隙のできた富美花の首を締め付ける。体が宙に浮き、爪先がマットから離れる。
 柴崎選手はこれを狙っていたらしい。距離を詰めていたのは富美花ではなく、柴崎選手のほうだったのだ。
 先程までこんなふうに試合を分析する役目をしていた妻が打って変わって「富美花!」と、絶叫に近い声を上げている。
 富美花の悲痛に歪む顔を見ていると、そう言いたくなる気持ちもわかった。
 レフェリーが富美花の傍により、何か話し掛けている。富美花が首を横に振る。
 恐らくギブアップかどうかを尋ねているのだろう。
「早くギブアップしなさい!」
 聞こえるはずはないが、妻が立ち上がって必死に叫ぶ。
 そんな妻を見て、私だけは冷静でいられるように努める。
「あの子が進みたい道なら応援したい。そう言ったお前が諦めてどうする」
「でも……」
「あの子はか弱くて、守ってやらなくちゃならない。それは私たちが勝手に決め付けていただけなんじゃないかな?」
 ピアノの発表会の時、最後まで上手に弾けるかを心配していた私たち。
 そんな心境をよそに、富美花は一度も失敗することなく演奏を終えた。
「確かに私たちは、嫌なら辞めてもいいとか、危ないから止めなさいとか、そんなことをよく言った。しかし言われた通り、すぐにやめたことがあったか? あの子がギブアップするのは、いつも本当にどうしようもなくなってからだ」
 それまでは泣きながらだって続けた。
「あの子は決して弱くなんかない。本当の強さは、必ずしも勝つことで証明されるとは限らないんじゃないか?」
 興奮し、立ち上がっていた妻がゆっくりと席に腰を下ろす。
「そうね。見せてもらうわ。あの子がどれだけ強いか」
 幾度となく繰り返されるレフェリーの問いかけにも、富美花は首を横に振り続けた。そして長い第二ラウンドが終わった。
 どうにかゴングに救われ、私も妻も胸を撫で下ろす。
 コーナーポストの前で椅子に腰掛ける富美花の表情は、お世辞にも余裕があるようには見えなかった。
 勝って欲しい気持ちはあるが、それ以上に怪我がないことを願わずにはいられなかった。
 最終ラウンド開始のゴングが鳴った。
 富美花はやや疲れたような足取りで前に出た。
 先程までと比べると、腰を随分低く落とし、タックルを警戒しているように見える。ジャブで様子を見るボクシングスタイルはやめ、 柴崎選手と同じ、両手で構えるレスリングスタイルに切り替えたようだ。
 さすがに柴崎選手も前のラウンドのように容易には突っ込めない様子だったが、やがて痺れを切らしたらしく、富美花に向かって タックルを繰り出した。
 富美花は俊敏な動きでそれをかわす。
 残り時間が僅かということもあってか、観客も、セコンドも、会場全体が沸き立っていた。
 再び向き合うリング上の二人。
 柴崎選手がまたタックルを仕掛けるが、先程と同じで富美花はヒラリとそれをかわす。そのまま同じ光景が何度か繰り返される。
かわしてばかりじゃ勝てない。どうする、富美花。
「おい、闘牛やってるんじゃねえぞ! さっさと攻めろ!」
 後ろから汚いヤジが飛び、私は反射的に立ち上がって後ろを睨みつけた。
「あなた!」と、妻が私の腕を引っ張る。
 視線をリングに戻すと、富美花が柴崎選手の後ろに回り込んでいた。上体を低く落とし、柴崎選手の腰を両腕で締め固めると、頭を柴崎選手の脇の下に潜り込ませた。
「ああっ!」
 私と妻が叫ぶと同時に、富美花は柴崎選手を抱え上げ、そのままブリッジの要領で勢いよく後ろに反り返った。
 柴崎選手の上半身が叩きつけられ、マットが激しく弾む。
 富美花の豪快な技に歓声が上がる。
 格闘技に関しては素人の私でも、この技は知っている。
 バックドロップだ。
 あんな技ができるなんて……。
 私の体は興奮で震えていた。
 しかし相手も自らを追い込み、肉体を鍛え上げた者だ。
 柴崎選手はふらつきながらも、すぐに立ち上がった。ただし、ダメージは大きかったらしく、動きにキレがなくなっている。
 そこで富美花が左右のパンチの組み合わせで、ラッシュをかける。
「行け! 富美花!」
 私も声を上げずにはいられなかった。
 左のボディブローが入ったところで、富美花が後ろへ下がる。項垂れた柴崎選手に向かって左回し蹴りを繰り出す……が、離れすぎで届かなった。
 思わず落胆の声が漏れそうになった瞬間、富美花の体がくるりと回転し、宙を舞った。
 目にも止まらぬ早業で、富美花の華麗な右後ろ回し蹴りが柴崎選手の頭に炸裂した。
 柴崎選手はマットに派手に倒れ、そのまま動かなくなった。
 今までで一番大きな歓声が上がる。
「富美花の必殺技、旋風脚よ」と、妻が得意げに言う。
 そうか。空振りだと思った最初の蹴りは反動をつけるためのものだったのか。
 レフェリーが柴崎選手に駆け寄り、彼女の顔を除く。肩を叩くが反応がない。
 レフェリーは立ち上がって両手を大きく振り、富美花のそばに近付いた。彼が富美花の右手首を高らかに持ち上げると同時に、場内アナウンスが入った。
『勝者~! 三好~富美花!』
 待ち詫びた瞬間が訪れた。
 会場全体が沸き立ち、拍手と共に富美花コールが起こる。
 富美花はリングの中央に立ち、時計回りで順に観客席に向かい、手を振り、頭を下げていく。
 私と妻のいる席の方角が一番最後だった。
 富美花がキョロキョロと周りを見回している。
 ひょっとすると、私たちを探しているのかも知れない。
 チケットを手配したあの子なら、私たちがどの辺りの席か、ある程度検討をつけているだろう。
 私は妻に「手を振ってやろう」と促し、二人で手を振った。
 しばらくして、富美花がそれに気が付いたらしく、私たちに向かって右手を振り返した。やがてその手は握り拳に変わった。
 勝利のガッツポーズだろう。
 私がピースサインで応えると、富美花が笑った。
 久しぶりに見るあの子の笑顔は、子供の頃と何も変わっていなかった。
 まるでお人形さんのよう……いや、もうお人形さんなどではない。
 女王様……それも世界で一番強くてかわいい女王様だ。

<了>
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『ハリケーン』 -前編- 

忙しい人たちへ②

『今、最も熱い格闘技! その名もハリケーン!』
 ホームページの一番上に、大きな赤色の文字が踊る。
 自ら進んで格闘技のホームページを見るのは初めて……ではなく、これで二度目だ。
 右端には『注目の選手』と書かれ、何枚かの女性の顔写真が並んでいる。
 そのうち一枚をクリックすると、ページが切り替わった。
 彼女のプロフィールが表示され、写真は全身のものになった。
 私の知っている彼女とは随分と見た目が違う。肩の辺りまであった髪の毛はバッサリと耳の上で切られ、見るからにひ弱そうだった体つきも、ガッチリとした筋肉質なものになっていた。キッとこちらに向けられた視線は力強く、男である私でさえ圧倒されそうになる。
 初めてこのホームページを見た三年前には、まさか彼女がここで紹介されるだなんて思ってもみなかった。

「私、格闘家になろうと思っているの」
 娘の富美花が突然そう話したのが、三年前。
 子供の頃から気が弱く、誰かとケンカをしてもいつも泣かされてばかり。
 優しさが彼女の一番の長所で、将来は動物病院の先生か花屋になるというのが口癖だった。
 現に短大を出た後は、地元のフラワーショップに就職した。「覚えることがたくさんあって大変だけど、毎日がとても充実している」と聞いていた。
 決して派手さはないが、彼女らしい生き方だと、私は思っていた。
 もし他に望むとすれば、そう遠くはない将来に結婚して、子供を産んでもらうことくらいだった。
 それがなぜ格闘家なのか。
「この前ね、友達と一緒に格闘技の試合を見に行ったの」
 私と妻を椅子に座らせ、富美花が穏やかな口調で話し出した。
「そんなの全く興味がなかったんだけど」
 私もそう思っていた。妻だってそうだったはずだ。
「どうしてもって言うから、今回限りのつもりで付き合ったのね」
 押しに弱い彼女なら、断るに断れなかったのもわかる。
「格闘技だからきっと体の大きな、汗臭い男の人同士が闘うものだと思っていたし、私、そういうの苦手だから、正直嫌だなって思っていたのよ」
 それもまた想像に難くない。
「だったらなぜ」と聞きたくなる。
「それが全然違ったのよ。お父さん、お母さん、『ハリケーン』って知ってる?」
 竜巻のことだろうと思ったが、そんな当たり前のことをわざわざ尋ねるはずもないため、私は「知らない」と答えた。妻も同じようだった。
「女性だけの総合格闘技で、最近、男女問わず人気が出始めているらしいのよ」
「その『ハリケーン』の試合を見たわけね」
 先に彼女の話を前向きに聞こうとしたのは妻のほうだっだ。
「そうそう。凶器を使わなければ、何でもオッケーの格闘技の中の格闘技よ」
 格闘技の中の格闘技。
 そんな台詞を富美花の口から聞くとは思わなかった。
「想像以上に面白くて、とても興奮したのよ。感動したって言ってもいいかな。女性って綺麗とかカワイイとかだけじゃなくて、強くて、カッコ良くもなれるんだって思ったわ」
 思った……それで終わりでいいではないか。
「お前がその『ハリケーン』とやらに興味を持ったのはよくわかった。だからってなぜ選手になる必要があるんだ?」
「なぜって私は……」
「お前が考えているほどあの世界は甘くはないぞ。怪我だってするだろうし、場合によっては死んでしまうことだってある」
「言われなくても……」
「そもそもお前は本当にそれがしたいのか?」
「あなた……そんなふうに」
 間に割って入ろうとする妻を相手にせず、私は言葉を続けた。
「どうせ、一時の感情でそう思って」
「いい加減にして!」
 富美花が大声を出し、テーブルを叩いて立ち上がった。予想もしない展開に私は怯んだ。
「どうして私がしようとすることを頭ごなしに否定するの? 少しくらい話を聞いてくれてもいいでしょ!」
「私はお前のことが心配なだけだ。その体で格闘技なんて無理に決まっている」
「別にこのまま試合に出るなんて言ってないじゃない? トレーニングだってしなくちゃならない。そんなの当たり前でしょ」
「体だけじゃない。精神的なこともだ。気の弱いお前にできるとは思えない」
「だからこそよ」
 富美花が打って変わって、優しい表情になる。
「私は今まで危ないことや嫌なことから逃げてばかりいたわ。いじめられたり、ケンカしたりしたらいつもお父さんやお母さんに守ってもらった」
 富美花の言うとおりだ。そしてそれは彼女の意思ではなく、私や妻の意思からだ。
「危ないからやめなさい」
「嫌ならやめてもいい」
「誰にいじめられたんだ?お父さんがその子に文句を言ってやるから」
 富美花は私たちの言葉に逆らうことなく、従ってきた。
「お前にとって迷惑だったのか?」
「そんなことは言ってない。大切に育ててくれて、二人にはすごく感謝している。でもね、私、もう子供じゃないから。強くなりたいの」
 娘の自立心には敬意を払うが、「格闘家になりたい」というのは理解できなかった。
「さっきも聞いたが、だからってなぜ選手になる必要がある。強くなりたいのなら、ジムにでも通って体を鍛えればいいだろ。わざわざ危険を侵す必要はない」
「そうやって逃げ道を作っていたら、いつまで経っても強くはなれない」
「お前は強くなりたいって口癖のように言うが、最終的な目標は何だ? チャンピオンになることか?」
「そのつもりよ」
 富美花の真剣な表情を見ても、私には馬鹿げたこととしか思えなかった。
「無理だ。なれるわけがない」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「お前がチャンピオンになっている姿が想像できない」
「何、それ……」と、富美花が呆れ顔で笑う。
「つまり私には、お父さんが思い描ける将来像しかないってこと?」
「そこまでは言ってない」
「言ってるじゃない」
 このままでは二人の会話は平行線を辿る一方だと思ったため、ずっと黙っている妻にも意見を聞いてみることにした。
「母さんはどう思う?」
「私は……」と言って、妻は富美花のほうへ視線を移す。目と目で会話をする。そんな感じだ。
「この子がそう言うのなら応援してあげてもいいと思ってる」
 お前までそんなことを言うのかと、すぐそこまで出ていた言葉を飲み込んだ。
「この子がこんなふうに積極的に何かをやってみたいって言ったことがあった?」
「ピアノや書道は楽しそうにやっていただろう」
「始めるキッカケを作ったのは私たちだったわ。それが偶然合っていただけ。自分からやりたいと言ったのは初めてのことよ」
 妻に言われて、改めて思い返してみる。確かにそうかもしれない。
「この子は私たちの人形じゃないし、守ってやらなければいけないほどもう子供でもない。自分の進みたい道を歩かせてやるべきよ」
 富美花と妻、二人が私の顔をじっと見る。私の口から自然と溜め息が溢れた。
「わかった。いいだろう」
「ありがとう。お父さん」
 富美花が微笑む。
「良かったわね」と、妻も笑顔を見せる。
「ただし、三年だけだ。その間にそれなりの成果を上げられなければ、潔く辞めてもらう」
 富美花はしばらく考えるような表情を見せた後、「わかったわ」と答えた。
「それからもう一つ。独り暮らしを始めること。そして三年間は家に帰ってくるな」
「あなた、いくらなんでもそれは……」
 妻が遠慮がちに口を挟む。
「逃げ道を作らないと言ったのは富美花自身だ。そのくらいの覚悟がなければ、格闘家になんてなれない。そうだろ? 富美花」
「確かにお父さんの言う通りね。わかった。その条件に従う」
 格別厳しい条件だとは思わなかった。「どうせ、すぐに音を上げる」と、決め付けていたからだ。

 しかし私の予想通りにとはいかなかった。
 三年が経った今、富美花は一度も帰ってきていない。休日どころか盆正月でさえ顔を見せなかった。
 彼女がどうしているのか、気にならないわけではなかった。
 近況報告はいつも妻を通して行われた。トレーニングがキツくて毎日クタクタだとか、有名選手の付き人をやりながら技の勉強をしているとか、試合で勝った、あるいは負けたとか。
 本音を言えば、「たまには帰って来い」だった。しかし私にも意地があった。
 怪我や病気をしていないことに安心だけしていた。
 妻は試合に呼んで欲しいと何度か頼んだらしいが、「まだ見てもらえるものじゃない」と、断られてばかりだったようだ。
 そして先日。
 娘から二枚の試合のチケットが送られてきた。 手渡しではないところがあの子なりの意地だろう。今になって試合に招待したのも、三年という時が過ぎるのを待っていたからに違いない。その辺りは私によく似ている。
 テーブルの上に置いたチケットには、ファイティングポーズをとった二人の選手の写真が映っていて、第三試合と書かれている。恐らくこの試合がその日のメインだろう。
 残念ながら、どちらの選手も富美花ではない。
 富美花は第一試合。所謂前座というやつだろう。対戦相手は「柴崎忍」とある。富美花と同じで名前が記されているのみなので、どんな選手かはわからない。気になるので検索しようとすると、ちょうど妻が着替えを済ませてやってきた。
「あなた、そろそろ支度しないと間に合わなくなるわよ」
「もうそんな時間か」
 パソコンを仕舞い、チケットを揃えて妻に手渡すと、着替えをするために二階に上がった。
 今日がその試合の日なのだ。

 試合会場である県立体育館へは、車で一時間ほどだ。道中は妻も私もほとんどしゃべらなかった。自分が出場するわけではないのだか、やはり緊張せずにはいられない。
 富美花の初めてのピアノ発表会を思い出す。
 ピンク色のドレスに、頭には花飾り。「まるでお人形さんのよう」とは彼女のために用意された言葉だと思うほどカワイかった。
 しかしいざステージに上がると、そんなことよりも、富美花が最後までうまく弾けるかが心配で堪らなかった。

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『公衆電話の向こう側』 -最終回- 

公衆電話の向こう側

 先週の話を聞いて以来、私はミハルさんのことが心配で仕方がなかった。
「時折」なんて言っていたが、日常的に暴力を振るわれていた可能性もある。
 実際に会ったことはないが、私の勝手に想像したミハルさんが、痣のついた顔で苦々しく笑う姿を思うと、胸が痛かった。
 水曜日、いつものように電話が鳴った。とりあえず無事なようだと胸を撫で下ろし、受話器を上げた。
「もしもし?」
 返事がない。
「もしもし、ミハルさん?」
 もう一度呼びかけてみる。
『……お前が直人か?』
 ミハルさんのものではない、その低く唸るような声に背筋が凍る。
『お前が直人かって聞いてんだよ! ガキのくせに俺の女にちょっかい出しやがって』
心臓がドクドクと激しく血を送り、体は震え始めていた。途切れることのない男の罵声に対して、何という言葉を返すべきなのか、よくわからなかった。
『今からそっちに行くからな。そこを動くんじゃねえぞ』
 嘘だ。こっちの居場所なんてわかるはずがない。
 そうは思いながらも、どこかに「ひょっとしたら」と、怯えていた。
 切ってしまいたい気持ちはあったが、ミハルさんのことを思うと、それはできなかった。
とりあえず何か言い返そうと口を開いたところで、「もうやめて」というミハルさんの声が聞こえてきた。
 それに対して「お前は黙っていろ!」という男の声。
 受話器が乱暴にぶつけられる音がして、よく聞き取れない会話と物音が続いた。ハッキリとしたことはわからないが、受話器の向こうで何が起きているのかは想像に難くなかった。
「ミハルさん!」
 私にできるのは彼女の名を叫ぶことだけだった。
 しかし返事はなく、聞こえてくるのは雑音としか取れないようなものばかり。
「ミハルさん!」
 何度か呼ぶうちにミハルさんが電話に出た。
『ゴメン、直人君。もう切るね』
「ミハルさん、大丈……」
 私の言葉を遮って、ミハルさんは一方的に電話を切ってしまった。
 もう一度話がしたくても、番号がわからないため、こちらから掛けることはできない。 向こうから切ってしまったのだから、掛け直してくるとは思えなかったが、それでもひょっとしたらという思いで、私はしばらく電話ボックスの中で待っていた。
 三十分ほどした頃、見知らぬ若い女性がやってきて、「電話を掛けさせてくれ」と、頼まれた。仕方なしに電話を譲って外で終わるのを待っていたが、女性が鋭い目で睨むので、その日は諦めて帰ることにした。
 
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 翌日の夜も、私は電話ボックスに向かった。
 あの男は正直恐かったし、約束の水曜日ではないため、電話が鳴るかどうかはわからないが、それ以上にミハルさんのことが気掛かりだったのだ。
 午後八時半を過ぎた頃、電話が鳴った。
 すぐにでも出たい気持ちはあったが、昨夜の一件を思い出し、わずかな躊躇いが生まれた。
(あの男でも構うもんか。今度こそ何か言い返してやる)
 そんなふうに私は自らを奮い立たせて、受話器を上げた。
「もしもし?」
『直人君?』
「はい。ミハルさんですか?」
『……そう』
 その声を聞いて、私は安堵の息を漏らした。
「良かった。きっと掛けてくれると思ったよ」
『昨日はゴメンね。怖い思いさせちゃって……』
「僕は大丈夫。それよりミハルさんのほうが心配だよ。あの後、どうなったの?」
『すごく怒られちゃった』
 イタズラがバレた子供のような口調だが、実際はそんなに甘くはないはずだ。
『この前直人君と電話している時に、突然主人が帰ってきて、話を聞かれちゃったの。ただいまも言わずに後ろに立って盗み聞きしてたの。酷いと思わない?』
「また殴られたの?」
『私がいけないのよ。直人君みたいな若い子をたぶらかすようなことしたから』
 たぶらかしてなどいない。ただ電話で話をしていただけだ。
 しかしそんなことはどうでも良かった。
「殴られたの?」
『気にしないで。全部私が悪いんだし』
「やっぱり殴られたんだね」
 私の中で沸々と沸き上がってくるものがあった。
『でもね、今朝だってすごく優しかったのよ。昨日はきっと疲れていたのもあったのよ。だからちょっと機嫌が……』
「そんなの見せ掛けの優しさじゃないか! 今日は優しくても、明日にはまたミハルさんに暴力を振るうんだろ!」
 私はまた熱くなっていた。
「ミハルさん、いつまで自分の心に嘘つくつもり? もういい加減自分を暴力から解放してあげなきゃ。だからそこから逃げて。僕はまだ子供で、何もできないけど、どこかに相談に行くなら付いていくし、バイトで稼いだお金も少しくらいならあげられる」
 全部あげると言えないのが情けなかった。
「住むところがないなら、ウチにおいでよ。親に話してみるからさ。その代わり僕の部屋だよ。あっ、心配しなくていいよ。男の割に綺麗な部屋だってよく言われるし」
 少々興奮し過ぎたと感じたため、私は自分を落ち着かせようと、一人笑ってみせた。
 しかしミハルさんは何も答えなかった。
「ミハルさん? どうかした?」
 耳を澄ますと、彼女のすすり泣きが聞こえてきた。
『……ありがとう。私、こんなふうに優しくされたことがなかったから……すごく嬉しい……』
 ミハルさんは時折しゃくりあげるように、声を絞り出すようにして言葉を紡いだ。
『でもね……その気持ちだけで充分だから……』
「充分って……」
『いいのよ。これは私が自分の力で解決しないといけないことだから……気持ちだけで充分なの』
「でも……」
『ゴメンね。この電話も今日で終わりにするから。直人君に迷惑かけたくないし』
「迷惑なんかじゃ……」
『素敵な恋人が見つかるといいね。直人君ならきっと大丈夫だから。焦らずにね』
「ミハルさん、ちょっと待……」
『さよなら。ありがとう。あなたと話せて良かった』
 私の言葉を遮って、ミハルさんはまた一方的に電話を切った。
 受話器から「プー、プー」という無機質な音が延々と流れていた。昨日と同じで、こちらから掛け直すことはできない。
 ひょっとしたらもう一度掛かって来るかもしれない。
 そんな淡い期待を抱いて、コンクリートの床に腰を下ろした。彼女と初めて話をしたあの日のように。

 一時間ほど待ったが、結局、電話が鳴ることはなく、私は仕方なしに家に帰った。
 階段を上がると、二階の廊下で、ちょうどトイレから出てきた姉と顔を合わせた。
「おかえり」
「ただいま」
「どうしたの? 恐い顔して」
 自分の顔は見ることができないため、表情なんてわからない。
 しかしその時の私の心境からすれば、恐ろしい顔をしていたのも当然だったのかもしれない。
「姉ちゃん……俺、どうしたらいい?」
「どうしたらって……何?」
 姉に部屋に入ってもらい、私は今日までのことを包み隠さず話した。
 
 姉はベッドに腰を下ろし、しばらく考え込むような表情をした後、「残念だけど」と口にした。後に続くのが、私の望まない言葉であることはもはや疑う余地もなかった。
「相手の連絡先がわからない限り、どうしようもないわね」
「例えば、警察に連絡して通話記録でミハルさんの住所を調べてもらえないのかな?」
「難しいと思う。あんたの証言、それも電話での会話だけじゃ、警察は動かないでしょうね」
「それじゃ、電話会社に直接尋ねるとか」
「顧客の情報をそんなに簡単に漏らすわけないわよ。それに住所を知ってどうするのよ。相手の男がヤクザの可能性だってあるわけでしょ?」
 ヤクザと聞いて、ドキッとする。あの口調なら、確かにその可能性もあり得る。しかしそこは強がってみせる。
「ヤクザなんて別に……」
「怖くないって言うの? 私は怖い。だって、あんたが殺されちゃうかもしれないわけでしょ」
「そのときはそのときで……」
「馬鹿!」
 姉は立ち上がって、床に座る私の頭を平手で叩いた。バシッという心地良い音が響き渡った。
「あんたが死んだら、私も、お父さんもお母さんも、あんたの友達も皆、悲しいでしょ!  二十歳過ぎてそんなこともわかんないの? いつまでもガキみたいな考えしてんじゃないわよ!」
 姉の言葉で目頭が熱くなる。
「じゃあ、このまま知らんぷりしろって言うのかよ」
「知らんぷりじゃなくて、任せるってことよ。ミハルさんは自分で解決するって言ったんでしょ?」
 私は黙って頷いた。
「彼女だって子供じゃないんだし、きっと大丈夫。そう信じるしかないのよ」
 再び目頭が熱くなり、鼻がツンとする。喉の奥から込み上げてくるものがあり、唇が震え、嗚咽する。 自分の不甲斐なさが悔しくて仕方がなかった。
「さっきはキツい言い方したけど、私、あんたのそういう真っ直ぐなところ、好きだよ」 膝を抱えて項垂れる私の肩を、姉は優しく叩いて部屋から出ていった。
 その後、私は留まることなく溢れ続けてくる涙としばらく戦っていた。

 姉の言っていることはよくわかったつもりだが、私はなかなか諦めきれなかった。
 彼女が再び電話を掛けてくることに期待して、翌日以降も、夜になるとあの電話ボックスに足を運んだ。
 しかし電話はいつまで経っても鳴ることはせず、強情なほどにだんまりを通した。
 さすがの私もついには電話ボックスに行くのをやめた。
 時折そばを通りかかっても立ち止まったりすることはなく、「彼女は今頃どうしているんだろう」と、答えの出ない問いかけを自分にするだけに留まった。

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 あれから十五年。 恋人ができないと悩んでいた私も、どうにか結婚して子供も産まれた。
 携帯電話の急速な普及で、公共施設を除く、いわゆる街中の公衆電話の数は激減した。
 私が彼女と言葉を交わしたあの電話ボックスも例外なく撤去の対象になった。
 唯一の連絡手段だった、あの公衆電話がなくなった今、彼女のその後を知る術はもうどこにもない。
 顔も、本当の名前さえも知らない年上の女性。
 彼女に対して恋愛感情がゼロだったと言えば、嘘になる。
 ただ、彼女を救いたいという気持ちは男としてではなく、人としてだった。
 しかし三十半ばを過ぎた今でさえ、「ミハルさんがあの男と別れ、幸せに暮らしていますように」と願うことしか、私にはできない。
 つまりあの頃と同じで、何もできないちっぽけな男であることに、なんら変わりがなかった。

「その気持ちだけで充分だから」

 ミハルさんのその言葉を思い出すと、今も胸が痛くて仕方がない。
 両親の反対を押し切ってまでやり遂げたあの男との逃避行に、彼女はいったい何を夢見ていたんだろう。
 その疑問に対する答えは、永遠に聞けそうもない。

<了>

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『公衆電話の向こう側』 -4- 

公衆電話の向こう側

 翌週の水曜日。
 私は先週の電話の後も気掛かりだったことを尋ねてみた。
「この前少し話したけど、御主人とは本当にうまく行っているの?」
『うん。行っているわよ。どうして?』
 前回とは違い、迷いのない答え方。
 やはり前回のは冗談だったのか。
「うまく行っていないから僕みたいな若い子と電話してるって言っていたのが、何となく心配になって」
『ゴメンね。深い意味はなかったんだけど……でも、寂しいから誰かと話がしたいっていうのは嘘じゃないわ』
「友達と会ったり、電話したりは?」
『私、人付き合いが得意なほうじゃないから、友達も多くはないのよ。それに皆、結婚して子供もいるし、やっぱり家族が優先になるもん』
「ミハルさんのところに子供は?」
 この件はとてもデリケートな部分で、歳を重ねた今ならもう少しマシな尋ね方をしていたと思う。
『いないし、作る予定もない』
「どうして?」
『主人は子供が嫌いだから』
「ミハルさんは?」
『私は好き。でも子供って、産むのも育てるのも夫婦が協力しないとダメだから』
「それで諦めているんですか?」
『うん』
「結婚前から御主人の子供嫌いは知っていたの?」
『いいえ。結婚したら子供を産むのは当たり前だと思っていたから、改めて確認もしなかったわ』
 生涯独身や子供を持たないという選択肢が世間的に認知されたのは、ごく最近のような気がする。あの時代ならミハルさんが言っていることもおかしくはなかった。
「子供でもいれば、少しは寂しさがまぎれると思ったんだけど、ダメか」
『そうね。残念だけど』
 ミハルさんの苦笑いが容易に想像できた。
「ご両親や兄弟は?」
『兄弟はいないし、両親も遠方に住んでいるから簡単に会いにはいけないのよ』
 もはや八方ふさがりだった。
 後はペットくらいか。
「犬や猫を飼ったらどうか」を提案しようとすると、ミハルさんが先に質問をしてきた。
『直人君に兄弟は?』
「四つ上の姉がいます」
『どんな人?』
「サバサバしていて男みたいな性格です」
『直人君の苦手なタイプじゃない?』
「まあ、恋人にはならない人なんでそこは気になりません。むしろ、頼りになって助かります」
『それはそうね』
「まあ、恋人になる人はそれなりの男じゃないとダメだろうな」
『付き合っている人はいないの?』
「休みの度に出掛けているから。いそうな感じはするけど」
『聞いたりしないんだ』
「それを聞くと、『あんたはどうなの?』って聞かれるのは目に見えてるから」
『じゃあ、相談に乗ってもらったりはしないんだ』
「しません。『攻めろ、攻めろ』ですぐに結果を求めてくるから嫌なんです」
 ミハルさんが明るい笑い声が聞こえる。
 そんなに楽しそうなのは、何だか久しぶりのような気がする。
『本当に男っぽい人なんだ』
「そう。これで見た目がゴリラみたいだったらお仕舞いだけど、一応女っぽいので助かってるかな」
『一応って、ヒドイわね。そんなふうに言いながら、結構美人なんじゃない?』
「身内贔屓になりそうだから、僕の口からは何とも言えないな」
『微妙な答えね。でも完全に否定はしなかったわね。だからそれほど悪くはないと見た』
「想像にお任せです」
『ねえ、ご両親はどんな方?』
「親父は頑固で、ちょっと変わってますね。普段は物静かですけど、怒ると怖いです」
『それは私の父も同じ。でも本当は優しいでしょ?』
「そうですね。叱られた記憶自身はあまりないです」
『お母さんは?』
「母はとにかくおしゃべりで、時折面倒臭いときもありますね。この話、いつまで続くんだろうって」
『贅沢な』
 ミハルさんが突き放すように言う。
『話を聞いて欲しいときに誰もいないことのほうがよほどツライのよ』
「うーん、まあ……そうなのかな」
『直人君は友達にせよ、ご両親やお姉さんにせよ、いつでも話を聞いてくれる人がいるからそう思うのよ』
「でもミハルさんにもご両親はいるじゃないですか。遠方って言っても、海外やよその星に住んでいるわけじゃないんでしょ?」
 いつか読んだ小説で、隣に引っ越ししてきた気のいい男が実は異星人だったというのがあった。
『もちろん、日本に住んでいるわよ』
「だったら会いにいけばいいじゃないですか。電話するだけでもいいし。きっと喜びますよ」
 私の言葉にミハルさんはしばらく何も言わなかった。
 まずいことを聞いてしまったのかと慌てていると、「実はね」とミハルさんが口を開いた。
『私と主人は両親に賛成されて結婚したわけじゃないの。駆け落ちっていうのかな』
「えっ……」
『その時はただ彼と一緒にいたいって思っていたから、何も考えずに家を飛び出した感じ。だから両親には頼ることは愚か、電話で話すのも難しいかな』
 予想もしない彼女の打ち明け話に、私は唖然とした。
『今じゃ軽率だったって後悔しているけど……』
「家を出たのはいつ?」
『七年前』
「それから連絡は一切なし?」
『何度か電話しようと思ったけど、気が引けて、結局そのまま』
「謝ればいいじゃないですか」
『許してくれるかな』
「そんなに融通の利かないご両親なんですか?」
『いいえ、両親じゃなくて主人がよ』
「御主人?」
『そう。結婚に反対されたことをずっと根に持っているのよ』
「だからってミハルさんが自分のご両親と仲直りするのを許さないっておかしいじゃないですか」
『そうよね。おかしいわね』
 ミハルさんの口調はまた平然としたものだった。
「でも仕方がないわ。両親より彼を選んだのは私なんだから」
「本当にそれでいいの? ミハルさん は後悔していないの?」
『後悔なんてしてない』
「だったら、前に僕が言った『結婚できて良かったですね』って言葉に素直に頷かなかったの? 私にもわからないって、そう答えたよね」
『あれは……ちょっとした冗談よ』
「また冗談? いったい何が冗談や嘘で、何が本当なの?」
 私の問いかけに、ミハルさんはすぐに答えず、黙り込んでしまった。本当に幸せなら、そんな必要はないはずだ。
「どうなの?」
 恐ろしいほど長いと感じられる沈黙の後、ようやくミハルさんが口を開いた。
『私はあの人に飼われている、カゴの中の鳥と変わりがないのよ』
「カゴの中の鳥?」
『あの人の許可がないと何もできない』
「例えば、どんなこと?」
『買い物。私が自由に買うことが許されているのは、食料品と日用品と下着。それと古本くらい。ウィンドウショッピングが趣味だって言ったけど、そうするしかないからなのよ』
 ようやく本当のことを話してくれた感じだった。
『外出も同じ。どこへ、誰と行くのか、何時に帰ってくるのか、全部確認してもらってから』
 夫婦間のコミュニケーションというような甘いものではなさそうだった。
「ダメな場合もあるんですか?」
『オッケーが出るほうが珍しいわ。だんだん聞くのが嫌になってきて、諦めている状態』
「その分御主人が旅行なんかに連れて行ってくれるとか」
『ないわ。日帰りの旅行どころか、外食ですらごくたまによ。あの人の気が向いたときにね』
 話を聞いているだけでも息が詰まりそうだった。
『他にもあるわ。隣の御主人と話していただけで、お前アイツとできてるのかって言われたり。店員さんや単なる通りすがりの男性に道を尋ねられただけでも、色目を使っただろって』
「冗談でしょ?」
『直人君、さっきどこまでが冗談なのって私に尋ねたでしょ? 今、話しているのは全部本当のことよ』
 自分の理解できないことだったため、つい疑いの言葉を言ってしまった。
「嫉妬深い人なんですか?」
『そんな生易しいものじゃなくて異常よ。自分以外の男と仲良くされるのが嫌だから。それが、主人が私を働きに出したくない本当の理由』
「それはミハルさんを誰にも渡したくないからで……」
 ミハルさんが「ふふっ」と優しく笑う。
『本当に直人君は純粋なのね。彼はそんな人じゃない。どうして私が毎週水曜日の夜に電話ができるかわかる?』
「なぜですか?」
『他の女のところへ行っているからよ』
「嘘でしょ?」
『答えはさっきと同じ。嘘でも冗談でもないのよ』
「自分は浮気しているのに、ミハルさんが他の男と話すだけでも許せないんですか?」
『そうね』
 その男の身勝手さに、私もしだいに腹が立ってきた。
『時折ね、殴られたりもするの』
「えっ……」
『男の人の件以外でもね。まあ、大抵私が悪いんだけど』
「悪いって、何をしたの?」
『些細なこと。例えば、お味噌汁が少し辛かったり、頼まれていたことができていなかったりとか』
 ミハルさんはそう言って笑ったが、私は笑えなかった。
「そんなことで?」
 私の父も気が短く、些細なことで腹を立てたり、機嫌を損ねたりする人間だが、母にも、私たち子供にも絶対に手をあげるようなことはしなかったからだ。
『でも私が悪いんだし』
 それを「自分が悪い」で片付けているミハルさんの気持ちもわからなかった。
『少し時間が経つと、謝ってくるし。泣きながら「ゴメンな」って土下座することもあるし。そこまでされたら許せないって言えないでしょ?』
「それは……それは違うよ」
 彼女には見えないが、私は激しく首を横に振った。
「どんなに謝ったとしても、女性に……ましてや自分の奥さんに暴力を振るうなんて、絶対に許されるべきことじゃない」
『でもね』
「ねえ、ミハルさん。なぜそこまでされてその人と一緒にいる必要があるの? やっぱり好きだから? お金のことが不安だから? それとも何か弱味を握られているから?」
 私は男の傲慢さと調子の良さに対して、頭に血が昇っていた。そしてそんな男から離れようとしないミハルさんに対しても腹を立てていた。
『それが……私にもよくわからないの』
「わからないってどういうことだよ! ミハルさんの人生だろ! もっと自分を大切にしろよ!」
 私は、家族以外の年上の者に対して、そんな物言いをするような人間ではない。その時はもはや見境がなくなっていた。
『直人君、私……』
 ミハルさんはそこで言葉を詰まらせたきり、何も話さなくなった。
 電話が切れてしまったのかと疑うほど静かな時間。
 サーッという音に紛れて、ミハルさんの鼻をすする音が聞こえてくる。
『そうだよね。間違っているよね。直人君の言う通りだよ』
 しゃくり上げ、途切れ途切れになりながらも、ミハルさんは懸命に言葉を紡いでいく。
『もっと……自分を大切にしないとね。ありがとう』
「これ以上はしゃべれそうにないから」と、ミハルさんは電話を切った。
 未だ興奮の冷めない私は、大きく息を吐き出してから電話ボックスを出た。

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『公衆電話の向こう側』 -3- 

公衆電話の向こう側

『この前の続きだけど、直人君の趣味って何?』
「趣味ですか……実はこれと言って特に……」
 自分でも声が小さくなったのがわかった。胸を張って「これが趣味だ」と言えないことに多少なりとも後ろめたさは感じていたからだ。
『えー、若いのに無趣味? 休みの日は何してるの?』
「ゲームをしたり、友達と遊びに行ったりです」
『遊びに行くってどんなところ?』
「ボウリングにカラオケ、それにゲームセンター。後はファミレスでドリンクバー。皆、僕と同じでこれといった何かがない奴らばかりです」
『探せばいいのに』
「食わず嫌いじゃないですけど、やってみようかなって思えるものが見つからないんですよね」
『そっか。でも探すことは続けて欲しいな。若いうちしかできないことも多いしね』
「ミハルさんだって若いじゃないですか」
『そうかもしれないけど、やっぱり結婚すると、色々制約があるから』
「そうなんですか? 結婚って嫌なもんですね」
『そうね』
私としては冗談のつもりだったのだが、ミハルさんの口調はそう聞こえなかった。
『でも勘違いしないで、あくまで私の意見だから。大抵の人は結婚して良かったと思っているはずよ』
 確かに私の両親も結婚したことを後悔しているようには見えなかった。
 ミハルさんが「結婚っていいものよ」 と言えないことには、何か深い事情 がありそうだったが、その時の私にはまだ尋ねる勇気はなかった。
「ミハルさんは何かやってみたいこととかあるんですか?」
『世界一周』
『スケールが大きいですね』
 突拍子がなくて吹き出してしまった。
『直人君はしてみたくない?』
「そりゃ、してみたいですね」
『でしょ?』
「でもお金が……」
『それならヨーロッパ一周とか全米制覇ならどう?』
「うーん。それでも結構お金が掛かりそうですね」
『じゃあ、イギリスだけとかアメリカのロサンゼルスだけとか』
「それなら何とか行けそうかな」
『じゃあ、卒業までにお金を貯めよう』
「貯まるかなあ……」
『カラオケとか買いたいゲームを我慢すればいいのよ』
「我慢って言葉は嫌いだな」
『カラオケなんていつだって行けるし、ゲームだっていつでも買えるわ。お金は貯めればいいけど、時間は貯められないからさ。使えるときに使わなきゃ。結婚したり、働き始めたりしたら、海外なんて簡単に行けなくなるわよ』
「そうですよね……あれ? いつの間にか僕が海外に行く話になっていますよね。確か始めはミハルさんの世界一周の話だったのに」
 ミハルさんは話をすり替えるのがうまい。
「ミハルさんも世界一周はともかく海外旅行くらいなら行けるんじゃないですか?」
『私は……無理よ』
「じゃあ、北海道とか沖縄とか」
『場合によっては海外より高いわよ』
「そうなんですか? 知らなかった。それなら近場の温泉に一泊二日は?」
『うーん。そうねえ……』
 どうにも歯切れが悪い。
「日帰りにしますか?」
 これでダメならいったいどこなら行けるんだろう。残っているのは、近所の大衆浴場くらいだ。
「何が問題なんですか? お金ですか?」
『主人が連れていってくれるかなって……』
 消え入りそうな声。
「そんなことですか。別に一人で行ってもいいじゃないですか」
『私、車とか乗らないから』
「電車で行けばいいです」
『電車か……』
僕に対してはあれこれ「やってみたら」と言うのだが、自分のこととなると、妙に消極的だ。旅行に行けない理由は、「結婚しているから」だけではない気がした。
「ミハルさん、ひょっとして……」
『何?』
「どこかに監禁されてるとか」
 私が真面目なトーンでそう言うと、ミハルさんが大声で笑い始めた。
『そんなわけないじゃない。それなら初めて電話した時に助けを求めてるって』
「もちろん、わかってます。ただ、あまりにも自由がないようなことばかりだから、冗談で言ってみただけです」
『なんだ……冗談か。そりゃ、そうよね。直人君は免許は持ってるの?』
「今、教習場に通っているところです」
『じゃあ、直人君にどこかに連れて行ってもらおうかな』
「いいですよ。その代わり生命保険への加入が条件ですけどね」
『怖い怖い』
 その後しばらくはドライブの行き先についての話が続いた。
 もちろん、本当に行くつもりはなかった。ミハルさんだってそのはずだ。
 その時はそう思っていた。

 ミハルさんは単なるユーモアのある女性というだけではなく、気配りの利く優しい人でもあった。
 電話の度に「体は大丈夫?」や「ご両親から怒られていない?」と尋ねてくれた。
 酷いフラれ方をしたことに関してもとても心配してくれていて、「何でも相談してね」と言っていた。 幸いなことに、私をフッたあの子はあれからすぐにバイトを辞めた。
『直人君の好きな女性のタイプってどんな人?』
「男勝りだったり、ハキハキしゃべる子は苦手です。ちょっと大人しいくらいがいいかな」
 あの子もそういうタイプだと思っていたが、その期待は見事に裏切られた。
 あるいはそう言わざるを得ないほど、私が彼女を追い込んだのだろうか。
「それから下品な子は嫌いです。下ネタを平気で言えるような子とか言葉遣いが悪い子とか」
『それはそうよね』
 親父女子とか毒舌とか、今はそれを売りにしている女性もいるが、私には正直理解できない。
「だからと言って無口過ぎるのも困る。ミハルさんみたいに話をしていて楽しい人がいいです」
『ありがとう。ねえ、見た目に関しては?』
「見た目にはこだわるなって言ってたじゃないですか?」
『全く気にするなとは言ってないわよ』
「そうですか……えっと、色白で、髪は肩の辺りまで。体形はちょっとぽっちゃり。二重瞼で、笑窪のできる人」
 ミハルさんがぷっと吹き出す。
『それはこだわり過ぎ』
「あくまで理想ですよ。夢見るのはタダだし」
 もちろん、この条件を全て満たす女性には、未だに出会ったことがない。
『私に当てはまるのは、色白と二重瞼くらいかな。髪の毛はショートだし、笑窪もない。体形はぽっちゃりからは程遠いわね』
「痩せ過ぎのほうですか?」
『直人君、わざと言ってる?』
「あっ、いえ、そんなつもりは……でも本人が気にしているほど、太っていない場合もありますよ」
『どうなんだろう。自分ではぽっちゃりよりぼっちゃりのほうが近い気がするけど……まあ、そこは想像にお任せね』
「じゃあ、ストライクゾーンで想像しておきます」
 私の中で、勝手なミハルさんのビジュアルができあがりつつあった。
『年齢の条件は?』
「そうだな、気の合う人ならあまりこだわらないかな」
『それが十二歳年上でも?』
「十二歳? 随分はっきりとした数字ですよね?」
 ミハルさんが自分のことを言っているのだというのは、すぐにわかった。
「もちろん、大丈夫ですよ」
 彼女の冗談に私も乗る。
『本当に大丈夫? 真面目な話だけど』
 声のトーンがいつもと違う。
『私は十二歳年下でも大丈夫だよ』
 これは冗談抜きなのか。
 もちろん、十二歳も年上の女性との交際など、それまで考えたことがなかった。同世代の女の子でさえ、付き合った経験がないというのに、少しハードルが高過ぎた。
 胸が高鳴った。「はい」と返事をしてもいいんだろうか。
 しかし三十二歳と言えば、姉よりも年上だ。
 果たして「恋人」という関係が成り立つのか。
 私が黙り込んでいると、ミハルさんがアハハハと笑い始めた。
『ゴメン、ゴメン。ちょっと度が過ぎたわね。まさか直人君がそんなに真剣に悩むなんて思ってもみなかったから』
「からかっていたんですか?」
 腹立たしさと恥ずかしさで体中が火照る。
『ホンの少しのつもりだったんだけど』
「切っていいですか?」
『ちょっと待って。怒っちゃった?』
 ミハルさんの口調はひどく慌てたものだった。
「当たり前でしょ」
『本当にゴメン。私が悪かったわ。だから機嫌直して。ねっ、お願いだから』
 やがては泣きそうな声を出した。
「なんて、嘘です」
『えっ、嘘なの!』
「全然怒っていません」
『本当に? もしかして冗談なの?』
「はい。さっきのお返しです」
 今度は私が笑う番だったが、ミハルさんは笑ってくれなかった。
『もう一度聞くけど、本当に怒ってない?』
「怒ってないって言ってるじゃないですか」
『良かった………』
 ミハルさんが心底安心したというような息を漏したのがわかった。先に騙されたのは私のほうだったのだが、お返しをしたことが悪く思えてしまう。
『ゴメンね』
「もういいですよ」
 このままではいつまでも謝られてしまいそうな気がしたので、話を続けることにした。
「今度はミハルさんの好きな男性のタイプを教えてください」
『あっ、そうね……優しくて、思いやりがあって、私を信頼してくれて、必要としてくれる人』
「見た目は?」
『こだわらない』
「理想でいいんですけど」
『キレイ事じゃなく、本当にそうなのよ。今挙げた内面的な条件を満たしている人なら、顔が悪くても、デブでも、チビでも構わないと思ってる』
「ミハルさんの御主人は?」
『見た目はとてもいいわ。でもそれだけ。それ以上はない』
 突き放すような言い方だった。
「もしかして御主人とうまく行っていないんですか?」
『うまく行っていたら、こんな時間に見知らぬ若い男の子と電話なんてしてないわよ』
 私は彼女の言葉に、疑うことなく頷けてしまった。
 なんと答えるべきだろう。
『あっ、ゴメン。今のも冗談。主人とはうまく行ってるわ。直人君って真面目だから何でも真剣に考えてくれるから、こういう冗談はやめたほうがいいわね』
「そうしてくれると助かります」
『今日は何だか余計なことばかり話した気がする。そろそろ切るね』
「はい。それじゃ、また来週」
 最後に「おやすみなさい」と言って、その日の電話は終わった。

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『公衆電話の向こう側』 -2- 

公衆電話の向こう側

『そっか。でもそんな相手の気持ちも考えられないような子なら、フラれても良かったじゃない』
「フラれていいことなんてないですよ。やっぱりショックはショックです。相手がどうであれ、自分が受け入れなかったことに変わりはないですからね」
『そうよね。良かったなんて言ってゴメン』
 ミハルさんの口調がしんみりとしたものに変わる。
「いや、気にしないでください。ミハルさんの意見もごもっともですし……でもね、恥ずかしい話ですけど、僕は今まで女性と付き合ったことがないんです」
 中学から高校、大学に至るまで、所謂共学に入った私には、決して女性と接する機会がなかったとは言えなかった。
 ただ、女性と話すのがとても苦手だった。相手を異性として意識し過ぎてしまい、「いい格好をしよう」や「失敗したくない」といったことばかり考えるのだ。それが緊張に繋がり、うまく話せなくなる。
『けど、今は普通に話せているじゃない』
「最近ですよ。まともに話ができるようになったのは」
『だったらいいじゃない。これからが始まりなんだし。それに直人君の歳で女性と付き合ったことがなくても、何も恥ずかしいことなんてないわよ。今はまだそういう人と出会っていないだけ』
「これから出会えたらいいんですけど」
『もちろん、出会えるわよ。でも一つだけ直人君にはお願いがあるの』
「お願い?」
『そう。さっき、「僕は見た目もよくないし」って言っていたけど、見た目以上に大切なことがあるから、それを見失わないで欲しいなってこと』
「要は中身ですよね?」
『若い頃は皆、見た目から入ってしまいがちだからね。歳を重ねたり、結婚したりすると、見た目がそれほど重要じゃないってわかるようになるわ。いつか出会えるその人のために、自分磨きをしっかりして欲しいな』
 優しい慰めの言葉に、本当に感謝したくなる。
「そうですよね。ありがとうございます」
 私は受話器の向こうにいる、見えない相手に頭を下げた。
「ゴメンなさい。そろそろ帰らないと。親に何も言わずに出てきたもんだから」
『そうなんだ』
「はい。まだ脛をかじっている立場ですから、あまり勝手はできないです。それに心配しているといけないので」
『直人君のご両親ならきっと素敵な人なんでしょうね』
「仲はいいみたいです」
『何よりじゃない』
「そうですよね……それじゃ、そろそろ……」
 私が話を切り上げようとすると、ミハルさんが「ちょっと待って」と、それを遮った。
『良かったらさ。また話さない?』
 意外な申し出だった。
『毎週水曜日の夜八時半頃に、この電話に掛けるから。どうかしら?』
 私としては、別に悪い話だとは思わなかった。彼女と話していると退屈ではなかったし、そんな秘密のような付き合いに、どこか胸が弾んだ。
「いいですよ。でも、もし誰かが使っていたら?」
『そのときは中止。翌週に持ち越しね』
「どちらかに用事があるときは? 僕からは連絡できないんですけど」
『私は大抵暇だから問題ないわ。電話を鳴らして直人君が出ないときは諦めるようにする』
 そう言われると、むしろ「なんとか来なければ」という気持ちになる。
「通話時間も決めておきませんか? 他に使いたい人がいるかもしれないし」
『直人君って本当によく気が利く子なのね』
 ストレートに誉められてしまい、照れ臭くて耳が熱くなる。
『じゃあ、十五分から二十分でどう? 九時前には終わるから、ご両親にもあまり心配を掛けずに済むでしょ?』
「それはいいですけど、番号は覚えているんですか? 適当に押したって言っていましたけど」
『大丈夫。適当っていっても、好きな数字を選んだから』
「それじゃまた、来週の水曜日に」と言って、私たちは電話を終えた。

 小

 翌週の水曜日。
 午後八時十五分頃に私はあの電話ボックスに向かった。せっかく掛けてくれたのに、取れなかったでは申し訳ないので、早目に家を出たのだ。
 実際に電話が鳴るまではそわそわして落ち着かなかった。
 腕時計が午後八時半を過ぎると、待っていたかのように電話が鳴り出した。
 私はすぐに受話器を上げた。
『直人君?』
 その声を聞いてとても安心した。
「そうです」
『こんばんは。ミハルです。良かった。ちゃんと来てくれたんだ』
「実は僕も本当に電話が掛かってくるのか、少し不安でした」
『じゃあ、お互い同じことを心配していたわけね』
 ミハルさんはとても楽しそうに笑った。
『今日バイトは?』
「休みです。スーパーのバイトだからシフト制なんです」
『何売り場?』
「肉です。畜産コーナー」
『へえ、さばいたりするの?』
「まさか。品出しとか商品をラップでくるんだりとか、値引きシールを貼ったりとかです」
『そっか。ねえ、バイトと学校、どっちが楽しい?』
「バイト。勉強はハッキリ言って退屈だし、大学は男子に比べて女子の割合がたった一割なんです。だからお近づきになるのも簡単じゃありません」
『競争率高いんだ』
「そう。僕みたいな地味で、不細工な奴は特にね」
『またそうやって自分を卑下するんだから……ダメよ』
「ゴメンなさい」
 なぜか素直に謝れてしまう。
『バイト先には女の子が多いの?』
「そうですね。歳の近い、レジ打ちの子が結構います。それに小さな店なんで接する機会も多いです。だからと言って、付き合うところまでいけるわけじゃないですけどね。あっ、またネガティブなこと言っちゃったかな?」
『そうそう。ダメって言ったばかりでしょ』
 もちろん、ミハルさんは本気で怒っているわけではない。
「ミハルさんは何かお仕事されているんですか?」
『いいえ。専業主婦。結婚したばかりの頃は、要領悪くて何するのも時間掛かっちゃったけど、今はもう慣れて退屈なのよ。主人の帰りも遅いし』
「パートにでも行ったらどうですか?」
『それができないのよ』
「どうして?」
『主人と約束してるから』
「約束って?」
 いったい何の約束なんだろうと、私は首を傾げた。
『働きには出ないって約束』
 子供ながらに妙な話のような気がした。
「働きに行け」と言う旦那は多いだろうが、その反対がいるとは思わなかった。
『主人の見栄よ。私が働いていると、自分の稼ぎが少ないと思われるから……だって』
 私は吹き出しそうになった。
「だったら世の中の大半の男は稼ぎが少ないですよね」  
「そうでしょ?」と、ミハルさんも一緒に笑う。
『まあ、理由はそれだけじゃないけどね』
「えっ?」
『ううん。何でもない』
 彼女の言う「他の理由」がとても気になったが、あまり深く追及するのもまずい気がしたので、それ以上は尋ねなかった。
「じゃあ、趣味はないんですか?」
『読書とテレビドラマ。後はウィンドウショッピング』
「読書って何を読むんですか?」
『小説。ジャンルは色々だけど、家族愛とか、心温まるようなのが好きかな』
「へえ、そうなんですか。じゃあ、ドラマもそっち系ですか?」
『そうね』
「女性ってやっぱりそういうのが好きなんですか?」
『それは人によるわね。私がそうっていうだけ。アクションが好きな子もあるし、コメディが好きな子もいる。だからデートで映画に誘うときは気を付けてね』
「いくら僕でもそのときは好みを確認しますよ」
『そうよね。それは失礼しました』
「ウィンドウショッピングって、要するに見るだけで終わりでしょ?」
『そう言われると、愛想がないわね。見るだけでも得るものがたくさんあるのよ』
「例えば?」
『商品知識が増えること。どんなものが今流行っているのかとか、この商品は何でできているのか、とかね。後、一般的な価格もわかるかな』
「他に得るものは?」
「忍耐力」
『どういうことですか?』
「買いたい衝動を抑える力が身に付いて、買わなくても満足できるようになる」
 ミハルさんの言葉で今度は僕が笑った。
 本当に面白い人だ。
「ミハルさんみたいな人が増えると、日本経済が活性化しなくて困りますね」
『少しは経済学部らしいこと言うじゃない?』
「真面目に勉強してますから」
『さっき勉強は退屈だって言ってたくせに』
「あっ、覚えてました?」
 彼女との会話はとても楽しかった。同年代の女の子と話すのとは違い、余計な気を使う必要がなかったからかもしれない。
「ミハルさんって面白いですよね」
『それって褒められているのかしら。女性としては微妙な言葉なんだけど』
「もちろんですよ。言い換えるなら、親しみ易いかな」
『それならいいか』
「男性からもモテるんじゃないですか?」
「そりゃ、もうモテモテよ」なんて冗談で返してくれるものだと思っていたが、彼女は少しも笑わなかった。
『実はね、私も直人君と同じで、なかなか男性とお付き合いできなくて悩んでいたほうなの』
「そうだったんですか」
『うん。直人君には見た目より中身が大事なんて言ったけど、誰よりも見た目を気にしているのは、私かな』
 ミハルさんの口調はどこか寂しげだった。ひょっとすると、私以上に見た目で嫌な思いをしてきたのかもしれない。
「でも良かったじゃないですか。ちゃんと結婚できたんだし」
 私にとっては慰めのつもりだった。
『良かったか……どうなんだろうね』
 彼女が時折口にする、含みのある言葉がとても気になった。
「そうでもないんですか?」
『さあ、私にもわからない』
 思い切って尋ねてみたが、はぐらかされてしまった。
『今日はこのくらいにしておこうか?』
 ミハルさんに言われて腕時計を確認すると、午後八時四十二分だった。
 私はもう少し話していたい気分だったが、私よりも彼女のほうが、事情が複雑だろうと思ったので、これで終わりにすることを了承した。
「それじゃ、また来週の水曜日に」
 そう言って受話器を下ろした。
 ほんの十分少々だか、とても充実したひとときだった。
 たった今、電話を終えたばかりだというのに、私はもう次の水曜日が待ち遠しくなっていた。

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『公衆電話の向こう側』 -1- 

公衆電話の向こう側

公電

 大学生の頃、バイト先の大人しそうな女の子をデートに誘った。
 私はどちらかと言えば控え目な性格だったため、そんな彼女となら性格的に合いそうな気がしたからだ。
 と言っても、まだ好きという感情を抱くまでには至っておらず、「見た目が気に入ったから」という段階だった。
ある程度打ち解けたであろう頃を見計らってから、デートの約束をすることにした。
「今度の日曜日にさ、どこか行かない? もちろん、予定が空いていればだけどさ」
 その子は少しの間考えるような表情をしたものの、結果的には「別にいいですよ」と答えてくれた。嬉しさで胸が踊ったが、あくまでその場は平静を装った。
「行き先とか時間とか、詳しいことを決めるのに電話したいから、番号を教えてくれる?」
 彼女はそれを拒まなかった。
 電話番号は、尋ねるのも教えるのもなかなか勇気がいる。
「社交辞令では終わらない」と、今以上の関係を望んでいることを相手に示すようなものだからだ。
 つまり彼女もそうなんだと、私は浮かれていた。
 
 その日の午後八時過ぎ。
 私は自宅の近くにある電話ボックスに向かった。当時はまだ携帯電話などなく、電話と言えば、自宅の電話か公衆電話だった。
  わざわざ外へ出ることを選んだのは、彼女との会話を両親や姉に聞かれたくなかったからだ。特に男のように勝ち気な性格である姉に限っては、うまくいかなかった場合にお説教されることさえ予想された。
 携帯と違って本人に直接繋がるわけではないため、掛ける時間帯にも気を使う。
七時だと夕食中の可能性があるし、九時だと寝ていないにしても遅いイメージがある。その間の八時がちょうどいい時刻だったというわけだ。
 子猫の写真がプリントされたテレホンカードを入れて、番号を押す。電話ボックスのところどころにある隙間から、時折冷たい冬の風が入り込んできて、体がぶるっと震える。
 コール音を耳にしながら、胸が高鳴るのを感じていた。
 親父が出て「ウチの娘とどういう関係なのかね?」と凄まれたらどうしよう。 気の小さい私は、そんなふうにビビっていたのだ。
 しばらくして『もしもし?』と女性の声で応答があった。
 とりあえず親父ではなかったことに安心する。声色から察するに、彼女本人でもなさそうだ。
 母親、もしくはお姉さんか。彼女に姉妹がいるかどうかはまだ知らないことだった。
「夜遅くすみません」と一言言ってから自分の名前を告げ、彼女を呼んでもらいたい旨を伝えた。
『ゴメンなさい。あの子、今お風呂に入っているの』
ホンの一瞬だが、彼女がシャワーを浴びている姿を想像した。
 良からぬことをしてしまったと思い直し、すぐに頭を横に振る。
「そうですか。それではまた改めさせていただきます」
そう言って受話器を戻したものの、もう一度掛け直すのは気が引けた。
仕方なしにその日は諦めて帰ることにした。

 直接話をするほうが早いかと思ったのだが、翌日は彼女のバイトが休みだった。
 家に帰り、昨日とほぼ同じ時間に電話をしてみたが、やはり入浴中だった。
 思わずあのアニメのヒロインが頭に浮かんだが、時間的に風呂に入っていてもおかしくはなかった。
 電話口の女性に「掛け直させましょうか」と聞かれたが、家に掛けられるのは避けたかったので、そこは遠慮した。
 運悪く、その次の日も彼女はバイトが休みだった。
それならばと、少しだけ時間を遅くして電話を掛けてみた。
 確か、八時十分か十五分。その程度だった。
いつもの女性が電話に出て、『お待ちください』と答えた。
保留音のメロディにどこか安堵する。
『もしもし?』
 彼女だ。ようやく声が聞けた。
「ゴメンね。夜遅く」
『はい』
「今度の日曜の件だけど」
『はい』
 何だか反応が悪い。気のせいだろうか。
「どこか行ってみたい所とかある?」
『ゴメンなさい。その日は急に用事ができて無理になりました』
 コツンと拳で頭を軽く殴られたような感じだった。それほど痛くはない。
「そうなんだ。じゃあ、別の日にする? いつなら空いてる?」
『休みの日はしばらく予定が詰まってるんです』
 ゴツン!  さっきより衝撃は強い。分厚い事典で殴られたような感覚。少しずつ不味い展開になりつつあるかも……いや、気のせいだ。
「じゃ、じゃあさ……バイトが終わってから晩飯だけでもどう? もちろん、俺の奢りで」
 しばしの沈黙。
電話が切れてしまったのかと、テレホンカードの残り度数を確認する。「20」という赤いデジタル数字が見えた。
 残りは充分。つまり切れたわけじゃない。
「もしもし? 聞こえてる?」
『……なんです』
 彼女の声が小さ過ぎてよく聞きとれなかった。
「えっ、何?」
「だ! か! ら! 迷惑なんです!」
 ドカーン!頭の上で爆発が起きた。
「め、迷惑って……」
「私、彼氏いるんです。それにもしそうじゃなくても、ハッキリ言って徳永さんみたいな人タイプじゃないんです。何だか地味だし、見た目もイマイチだし。本当鈍いですよね?全部言わなくてもわかれよって感じ?」
 今まで彼女に抱いていた「控えめ」というイメージが瞬間的に崩壊した。
 私に照準を合わせて発射されたマシンガンの弾は全て命中し、もはや死んだも同然だった。
「ちょっと待ってくれよ。それならどうしてあの時……」
「すみません。よく聞き取れないんで、もう切っていいですか?」
 彼女は私の答えを聞かぬ間に、ガチャンと受話器を置いた。
 私も静かに受話器を戻した。本当なら受話器を叩きつけたいような気分だが、もはやそんな元気さえなかった。
「ピピー、ピピー」という電子音と共に、テレホンカードが戻ってきた。
 私は力なくその場に座り込んだ。 本当に死んでしまいたい気分だった。
 嫌なら嫌と、始めから断ってくれれればいいじゃないか。
 それとも彼女の本心を見抜けなかった俺が悪いのか。そんなに断りにくい空気を出していたのか。あるいは俺みたいな醜男は人を 好きになる権利がないと気付けっていうのか。
 悔しくて、情けなくて、涙が出そうになった。
 冷たいコンクリートの上で項垂れていると、突然電話が鳴った。
 反射的に顔が上がる。
 自分の耳を疑いたくなったが、確かに目の前にある緑色の電話が鳴っている。
 公衆電話が鳴ることなんてあるのか。
 放っておけばいいと思う一方で、相手がどんな人なのかも気になった。
 もし間違っているのなら、教えてやるべきだと考えて、私は受話器を上げた。
「もしもし?」
『あっ、私。ミハルよ』
 若い女性の声だ。
「あの、掛け間違いですよ。公衆電話に掛かっています」
『嘘? 本当に?』
「はい。本当です」
『へえ、公衆電話に掛かったりするんだ』
 女性の声は驚いているというより、どこか楽しそうに聞こえた。
「みたいです」
『まあ、電話であることに変わりないもんね』
「そう言われれば、そうですね」
『ところで、あなたは?』
「僕は……色々あってここにいたら、突然電話が鳴り始めたんです」
『そうなんだ。驚いたでしょ?』
 随分親しげに話す人だと思ったが、悪い気はしなかった。彼女のほうが直感的に年上だとわかったことと、口調が穏やかだったからだろう。
「はい。まさか鳴ると思ってなかったので」
『どうして出ようと思ったの?』
「間違っているなら教えてあげようかなって」
『ふーん。優しいんだ』
「そうですか?」
 女性にそんなふうに言われると照れ臭くなる。
『ねえ、良かったらさ、このまま少しだけ話し相手になってくれない?』
「掛け直さなくていいんですか?」
『いいのよ。お芝居だから』
「お芝居?」
『そう。誰か知らない人と話がしたくて、適当に番号を押して掛けてみただけ』
「友達と話すんじゃダメなんですか?」
『私を知らない人がいいの』
 何か嫌なことでもあったんだろうか。
 そんなふうに思った。
「僕なんかで良ければ話し相手になりますよ」
『本当に? ありがとう』
 私自身もフラれてしまったことでショックを受けていたため、気を紛らわすのにはちょうど良かった。
『あなた、名前は?』
「直人」
『直人君か。歳はいくつ? 学生さんかな?』
「もうすぐ二十一です。大学に通ってます」
『そっか。若いし、頭もいいんだね』
「頭がいいかどうかは微妙かな。そんなに有名な大学じゃないし」
『でも裏口入学ってわけじゃないんでしょ?』
「もちろん、そんなことはありません」
『だったらもっと自信持たないとね』
 自信…… その時の私が最も失っていたものかも知れない。
「あの……ミハルさんはおいくつ……あっ、ゴメンなさい。今の質問キャンセルで」
 私の言葉でミハルさんはクスクスと笑った。
「女性に歳を聞くのは気が引ける?」
「はい。聞いてから『しまった』と思いました」
『結構真面目なタイプなのね』
「そうですか?」
「気にしなくていいよ。私は三十二。ゴメンね。ガッカリさせちゃって』
「別にガッカリなんてしませんよ」
『どうせなら若い子のほうがいいでしょ?』
「そんなことはないです」
『そう、それなら良かった』
 もちろん、嘘だ。 フラれたばかりの私にとっては 、できるだけ自分の年齢に近いほうが良かった。
 どんな形でもいいから新しい出会いを望んでいたことは確かだ。
「何か聞いて欲しいこととかあるんですか?」
『聞いて欲しいことっていうか、単純に寂しいから話がしたいってほうかな』
「独身ですか?」
『いいえ。一応結婚はしている。けど、主人は毎晩帰りが遅いの。特に毎週水曜日は帰ってくるのは明け方なのよ』
「お忙しい方なんですね」
『忙しいか……そうなのかな』
 どこか含みのある言い方が気になった。
『直人君には恋人いるの?』
 その時の私にとってはタブーと言える質問だったが、誰かに話を聞いて欲しい気持ちはあった。
 私のことを知らない誰かに。
「実はさっきフラれたばっかりなんです」
 自分でもトーンが低かったと思う。
『そうなんだ。悪いこと聞いちゃったかな?』
「いいえ。もし良かったら、僕の話も聞いてもらえませんか?」
 ミハルさんが「いいよ」と言ってくれたので、私は「バイト先のあの子」との出会いからフラれるまでを話した。

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『未来を変えろ』 

忙しい人たちへ②

 友達daimaさんの作品『ポストマンの歌が聞こえる』のスピンオフ作品です。
 http://novelist.jp/82983.html
  
 以下、原案あらすじより 
 どうしようもない後悔を抱えた人の元にだけ、ある日届く不思議なレターセット。
 想いを届けたい人の顔が浮かんだなら、名前を宛名に書いてください。
 一風変わったポストマンが受け取りに参ります。
 上手すぎる鼻歌を、歌いながら……。
 
 ポストマンのモデルは平井堅さんだそうです。

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『こっちを向いてよ』 

忙しい人たちへ②

 五月三日。
 ゴールデンウィーク真っ只中。
 天気は快晴。
 ついこの間まで「朝晩はまだ冷えるよな」と溢していたのに、今となっては長袖なんて着ていると、汗が滲むほどだ。
 しかし暑いのは気候のせいばかりじゃない。
 今日は、大学のテニスサークルの催しとして、近所の公園でバーベキューをしている。新入生の歓迎が目的だ。
 総勢十八名という大所帯のため、六名ずつ三つのグループに別れることになった。
 幸いなことに同じグループの中に、俺が密かに思いを寄せている土屋めぐがいた。
「はい、どうぞ」
 土屋は額の汗をベージュ色のシャツの袖で拭いながら、トングで掴んだ肉を俺の紙皿へと入れてくれた。
「あっ、ありがとう」
 せっかく土屋が取ってくれた肉だ。冷めないうちにと、俺はすぐにそれを口に運ぶ。とは言っても、さすがに熱くて「はふっ、はふっ」と息を吐いて、口の中で必死に冷やす。
「慌て過ぎ。誰も取らないわよ」と土屋が笑う。
 その笑顔を見て、やっぱり参加して良かったなと思う。
 土屋は他の女子たちと協力しながら、手際よく肉と野菜を皆の皿へと分けていく。
「もうダメ。暑くて仕方ないわ」
 土屋はそう言って、トングをテーブルの上の皿に置き、少し乱暴にシャツのボタンを外し始めた。
「僅かな時間さえこの暑さは我慢できない」
 そんな感じだ。
 露出の高いグリーンのタンクトップ姿に、思わずドキリとする。脱いだシャツをアウトドアチェアに掛けて、土屋は再びトングを握る。
 彼女が動く度にシュシュで一つに束ねた黒髪が揺れる。
 それは見慣れた土屋のヘアスタイル。時折見え隠れするうなじにまた胸が高鳴る。
「彼女をイヤらしい目で見るな」と、自らを心の中で叱る。

 土屋と俺の関係は、恋人でもなく、友達でもない。時折テニスの相手になる程度でしかない、単なるサークル仲間だ。
 知り合って一年という長い時間がありながら、そこまでの仲にしかなれなかったのは、親密になる機会に恵まれなかったのと、俺の根性のなさが理由に他ならない。
 そういう意味では今日のバーベキューは彼女とお近づきになれる絶好のチャンスなのだ。
 先程からほとんど食べていない土屋に思い切って声を掛ける。
「土屋さん、俺が焼くから少し食べなよ」
 トングを受け取るために手を伸ばすと、土屋がクスクスと笑った。
「渡瀬君って料理とか全然しない人でしょ?」
「えっ、あっ、いや……そんなことないよ」
「隠しても無駄よ。さっき野菜を刻んでいるのを見たけど、手慣れているようには見えなかったな」
 図星だ。飯は大抵外食かコンビニ弁当、あるいはカップラーメン。
「焦げないように見ているだけだろ? できるよ」
「まあまあ、無理せずに。ここは我々女性陣に任せて、ゆっくりお肉を召し上がれ」
 俺と話をしている間も、土屋は手際よく、肉や野菜の焼き加減を見ている。
「その代わり後片付けでしっかり活躍してもらうからね」と、彼女は目を細くした。その笑顔を独り占めしたいと、改めて思った。

 その後も土屋と話をするチャンスを伺っていたのだが、明朗快活で、男女問わず誰からも慕われている彼女だ。俺だけにゆっくり話をさせてはくれなかった。
 食べることが一段落すると、皆、椅子に腰を下ろして、酒を飲みながら会話を楽しむほうへと移り始めた。
 椅子取り合戦が激化する前に、俺は土屋の隣の席を抑えた。
 近くにいればいるほど、話し掛けるのに有利なのは当然だったが、土屋は反対側にいる女子の水原とばかり話をして、俺にはずっと背中を向けていた。
 これなら正面に座ったほうがマシだったのかもしれない。
 オマケに水原はよく喋ることで有名で、二人の会話に割って入るのは容易ではなかった。
 せっかくのチャンスが台無し。
 何とかしなければ、また昨日までと変わらず仕舞いだ。例え1センチ、いや1ミリだっていい。少しでも彼女に近付きたかった。
 何かないかと辺りに視線を巡らせていると、一つに束ねた土屋の長い黒髪が目に止まった。
 そして俺の頭の中に、彼女の注意を引くための一つの案が浮かんだ。
 いや、それはさすがにマズイだろう。
 嫌われても文句は言えない。最悪の場合、平手打ちもあり得る。
 待て待て。要は力加減だ。ちょっとくらいなら大丈夫。
 もし怒られたら、正直に言えばいい。
「君とどうしても話がしたくて」と。
 よし。

 クイッ。

 俺の取った作戦に土屋が気が付いた様子はなく、変わらず水原との会話を続けている。
 少し弱すぎたか……それなら今度は少し強めに。

 グイッ。

 土屋は水原と話すのをやめて、俺のほうに視線を向ける。
 目と目が合う。そして少しだけ微笑みをくれた。
「あの……」
 俺が話し出そうとすると、土屋は再び水原のほうへ向き直った。
 気のせいだと思われたのかもしれない。
 これ以上キツくするのはよくないだろう。同じ強さで二回にしてみるか。
 そう思って、三度「あれ」に手を伸ばした瞬間、水原が「あっ!」と大声を上げた。
「めぐ、後ろ! 渡瀬が髪を引っ張ろうとしてる!」
 体がビクッと反り返って、慌てて手を引っ込める。
 土屋はさっと椅子から立ち上がって、後ろに下がる。
「渡瀬君……本当なの?」
「えっ、あっ、あの……なんて言うか……」
 正直に自分の気持ちを言えばいいなんて思っていたが、水原に見破られてしまったことで相当に動揺してしまい、予定通りの反応ができなかった。
「小学生並の悪戯じゃない! めぐ、怒っていいよ」
 土屋より水原のほうが怒っていた。全くその通りだ。好きな子の気を引くために髪の毛を引っ張ろうとするなんて、完全にガキの発想だ。
 いい歳して、アホか、俺は……。
 いやいや、そんなことより何か良い言い訳はないものか……。
「その……俺……酔ってんのかな? 土屋さんの髪の毛見てたら引っ張ってみたくなっちゃって……」
 なんだ、その苦し紛れの言い訳は。
「きっ、綺麗だなって……一つにまとまっていて、引っ張り易そうだったし」
 全くフォローになっていない。
「そういうことか」と、土屋は頷く。その表情はあまり怒っているようには見えなかった。
「それじゃ、こうすればいいか」
 呟くようにそう言った土屋は、右手でシュシュを外して、軽く頭を振った。一つにまとまっていた髪が解ける。まるで映画のワンシーンのように、スローモーションで美しい黒髪がゆっくりと、俺の視界全体に広がる。シャンプー甘いの香りが漂い、思わずうっとりしてしまう。
 初めて見る。髪を下ろした土屋の姿……。
 いつもの見慣れたヘアスタイルと比べて新鮮というか……衝撃というか……新しい彼女を発見したような感覚……そう、とにかく……かわいい!
「どう? これなら引っ張れないでしょ?」
 前に垂れた髪を耳に掛けながら、土屋が優しく微笑む。
 何の言葉も出てこなかった。
 ただ、体中が火照って、異常に熱い。
「渡瀬君、顔赤過ぎだよ。やっぱり相当酔ってるんじゃない?」
「あっ、うん……そうみたい……ちょっと……頭、冷やしてくる。ゴメンな。変なことしようとして」
 動揺を覚られぬように必死に努めて、俺は早足でとその場を離れた。なんなら走り去って、 二度と戻りたくないくらいだった。
 しばらく行ったところで、木陰から土屋の様子を窺ってみた。
 後ろ髪は先程と同じで、下ろしたまま。
 そして俺の体の火照りもそのまま……いや、最高潮に達していた。ドクン、ドクンと激しく 運動を繰り返す心臓。
 実は俺が飲んでいたビールは、ノンアルコール。
 この燃えるような体の熱さと、胸の高鳴りは酒のせいなんかじゃない。
 何もかも……。

<了>

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『再会箱 caseⅣ』 最終回 

再会箱(シリーズ)

「花岡さん、皆さんにご挨拶お願いします」
 凛が伯父の背中にそっと手を置くと、伯父は何度か頷いた後、自己紹介を始めた。
「花岡和史です」
 少し掠れた聞き取りにくい声。ただし、話し方はしっかりしている。
「十二歳です。よろしくお願いします」
 十二歳なんてことはあり得ないのだが、ほとんどの者がそれを笑うことはしない。なぜなら皆、自分の年齢さえ正確に言えないからだ。
「花岡さんの席はどこですか?」
 凛が手を上げて皆に尋ねる。あらかじめ用意した席だ。もちろん、彼女はどこかわかっているが、入所者の誰かに敢えて教えさせる。
「ここ、空いていますよ」と、前田さんというお婆さんが答える。
 伯父はゆったりと足取りでその席に向かう。
 それにしても随分歳をとった。当時の面影はあまりない。最初に見たときは伯父だとは思えなかった。
 そうか。同姓同名という可能性もある。

 小

 勤務中の隙間時間を見つけて、あの男の経歴書に目を通してみた。
 年齢は六十五歳。伯父の誕生日を覚えているわけではなかったが、父と三つ違いのはずなので、年齢的には合っている。
 職歴には会社経営の経験があったことが書かれており、やはり伯父である可能性は高い。
 その後、認知症を患うまでは飲食業に携わっていたらしい。
 気になるのは、「配偶者有り」となっている点だ。確かに自ら申し込みをして、このグループホームに入ったというのは非現実的で、誰かが代わりに手続きをしたと考えるほうが自然だろう。
 失踪後に知り合った女性と結婚したということか。
「どうかしたの?」
 いつの間にか凜が僕の後ろに立っていた。
「あっ、いや……ちょっとな」
「花岡さんのこと、調べてたんでしょ?」
 凛の言葉にドキッとしたが、凛には伯父のことは話してあるため、下手な嘘をつくより本当のことを話すほうが良い気がした。
「うん。まあね……ひょっとすると伯父なんじゃないかなと思って」
「話はしたの?」
「いや、タイミングが合わなくてさ」
 僕としては、できるだけ近寄らずに素性を知りたい。
「もし伯父さんだったらどうするの?」
「どうって……」
 凛の表情に笑みはない。僕が伯父を憎んでいることを知っているからだろう。
「別にどうもしないよ。自分のことを十二歳だって言っていただろう? 俺のことも覚えていやしないさ」
 もちろん、俺はそう思っていないが、彼女を安心させるために笑顔を作ってみせた。なるべく自然を装ってだ。
「それに経歴書を見た感じ、別人のようだしな」
「そうなんだ」
 俺が頷くと、凛も強張っていた頬を緩めた。

 小

『はい。グループホームそよ風でございます』
「花岡です」
 僕が名乗ると、携帯電話の向こう側の相手が「お疲れ様です」と答えた。今日の夜勤組の女性だ。
「夜分遅くにゴメン。レクリエーションルームに忘れ物をしたから取りに来たんだ」
 彼女がスタッフルームにいるなら、玄関に立つ僕の姿は、屋外カメラの映像で確認できているはずだ。
「鍵、開けてくれないかな?」
『わかりました』
 電話でのやり取りを終えると、玄関ドアの電子ロックが外れる音がした。
 中へ入ってすぐの部屋に、先程の女性がいる。
「悪いね。あまり時間は掛からないから」
「はい」
 僕より年下のせいか、あるいは信頼されているからか、「何を忘れたのか」とは尋ねてこなかった。
 時刻は午後十時過ぎ。入所者たちには就寝時間を過ぎているため、できるだけ物音を立てずに廊下を歩いた。
 二階へと続く階段を登って、一番奥の部屋の前で足を止める。
 ドアノブを捻る。非常事態に備えて、鍵は掛けない決まりになっている。
 眠っているであろう部屋の主を起こさぬように、静かに中へ入ってベッドに近付いた。常夜灯が点いているため、気持ち良さそうな表情で眠っているのはわかる。
 面影がないなんて思っていたが、近くで見ると、やはり伯父に間違いなかった。
 僕が伯父との再会を望んだ理由はただ一つ。
 伯父の肩まで掛かっている布団を少しだけ下にずらす。
 目を覚ます様子はない。
 慎重に両手を伸ばして、伯父の首を掴む。細くて弱々しいそれは、簡単にへし折れてしまいそうだった。
 じわじわと手に力を入れていくと、伯父が微かに呻き声を上げ始めた。
 憎しみを込めてギュッとその首を締めつけた瞬間、なぜか伯父の顔に父の顔が重なった。
 自然と両手の力が抜ける。
 常夜灯のオレンジ色の灯りがパッと白に変わった。
 慌てて振り返ると、入口に凜が立っていた。
「凛……どうしてここに……」
「昼間の卓也の様子から何となく嫌な予感がして、戻ってきたのよ」
「俺より先に?」
「そうよ。スタッフルームにいたわ」
 その話し方は明らかにいつもとは違う。表情は憤りに満ちている。
「卓也。あなた、自分が何をしようとしていたか、わかってるの?」
「コイツは親父を殺したんだ。凛も知っているだろ」
「もちろん、知っているわ。卓也がこの人を憎んでいることもね」
「だったら止めるなよ。借金を俺たちに押し付けておいて自分はのうのうと生き続けている。おまけに何もかもキレイさっぱり忘れているんだぞ」
「だからってその人を殺すの? そうすれば卓也は満足なの?」
「そうだな」
「必ず後悔するわ」
「いや、しないさ」
「卓也じゃない。私がよ」
「凛が?」
「あなたを人殺しになんかしたら、私は一生後悔する。だから……」
 凛の怒りの表情がみるみるうちに崩れていき、その目に涙が浮かぶ。
「馬鹿なことはやめて。お願いだから」
 凛の気持ちは痛いほど伝わった。しかし、それでもまだ「わかった」とは言えない自分がいた。
 静かな時間が流れた。凛が鼻を啜る音が妙に大きく感じられた。
 僕の後ろで、ゴソゴソと何かが動いていることに気が付いた。
 慌てて振り返ると、眠っていたはずの伯父が上半身を起こしていた。
 目が合うと、かつての伯父の姿が蘇り、自分がしようとしていたことを思い出して急にバツが悪くなった。
 伯父は突然大きく目を見開いたかと思うと、布団を乱暴に払いのけて、床に足を下ろした。 ゆっくりと立ち上がると、僕のほうに向かって歩き始めた。
 僕が自分の甥であることに気が付いたのかもしれない。
 時折ふらつき、前に向かって伸ばした両手も震えている。何か言いたげにパクパクと口を動かしてはいるが、うまく言葉にならないようだ。
 「卓也……」
 凛が不安げな声を出す。振り返って彼女の表情を見ると、再び伯父に手を掛けようとは思えなかった。僕は凛に対して一つだけ頷いてみせた。
 長い時間を費やして僕のそばにたどり着いた伯父は、倒れ込むようにして僕の体にしがみついた。
「ゴメンな……」
 伯父の目に涙が浮かぶ。
「悪かったな、耕治」
 伯父の意外な言葉に、僕の心臓が大きく膨れた。
 耕治……それは父の名だ。
「ダメだとわかっていたけど……どうしようもなくて……逃げるしかなかったんだ」
 唇を震わせ、鼻水を垂らしながら嗚咽する姿は、僕の好きだった「和おじさん」に違いなかった。
「ゴメンな……本当にゴメンな」
 子供の頃、伯父の大切にしている釣り竿を不注意で折ってしまったことがあった。僕にできるのは、ただ泣きじゃくって、ひたすら謝ることだけだった。
 伯父は「もういい、もういいよ」と、僕を抱き寄せ、優しく頭を撫でてくれた。
「始めから折るつもりじゃなかったんだから」と。
 認知症にかかっているにも関わらず、父にしてしまったことは忘れずにいる。長い間ずっと苦しみ続けていたのだろう。
 伯父だって、始めから父に全てを押し付けるつもりではなかったはずだ。
 子供のように泣きながら「ゴメンな」を繰り返す伯父を僕は軽く抱き締めた。
「もういい。もういいよ……お兄ちゃん」

 小

 入所者九人と僕を含めた職員三人で日課である近所の散歩に出掛ける。
 元々山だった場所を切り開いて造られた地域のため、少し歩けば、小川や野原にたどり着くことができる。
 入所者を先に歩かせ、僕たち職員は後ろからそれを見守る形になる。
 僕が見守る者の中に、伯父の姿もあった。
 凛に担当を代わってもらったのだ。
 所長を始め、周りには担当になることを反対する人も多くいた。その理由は言うまでもなく、僕が私情を挟むことを心配したからだろう。
 伯父の首を絞めようとしたあの日、凛に泣きながら止められて、僕は自分がどれほど恐ろしいことを考えていたのかを改めて思い知った。
 もう二度とあんな馬鹿なことをするつもりはないが、それを証明するために敢えて伯父の担当を買って出た。周りに対してだけではなく、自分自身に対する証明のためでもあった。
「ほら、メダカがいるよ」
 僕が水面を指差すと、伯父はまるで子供のように「どこどこ?」と、体を前に乗り出す。足取りがたどたどしいため、川に落ちてしまわないかと心配になる。
「おっ、見えた、見えた」
 水中を楽しげに泳ぎ回るメダカの姿を見て、伯父は無邪気に笑う。
「網を持って来たら良かったなあ、耕治」
 伯父は未だに僕を弟だと思い込んでいる。
 だからと言って僕は否定もしない。仮に否定したところで、納得するのは一時的なことだろう。
「そろそろ昼御飯だし、うちに帰えるか? 俺、腹減ったよ」
 伯父はそう言って腹を擦る。昼食はもう済ませたし、帰るべきところは家ではない。
「そうだな。それじゃあ、帰るとするか」
「ああ」と伯父は頷き、わざと遠回りをしてホームに戻る僕の後ろを、疑うことなく付いてくる。
 到着する頃には昼御飯のことは忘れているだろう。
 僕は伯父を許したわけじゃない。しかし僕の知る伯父はもう死んだ。つまり再会箱の力で再会した二人の関係も終わった。
 僕はあのグループホームの職員。
 彼はそこの入所者。
 それが今の二人の関係だ。

<了>

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『再会箱 caseⅣ』 第二回  

再会箱(シリーズ)

 母は玄関ドアにチェーンを繋ぎ、ゆっくりと慎重に開いた。僅かにできた隙間から、ポーチ灯に照らされた男の顔が見えた。夜であるにも関わらず、薄いグレーのサングラスを掛けている。男は乱暴にドアに手を掛けると、チェーンが目一杯張るところまで開いた。「ここまでか」と独り言のように呟いて、舌打ちをする。
「ホンマに旦那は留守なんやろうな?」
「本当です。それに主人が借金をしていたことも知りません」
 借金……。
 思わず血の気が引いた。
「まあ、厳密に言えば、あんたの旦那は連帯保証人や」
「連帯保証人?」
「そう。債務者は兄の花岡和文。返済が滞ったまま行方がわからなくなったんで、あんたの旦那のところに返してもらいにきたってわけや」
 僕は耳を疑った。あの伯父がそんな無責任なことをするとは思えなかった。
「とにかく主人はまだ帰っていません。出直してください」
 思ってもみない母の強気な姿勢に、僕は少し驚いた。しかしよく見ると、体が微かに震えていた。
「そうはいかんのや!」
 男が玄関ドアをドンと力強く叩いた。
 母の体がビクッとなる。それは僕も同じだった。
「旦那が帰ってくるまで待たせてもらうで。開けてもらえんか?」
 男はチェーンで繋がったドアを乱暴に何度も引っ張った。
「母さん、絶対に開けちゃダメだ」
 僕の言葉に、母は「わかっている」と静かに頷いた。
「おい。クソガキ。あんまり舐めた口利いとたら、タダじゃ済まんへんぞ。コラッ」
 先程の大声を上げるのとは違う脅しか方。低く唸るような声に息を飲む。ビビッていることを悟られては負けだと、男から決して視線を逸らさぬようにした。
「ウチに何か御用ですか?」
 にらみ合いを続ける私たちの間に割って入ったのは、他でもない父だった。僕と母は安堵の息を漏らした。
「お兄さんに貸した金、返してもらいに来たんやけどね」
「どういうことですか?」
「行方がわからんのや」
 男の言葉に父はしばらく黙っていた。ドアの向こう側にいるため、その表情はわからない。
「場所を変えてお話しましょう」
「おう。ええやろ」
 男がドアから離れると、代わりに父が隙間から顔を見せた。
「あなた……」
「ちょっと行ってくる。遅くなるかもしれないから先に寝てくれ」
「大丈夫?」
 母が不安げにか細い声を出しても、父は少しも笑わず、ゆっくりとドアを閉めた。
「和おじさんがいなくなったって本当かな?」
「わからないわ」
「借金っていくらくらいなんだろう……」
「卓也」
「何?」
「あなたは何も心配しなくていいの。部屋に戻りなさい」
 母の口調がハッキリとした強いものだったため、僕はそれ以上何も尋ねることができなかった。
 母に言われて自分の部屋に戻ったが、やはり大人しく引き下がれず、二十分ほどすると、再びリビングへと降りた。

 母は神妙な顔付きで、背中も預けずにソファに座っていた。
「父さん……まだだよな?」
「卓也……先に寝ているように言われたでしょ?」
「まだ八時半だ。眠たくない。それにあんな話を聞いてすんなり眠れるはずがないよ」
「そうだけど……」
「この家のことなら、俺にも聞く権利はあるはずだよ。もう子供じゃないんだし、何か力になれることがあるかもしれないだろ?」
 母はしばらく黙った後、「わかったわ」と頷いた。

 それからすぐに父が帰って来た。
 僕も母も自然と立ち上がっていた。
「父さん……大丈夫?怪我はない?」
「怪我をする理由なんてないじゃないか」と父は笑ったが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「でもアイツは……」
「心配するな。紳士的な話し合いをしてきたよ」
「伯父さんが行方不明って本当?」
「卓也」
 父を質問攻めにする僕を、母が止めた。
「お父さんは帰ったばかりなのよ。夕食もまだなんだし、話はそれから」
「いや、食べる前に話そう。そわそわして落ち着かないだろ?」
「でも……」
「一番落ち着かないのは俺なんだ。さあ、二人とも座ってくれ」
 父の話によると、伯父が一千万円の借金をしたのは一年前。経営する会社の資金繰りが苦しくなり始めたのが理由だ。
「あくまで書類上のことで、絶対に迷惑は掛けないから」という伯父の言葉を信じて、父は連帯保証人になった。
 そして現在に至る。
「あなたの気持ちはわかるけど……どうして私に相談してくれなかったの? 一言言うべきじゃないの?」
 母の口調は明らかに責めるようなものだった。
「あの兄さんに限って黙っていなくなるなんてあり得ないと思っていたんだ」
 僕にはどちらの気持ちも理解できた。
「私だってそう思うわよ。それでも……」
 このままでは二人の会話は平行線を辿るような気がしたので、僕が割って入った。
「母さん。今はそれよりこれからどうするかが先でしょ?」
 母は僕の言ったことが正しいと思ったのか、そのまま口を噤んだ。
「今後のことだが……」と、父はどこか遠慮がちに話し始めた。
「俺が返済をしながら兄さんを探す形になる。いくら兄弟でも勝手に会社のものや私物を処分する権利はないらしい。差し押さえをするにも、一度俺が返済を終える必要がある」
「その前にさっきの連中が伯父さんの財産を差し押さえたりはしないの?」
「手続きが結構面倒で、そんなことをするくらいなら俺に取り立てするほうが楽らしい」
「そういうことか。でも探し出すって言っても、当てはあるの?」
「いや、あの男の話では従業員も誰一人心当たりがないらしい。借金をしていたことは知らないし、姿を見ないことに関しては、出張に行くと言っていたいたらしい。
 経営者と言っても、従業員が数名の小さな町工場で、経理に関しても伯父自身がやっていたため、経営不振について知るのは本人だけだったに違いない。
「それじゃ、簡単には見つからないってことだよね」
 僕の言葉に、父は神妙な顔付きで頷いた。
「多少の費用は掛かるが、その道の専門家を雇うしかないな」
「探偵?」
「そうだな。それで見つかり次第、すぐに自己破産の手続きをさせる。それまでの間はこちらで返済を続けていくしかないだろうな」

「探偵に頼めばすぐに見つかる」
 父も母も、そして僕もそう思っていた。
 しかし伯父探しは手掛かりが少なく、思った以上に難航した。
 会社の規模からすると、経営者同士や取引先との付き合いもそれほど多かったわけじゃなく、それに加えて伯父は他所で自分のことをあまり話さなかったようだ。
「どうして何も話してくれなかったんだろうな」と、皆、一様に首を傾げた。
 父の勤める会社もまたそれほど大きなところではなく、当然収入も多くはなかった。
 かつてのような暴力的な取り立てはなかったものの、少なからず家計や精神を圧迫したのは確かだ。
 少しでも足しになればと、僕もバイト代をいくらか家に入れたが、やはり大した額にはならなかった。
 父も母も、目に見えて疲れているのがわかった。
 苦肉の策として母が考えたのが、両親や親戚に少しずつ金を借りて、現在の借金を一度返済してしまうというものだった。
 しかし父はすぐには首を縦には振らなかった。実の両親はともかく、母の両親や日頃付き合いのない親戚に金を借りるのはやはり気が引けたようだった。

「考えさせてくれ」と言ったきり、しばらく結論を出さなかった。
 考えたからといって、返済の義務がなくなるわけではなかった。相変わらず伯父の行方もわからぬままだった。
 やがて母のほうが痺れを切らし、自分の両親に事情を話して金を借りる手筈を整えた。「少しくらいなら」と、老後の生活を考えて蓄えていた金を切り崩して、いくらかを用立ててくれた。実際にどの程度だったのかを僕は知らないが、父が泣きながら頭を下げていたことだけはよく覚えている。
 その後、父の両親からは借りるというより、もらうという形で金を受け取った。
 問題は親戚関係で、貸してくれたのはごく近しい人たちだけで、大半は「ウチにはそんな余裕はない」と断られた。
 当然、借金を全額返済というわけにはいかなかった。
 家の中に笑顔や明るさというものがなくなり始めていた。
 三人とも言葉が少なくなり、どこか沈みがちになった。特に父はもの思いに耽るように、ぼんやりしている時間が増えた。
「大丈夫?」と尋ねても、「心配するな、大丈夫だ」としか答えなかった。

 父のその言葉が嘘だったということは、最悪の形で証明された。
 父が車で事故を起こし、亡くなったのだ。カーブを曲がり切れずにコンクリートの壁に激突した。頭を強く打ったことによるショック死だった。
 ブレーキを踏んだ跡が見当たらないことから自殺も疑われたが、父が母や僕に黙ってそんなことをするはずがないと思っていた。
 アイツらが事故に見せ掛けて……なんてことも考えたが、警察の捜査の結果、その可能性はないとのことだった。
 父が事故を起こした原因は心の病によるものに違いない。
 事故による死亡者や怪我人はなく、塀の修理代は自動車保険、借金は父の生命保険で支払われた。
 親戚への返済は残ったが、同情からか皆、「余裕ができてからでいいよ」と言ってくれた。

 母と僕が稼いだ金で返済を続けて十年。ようやく完済の目処がついた。利子を請求してくるような者はいなかっただけでも随分恵まれていたと思う。
 直接的ではないにせよ、父が亡くなる要因を作った伯父を僕は憎んでいた。父だけではない。僕も母も苦しんだ。あの男のせいで、家族全員の人生が狂ってしまったのは確かだ。

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『再会箱 caseⅣ』 第一回  

再会箱(シリーズ)

 勤め先であるグループホームの日帰り旅行で有名な神社へとやって来た。
 ただし、社員旅行ではないため、入所者のお年寄りも一緒だ。
 元々、お年寄りの方の世話を苦に思わないからこの仕事に就いたのだが、せっかく旅行に来たのだから少しくらい息抜きをして楽しみたい気持ちはあった。
「そろそろ帰ろうか」というときに、バス出発前のトイレタイムと称して、皆の中から抜け出して来た。特に何をするでもないが、誰かの世話を抜きにして、周りの景色や雰囲気を満喫したかった。
 時折視界に入ってくる和風庭園のおかげで、そんな気持ちも少しは満たされた。できることならもっと落ち着いて観賞していたかったが、あくまで仕事できているため、それは贅沢というものだ。
 程々で諦めて皆の元に戻ろうとすると、木と木の間に獣道のようなものがあるのを発見した。
 誰もそこへ向かっていく様子はないため、正式な参拝をする場所というわけではなさそうだ。だからこそ余計に行ってみたい気持ちはある。
 時間は気になったが、それ以上に奥に何があるのかを知りたかったため、その道に足を踏み入れた。
「ちょっと覗くだけ」のつもりだったのだが、道は随分向こうまで続いており、簡単に終わりというわけにはいかなかった。
 それならばと、僕は全力疾走でその道の終わりを目指した。
 木と木の間を走り抜けると、目の前に小さな社殿が姿を現した。お世辞にも立派とは言えない建物だが、ちゃんと賽銭箱もある。特別に珍しい何かがあったわけではないが、多少の好奇心は満たされた。感謝の気持ちを込めて、小銭くらい入れてやろうと思った。ズボンのポケットを探っていると、社殿の奥から白髪に白髭のお坊さんが出てきた。
「その箱は賽銭箱ではないのです」
「えっ、違うんですか?」
「はい。その箱は再会箱と言いましてな……」
 お坊さんの話によると、『再会箱』と呼ばれるこの箱には不思議な力があり、再会したい人の名前を紙に書いて入れると、願いが叶うと言うのだ。
 箱のそばには白い半紙と筆ペンが置いてある。
「この紙に名前を書くのですか?」
「さようでございます。ただし、一つだけ忠告が」
「何ですか?」
「再会できる人は生涯でただ一人。それも一度だけです。その人と関係を続けようなどと思ってはなりません」
 箱の力を使った再会は運命を無理矢理ねじ曲げたもののため、元に戻す必要があるらしい。
「必ず再会できるんですか?」
「はい。箱の力は本物です」
 それならば、どうしても再会したい奴がいる。
 僕は筆ペンを手に取り、紙にそいつの名前を書いて箱に入れた。
 もちろん、箱の力など信じてはいなかった。ちょっとしたお遊びだろう。
 お坊さんに礼を言って、元来た道を引き返した。
 獣道を抜けると、僕の同僚であり、恋人でもある凛がいた。
 慌てた様子辺りを見回している。
 僕が声を掛けると、安堵したような表情をチラッと見せた後、口を尖らせた。
「どこ行ってたの? 放って帰ろうかって話していたんだから。電話しても圏外だし」
「悪い悪い。実はさ、そこに獣道らしきものがあるだろ? 何かなと思って奥へ進んで……」
「獣道ってどこよ」
「どこって、ちょうどそこに……」
「ないわよ」
 振り返って自分の指差す方向へ視線を送ってみたが、凛の言う通り、そこには何もなかった。
「あれ? おかしいな」
「もー、冗談言ってないで早くいくわよ。みんなバスに乗って待ってるのよ」
「えっ! マジ? 急ごう」
 僕は凛の手を引っ張って、慌てて駐車場に向かった。

 小

 グループホームとは、認知症の症状を持ち、病気や障害で生活に困難を高齢者が専門職員の援助を受けながら共同生活する介護福祉施設だ。
 入居者は介護サービス、生活支援サービスを受けながら、食事や掃除、洗濯等を自分たちでしながら、共同生活をしていく。リハビリやレクリエーションの機能訓練を通して、認知症の進行を緩やかにして、精神的な安定や自立支援を目的とした介護を行う。
 定員は九から十八人。少人数で長く生活することにより、入居者同士や施設職員たちと信頼関係を築き易い環境になっている。

 午前八時半から軽いスタッフミーティングが始まる。夜勤組からの引き継ぎとその他連絡事項の確認が主な内容だ。
「先日からお話していたように、今日から一人、新しく入所される方がいらっしゃいます。担当は予定通り、峰岸さんです。いいですね?」
 所長の言葉に、「はい」と凛は頷く。やや緊張した面持ちだ。新たに誰かと接する場合、相手がどんな人なのかわかるまでは少し身構えてしまう。
 彼女はそういう性格だ。
「十時頃にお見えになるらしいので、皆さん、入所式の準備のほうをお願いします」
 皆が一斉に返事をして、ミーティングは終了。解散になった。
「凛、何か手伝おうか?」
「ううん。でも困ったときはお願いね」
「ああ。任せとけって」
 入所者の認知症の程度には幅があるが、女性はもちろん、男にとってもキツイ仕事であることは間違いない。しかしここで働く女性は皆、自分に与えられた仕事は自分でやりきる強い者ばかりだ。今まで何度も凛を助けようとしたことがあったが、答えはいつも同じ。
「大丈夫だから」
 決して無理をしないで欲しいと僕は思っていた。

 小
 
 午前九時五十分になると、職員と入所者たちがレクリエーションルームに集まった。
「入所式」なんて大袈裟な名前が付いているが大したことはしない。
 所謂歓迎会の類いだか、酒を飲んだりもしない。
 入所者の紹介をした後、皆でお茶とお菓子をお供に三十分ほど話をする。
 そんな軽い雰囲気のものだ。
 十時を過ぎたところで、凛が白髪の男性を連れて部屋にやってきた。
 一斉に拍手が起きる。
 痩せ細った見た目からして、元気そうとは言い難く、足取りもたどたどしい。
「今日から……」
 誰もが聞き取れるようにと、凛がゆっくりと、大きな声で話し始める。
「皆さんと一緒に生活していくことになった、花岡和文さんです」
 凛の紹介の言葉に、穏やかな気分で耳を傾けていた僕の胸がざわついた。

 花岡和文……。

「花岡だって。あんたと同じ名前だな。親戚かい?」
 隣に座る山川さんというおじいちゃんが僕の肩を叩く。
「偶然だよ」と、僕は笑ってみせたが、もしあの再会箱という箱の力が本物ならば、偶然ではない。

 小
 
 花岡和文は、僕の父の兄……つまり伯父だ。真面目で仕事熱心、人柄も良かったが、良縁に恵まれることがなくずっと独身だった。そのせいもあってか、僕も随分とかわいがってもらった。誕生日やクリスマスのプレゼント、お年玉だけではなく、小学校から高校まで欠かさず入学祝いをくれた。
 もちろん、僕も伯父が好きで、「和(かず)おじさん」と彼を慕っていた。

 あの一件までは……。

 僕がまだ専門学校に通っていた頃のことだ。
 帰宅の遅い父より先に母と二人で夕食を済ませ、リビングでのんびりしているところへ誰かがやってきた。
 母はしばらくインターホン越しに受け応えをしていたが、「お待ちください」と受話器を戻した。
 母がどこか怯えた表情でリビングを出ていったので、僕も後に続いた。

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『赤い糸をたどって』 最終回 

赤い糸をたどって(下)

 困ったことになった。
 と言っても、今までのことを考えるとかなり贅沢な悩みだ。
 二人の女性のうち、どちらかを選ばなければならないなんて……。
 ただし、勘違いしてはいけないのが、相手から交際を申し込まれたものではないということだ。
 つまりどちらを選ぶか悩んだところで、フラレれてしまう可能性は残る。
 若槻と松田。
 二人ともとても魅力的な女性だし、例えフラレたところで悔いはない。
  
 いや、嘘だ。
 フラレていいわけがない。できることならオッケーをもらって、二人でブーケトスを退会したい。
 いつもならこうしてベッドで物思いに耽っていれば知らぬ間に眠ってしまうが、今日ばかりは違う。
 海へ行き、真夏の強い日差しにさらされて、充分疲れているはずなのに、まるで眠れる気がしなかった。
 梅田に言われた更新手続きの期限までまだ時間はあるし、もう一回ずつ会ってからにするか。
 そう考えて目を閉じる。
 いやいや、本当に後一回会えば決められるのか。余計に迷う可能性だってある。
 
 目を開き、仰向けだった体を横に向ける。
 それぞれのいい点ってなんだろう。
 若槻は真面目で優しくて、思いやりや常識があって、話していて楽しい。
 結婚した後のこともちゃんと考えている。
 松田は真面目で優しくて、思いやりや常識があって、話していて楽しい。結婚した後のこともちゃんと考えている……って、全く同じじゃないか。
 見た目はこの際関係ない。どちらもストライクゾーンに入っているし、それを結婚相手選びの決定的要因にするべきじゃない。
 それなら悪い点は……。
 
 体の向きを反転させる。何だか今日はムシムシするな。
 今のところ特に目立って悪い点は見当たらない。
 他に引っ掛かることと言えば、若槻とは社内恋愛であること。先日みたいなことは今後も少なからずあるだろう。
 松田の場合、あの超多忙なブラック企業が問題だ。休日に無理をさせて翌日に疲れを残すような過ごし方は良くなさそうだ。会える時間もあまり取れない気がする。
 まあ、どちらも永遠に解決しないようなことじゃないしな。
 いやいや、そんなことよりもっと気に掛けるべき大切なことがあるだろう。
 その「大切なこと」を自分自身に問いかけてみる。

 二人のうち、いったいどちらがそうなのか。
 
 静かに目を閉じると、そこに答えがあった。

 小

 翌週の日曜日。
 暑さが和らぐ夕刻に、俺はある公園のベンチに腰掛けて、その女性が来るのを待っていた。
「大切な話があるから必ず来て欲しい」と伝えてある。
 よほど鈍い人間でない限り、その言葉の意味することはわかっているはずだ。
 もう一人の女性には電話でお断りをした。
「運命の人に出会えて良かったですね」
 そう言われた。随分と気が早いが、実際にそうであって欲しいと思う。
 沢口にも断りの連絡をメールで送っておいた。
『わかりました』と一言。
 相変わらずの愛想のない対応ぶりに苦笑した。

 約束の時間まであと僅か。胸の高鳴りで体全体が揺れているように錯覚する。
 大きく一つ深呼吸をすると、「春見さん」と背中のほうから、誰かが俺を呼んだ。
 確認など必要ない。この心地好く耳に届く声は紛れもなく、彼女のものだ。
 すっと立ち上がって、声の主のほうへと向き直る。
「ありがとう。来てくれて」
 俺がそう言って笑うと、若槻も「どういたしまして」と目を細くした。
「あの……少し歩きながら話さないか?」
「いいですよ」
 先に歩き始めた俺の隣に若槻が並ぶ。何度か会ううちに、自然と歩調が揃うようになっていたから不思議だ。
 陽の光が直接当たるのを避けるため、できるだけ木陰を歩く。
「少し前にさ……」
 伝えることは随分前から整理してあった。後は頭の中で思い描いていた通りに言葉にできるかだ。
「アドバイザーの梅田さんから会員期間の終わりが近づいているって電話があったんだ」
「はい」
「二年なんてあっという間だよな……ブーケトスに入会してからずっと赤い糸をたどっていたんだけどさ、今までなかなか誰の小指に繋がっているかわからなかったんだ」
「はい」
「糸がピンと張っていたわけじゃなくて、弛んでいたり、縮れていたり、絡まっていたりしていたから」
 先程から「はい」としか言わない若槻の顔をちらりと見てみた。
 随分と緊張しているような面持ちだ。何か言いたくても言えないそんな感じかもしれない。
「でも気が付いたんだ」
 そこで俺は足を止めた。若槻もそれに倣う。そしてお互いの顔を見る。
「ひょっとすると、この糸はごく身近な人の小指に繋がっているんじゃないかって」
「それって……」と若槻が少し言葉を詰まらせる。
「私ですか?」
 その口調はとても遠慮がちだった。いかにも彼女らしい。
 俺は黙って頷き、言葉を続けた。
「若槻さんは嘘が嫌いだから、本当のことを言うけど……実はもう一人、仮交際をしている女性がいて、若槻さんと彼女のどちらを選ぼうか悩んでいたんだ」
「そうなんですか」
「うん。二人ともすごく魅力的な人だから」
「はい」
「それでいろいろ考えたんだけど、なかなか答えが出せなくて……だから余計なことを考えるのはやめて、一番大切なことを自分自身に聞いてみたんだ」
「どんなことですか?」
「明日いなくなって困るのはどっちだろうって……そうしたら若槻さんの顔が先に浮かんで来たんだ」
 もちろん、それは大袈裟な表現だ。実際は自分自身に問いかけをした時点ですでに答えは出ていた。
「俺の赤い糸。若槻さんの小指に繋がっていると思ってもいいのかな?」
我ながらキザだとは思ったが、一生を共にしたいと思う相手に捧げる言葉だ。このくらいのセリフは言ってもいいはずだ。
「はい」と笑顔で返事をくれると思っていたが、若槻は下を向いたままで、何も答えてくれなかった。
 まずい。
 ひょっとして……カッコを付け過ぎたんだろうか。これってもしかして……。
 最悪の結末が頭を過ったところで、若槻が顔を上げた。
「春見さん、右手を見せてください」
 何のことだろう。
 よくわからないが、若槻の言葉に従って、右手の掌を上にして差し出す。それに合わせて、若槻も自分の左の掌を差し出した。
「見えますか?」
「えっ……」
 若槻の言葉の意味するところが、すぐには理解できなかった。
「赤い糸です」
 そうか。そういうことか。
 彼女に言われてようやく気が付いた。自分の鈍さが我ながら情けなくなる。
「もちろん、見えるよ。お互いの小指に繋がっているのが」
 素直で、優しくて、他人に対する思いやりがある若槻。
 そんな彼女だからこそ、俺のこんな子供みたいなお芝居にも、馬鹿馬鹿しいとか気持ち悪いなんて言わずにつき合ってくれるに違いない。
「若槻さんはどう?」
 俺の問いかけに、若槻は照れ臭そうに笑って頷く。
「私にもちゃんと見えています」
 目一杯顔を赤くした若槻がとてもかわいくて、気が付いたら俺は彼女を思い切り抱き締めていた。
 
<Fin> 

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『赤い糸をたどって』 第三十三回 

赤い糸をたどって(下)

 翌週の日曜日は、松田と会う約束をしていた。彼女が「海が見たい」と言ったので、俺の車でドライブすることになった。
「海水浴はしませんけど」と、念押しされたため、残念ながら水着姿は拝めない。というより、そんなことは始めから期待していない。
 松田を、彼女の住むマンションの近くで助手席に乗せて、海を目指した。天気は快晴で、絶好の海日和だ。
「海へ行くなんて本当に久しぶりです」
 昨日は残業もほどほどに仕事を切り上げられたらしく、松田は上機嫌だった。
「いつ以来ですか?」
「さあ、思い出せないくらい前かな。春見さんは?」
「僕は最近、岬シーパークに行きました。まあ、あそこは海って言うより、湾岸ってイメージのほうが強いですけどね」
「そうですね」
「白い砂浜のある海は四、五年くらい前かな。かなり曖昧な記憶だけど」
「海水浴ですか?」
「はい。僕は泳ぎのほうは全然ダメなんで、海に浸かっているって程度でしたけど」
「でもあんなところで全力で泳ぐ人なんていないんじゃないですか?」
「それは言えてますね。松田さんは泳ぎは得意?」
「子供の頃、習っていたので、少しは」
「へえ、そうなんですか。僕も水泳は習っておけば良かったかなって後悔しています。体育の授業では苦労したので……他に何か習い事はやっていたんですか?」
「習字と算盤へ行っていました」
「じゃあ、結構習い事尽くしだったんですね。習字は僕もやっていました。まあ、今となっては、ムダだったなって言うほど下手ですけど……」
「それは私も同じです」と松田はクスクス笑った。
 その後しばらく子供時代の話に花が咲いた。

 小

 高速道路も含めて、車で走ることおよそ一時間。海に辿り着いた。
 海と言っても「海浜公園」で、所謂海水浴場の類ではない。それでも車の数は多くて、駐車場へ入るのに、少し時間が掛かった。
 公園は「緑のエリア」、「バーベキューエリア」、「遊具エリア」、「海辺のエリア」に分かれている。夏休みと言うこともあり、「バーベキューエリア」と「遊具エリア」が特に賑わっていた。二つのエリアを抜けると、海辺のエリアに出ることができた。
 スチールの階段を昇って堤防へ上がると、そこには雪のように白い砂浜と、太陽の光を反射して美しく煌めく青い海が広がっていた。
「これですよ。私が見たかったのは!」
 松田の興奮がその言葉を通してよく伝わってくる。
「波打ち際まで行ってみましょうよ」
 彼女の言葉に従って、砂浜へ下りる。立て看板に『遊泳禁止』と書いてあるにも関わらず、泳いでいる者たちがいる。それどころかサーフィンをしている者の姿さえも見える。ビーチバレーを楽しむ者、フリスビーを犬に追わせている者、静かに海を眺めている者、良い悪いは別として、皆、夏の海を満喫しているようだ。
「楽しそうですね」
 そう言う松田も「皆」のうちの一人で、優しく口元を綻ばせている。
 海には、誰もが幸せな気分になれる不思議な力があるようだ。
 小学校一、二年くらいの男の子と女の子が、裸足で俺たち二人の横をすり抜けていった。松田がその姿を見て、「気持ち良さそう」とまた目を細くする。
「僕たちも裸足になってみますか? ちょうど二人ともサンダルだし」
「でも車が汚れちゃうし」
「いいですよ。足を洗うところがあるし、タオルだって持ってますから」
「本当に?」
「はい。せっかく来たんだし、海を楽しまないと」
 松田はしばらく悩んでいる様子だったが、「じゃあ、思い切って」とサンダルを脱ぎ、砂浜に足を下ろした。
「アチッ!」
 思わず出たであろう、松田の自然で可愛らしいリアクションに吹き出す。
「あっ、笑いましたね。でも本当に熱いんですよ」
 松田に倣って俺もサンダルを脱いで、砂浜に足を置く。
「熱っ!」
「ねっ? 熱いでしょ」
「本当だ」
「でももう慣れましたよ。ほら」
 松田が波打ち際に沿ってゆっくりと歩き始めたので、俺もそれに続く。
「海にも入ってみましょうよ」 
 松田の言葉に、二人揃って潮水に足を浸す。思ったより冷たい。
「気持ちいいですね。やっぱり水着持ってきたほうが良かったかな……あっ、でも太っちゃったから新しいのを買わないとダメか。それに遊泳禁止だし」
 松田はペロリと舌を出し、自分の言葉に笑う。
 こんなに喜んでくれるのなら、連れてきた甲斐があったというものだ。

 しばらく海辺を歩いた後、砂浜に腰掛けて二人で海を眺めていた。絶え間なく吹く潮風のせいか、思っていたほど暑くはない。
「やっぱり連れて来てもらって良かったです。ありがとうございます」
 松田が丁寧に頭を下げる。
「そんな……やめて下さい。何も特別なことをしたわけじゃないんだし」
「いいえ、特別なことですよ。私、今の会社に入ってからは、休みの日は大抵家の掃除や洗濯、それと買い物をするだけで終わっていました。また明日から仕事が始まると思うと気が滅入っていたし、体のことを考えて『ゆっくりしよう』とか『早く寝よう』とか、そんなことばかり気にして、ロクに楽しめていなかったんです。それが普段の休日の過ごし方だから、今日は特別なんです」
 勿体ないことしていたんだなと、松田は悲しげに溜息をついた。その切ない表情に、思わず肩を抱き寄せたい衝動に駆られる。
 もちろん、まだそんなことはすべきじゃない。
「これから取り戻せばいいじゃないですか」
「取り戻せば……か。できますか?」
「できますよ。僕が保証します」
 松田が俺の顔をじっと見る。決して目を逸らさず、俺はそれに応える。
「春見さんがそう言ってくれるのなら、安心です」
 彼女にまた笑顔が戻った。

 小

 帰りの車の中、松田にも若槻と同じことを尋ねてみることにした。
「松田さんは結婚するなら、いつ頃だと考えているんですか?」
「それって季節のことじゃないですよね?」
「はい。例えば、いい人がいたらすぐにでもかどうかってことです」
「そうですね。すぐにでもって言いたいところですが、やっぱり仕事の引き継ぎとか、新居探しとかあると思うので、準備のための時間が必要かなとは思っています」
 若槻とほぼ同じ答え。それほど結婚を遠くに考えているようには見えない。
 結婚を前提とした交際を申し込むのに、二人の間に決定的な何かがあればと思ったのだが、残念ながらそれを見出すことはできなかった。

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『赤い糸をたどって』 第三十二回 

赤い糸をたどって(下)

 翌日、牛島が何かつまらないことを言ってくるのをある程度覚悟していたが、いい意味で予想は外れた。席に着き、「おはようございます」と挨拶をすると、薄笑いの一つもなく、「ウッス」という挨拶が返ってくるのみだった。
若槻にもそれとなく、目で問いかけてみたが、特に困惑している様子もなかった。
 少々拍子抜けしたが、とりあえずは安心だ。
 机の右端に積み上げた書類の一つを取り出して仕事に取りかかろうとすると、「そう言えば、若槻さんって」という、もう一人の女性事務員「真央ちゃん」こと遠藤の声が聞こえた。ハキハキとした口調のせいか、ボリュームも大きく感じる。
若槻が「はい」と、何の疑いも持たないような返事をする。
「春見さんとつき合っているんですか?」
 俺のシャーペンの芯がボキッと音を立てて、どこかへ飛んでいった。
「ええっ!」という声を出したのは、若槻だけでなく、事務所内にいた全員だった。ただし、遠藤と俺、そして牛島を除いてだ。
 皆の視線は若槻と遠藤の二人へと一気に注がれた。
「なっ、なんでまた、唐突に……」
 その距離十メートルほどだが、若槻の慌てぶりと顔の紅潮ぶりが手に取るようにわかった。答えは知っているが、そう言わざるを得ない。そんな感じだ。
「いや、ちょっと小耳に挟んだものですから」
 アホの牛島のことだから、「ここだけの話だけどさ」なんて、「二人によく尋ねて欲しい」という本音とは反対の念押しをしたに違いない。
「別にそんなんじゃないって……偶然会ったから一緒に見て回ろうってなっただけ」
「偶然会ったってどこでですか? やっぱり二人で一緒にいたんですね!」
 遠藤の声のトーンが上がる。そして全員のテンションも上がっているはずだ。
 もうダメだ。完全に牛島の思うつぼだ。
 俺の体温も急上昇する。
「なんだ。お前たち、つき合っていたのか。だったら教えてくれよ」
「そうだよ。そんな気配全くなかったじゃないか」
「いつからつき合ってんの?」
 四方八方から質問の矢が飛ぶ。変化に乏しい日常に飽き飽きしているのは、どいつもこいつも同じらしい。
 牛島が頬を緩めているのが、容易に想像できた。
「若槻さんって趣味悪いんですね」
 どさくさまぎれの遠藤の一言に、俺は椅子から転げ落ちそうになった。
 知らぬふりを通すつもりだったが、そうもいかなくなった。覚悟を決めて、俺はすくっと立ち上がった。
「えーっ、皆さん。お静かに」
 両手を広げて、とにかく全員を黙らせる……つもりだったが、全く効果がない。
「春見、お前も冷たいよな。こりゃ大事件だぞ」
「なんで今まで黙っていたんだ?」
 中学校か、ここは……。
 とりあえず、質問は無視して、こちらとしての弁解を始めた。
「結論から言いますと、そういう事実は全くございません。ただし、先程、若槻さんから話がございましたように、K市のショッピングモールで偶然出会い、一緒に店内を見て回ったことは事実です」
「本当に偶然か?」
「だからって一緒に回ったりするか?」
 皆、少しは落ち着き始めたものの、地味に質問は続く。
「百パーセント偶然です。お互い連れもいませんでしたし、時間に余裕もありました。それに、日頃より相手に対して特に嫌悪感を抱いているわけでもありませんし、二人で回ったところで何もいかがわしいことはないと、私は考えます。あっと、補足ですが、『嫌悪感を抱いていない』イコール『恋愛対象としての好意を持っている』とは考えないで下さい」 
「若槻留美君」と、誰かが国会答弁を真似して、若槻を指名する。よせばいいのに、若槻もそれに従って立ち上がる。
「今の春見君の言葉に嘘はないかね?」
「はい。嘘、偽りはございません」
 項垂れ、顔を赤くして小声で答える姿が見るに忍びない。
 とにかくこの事態を早く収集しなければ……。
 指名はされていないが、俺は口を挟んだ。
「遠藤さんがどなたからそのような情報を得たのかは存じ上げませんが、全てガセでございます」
 牛島の名前は敢えて出さなかった。ここで彼にしゃべらせたら、盛り上がりは最高潮に達するに違いない。
「皆さん、そういうことなので、この件に関しては以上を持ちまして終了でございます。朝から大変お騒がせいたしました。今日も一日、よろしくお願いします」
 強制的に終わらせて席に座ったが、「ちょっと待った」やら「まだ納得がいかない」などとしつこく質問を続ける輩がいた。
 そこへ「おはようさん」と低い声で挨拶をしながら、営業所長が出勤してきた。これまでの騒動が嘘のように、事務所内は一瞬にして静まり返った。いつもは厄介な存在だが、今日ばかりはその姿が神のように思えた。
 まだ一日の始まりだというのに、どっと疲れた。

 その日以降も、誰かに何かしら冷やかされるという状況が続いたが、初日ほどの騒ぎになることもなかった。
しかしちょっとしたことがキッカケでまたぶり返してくる可能性があるので、油断はできない。牛島には文句の一つでも言ってやりたい気持ちはあったが、そんなことをすれば逆に喜ぶのがあの人の性格なので、やめておいた。

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『赤い糸をたどって』 第三十一回 

赤い糸をたどって(下)

 次の日曜日は若槻と会う約束をしていた。彼女の意見で「今回は春見さんの希望に合わせます」ということになった。
 暑さも本格化してきたため、冷房のよく効いた場所にいられる映画鑑賞で決まった。ドライブを兼ねて少々遠方のショッピングモールまで行き、その中にある映画館を利用することにした。特別観たいというわけでもなかったが、俺の趣味でアクションものの洋画を選んだ。若槻も「いいですよ」と二つ返事で答えてくれ、それを拒んだりしなかった。

 結論から言うと、期待外れだった。
「かつてない壮大なスケールで」という在り来たりのキャッチコピーとはあまりにかけ離れた作品に過ぎなかった。
「イマイチだったよな?」
 俺がそう言うと、若槻も「そうですね」と、苦笑いを浮かべた。最初のデートじゃなくて良かった。映画が面白くなかったのが俺のせいではなかったとしても、その後の展開に多少なりとも影響はあるからだ。
 時刻は午後三時。帰るには早いし、夕食にも早い。
「これからどうする?」
「そうですね。せっかくモールに来たんだし、ちょっと店の中を見て回りませんか? 何を買うってわけでもないですけど、私、車持っていないし、なかなかここまで来れないんですよね」
「別にいいよ」
 出不精の若槻のことだ。彼女が言うように、わざわざ電車に乗ってまでは来ないだろう。
 服や鞄、靴などの各専門店に入って、時折、商品を手に取ってみる。言葉通り、若槻はそれ以上のことはしなかった。ブランド物には興味がないようで、軽く流す程度で終わった。
 基本的に贅沢はしない人なんだろう。
「若槻さんって、今、何か欲しい物とかってあるの?」
「買ってくれるんですか?」
「まあ、金額次第かな。車とか言われても無理だし」
「冗談ですよ。今、欲しい物と言えば、お米でパンが作れる機械かな」
「ああ、あれね。確か品薄でなかなか手に入らないんだよな?」
「販売当初はそうでした。でも今は普通に買えますよ。それにパンだけじゃなくて、お餅とかパスタ麺、そばも作れるんです」
「そうなんだ。さすが料理好き。でも買えない値段じゃないだろ?」
「まあ、そうなんですけど……なくてもいいものだし、どうしてもってわけじゃないですから。春見さんは何か欲しい物ありますか?」
「うーん。そうだな。お嫁さんかな」
 それとなく結婚を匂わせてみたが、若槻は「なるほど」と言って、少し笑っただけだった。
 
 次はインテリア雑貨の店に入った。写真立てや飾り物など、俺が尋ねることをせずとも「私こういうのが好きなんです」と、若槻は自分の趣味を教えてくれた。将来、家を買ったとき、置いてみたいと思っているのかもしれない。
 リビングをイメージして作られたスペースにある、展示と販売を兼ねたソファに、若槻はゆっくりと腰を下ろした。
「なかなかいい座り心地ですよ」
 彼女がそう言うので、俺もそれに倣う。スタンド式のポップにちらりと目をやる。若槻も俺と同じことを考えていたらしく「三万九千八百円」と、その値段を口にする。
「安いですね」
「うん。移動も楽そうだし、いいよな」
 二人揃って背もたれに上半身を預けると、お互いの肩が触れ合った。そのまま手を握ろうかなんてことが頭を過ったが、慌てて自らを止めに入った。
 さすがにそれはまだマズイ。
 しかし俺の気持ちは明らかに高揚していた。
「若槻さんに聞きたいんだけど……」
「何ですか?」と、若槻がこちらに顔を向ける。かつてないほどの近距離で、視線がぶつかる。若槻が瞬間的に顔を赤くして、あたふたと前を向く。俺まで恥ずかしくなり、同じように前を向いた。二人とも視線を正面のゴミ箱コーナーに向けたままで話を続ける。
「結婚するなら、すぐでもいいのかな?」
「えっと……そうですね。でもすぐって言っても、両親への挨拶とか式のこと、それに新居のこととかいろいろあるし、最低でも準備に一年くらいは掛かるんじゃないですか? 前にも言いましたけど、仕事はしばららく続けるつもりなので、三月は外したほうがいいかな」
「どうして?」
「ほら、三月って会社の決算じゃないですか? そんな忙しいときに私たちが結婚なんてブーイングの嵐でしょ?」
 別に「俺と結婚するなら」と尋ねたわけではないが、若槻はそれを想定した予定を話していることは明らかだった。
 これならきっと上手くいく。
 沸々と自信が湧いてくる。
「そうだよな。三月は……」
 若槻に同意しようとすると、右斜め後ろから「あれ? お前ら」という、どこかで聞いたことのある低い男の声が耳に入ってきた。
 若槻と二人、ソファから上半身を起こして声の主のほうへと振り返る。
 その男の正体を知って、血の気が引いた。恐らく若槻も同じに違いない。
 牛島だ。
「何してんだ? こんなところで……」
 選りによって、一番見つかりたくない人に見つかってしまった。
 とにかく上手く誤魔化さないと。
「買い物に来てたら、偶然ここで会ったんで一緒に回っていたんです。なあ、若槻さん」
「はい」と、若槻が小さく頷く。その頃には、二人ともソファから立ち上がっていた。若槻の顔は真っ赤だ。
 相変わらずわかり易い。
 もちろん、そうじゃなくても、牛島が「はい。そうですか」と信じるわけがない。
「どうも嘘臭いよな。一緒に見て回るだけなら、ソファに密着して座ったりするか?」
 牛島が厭らしい表情を浮かべる。
「買い物に来たら、ソファくらい座るでしょ。それに密着はしていないですよ」
「ふーん。そう見えただけかな」
 とは言いながらも、納得したようには思えなかった。
「お前たち、二人とも一人で来たのか?」
「そう言っているでしょ。偶然会ったって」
 牛島の質問に受け答えするのは俺だけで、若槻はずっと黙ったままだ。
「春見は車で来たんだよな? 若槻は?」
 まるで尋問だ。ボロが出るのをひたすら待っているのか。
「私は電車で来ました」
 彼女がペーパードライバーであることは、社内では周知の事実だ。
「電車で来るって大変だっただろ。乗り換えもそうだし、駅からも結構離れているしさ」
 郊外に建つ大型ショッピングモールであるここは、牛島の言うように電車で来るにはキツイものがある。
 これ以上突っ込んだことを聞かれる前に話を変えたほうが良さそうだ。
「牛島さんこそ一人で来たんですか? それはないか。休日は常に家族サービスって言ってましたし」
「ああ、嫁と息子と一緒に来ている」
「どこにいるんです? 挨拶くらいしておきますよ。なあ?」
 若槻は黙って頷く。顔の赤さは少しマシになっている。
「それと牛島さんが会社でどういう人なのかを詳しくお伝えしたいですし……あっ、そうそう。ご家庭での様子も是非聞いてみたいですね」
「何か引っ掛かる言い方だよな」
「そうっすか? それで、どこにいるんですか?」
 執拗に迫る俺に、牛島が慌て始めた。
「いや、いくらなんでも急なことだからな……嫁も息子も困るかもしれん。また次の機会に頼むよ」
「邪魔して悪かったな」と言い残して、牛島は人込みの中へ消えていった。
 どうにか追い払うことはできたが、百パーセント安心はできない。
「厄介な人に会っちゃったよな? こういう偶然ってあるもんなんだな。ほとんど奇跡レベルじゃないか?」
 できるだけ明るい口調を心掛けたつもりだったが、自分でもどこか動揺していることに気が付いた。
「でも同じ県内に住んでいるんだし、少なからずそういう可能性はあると思っていました」
 先程の頬の紅潮ぶりが嘘のように、冷静な意見だ。
「まあ、そうか……でもさ、一応、ここまでの電車料金と所要時間くらいは調べておいたほうがいいかもな。あの人のことだから、またいろいろと聞いてきそうだろ?」
「そうですね」
「帰りは俺が送ったことにしておこう」
「はい」と、若槻は真剣な眼差しで頷いた。
 それにしてもなぜこんなことに気を回さなくちゃならないんだろう。
 全く馬鹿馬鹿しい。

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『赤い糸をたどって』 第三十回 

赤い糸をたどって(下)

「わあ、改めて見ると大きいですね」
 目の前のそびえ立つキリンを見上げて、松田は無邪気に笑った。
 彼女がリクエストした「行きたいところ」というのは動物園だった。
 動物たちの姿を見て癒されたかったらしい。本人は、少々子供っぽいかなと思っていたようだが、俺も童心に帰って、久しぶりに行ってみたいという気持ちになった。
 美しさや幻想的な雰囲気が楽しめる水族館と違い、臭いや敷地の大きさを考えると、動物園は行く相手を選ぶ。
 そんな理由もあって、以前つき合っていた女性とは、動物園に行ったことがなかった。
 松田は本当に動物が好きらしく、何を見ても何かしらの表情を見せる。「カワイイ」と言ってみせたり、「わあっ」と驚いたり、案内板を見て「へえー」と感心したり……。
 そんな彼女を見ていると、「来て良かったな」と思える。
「やっぱり私って子供っぽいですか?」
 松田が改まった口調で尋ねてくる。
「いいえ。そんなことありませんよ。僕も動物は好きだし、結構楽しんでいます」
「それなら良かった。春見さんはどの動物が好きなんですか?」
「レッサーパンダ」
「ああー、カワイイですよね。私も好きです。でもパンダもコアラも捨てがたいです」
 彼女の表情を見ると、本気で悩んでいるように見えた。
「でも意外です。男の人って、ライオンとかトラとか、ワイルド系の動物が好きなんだと思っていました」
「そうですね。確かに見た目はカッコいいですけど、僕はやっぱり癒し系のほうが好きかな」
「それは女性のタイプもですか?」
「そうそう。社会というジャングルから帰ったらホッとしたいじゃないですか? だからやっぱりカワイらしくて、愛嬌のある人がいいです」
「私は夫にはライオンでいて欲しいし、私自身もライオンになるべきだと思っています」
「そうなんですか?」
「夫の留守中は家を守らないといけないでしょ? 癒し系じゃやっていられないですから」
「それは頼りになりそうですね」
「でも、夫の前では猫でありたいです。留守中だけですよ。ライオンに豹変するのは」
「ライオンにヒョウにもなる猫か……変幻自在ですね」
「はい」
 松田がクスクスと笑う。
 やっぱりカワイイ人だよなと、思わず口元が緩んだ。
 
 園内を歩くうちに、空いているベンチが見つかったので、休憩をとることにした。松田を先に座らせて、俺は販売機にお茶を買いに走った。
 俺の差し出すペットボトルを、松田は「ありがとうございます」と笑顔で受け取った。財布を出そうとしたので、「いいですよ」と俺は遮った。
 夏の暑さが堪え始める時期であるにもかかわらず、周りは子供連れが多かった。子供たちは皆、一様にはしゃぎ回り、どちらかと言えば、大人のほうが参っているという感じだった。
「楽しそうですよね。子供たち」
「そうですね。松田さんはきっと子供も好きなんですよね?」
「はい。好きです」
「結婚したら、子供は何人欲しいですか?」
「二人以上かな」
 松田は悩んだ様子もなく、さらりと答えた。
「やっぱり何をするにも一人より二人のほうが楽しいですからね。それに大人になってからもいろいろと助け合ったりできますし。私自身、弟がいるので、それはとても実感しています。春見さんは一人っ子ですか?」
「そうです」
「兄弟が欲しいと思ったことは?」
「子供の頃はよく思いました。特に兄が欲しかったです」
「どうしてですか?」
「兄が買ったゲームとか漫画を共有できるでしょ?」
「なるほど」と、松田は優しく微笑んだ。
 
 一通り動物たちを見終えた後、ショップに入った。
 時計を確認すると、午後四時を過ぎていた。入場したのが午後十一時だったため、三時間ほど過ごしたことになる。
 ショップと言っても、土産を渡す者もいないため、買う予定もない。店内をさっと見て終わるつもりだった。
「春見さん」
 名前を呼ばれて振り返った瞬間……。
「ムギュッ!」
 俺の顔にレッサーパンダのぬいぐるみが押し付けられた。思わず仰け反る。
 言うまでもなく、松田だった。
 その思わぬ行動に目を丸くしていると、松田はとても楽しげに笑った。
「ぬいぐるみってカワイイからつい欲しくなるんですけど、どうしてもってときに捨てられなくなるんですよね」
 尋ねてもいないのに、松田はそう言った。
「だからストラップにしようかな、記念ということで。春見さんは何も買わないんですか?」
 記念か……小谷には気持ち悪いって言われたよな。
 松田は「うーん」と唸りながら、ストラップを吟味している。コアラにするかパンダにするかで悩んでいるようだ。残念ながらレッサーパンダはない。
 ライオンのストラップを手にしてみた。
 もし彼女と結婚することになったら、これもいい思い出の品になるだろう。
 でも、そうじゃなかったら。
 ひどいフラれ方をしたら。
 いかん、いかん。こういう中高生みたいな考え方をしているから気持ち悪いなんて言われるんだ。
「ライオンにします」
「じゃあ、私はパンダにします」
 二人でレジに並び、松田のパンダのストラップと合わせて、俺が会計を済ませた。
 
 ショップの出口が動物園の出口でもあった。
 そこで松田が「さっきはゴメンなさい」と頭を下げた。
「さっきって?」
 彼女が何のことを言っているのかがわからなかった。
「レッサーパンダのぬいぐるみの件です。突然顔に押し付けちゃって」
「ああ、そのことか。別に怒ってはいませんよ。予想外の行動だったので、ちょっと驚いただけです」
「それなら良かった」と、松田が安堵の表情を見せる。
「はしゃぎ過ぎですよね、私……でもね、こんなに楽しかったのは、本当に久しぶりなんです。今の会社に入ってからは、毎日仕事ばかりで、休みの日も『疲れた、疲れた』で何もしないで終わっていたので……恋人もいたんですけど、会っても私の表情が浮かないものだから、呆れられちゃって……」
 松田が苦笑する。
「でもこんなに楽しめたのは、春見さんのおかげでもあるんです」
「僕の?」
「はい。春見さんはとても優しいし、面白いし、あまり気を使わなくてもいい人なんですよね。一緒にいて安心できるというか」
 素直に喜んでいいんだろうか。
「癒し系ってことかな?」
「そうです。癒し系です」
 そんなことを言われたのは初めてだった。
「それじゃ、また会ってくれますか?」
 毎度のことだが、こうして次の約束を取り付けるときはとても緊張する。
「はい。喜んで」
 その笑顔を見ると、松田に対してすでに特別な感情を抱いている自分に気が付いた。
 早過ぎる気がしないでもない。しかし彼女が今までブーケトスで出会ってきた……例えば遅れてきても謝ることがなかったり、恋人がいるのに結婚相手を探したり、結婚に必死になり過ぎて前がよく見えていなかったり、相手に点数をつけて評価したりするような女性たちとは明らかに違うことはよくわかる。
 真面目で前向き、他人のことを気遣い、どんなことでも純粋に喜んでくれる……若槻と同じタイプの女性だからかもしれない。

 小

 七月になり、アドバイザーの梅田から電話がかかってきた。
 事務所でコンビニ弁当を食べ終えたところだった。斜め向かいの席にはいつも通り牛島が座っているので、ケータイを持ってそっと部屋から出た。
『もしもし、春見さん? ブーケトスの梅田です』
 牛島だけでなく、会社の人間にはできるだけ聞かれたくない話なので、事務所からも出た。うだるような暑さに、一人顔をしかめてしまう。
『今、お時間大丈夫?』
「はい。どうぞ」
『あれから調子はどう? 今、三人くらい仮交際しているわよね?』
 若槻と松田、放置状態の沢口だ。
「二人とは、そこそこいい感じです」
『あら、そう? 期待してもいいのかしら』
「うーん、どうでしょうねえ。上手くいけばいいんですけど……」
『そうよね……それでね、今日、電話したのは、会員期間の終了が迫ってますって件なのよ。もちろん、春見さんも知っているわよね?』
「はい。もちろんです」
 嘘だ。すっかり忘れていた。
『今のお二人のどちらかと上手くいったらそれでいいんだけど、もし駄目だった場合、春見さんはどうしようと考えてる? 退会するか、それとも更新するか』
 できれば、今は考えたくない話だ。
「更新の場合、だいたい三十五万円でしたっけ?」
『それなんだけどね。もし来月中に更新を決めてくれたら、特別割引で三十二万円になるのよ。特典として無料パーティ券も付くわよ。ただし、三千円以下のパーティ限定だけどね』
「はあ……」
『あっ、勘違いしないで。更新って言っても予約だけでいいのよ。今の期間中にやっぱり辞めますってことになったら、ちゃんとお金は返すから安心して』
 梅田には「来月の返事でいいから」と、念押しをされて電話を終えた。
 確かにお得な情報だが、「じゃあ、更新します」というのは違う気がする。
 いくら割引の対象とはいえ、三十二万円となれば大金だ。現在の進行分と合わせると、総額で七十二万円。しかもそれで必ず結婚したいと思える……いや、思ってくれる相手に出会えるとも限らない。
 しかしその逆もある。ブーケトスに入会しなければ、これほど多くの女性には到底出会えなかったはずだ。
 今は更新するかどうかを悩むより、どうすれば残り二ヵ月半で相手を見つけられるかを考えるべきだ。はっきり言って、新しい女性からの「お受けします」を期待するのは難しいだろう。
 となると、若槻か松田のどちらかで決めたい。二人とも真面目に結婚を考えているし、今だけにとらわれず、将来のことを見据えた話のできる女性だ。
 結婚相手としては申し分ない。
 いつまでも同時進行でやっているわけにはいかない。仮交際を終わりにして、どちらかに「結婚を前提としておつき合いして下さい」と告げるべきだ。
 問題はどちらを選ぶかだ。
 一応、一人はキープしておいて……なんて、いい加減なことはしなくない。第一、俺はそんなに器用な人間じゃない。それができるくらいなら、結婚相手探しにこれ程苦労するはずがない。
 そしてどちらにするか以上の問題が、彼女たちが俺の告白を受け入れてくれるかだ。
 とにかく今はまだ決められない。少なくとも後一度ずつくらいは会ってからにしたい。

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『赤い糸をたどって』 第二十九回 

赤い糸をたどって(下)

 当日。待ち合わせ場所は直接その店だ。
 午前十時四十五分頃に『今、お店の前で待っています』と、松田からメールが届いた。
 約束は十一時なので、随分と余裕がある。
 時間にもきっちりとした人らしい。
 昨日の夜、予定通りで大丈夫かを確認すると、『はい。大丈夫です』と返事があった。ただし、その時点で時刻は午後十時過ぎで、『まだ仕事中です』と書いてあった。
 ひょっとすると、休むために必死になって仕事をこなしたのかもしれない。
 彼女に遅れること、五分。俺も店に辿り着いた。出入り口のそばにそれらしき女性がいる。とりあえず、駐車場に車を止めた。
 車から降りて、小走りで彼女に近寄り、一応名前を確認する。
「松田さんですか?」
「はい。そうです。春見さん?」
 紹介状で身長は知っていたが、思っていた以上に小柄な女性だった。顔はというと、写真より幼く見えた。彼女自身が話す仕事ぶりから、しっかりとした雰囲気を勝手に想像していたため、少々意外だった。
 昼食には少し早いためか、店内は空いており、すぐ座ることができた。
 松田はカルボナーラ、俺はペペロンチーノを注文した。
「思ったより元気そうで安心しました」
 俺がそう言うと、「えっ?」と松田は目を丸くした。
「ほら、毎日仕事が遅いですし、もっと疲れた顔をしているのかなと……」
「心配してくれていたんですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
 そこで彼女に最初の笑顔を見せてもらった。
 カワイイ人だ。
「化粧を厚めにしているから……騙されていますね。春見さん」
 ユーモアもある。
「仕事、大変そうですね。チーフでしたよね?」
「はい。チーフって言っても、ただの押し付けみたいなものです。責任ある仕事をやらせるために、建前が必要だからそう呼ばれているだけですよ」
 先程までの明るい表情が一変して、暗いものへと変わる。
「松田さんの話を聞いていたら、新しい人が入っても長続きはしないんだろうなって気がします」
「そうですね。大抵の人はすぐ辞めちゃいます」
「松田さんは辞めようと思わないんですか?」
 そこへウェイトレスが二人分のパスタを運んできた。
「とりあえず、食べながら話しましょう」
 話題を振っておいてこう言うのもなんだが、「聞くだけ」、「話すだけ」になると、空気が重くなりそうな気がしたからだ。それに料理もうまくなくなる。
「毎日辞めたいと思っています。でも私の性格上、辞めるならきっちりと区切りを付けてからって思ってしまうんです。例えば、結婚とかね。私が結婚したいのは、ひょっとすると、今の仕事から逃げるためなのかもしれませんね……なんて、こんな女と結婚したくありませんよね」
 松田はそう言って苦笑いを浮かべた。
「いいえ、そんなことは……松田さんの立場ならそう考えたって可笑しくないんじゃないですか? それでもちゃんと区切りがつくまでって考えているのは偉いですよ」
「私も悪いんです。ある程度うまく手を抜けばいいんですけど、自分のせいで配送が遅れたり、商品の数が足りなかったりすると、迷惑がかかると思って、細かいところや他の人が済ませたところまでチェックしてしまうんです。そうしているうちに時間が足りなくなって……そんな感じです」
「責任感が強いんですね」
「馬鹿なだけですよ」
「でも辞められないんでしょ?」
「はい」
「だったら、それでいいじゃないですか。松田さんみたいに真面目な人、僕は好きですよ。どんなに忙しくてもメールは必ず返してくれるし、待ち合わせの時間はちゃんと守るし、当たり前のことなんですけど、それができない人って意外と多いんだなってブーケトスに入会してわかったんです」
「そうなんですか?」と、松田が驚いた表情を見せる。
「あっ、松田さんってまだ入会して間もないんですか?」
「はい。まだ一ヶ月くらいです。こんなふうにちゃんと仮交際をしているのは、春見さんだけなんです。一番初めに紹介状が届いたのが春見さんだったので……」
 これってひょっとするとチャンスなんだろうか。
「そうだったんですね。まあ、そのうちにわかると思います。話を変えましょうか? なんだかネガティブなことを言ってしまったし……松田さん、紹介状に『理想の夫婦像は両親』って書いてありますよね? 一体どんな方なんですか?」
「そうですね……」
 松田の顔が再び明るいものへと戻った。
「とにかく仲がいいです。お互いを思いやる気持ちが見ていて伝わってくるというか……喧嘩をすることはほとんどありません。私、弟がいるんですけど、子供の頃は家族四人で買い物に行ったり、遊びに行ったり、父が休日のときは必ずどこかへ出掛けていました。私と弟が就職して家を出てからも、父と母でよく旅行に行ったりしているみたいです」
「じゃあ、本当に仲の良い夫婦なんですね」
「はい。時折、夫の退職をきっかけに離婚したり、同じ墓に入りたくないって言ったりする夫婦がいますけど、あんなのは絶対に嫌ですね」
「確かにね」と、自然に腕組みをしてしまったため、慌てて解いた。
「御両親は松田さんの結婚について何か言っているんですか? ブーケトスのことは知っているんですか?」
「ブーケトスのことはまだ知りませんけど、いい人はいないのかって聞かれることはあります」
「きっと心配なんでしょうね。夜遅くまで働いているし」
「そうですね。早く結婚して落ち着いてくれたらって思っているのかもしれません。春見さんの御両親はどんな方なんですか?」
「適度に仲良くして、適度に喧嘩してって感じですね。まあまあ、ごく普通の夫婦です」少なくとも熟年離婚や違う墓に入ることを計画しているようには見えない。
「春見さんの結婚に関しては?」
「最近、少しやかましくなりつつありますね。まあ、ブーケトスにはそうなる前から入会していたんですけどね」
「ブーケトスのことはご存じなんですか?」
「あっ、いや、そこまでは……ただ、多少なら当てがあるって大見栄切っちゃったもんですから、今、焦っているところです」
「じゃあ、しっかり頑張って婚活しないと」
 松田はそう言って、目を細くした。
「そうなんですよ……ところで、松田さんの理想の男性ってどんな人ですか?」
「理想ですか……そうですね。仕事も家庭も同じくらい大切にしてくれる人がいいです。後は、いつでも『俺に着いて来い』じゃなくて、いざってときに『俺に任せておけ』ってタイプの人かな。夫婦として同じ立ち位置にいられる関係が理想です」
 彼女も若槻と同じで、結婚に対してしっかりとした考えを持っているようだ。
「春見さんの理想はどんな人ですか?」
「常識のある人、思いやりのある人。以前誰かに尋ねられた時はそう答えたけど、もう一つ付け足したいなと思っています」
「どんなことですか?」
「結婚した後のこと、つまり将来どうありたいかを考えている人ですね」
「じゃあ、とりあえず私は合格ですね」
「はい」
 二人、声を合わせて笑った。
「松田さん、体調のほうは大丈夫ですか? とりあえず食べ終えたので、今日はこの辺りで切り上げましょうか?」
「ありがとうございます。春見さんって、優しいですね。まだ大丈夫です。せっかくなので、食後のコーヒーでも飲みましょう。あっ、春見さんは紅茶派ですか?」
「そうですね」
 ちょうど皿を下げにきたウェイトレスにコーヒーと紅茶を注文した。
「松田さんがお仕事でお疲れなのは知っているんですが、もし良かったら、次はどこかへ遊びに行きませんか?」
 言った後で少し早過ぎたかという気もしたが、彼女は間違いなく『また会いたい』と思わせる女性だ。
 松田は大して迷った様子もなく、「いいですよ」と答えてくれた。
 今のところ、悪い印象は与えていないようで、ほっとした。
「どこかリクエストとかありますか? 近くで行ける場所でもいいですよ。動き回るより、映画を見たりするほうがいいかな? フルーツテーマパークとか……そうそう。足湯とかもなかなかいいですよ」
 過去の経験が思ったより役に立つ。苦い経験でもあるが。
「そうですね……行きたいところならあるんですけど、笑わないでくれます?」
「もちろん」
「じゃあ……」

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『赤い糸をたどって』 第二十八回 

赤い糸をたどって(下)

 六月に申し込んだM子という女性から『お受けします』の返事が届いた。
 本名は松田智花。年齢は二十八歳。ルックスは、今まで実際に会った女性の中ではいいほうに入ると思う。目がくりっとしていて可愛らしい。
『はじめまして。毎日、仕事に追われ、忙しい日々を過ごしています。そのせいもあって、出会いが全くありません。素敵な人が見つかればいいなと思います。理想の夫婦像は両親。二人のようにいつまでも仲良く人生を共に歩んでいきたいです』
 印象はとても良かった。こんなふうに「両親が好きだ」と言える人に悪い者がいるわけがない。惜しみない愛情を捧げられ、大切に育てられたのだろう。そんな女性ならきっと温かな家庭を築いていけるに違いない。
 若槻とはいい感じだとは思うが、彼女のほうはいったい俺をどんなふうに見ているのかはわからない。
 今の時点で、この女性の申し込みを断ってしまうのはあまりに惜しい気がする。まだ会員期間は残されているし、会うだけ会ってみてもバチは当たらないはずだ。それに俺が彼女から気に入られるという保証はどこにもない。
「よし。お受けしよう」
 独り言を呟いて、時計で時間を確認すると、午後九時過ぎ。
 まあ、メールなら問題はないだろう。
 とりあえず、「はじめまして」から始まる挨拶メールを送った。
 十五分ほどして返事が届いた。
『はじめまして、松田です。ご連絡ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。春見さんはもうご自宅でゆっくりされていますか? 私はまだ仕事中なので、少し返信に時間が掛かるかもです。泣』
 仕事中って言ったって……。
 改めて時計で時間を確認してしまう。
 紹介状に書かれていた彼女の職業は、事務職。例えば、営業や設計、デザイナーやプログラマーといった仕事ならわからなくもない。
 こんな時間まで働く事務員なんているのか。いや、ひょっとしたら、今日は偶然、残業が長引いているだけなのかもしれない。
『まだ仕事中ですか。大変ですね。僕は今、自宅で夕食の最中です。お忙しいようなので、また時間があるときにメールしましょう。無理せずに頑張ってくださいね』
 そう書いて返事を送ると、『心配してくださってありがとうございます』と、返ってきた。なんとなく気掛かりだったが、自分で「時間があるときに」と書いた以上、そこで切り上げるしかなかった。
 
 次の日、通勤電車の中で、松田からのメールを受け取った。
『おはようございます。昨日はゴメンなさい。今、通勤電車に揺られているところです。私の会社は、仕事の量の割に従業員が少なくて、帰りは大抵、九時から十時以降です。人事の話では募集をしてはいるそうですが、なかなか人が来ないというのが実情です。当然、出会いもないので、ブーケトスに入会しました。
 春見さんのお仕事は営業と書かれていますが、何の営業ですか?』
 このメールでどことなくわかったことは、松田の仕事がクリエイティブなものだから遅くなっているのではなく、単なる人手不足で、一人一人が処理しきれない量の仕事を担っているからに違いない。
 つまりキャパオーバー。
 俺自身の仕事を説明した後で、彼女の仕事について詳しく尋ねてみた。
『物流の会社に勤めています。私の主な仕事は商品の配送手配や数量の確認、電話応対などかな。チーフという立場なので、後輩の子の面倒を見たりもしています。彼女たちを教育したり、漏れがないかをチェックしたりもするので、結構忙しいんです。
 ゴメンなさい。もうすぐ電車を降りるので、一度切り上げますね。今日一日、頑張りましょう』
 俺の読みは当たりだろう。それに見合った給料がもらえていれば、まだ救いはあるが、こういう場合、大抵安月給だ。そんな状況だから、新しい者が入ってきても長続きはせず、いつまで経っても楽にならない。

 昼休みになったので、弁当を食べ終えてから『昼食はいつもどうしていますか?』とメールを送ってみたが、一向に返事が来なかった。
 まさか飯を食う暇もないほど忙しいわけじゃないだろうなと心配していると、午後十二時五十分に返事が届いた。
『ゴメンなさい。お弁当を食べ終わってから寝ていました。ほぼ毎日、お昼休みはお弁当を食べて少し眠るようにしています。そうしないと体が持たないので……春見さんはお弁当のほうが多いのですか?』
 俺の昼飯なんてどうでもいい。休みはちゃんと取れているんだろうか。
 すぐにでも答えが欲しかったが、彼女の仕事の手を止めて、帰りを遅くさせてはまずい気がしたので、その質問は夜まで控えておいた。

 小

 松田とメールをするのは、朝の通勤時間と午後九時前後の二回。それもほんの僅かな時間だ。
 夜に関しては、毎日、「まだ仕事中です」で始まる。
 まともな話ができない状態でわかったことは、彼女が恐ろしく仕事に追われる生活を送っているということ。
 休日は日曜日と祝日のみ。一応休めてはいるが、時折、休日出勤がある。あるいは休むために、前日は必死に仕事を片付けているかだ。しかもせっかく休めても、平日にできないことを消化するだけに留まっている。
 趣味の欄に書いてあるのは、読書、映画観賞、観葉植物。ただし、まともにできているのは、観葉植物の飼育くらい。植物たちの微かな生長を知って心癒されているらしい。

「……って感じなんだ」
「それで春見さんは心配しているんですか?」
 若槻の口調がどこか冷たく感じられたのは気のせいだろうか。
「いや、まあ、まだ心配するっていうほど彼女のことも知らないけどさ……ただ、ちょっとかわいそうだなって思って……」
 他の女性会員のことは話さないつもりだったが、松田に関してはあまりに気の毒なため、つい話してしまった。
 今日は、橋添に教えてもらった洋食レストラン「ぷろヴァんす」に夕食へとやってきた。若槻は「美味しさうわのせ目玉焼きハンバーグ」を随分と気に入った様子だった。
「でも辞めたいのなら、辞めるんじゃないですか? 残っているっていうことは辞める気がないからですよ」
「そこはやっぱり、代わりが見つからないから、簡単に辞めるって言えないんじゃないかな?」
「まあね……でもそんなこと言っていたら、いつまで経っても辞められないですよ。極端な話、『いつまでに新しい人を入れて下さい。例え、入らなくても、私はそれ以降は来ませんから』くらいの勢いがいるんじゃないですか?」
 確かに若槻の言うことは、間違っていない気がする。
「彼女は真面目で責任感が強いから、中途半端で投げ出したりできないかもな」
「まるで随分前から言っているような言い方ですよね? 一週間メールしただけなのに」
「何かトゲがあるよな? もしかして怒ってる?」
「いえ、別に。怒る理由なんてどこにもないじゃないですか」
 そう言って若槻は笑顔を見せたが、やはりどこかいつもと様子が違う。
「でも春見さん、それこそ彼女が辞めるに辞められず、結婚してからも働きたいって言ったらどうするんですか?」
「働いてくれるのは有難いけど、そこまでみっちりだとキツイな……でもさすがにそのときは辞めてくれると思うけどなあ」
「そこは曖昧にせずに、ちゃんと尋ねておいたほうがいいですよ」
「そうだよな。ありがとう」
 あれ……何だか恋愛相談のようになっている。少し流れを変えたほうが良さそうだ。
「ところでさ、若槻さんは結婚したら仕事はどうするつもり?」
「しばらくは続けようかなって思っています。収入は多いに越したことはないですから……でもそれも子供ができるまでで考えています。学校から帰って、家に誰もいないってかわいそうじゃないですか?」
「そうだよな。俺としても働いてくれるのは有難いけど、やっぱり子供に寂しい思いはさせたくないって気持ちがあるもんな」
「じゃあ、これに関しては、二人ともツボが同じですね」
 若槻の声のトーンが一つ上がった気がした。

 小

 だからと言って、松田に対してただ気を使っているだけでは一向に話が前へと進まないので、「一度会ってもらえませんか」と頼んでみた。時間は昼食かお茶程度で構わない。場所もできるだけ彼女にとって都合のいいところでという条件にしておいた。
 その結果、松田の住むマンション近くのパスタの店で昼食を一緒にとることに決まった。

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『赤い糸をたどって』 第二十七回 

赤い糸をたどって(下)

 岬シーパークを出て、若槻を彼女の住むマンションの近くまで送り届けたのは、午後五時過ぎだった。
 若槻は終始笑顔で、心から今日一日を楽しんでくれたように見えた。
「若槻さん、夕食はどうする?」
 すぐに答えはもらえなかった。若槻はしばらく考えるような表情をした後、「ゴメンなさい」と申し訳なさげに口を開いた。
「せっかくなんですけど、ココアの散歩もあるし、洗濯や掃除もやっておきたいので」
「アイロンがけもあるしな」
「確かにね」と、若槻はクスッと笑った。
 実を言うと、俺自身も今の時点で充分満足していた。
「わかった。今日はありがとう」
「私のほうこそありがとうございました」
「じゃあ、また明日、会社で」
 若槻は助手席から降りようとドアを開けたところで、「あっ、そうそう」と何かを思い出したかのように俺のほうへと向き直った。
「春見さん。見栄を張るのはいいんですけど、嘘はダメですよ」
「嘘?」
 彼女が何を言っているのか、よくわからなかった。
「水族館、この前行ったばかりだったんでしょ?」
「えっ……」
 なぜわかったのだろう。
「自分で言っていましたよ。この前、別の女性会員さんと来たときは『海の人気者ショー』が見れなかったって」
 どうやら自分でも無意識のうちにしゃべってしまったらしい。体中が熱くなる。
「優しいんですね。春見さんって」
この前行ったばかりだけど、別に構わないよ。
 そう言うべきだった。
「ゴメン」
「いいんです。でもやっぱり私、嘘は嫌いだから……できればやめて欲しい。それが次も遊びに行く条件かな」
 若槻が優しく微笑む。怒ってはいないようだ。
「わかった。嘘はやめるよ」
「はい。それじゃ、次もよろしくお願いします」
 若槻はそう言って車を降り、「おやすみなさい」と頭を下げて帰っていった。
 あんなふうに胸の内をはっきりと話してくれたのは、脈ありだからと考えていいのだろうか。

 小

 次の日曜日も若槻と出掛ける約束をした。
 もちろん、若槻以外の会員への申し込みもしている。明日も若槻からお断りされないという保証はどこにもないからだ。
 今回、若槻が行きたいと言ったのは、市の運営する緑地公園で、自然の山を切り開いたものだ。入場料は無料で、掛かるのは駐車料金だけ。目を引くアトラクションもないし、土産屋もない。
 本当にそんなところでいいのかと、若槻に尋ねてみると、「それでいいんです。だって春見大地がどういう人なのかを知るのにアトラクションや派手な演出なんて必要ないですからね」
 そんな答えが返ってきた。
 尤もな意見だ。その分、誤魔化しが効かないということになり、俺にはある意味プレッシャーだ。
 目的地である「市立森の木陰公園」に到着したのは、若槻を乗せてから一時間後の午後一時半頃だった。今日は夕食を一緒にとる約束をしていたので、昼食は各自で済ませてきた。
 岬シーパークとは違い、駐車場が空くのを待つ必要もなかった。
「山道だから歩きやすい格好のほうがいいですよ」と、若槻から事前に言われていたので、スニーカーを履いてきた。若槻もジーンズにTシャツというスタイルで、背中には小さなリュックがちょこんとぶら下がっている。
 梅雨入りが近いということもあってか、どこか蒸し暑く、体を動かすのなら、水分補給が必要になりそうだ。タオルとペットボトルのお茶をボディーバッグに入れて、いざハイキングへと出発した。
『ようこそ! 森の木陰公園へ』と彫られた木製アーチを潜ると、早速、傾斜のきつい山道が始まる。
「春見さんは日頃は運動とかしているんですか?」
「いや、ほとんど……というか、全然かな」
「じゃあ、明日は筋肉痛ですね。多分」
「そんなにキツイのかな? ここ」
「運動不足の人にはそうかもしれませんね。私も来るのは初めてなんですけど、インターネットで見る限りはそんな感じでしたよ」
 話をしながら前に進んでいる間も、若槻の視線は樹木や足元に生える草花に向けられている。
「そう言う若槻さんは何か運動しているの?」
「いいえ、特には」
「なんだ、そりゃ」
「でも極力楽をしないように心掛けています。通勤電車では席に座らないとか、隣の駅にあるスーパーに歩いていくとか……まあ、スーパーの件は時折ですけど」
「それじゃ、俺よりは少しマシって程度じゃないの?」
「そんなことはないでしょ。春見さんは営業に出るとほとんど車だし」
「その代わり、ブロックとかレンガとかを運んだりもしているよ」
「それだって時折じゃないですか」
 図星だ。そんなことをするのは、商品をサンプルとして取引先に届けるとき、あるいは配送の段取りが上手くいかないときに現場へ届けるときくらい。それも営業車のライトバンに乗る程度の量なので、いくら多くても知れている。
「まあ、明日が見物だよな。二人揃って悲鳴を上げているかもしれない」
「言えてますね」
 若槻がとても楽しげに笑う。
「若槻さんって、こういうの好きなの?」
「自然が好きです。山とか川とか、そこに生えている木や花が好きです。でも今日みたいにハイキングに来ることはほとんどないです。友達も筋肉痛になるからって、なかなかつき合ってくれませんし……」
「みんな一緒だよな」
 思わずぷっと吹き出してしまった。

 十五分ほど登ったところで、「アジサイ園」に到着した。立て看板によると、三十種類以上のアジサイが植えられているらしいが、残念ながら花を咲かせているものはごく僅かだ。
「まだ早過ぎたんですかね」
 若槻は足元にあるアジサイの葉の一つに触れて、寂しげな表情を見せる。
「蕾のついているものは結構あるんだけどな」
「仕方がないですよね」
「また今度見に来るか」
「そうですね」
 さりげなく誘ったつもりだったが、拒否はされなかった。ただし、若槻のほうもさりげなく答えただけかもしれないが……。
 アジサイ園を抜けて再び山道を登る。
「春見さんは将来家を買うならマンションですか? それとも一戸建て?」
「一応、一戸建てを考えているけど……どうして?」
「私は断然一戸建てなんです」
「庭が欲しいから?」
「そうです。私、子供の頃からずっとマンション暮らしだから、庭付き一戸建てに憧れているんですよ」
 若槻とは反対に、「ずっとマンション暮らしだったので、やはりマンションがいい」という者もいる。ちなみに俺は、小学校二年生までは団地住まいで、その後、現在の実家である一戸建ての家に移り、大学を卒業するまでをそこで過ごした。
「木とか花を育てようと思っているの?」
「はい。プランターでも育てられなくはないですけど、やっぱり限界がありますから」
「大きさがってこと? それとも量?」
「種類ですね。どうせならいろんな種類のものを育てたほうが楽しいじゃないですか」
 若槻の興奮が手に取るように伝わってくる。
「それから小さな池を作って、メダカなんかも飼ってみたいです。
「メダカか」
「あっ、これは私のためだけじゃないですよ。子供たちと一緒にそういうのをやりたいんです。だから砂場とかブランコがあってもいいかもしれませんね」
 こりゃ、それなりに大きな敷地が必要だな。

 そこからまた十五分ほど登ったところで、ログハウス風の休憩所があった。ようやく一息つけると思ったが、「まだ休憩は早いですよね」という若槻の独断で、そのまま歩き続けることとなった。
 木製の歩道橋を渡って、展望デッキに辿り着いたのは、登り始めてから一時間が過ぎた頃だ。
 見渡す限り緑一色とはいかないが、そこにはやはり日頃見ることのできない美しい景色が広がっていた。
「いい眺めですね。春見さん、私たちの住んでいるところってどっちですか?」
 ぐるりと三百六十度を見回して、目印となる物を探す。
「あそこにこの前行った岬シーパークがあるだろ? そこから考えるに、あっちだな」
 俺の指差す方向へと、若槻が視線を向ける。
「あっ、なるほど。でも岬シーパークがあの大きさだったら、遥か遠くですよね」
「そうだな」
「それじゃ、あそこに見える丸いものは何かわかりますか?」
「えっと、あれは……」
 そんなふうにして、若槻と俺は、しばらく山の頂から見える街の景色を楽しんだ。
 まるで子供のように、「あれは何?」と尋ねてくる若槻を見ていると、自然と笑みが零れる。出不精で、休日を掃除や洗濯で終えていた彼女にとっては、いろんなものが新鮮なんだろう。
 ひょっとすると、男性との交際経験がないのかもしれない。
 もしそうだとしても、何ら不思議はないし、俺だって偉そうなことが言えるほど、女性とはつき合っていない。だからこそブーケトスの会員なんだと思う。
 特別ルックスがいいわけでもないし、ぱっと人を惹きつける何かがあるわけじゃない。
 俺も同じだ。
 ただ……彼女なら、きっと記念や思い出なんかも大切にしてくれそうな気がする。
「あっ、雨だ」
 そばにいる、見知らぬ人が突然声を上げた。先程までの晴天が嘘のように、空が少しずつ灰色に染まり始めていた。
「まずいな。傘、持ってくれば良かった。すぐにやめばいいけど……」
 小雨のうちに山を降りられるだろうか。
「山の天気は変わりやすいって言いますからね」
 若槻の口調は冷静だ。
 周りの者たちは、「そんなこと知っていました」と言わんばかりで、瞬く間に山頂に傘の花が咲いた。
「急いで降りるしかないか」
「大丈夫ですよ。春見さん」と、若槻はリュックの中を探り始めた。 
 もしかして……。
「じゃーん。折り畳み!」
「おおっ! 気が利くね」
 若槻が手早く傘を開く。
「アジサイの色です」
 若槻は楽しげに笑って、薄紫色の傘の下に俺を入れてくれた。ほんの少し、体が触れ合う。彼女とこんなふうに密着するのは初めてのことだったため、妙に照れ臭かった。若槻の顔をちらりと覗き見ると、頬が赤かった。
 彼女がただの同僚以上の存在になりつつあるのを、俺は確かに感じていた。

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『赤い糸をたどって』 第二十六回 

赤い糸をたどって(下)

 水族館へ行くことになったのは、五月最後の日曜日。契約期間終了までちょうど四ヶ月だ。
 水族館は以前、小谷と一緒に行った岬シーパークだ。別の水族館が良かったのだが、同スケールのものはこの近くにはない。ただ、前回はどうにも忙しなかったため、ちょうどいいと言えば、ちょうどいい。
 待ち合わせはB駅で、俺が車で迎えに行くことになっていた。目的地までおよそ一時間のドライブ。小谷の時は、彼女の都合に合わせて電車で行ったが、車だと片道三十分の短縮になる。
 B駅に着くと、若槻はすでに俺を待っていた。約束の時間の五分前だ。
 窓ガラス越しに目が合った。若槻は軽く手を振ってから、こちらへ駆け寄ってきた。
「おはようございます。お疲れ様です」
「若槻さん、会社じゃないんだからさ、お疲れ様はやめてくれよ」
「あっ、そうですね」と、若槻は頭を掻いた。ブラウスに綿のパンツと、相変わらず服装はカジュアルだが、化粧は戦闘用、耳には小さなイヤリングをしている。ちゃんとおめかしはしてくれている。
 若槻を乗せて、いざ水族館へ出発となった。
「若槻さんは、確かほとんど運転しないんだよね?」
「はい。車も持っていませんし、行動範囲は徒歩か自転車で行けるところまでが多いです。電車も使えますけど、わざわざって感じはあります。元々、出不精なんですよ。だからブーケトスに入会してからはよく出掛けるようになりました」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、ブーケトスに入会したのは若槻さんからすると、結構思い切りが必要だったんじゃないの? 婚活するとなれば、外出の機会が増えるのは必至なわけだし」
「それは意外と気にならなくて、入会を決断するのに時間はあまり掛からなかったです」
「紹介状には『このまま独身でもいいかと思っていた』って書いてあったけど、何か入会を決めたきっかけとかあるの?」
「きっかけというほどじゃないんです。ただ友達とか従姉妹とか、身近な人たちが結婚したり、子供ができたりするのを見ていたら、家族がココアだけっていうのが急に寂しくなったんです」
 若槻の入会理由が、親に無理矢理といったものではないことに安心した。いや、きっかけはそれでも構わない。問題はその後、前向きに活動するかしないかだ。
「春見さんは『在り来たりの幸せが欲しい』って書いていましたよね? 私も似たような感じかな。多くは望まないというか」
 それも若槻の言っていた「ツボが同じ」に入るんだろうか。
「それ以外にも、親を安心させたい。納得させたい。黙らせたいというのもある」
 少し乱暴な俺の言葉に、若槻はクスクスと笑った。
「随分、憎しみが籠っていますね。よく言われるんですか? 早く結婚しろとかって」
「いや、ここ最近になって急にだよ」
 俺は婚親会のことを、若槻に話して聞かせた。
「へえ、そういうのもあるんだ。お母さん、本気ですね」
「うん。思わず、結婚相手くらい自分で見つけられるって大見栄切っちゃったよ。若槻さんの両親はどう?」
「うちもこの間までは結構うるさかったですよ。それこそ婚親会なんて知っていたら、二人揃って行っていたんじゃないかな」
「どこも同じだよな」
「そうですね。でもブーケトスに入会してからは、とやかく言わなくなりました。私が自分から行動を起こしたってことで、随分安心したみたいです。まだ相手が見つかったわけでもないのにね」
「そりゃ言えてる。でもそれだっていつまでも効果はないと思うよ。またすぐに『うまくいってる?』なんて聞いてくるだろうな」
「おー、怖っ」
 若槻が両腕を抱えて、わざとらしく体を震わせる。彼女の大袈裟なリアクションに俺の口元は綻んだ。

 岬シーパークの人気ぶりは相変わらずで、やはり入場までは少し並ぶ必要があった。
「春見さん、水族館はいつ以来ですか?」
「四年、いや五年前に行ったきりかな」
 つい先日とは言わなかった。
「若槻さんは?」
「私も似たようなもんです。だから今、ちょっとテンション上がっています」
 この前の俺と完全に同じだ。
 
 入場料金の支払いを済ませてメインゲートを潜ったのは、二十分後だった。どちらかと言えば、すんなり入れたほうだろう。
 真っ先に視界に入ってくる大型水槽に、若槻がやや速足で近付いた。
「やっぱりペットショップの水槽とは違いますよね!」
 俺と若槻の感覚のツボって似ているんだろうな。きっと。
 その後、しばらく大型水槽を眺めて、日本近海の魚コーナーへと進んだ。
「スーパーの魚売り場で見慣れた魚ばっかりだけど、こうやって泳いでいる姿も新鮮だよな」
「そうですね」
「あれ? 今の気が付かなかった?」
「何がですか?」
「いや、鮮度がいいっていうのと、物珍しいっていうのを掛けて新鮮って意味だったんだけど……」
「すみません、春見さん。レベルが高過ぎてわからなかったです」
「あっ、そう……」
 本心なのか、嫌みなのかわからなくて、バツが悪かった。
 
 お次は、南国の海水生物。やはりいつ見ても綺麗で、思わずウットリする。
「やっぱり海水魚と言えば、これですよね!」
 若槻も少々興奮気味だ。
「綺麗だし、魚もカワイイのが多いし」
「でもさ、ダイビングをした人からすると、大したことないって」
 小谷のことを思い出して、少々愚痴っぽくなってしまった。それに対して若槻は「アハハハ」と明るい声で笑った。
「そんなの当たり前じゃないですか。海に潜らずに魚たちの泳ぐ姿を見られるのが水族館の魅力なんだし、比べたら気の毒ですよ」
「そうか。それもそうだな」
 当たり前過ぎることを言われて、急に恥ずかしくなった。
「もちろん、ダイビングをやってみたい気持ちはあるんですけどね」
 それなら新婚旅行で……と言おうとしたが、引かれてしまう気もしたのでやめておいた。
 深海生物コーナーと無脊椎生物のコーナーでは、さすがの若槻も「ちょっと気持ち悪いですね」と呟いた。
「でも、これも海の魅力というか、神秘的な部分の一つなんでしょうね」
 そう言って、納得したように一人何度も頷いていた。小谷と違って前向きな意見だった。

 そこで一度展示コーナーを離れ、館内にあるレストランで昼食をとることにした。入場の時と同じで、多少の待ち時間はあったが、割と早く中へと案内された。海の見える窓際の席で、防波堤を歩いたり、釣りをしたりする人の姿や港を出る船、あるいは入ってくる船が見える。白い砂浜が見えれば言うことはなかったが、これでも充分ラッキーだ。
 若槻はトマトパスタを、俺はレンコンなどが入った和風カレーを注文することにした。
「まだ半分見終わったところですけど、本当に楽しいです」
 若槻が子供のように目を細くする。
「水族館もそうですけど、こんなふうにどこかへ遊びに来ること自身久しぶりだから」  
「友達とは行かないの?」
「友達同士だと、ご飯を食べに行ったり、買い物に行ったりするほうが多いです。男友達はいないですし」
「それなら俺も同じだよ。男連中だけで集まっても飯を食うだけだ。俺以外の会員さんとは、まだどこかへ遊びに行ったりしていないの?」
 聞いてしまってから、この質問はやめておくべきだったかと後悔した。
「はい。今はまだせいぜい食事までです」
 若槻のほうは気に留めていない様子だったので安心した。
「一度会ったら、もう二度目は……って思う人が多いかな。別に理想が高いわけではないんですけどね。例えば、あまり話さない人とか、話してくれても、他の会員さんのことや会社の愚痴が多い人とか、最初の食事で一円単位まで割り勘しちゃう人とか……本当に些細なことなんですけど、それが今後、どうするのかの決め手になったりします」
「なるほどね。俺もさ、結構たくさんの女性にお断りされてきたんだけど、決め手となったのが何かまで教えてくれる人はいないんだよな。それがわかれば改めることもできるかもしれないのに。あっ、この前の人は除いてね」
「五十点しか付けてくれなかった人ですよね」
「そうそう」
 小谷のことだ。
「でも、顔が原因とか言われたらショックでしょ?」
「そのときは整形するよ」
 若槻がプッと吹き出す。
「そこまでしなくても……春見さんの気持ちはわかります。私も言ってくれたらいいのになって思うこともあるから。でもなかなか本人にハッキリとは言えないですよ。言葉でうまく言い表せない場合もあるし」
「どういうこと?」
「生理的に受け付けないとか……特に理由があるわけじゃないけど、何となく嫌だってとき」
「ああ、なるほど。感覚的な部分だよな」
「そうです。そこって指摘されたからって直せたり、変えたりできるものじゃないですから。それに文句ばっかり言っていても仕方がないし、私だって相手の人に条件を付けれるほど大した人間じゃありませんし」
 仕事以外で話をするようになってから、若槻がとてもしっかりとした考えを持った人だと知り、驚くことが多い。
「なんて、口では謙虚なように言っていますけど、実際は結構選り好みしているんですよね」
 若槻は右拳で、コツンと軽く自分の頭を小突いた。
 そこへ注文した料理が運ばれてきた。

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『赤い糸をたどって』 第二十五回 

赤い糸をたどって(下)

 数日後、俺の手元に若槻の紹介状が届いた。
 仕事ではなく、プライベイトであんなふうに落ち着いて話をしたのは、もちろん、初めてのことだった。彼女に抱いた印象は、自分でも思った以上に良かった。以前に紹介状を返却した理由は、同僚たちの目を気にしてだった。
 しかし若槻も会社の連中の面倒臭さはわかっているし、あからさまに仮交際中であることを匂わせたりはしないだろう。会社での言動にさえ注意すれば、問題ない。
 すぐにマイページへアクセスして、ブーケトスから俺の紹介状を若槻に送ってもらう手続きをした。
 
 それから三日後の夜、若槻から初めてのメールが送られてきた。
『お疲れ様です、春見さん。この度はお受けしてくれてありがとうございます。これから少しずつでいいので、お互いのことを知っていきたいですね』
 少々堅苦しい言い回しが彼女らしい。
『こちらこそよろしく』と書いて返信したが、それ以上のやり取りはなかった。
 そう言えば、若槻はあまりメールが好きではないと、他の誰かに言っているのを何度か聞いたことがある。
 話がある場合は、電話を掛けたほうがいいのかもしれない。

 翌日、出社すると、玄関のところでばったり若槻と出くわした。
 なぜだか胸が高鳴った。若槻は「おはようございます」と、はにかんだ表情で言った後、そそくさと俺から離れていった。そうなると俺も少し照れ臭かった。まだつき合っているわけでもないのに、妙な感じだった。
 俺たち二人の関係を疑う者なんていない気がした。それほど自然に元の状態を保っていたのだ。

 午後九時。マンションへ帰った俺は、若槻に電話を掛けた。次の約束を取り付けるためだ。
 外回りの途中で、事務所にいる若槻に電話をするのとは違い、どこか緊張感がある。
 コール音がしばらく続いた後、留守電に切り替わった。仕方がないので、「用件はメールで送ります」とメッセージを入れておいた。
 午後十時を過ぎた頃、若槻からメールで返事が届いた。
『お疲れ様です。今日は何だか変な感じでしたね。春見さんのことをできるだけ意識しないでおこうと思っていたのですが、少し緊張していました。春見さんは平気でしたか? 
 今度の日曜日の件ですが、ゴメンなさい。実は予定が一つあります。でもどこかで一緒に夕食をとるくらいなら大丈夫です』
 予定があるなら無理しなくてもいいと言いたいところだが、如何せん時間がない。せっかくなので若槻の申し出に甘えることにした。
『何が食べたい?』とメールを送ると、若槻から電話が掛かってきた。少々驚きながら通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『お疲れ様です。春見さん』
 いつもの耳触りのいい声が聞こえる。
『ゴメンなさい。私、メールあんまり好きじゃなくて……電話したほうが早いかなと思って電話しちゃいました。今更なんですけど、大丈夫ですか?』
 やっぱりそうなるよな。
「うん。大丈夫。それより若槻さんのほうこそ大丈夫なの? 予定あるんだろ?」
『はい。でも三時か四時頃までなので問題ないです。帰ってから夕食を作るのも面倒だなあって思っていたし』
「それなら良かった。若槻さんは何か食べたいものある?」
 場合によっては店探しと予約が必要だ。
『ファミレスでいいです』
「ファミレス?」
 思わず声が裏返った。
『はい。特別にいいお店とかは探さなくてもいいですよ。軽く食事でも……のつもりですし、せっかくお互いの家が近いんだから移動は少なめにして、会話に時間を使ったほうがいいじゃないですか』
 確かに若槻の言うことにも一理ある。しかし……。
「本当にそれでいいの?」
『はい。そういうお店はここぞってときにいけばいいと思うし、お金も掛かるし』
「食事代くらい俺が出すよ」
『もちろん、そうしてくれると嬉しいんですけど、私が言っているのは……何て言うのかな……無理しない春見さんが見たいんです』
「無理しない俺?」
『そう。もっとありのままで。例えば、チキンラーメンが好きならそれでいいんです。若い恋人同士なら相手の前でカッコつけたいとかも必要でしょうけど、私たちは結婚したい人を探しているんだし。だから私は普段の春見さんの姿を知りたいんです。私の言っていること、ちゃんと伝わっているかな?』
「えーっと、要するに……結婚したらそんなに頻繁に外食に行けるわけじゃないんだから、もっと日頃食べているようなものでいいってことだよな?」
『ちょっと違いますけど、おおよそそんな感じです』
 なんだか拍子抜けしてしまったが、「二人とも知っている近所のファミレスに午後六時」ということにして電話を切った。
 まあ、毎回、高級フランス料理店に連れて行けと言われるよりは余程いいか。
 若槻の予定ってブーケトスの会員の男と会うことなんだろうか。
「この人だ」と思える人じゃない限り断るとは言っていたが、気にはなる。それでも聞かないほうがいいんだろうな。やっぱり。
 
 小

 日曜日の午後六時過ぎ。俺は近所のファミレスでドリンクバーのお茶を飲みながら若槻が来るのを待っていた。
『少し遅れそうなので、先に入っていて下さい』とメールがあった。
 始めは「そういうわけにはいかない」と思ったのだが、夕食時ということもあり、徐々に客が増えていくのがわかったため、若槻の言う通り、先に入って席を確保した。
 六時二十分になり、ようやく若槻が現れた。俺のそばへ来るなり、「大変申し訳ございません」と、何度も頭を下げた。外出から帰宅した後、ついウトウトして眠ってしまったということだった。
「もういいから座りなよ」
「ありがとうございます」と、再び申し訳なさそうな顔で一礼をして、若槻はソファに座った。化粧はちゃんと戦闘態勢のものだった。
「春見さん、注文は?」
「まだドリンクバーしか頼んでいない」
「もう決めてありますか?」
「いや」
「良かった。じゃあ、選びましょう」
 若槻はそう言って、メニューをテーブルの上に広げた。
「春見さんはいつもご飯はどうしているんですか? 事務所にいるときは大抵コンビニ弁当かカップラーメンとかですよね。夕食は?」
「昼間と一緒で、コンビニ弁当だったり、外食だったりするかな」
「自分で作ったりは?」
「週に一回するかしないか。それも簡単なものだよ」
「飽きませんか?」
「そりゃ、飽きるよ。今の会社に就職してからずっとそれだからさ。まあ、入社したての頃は、仕事量も大したことなかったから毎日自炊だったけど」
「そっか、無理もないですね」
「若槻さんは毎日、自炊しているんだろうね。趣味に料理って書いてあったし」
 そして昼食も手作り弁当だ。いつ見ても手を抜いているようには思えないきちんとしたものを持ってきている。
「はい。でもお弁当を買ったりもします。外食するにも、女性一人では入りにくいお店のほうが多いですから。あっ、そう言えば、B駅の近くにあるお弁当屋さん知っていますか? チェーン店じゃなくて、個人でやっているお店なんですけど、結構美味しいですよ。チキン南蛮がオススメです」
 B駅は、俺の住むマンションの最寄り駅の一つ隣だ。若槻はその近くに住んでいる。
「じゃあ、今度買いに行ってみるよ」
「はい。そうしてみて下さい。そろそろ注文決めましょうか?」
 二人とも先程からメニューをパラパラとめくっているだけで、ちゃんと見てはいなかった。会話を一時中断して品定めをした。
 俺はビーフステーキセット、若槻は目玉焼きハンバーグセットに決まった。
「そういや、美味しい目玉焼きハンバーグが食べれる店があるんだけど、今度行ってみる?」
「あっ、いいですね」
「ぷろヴァんすってお店の、美味しさうわのせ目玉焼きハンバーグってメニューなんだけどさ」
「名前からして美味しそうですね」
「そうそう。お店の外観もオシャレで、あそこなら女性一人でも入れるんじゃないかな」
「それは是非連れて行って欲しいですね」
「わかった。予定しておくよ」
 橋添との出会いもあながち無駄ではなかった。
「でも話を聞いていると、春見さんには料理のほうは期待できなさそうですね」
「やっぱりできないとマズいかな?」
「まあ、マズいとまでは言いませんけど、できるに越したことはないですね。例えば、私が……」
 そこで若槻が一度口を噤んだ。
「それが私とは限らないですけど……奥さんが病気をしたり、妊娠をしたりしたときに、料理ができないとキツイかなという気はしなくもないです」
 それは一理ある。わかってはいるが、なかなか練習してまでという気にはなれない。
「イマドキの婚活事情を考えると、料理が上手いことは武器だと言えそうですよね」
 アドバイザーであるはずの梅田なんかより余程いいアドバイスをくれる。
「それに一緒に作ったりしても楽しそうじゃないですか。共通の趣味とまでいかなくても、二人でできる何かがあるっていうのは夫婦円満にも繋がるんじゃないかなって、私は思います」
 明日にでも料理の入門書を買うべきだろうか。
「ただ……あんまり上手になられても、妻としての立場がなくなるので困りますけどね」
 そう言って若槻がペロリと舌を出した。そこへ注文した料理が運ばれてきた。ステーキソースとハンバーグソースのいい匂いが漂ってくる。
 若槻が手を合わせて「いただきます」と言ったので、俺も慌ててそれに倣う。まずは一口。俺はステーキ、若槻はハンバーグとそれぞれメインの料理に手を付ける。「おいしいですね」と、若槻が目を細くする。そのまま黙って食べ続けるわけにはいかないので、会話を続けた。
「若槻さんは休みの日は何をしているの?」
「ブーケトスに入会してからは会員の男性に会ったり、パーティに行ったりがほとんどです。それがないときは、掃除や洗濯をして、後はココアと遊んだり、テレビを見たり……大して何もせずに一日が終わっている感じかな。悲しいことに……」
「何人くらいと仮交際しているの?」と、またうっかり聞きそうになり、慌てて口を噤んだ。
「春見さんは何をしているんですか?」
「俺も似たようなもんかな。掃除と洗濯、水槽の水替え……あっ、後はアイロンがけ。あれってマジで面倒だよな? 思った以上に時間が掛かるしさ」
「わかる! わかる!」と若槻が右手の人差し指を振る。
「私も制服のブラウスをアイロンがけするんですけど、ついつい貯め込んじゃって……制服なんて廃止にしてくれたら楽なのに」
 若槻が口を尖らせる。
「じゃあ、二人で仲良く分担しようか?」
「それ、いいですね」
 やはり若槻と話すのは気負わなくていい。ただ、これが結婚相手として相応しいのか、それともただの話し相手として相応しいのか。そこまではわからない。今はまだ同僚の延長としてでしかない気がする。
「あのさ、今度会うときは食事じゃなくて、どこかへ遊びに行きたいなと思っているんだけど、若槻さん、希望とかある?」
「そうですね」と、若槻がナイフとフォークを置いて考え込む。
「どこでもいいですか?」
「もちろん」
「それじゃあ……」
「うん」
「水族館」
 この前、行ったばかりだとは言えなかった。

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『赤い糸をたどって』 第二十四回 

赤い糸をたどって(下)

 ゴールデンウィークが終わって最初の日曜日、ホテルで行われる「春よ、恋」という立食パーティに参加した。参加人数は男女共に十五人ずつ。時間は午前十一時から午後一時までの二時間。前回の喫茶店でのパーティの時のように順番に話していくわけではなく、「自分から積極的に相手を選んで会話する形式になっている」と、司会の女性スタッフ、橘が説明した。
 時間の関係上、全員と話せるわけではない。始めからある程度相手を絞っておく必要がある。立つ場所は決まっていないので、皆好きな位置に陣取っている。女性同士、仲が良さそうに話し込んでいる者もいる。「あんたら、女友達を探しに来たの?」と問いたくなる。
 とりあえず入口から順に女性を吟味していった。真ん中辺りまで見たところで、思わず「あっ」と声が漏れそうになった。下を向き、しおりにじっと見入っているのは若槻だった。突然、顔を上げて、キョロキョロと辺りを見渡し始める。
 俺と目が合った。俺と同じで「あっ」という声にならない声を出したように見えた。参加者一覧の中に俺の名前を見つけたに違いない。目を細くして小さく手を振ってくる。他の女性に気付かれないように、俺も軽く手を上げて返した。
「それではみなさん、最初にお話ししたい相手の方の近くへ移動して下さい」
 橘がそう言っても、皆、照れ臭さが捨てきれないらしく、なかなか動き出そうとしない。そして俺も例外なく、そのうちの一人だった。ここでぱっと行動できる奴はきっとブーケトスに入会なんてしないだろう。
「こういうときは男性が積極的に動きましょうね」
 橘の言葉で、男たちがようやく動き出す。当然の流れだが、会場で一番綺麗だと思える女性には男が数人群がった。
「希望が重なった場合は、譲り合うかジャンケンで決めて下さいね。もちろん、女性が指名して下さってもいいですよ」
 橘が笑顔でそう言った。譲り合いやジャンケンならともかく、女性に選ばれないというのは辛い。その時点で断られたようなものだ。それに断られた男から次に声を掛けられる女性も気の毒だ。
 俺はそういう競争率の高いところへは行かない。もちろん、若槻のところにも行かない。
 まずは一番近いところにいる女性を選んだ。取り立てて美人でもなければ、ブスでもない。ごくごく普通。見た目の派手さはないが、上品で落ち着いた雰囲気がある。
「お話ししてもらってもいいですか?」
 俺がそう尋ねると、「はい」と目を細くした。第一印象はとても良い。
「それでは皆さん、お相手が決まったら、自己紹介カードを交換して下さい」
 橘の言葉に従い、俺もその女性とカードを交換した。しかし女性からの最初の質問は、俺のプロフィールには全く関係ない内容だった。
「あちらの女性とお知り合いですか?」
「あちらの女性?」
「あの人ですよ」と、彼女が視線を移したその先には、若槻がいた。
「手を振っていたみたいですから」
 しまった。見られていたか。
「あっと、いいえ、前にパーティでちょっとだけお話しさせていただいた方です。結局、お互いに申し込みはしないままでした。なので、知り合いというほどではないんです。げっ、元気そうだなあ~」
「そうなんですね。まあ、二年も活動するんですから、そういうことがあっても不思議じゃないですよね。春見さんは入会されてからどのくらいですか?」
 どうにか誤魔化すことができ、そっと胸を撫で下ろした。
 その後、若槻を除く五人の女性と、それぞれ十五分ずつ話をしたが、あからさまに木で鼻を括ったような対応をされたり、ひたすらケーキを食べてこちらの話を聞いてもらえなかったりと、ロクなことにならなかった。
 そしてパーティは終わった。
 
 このまま収穫ゼロで帰りたくなかったので、まともに話ができた、初めの女性に声を掛けた。
「この後、予定とかありますか?」
 女性は目を丸くし、戸惑った様子を見せた。
「ごめんなさい。ちょっと予定があって……」
 そう言って、そそくさと逃げるように去っていった。
 彼女の目に俺はそれほど変な人間に映っていたのだろうか。
「フラれましたね」
 後ろから誰かの声が聞こえた。
 なんだと! という気持ちで振り返ると、そこには若槻がいた。
「立ち聞きしてたの?」
「まさか。会場から出てきたら、春見さんがあの人と話しているのが目に入ったんです」
 そりゃこんなところで声を掛けていたら、そうなっても仕方がないか。
「若槻さんと俺が仲良さそうに見えたらからって、断られたんだ」
「誤解もいいところですよね。前のパーティでちょっとお話ししただけの仲なのに」
「それも聞こえてた?」
「はい。小声でしたけど、聞こえていましたよ」
 嘘がバレた恥ずかしさで、顔が火照る。
「同僚だって言えばいいじゃないですか」
「それはそれで面倒なことになりそうだろ? つき合えばいいじゃないですか、とか言われたりしてさ」
「そうですよね。それは迷惑ですよね」
 若槻があははとわざとらしく笑った。
「それじゃ、私、帰りますね」
「ちょっと待って」
 背を向けて立ち去ろうとする若槻を、俺は無意識に呼び止めていた。
「迷惑っていうのは、若槻さんがってこと?」
 なぜそんなことを尋ねるんだろう。
 今まで若槻のことを避けてきたのは俺自身のはずだ。
 パーティでの収穫がまるでなかったからか。
 それとも誤解されたままでいたくなかったからか。
 俺にもはっきりとはわからなかった。
「いいえ。春見さんにとってという意味です」
「俺は……」
 胸が高鳴る。
「別に迷惑だなんて思っていないよ」
「じゃあ、どうしてパーティで話し掛けてくれなかったんですか?」
 若槻の顔が少しずつ朱色に染まっていくのがわかった。
「俺も迷惑だと思ったんだ。若槻さんにとって……」
 若槻は「私も……」と少し間をおいて、「迷惑だとは思いません」と首を横に振った。それから真面目腐った顔で、俺の目をじっと見返してきた。長い間、同じ職場にいるのに、こんなふうに向かい合うのは初めてのことだった。
「それじゃ……」
「はい」
「今からどこかでお茶でも飲んで帰らないか?」
「同僚としてですか?」
「いや、ブーケトスの会員として」
「それなら……」
 目一杯顔を赤くした若槻が優しく微笑む。
「答えはイエスです」
 
 ホテルを出た後、最寄駅のそばにある喫茶店に入った。道中も、注文を済ませてからも、お互いなかなかしゃべりだそうとはしなかった。二人ともどこか俯きがちで、目が合ってもすぐに逸らしてしまう。
 若槻はどうだかはわからないが、俺はというと、何だか急に照れ臭くなったからだ。
 黙っていても仕方がないので、適当に話題を探した。
「若槻さんって、今、何人くらいの人と仮交際しているの?」
 俺の質問に若槻が顔を上げたところで、ウェイトレスが二人分の紅茶を運んできた。テーブルにカップを置き、「ごゆっくりどうぞ」と言い残して俺たちの席を離れていった。
「あっ、ケーキとか頼まなくて良かった?」
「さっき食べましたし、今日はいいです。春見さん、そういうことは男性のほうから先に頼んでくれると、女性は頼み易いですよ」
「へえ、そういうもんなんだ。ありがとう。参考になるよ」
「さっきの仮交際に関しての質問なんですけど、春見さんっていつも女性にそんなことを聞いているんですか?」
「いや、そんなことないけど……」
 何が言いたいんだろう。
「私だからですか?」
「うーん。それも違うな」
「だったらいいんです。もしそうなら、やっぱり春見さんは私を同僚としてしか見ていないんだなと思ったんです。私たちって確かに同じ職場で働いていますけど、お互いのことを何も知らないじゃないですか? だったらもっと相応しい質問があるんじゃないかなって」
 若槻の言葉に思わず、笑みが零れた。
「そりゃ、そうだよな。若槻さんのことなら少しは知っている。いつの間にかそんなつもりになっていたんだろうな……ゴメン。失礼なこと聞いて」
 若槻が優しく微笑み、首を振る。
「別に怒ったわけじゃないです。ただ、これからどうなるかはわからないですけど、私にも他の会員さんと同じように接して欲しい。そう思っただけです。私も春見さんに対してはそうするつもりです」
「つまり断るときは容赦しませんってことだよな?」
「そうです」
「まだ申し込みもしていないうちからキツイよな」
「確かにね」と、若槻は少し笑った後、すぐに真剣な表情を浮かべた。
「でもこれだけはハッキリ言えるんですけど、例え何百人と仮交際していたとしても、『この人』だって思える人じゃなかったら、全員お断りします。だから何人と仮交際しているかはあまり関係ないですよ」
「そうか。よくわかったよ。それじゃさ、若槻さんにとって『この人だ』っていうのはどんな人なの?」
「うーん。そうですね」と、若槻は眉間に皺を寄せ、「フィーリング!」と右手の人差し指を立てた。
「フィッ、フィーリング?」
「そうですね。全て感覚です」
「随分、抽象的だな」
 まあ、多少はそういうところも必要なんだろうけど。
「というのは冗談で、ツボが全く同じ……とは言わないけど、近い人がいいかな」
「ツボって……笑いのツボ?」
「もちろん、それも一つです。でも笑いだけじゃなく、例えば、美味しいと感じるツボや楽しいと感じるツボ。怒るツボや悲しむツボ、いろんなツボが似ている人がいいな」
「なるほど、それだと一緒に暮らしていくのは楽だよな。どんなことをすれば嬉しいかもわかるし、腹が立つかもわかるから」
「そういうことです。今、春見さんと同じツボを一つ見つけました」
「えっ?」
「紅茶には角砂糖が一つってことです」
 そう言って、若槻はクスクスと笑った。
 面白い子だなと、改めて思う。
「春見さんにとって『この人だ』っていうのは、どんな人ですか?」
「在り来たりかもしれないけど、常識のある人、他人を思いやれる人……かな」
「ふーん。本当に在り来たりですね」
「でもさ、ブーケトスに入会して、その在り来たりが難しいってわかったよ」
「それはいろいろな女性と会った結果ってことですか?」
「そうだよ」
「例えば、どんな人ですか?」
 若槻が興味深そうに、身を乗り出してくる。
「遅刻しても謝らない人とか、夜中の三時にメールしてくる人とか、相手に点数を付けたりする人とか、かな」
「点数を付ける人って……春見さんは何点だったんですか?」
「五十点。いい人なんですけど、結婚相手としては微妙……だってさ」
「当たってますね」と、若槻がぷっと吹き出す。
「えー」
「今のところ、私にとっても、春見さんはその位置ですよ」
 少しがっかりした。
「やめてくれよ。若槻さんまで」
「ゴメンなさい。でも本当のことだから……真面目だし、優しいですけど、特別ルックスがいいわけでもないし、ハッキリ言って女性にモテるタイプではないですよね」
「グサッ。ハッキリ言い過ぎだよ」
 とは言いながらも、悔しいが、否定はできない。
 肩の辺りがずっしりと重くなる。
「まあ、そんなに落ち込まないで下さい。そうじゃなかったらブーケトスに入会する必要なんてないと思いますし……私だってきっと同じです。それに……」
「それに?」
「今のところはって話ですよ」
 そう念押しして、若槻はまた笑った。

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『赤い糸をたどって』 第二十三回 

赤い糸をたどって(下)

「女はもっと現実的です」
 確か沢口も同じことを言っていた。俺の考えは現実離れしていて可笑しいものなんだろうか。いや、それにしても小谷の言葉が正しかったとは思えない。他人に対する思いやりがない。
 現実的というより、機械的だ。あんな女と結婚するくらいなら、このまま独身のほうが余程マシだ。

 夜になり、小谷からメールが届いた。件名は「ありがとうございました」
 文句でも送ってきたのだろう。仮に謝られたところで、断るという気持ちが変わることはない。「こちらこそありがとうございました」くらいは書いて送り返してやるか。
 そんな気持ちでメールを開封した。
『こんばんは。春見さん。今日はどうもありがとうございました。気を悪くさせてしまい、申し訳ありません』
 思ってもいないくせに。
『言葉の選び方はまずかったと反省はしていますが、嘘を言ったとは思っていません。せっかく春見さんが決めてくれた行き先だったので、楽しみたい気持ちはあったのですが、やはり面白くありませんでした』
 お任せだと言ったくせに。だったら始めから自分で決めろよ。
『春見さんとは二度会わせていただいたのですが、いろいろ検討した結果、お断りさせてもらおうと思います。大変申し訳ありません』
 いえいえ、むしろ助かりました。
『大きなお世話ですが、今回、私が春見さんに対して感じたことをお伝えするので、今後の活動に役立てて下さい』
 いや、マジで大きなお世話です。
『結婚に関しては真面目に考えていらっしゃるようですし、会話も積極的にしてくれます。待ち合わせ時間に遅れることもないし、礼儀正しく、常識もあります。
 ただ少しロマンティストの傾向がありますね。これに関しては詳しく書く必要ないですよね。
 貯金も少ないです。後プラス百万円は欲しいですね。
 それから素直過ぎることも減点対象です。確かに私はメールが嫌いだと言いましたけど、もらうと嬉しいものなので、もっと送ってくれても良かったです。放ったらかしにされている気がして、私なんてどうでもいいんだろうなと思いました。
 今日の行き先の件も、お任せとは言いましたけど、もう少し相談して欲しかったです。失礼ですけど、あまり女心はわかっていませんね。
 以上をまとめると、春見さんの総合得点は五十点というところですね。いい人なんですけど、結婚相手としては微妙です。どうぞ、参考になさって下さい。
 短い間でしたが、ありがとうございました。小谷』
 最後まで読み終えた俺は、右手に握りしめていたケータイを天高く掲げ、床に叩きつけるようとする態勢になっていた。
 よせ。ケータイに罪はない。
 そう言い聞かせて、右手をゆっくりと下ろした。怒りに震える手で『こちらこそありがとうございました』と、一言だけ入力して返信した。
 百パーセント外れではないにしても、こういうことを送ってくる小谷の無神経さが全く理解できない。いや、そうじゃない。これは単なる腹いせに違いない。
 彼女を総合得点で評価するなら、五点以下。
「絶対に結婚したくない相手」だ。

 小


 ゴールデンウィークがやってきた。恋人でもいれば、どこかへ旅行にでも行っていただろう。しかし残念ながらそんな人はいない。
 俺にとっての初日、五月三日は実家へ帰った。
 先日、つい口にしてしまった「結婚相手の当てがある」という言葉を、母はちゃんと覚えていた。
「それ以降、例の子とはどうなの?」と、いつの間にか結婚を考える相手がいることになっていた。母の勘違いを否定しようかとも思ったが、また婚親会の話が出ると面倒なので、「順調だよ」と適当に誤魔化した。
「だったらいいけど、相手の気持ちが変わらないうちに早くプロポーズしなさいよ。あんたなんて特に顔がいいわけでもないし、稼ぎがいいわけでもないんだから」
 息子に対して随分な言いようだ。それでも否定できないところが辛い。
 
 自分への慰めのため、久しぶりに沢口にメールをしてみた。
『ゴールデンウィークですし、どこかへ遊びに行きませんか?』
 一時間ほどして、返事が来た。
『ゴールデンウィークは両親と旅行に行きます。というか、もう行っています。笑。また誘って下さい』
 確か初詣の時も同じことを言われたな。
 沢口は随分両親と仲がいいらしい。
 明日は親友たちと夕食をとることになっている。それでゴールデンウィークの予定は終わり。
 なんだかなあ……。

 小

 五月四日。午後七時前。いつもの居酒屋チェーン店に、四人で集まった。
 離婚して独身に戻った秋山は、前回とは打って変わって上機嫌で、よくしゃべった。彼がそこまで結婚生活を苦痛に感じていたとは、正直思ってもみなかった。
「いやいや、本当に改めて自由って奴を満喫しているよ」
「やっぱり独身はいいもんだろ?」
 同じように機嫌良さげに秋山の肩をポンポン叩くのは、言うまでもない。独身貴族の冬月だ。
「今までは断ることも多かったけど、これからは頻繁に遊びに行けるから誘ってくれよ。金のこともあまり気にする必要もないからさ」
「いいね! いいね!」
 ますます冬月のテンションが上がる。
「それじゃ、盆休みに温泉にでもで行くか? 昔みたいに。なあ、夏木」
「……そうだな」
 夏木は静かに頷き、ビールを飲む。秋山が調子に乗って続ける。
「結婚しているときは風俗行くのだって気が引けたけど、もう関係ねえもんな」
「よく言うよ。店に行ったら一番最初に女の子を選んでいたくせに」
「なんかトゲのある言い方だね。春見君」
「そんなことないよ。なあ、夏木」
「……そうだな」
「春見は秋山に嫉妬しているんだよ。モテるから。実はもう次がいたりするんだろ?」
 冬月が茶化すように言うと、秋山が「まあな」と得意げに頷く。軟骨の唐揚げが口から飛び出しそうになった。
 くそっ、マジだったのか。
「会社の近所にある服屋の女の子と、時折遊びに行く程度の仲にはなってる。まだつき合うところまでは行っていないけどな」
 モテる人間というのはこういうものなんだろうな。人を惹き付ける何かがある。大した努力もせずにと言えば、怒られてしまうが、事実そうだ。
人知れず、地味ではあるが必死で婚活をし、出会いの数で言えば絶対に俺のほうが多いはずなのにうまくいかない。冬月の言うように、つい嫉妬してしまう。
そんな気持ちは決して悟られてはいけないが、「そんなもん、羨ましくもなんともない」などと言うと、却ってイジられるので、そこは素直に認める。
「いいよな」と溜息混じりに呟く。
「春見。重くなるからやめろ。まあ、これでも食えよ」
 冬月がそう言って、ブリ大根の入った皿を寄越してくる。
「お前、確か彼女募集して四年だったよな?」
「三年だって。去年の年末にも言ったぞ」
「それならもうすぐ半年経つ。本当に三年か?」
「そういや、四年目に入ったかもな……って、その辺は適当でいいだろ。相手のいることだ。なかなか難しいよ」
「募集するのをやめりゃいいじゃないか」
 冬月の言葉に秋山が口を挟む。
「そりゃ、女は面倒だっていうお前はそれでいいだろうけどさ、春見は違うだろ?」
 秋山の言葉に、俺は頷く。
「春見は女としゃべりたいし、遊びにも行きたい。エッチだってしたい。夏木だってそうだろ?」
「……そうだな」
 夏木も頷く。
「しゃべりたけりゃ、会社の女の子としゃべればいいし、遊びに行きたければ誘えばいい。エッチがしたけりゃ風俗に行けばいい」
 秋山がフォローなのか、フォローじゃないのか、よくわからないことを言う。
 またいつもの展開になりつつある。
「いいか。俺が欲しいのは、ひとときの満足じゃない。何て言うかな、こう……一人の女性と永遠を分かち合いたいわけだよ。わかるか?」
 冬月がふんと鼻で笑う。
「お前、そんなにロマンティストだったっけ? この前、秋山の口から結婚生活の現実について聞かされたばかりじゃねえか。なあ、夏木?」
「……そうだな」
「まあ、待てよ。秋山の場合は……だろ? 世の中全ての夫婦がってわけじゃないよな?」
「いやいや、皆、似たようなもんだって」と秋山が手を振り、俺の前からブリ大根の皿を持っていった。
「お前、どっちの味方なんだよ」
「確かに春見の言っていることを全部否定はしない。冬月の言うひとときの満足っていうのもわかる。ただ、『コイツと一緒にいたい』とかって思えるのは、結婚するまでなんだよ。例え、続いたとしてもせいぜい一、二年ってとこかな。飽きてくるって言ったら語弊があるけど、新鮮味がなくなる。結婚しなくても、長い間、つき合ったり、一緒に過ごしていたりしたら、自然とそうなる。だろ? 夏木」
「……そうだな」
「お前、さっきから『そうだな』しか言ってないじゃないか。中途ハンパ独身貴族としての意見を聞かせてくれよ」
 俺の言葉で、ちびちびと静かにビールを飲み続けていた夏木がジョッキを持ち上げ、一気に残りを飲み干した。「ぷはあ」と大きく息を吐き出すと、微笑みを浮かべながら、俺たち三人の顔を順に見ていった。最後に目の合った冬月が「どうした?」と遠慮がちに尋ねると、夏木の口から意外な答えが返ってきた。
「俺……結婚するんだ」
 突然の告白に残りの三人全員が「えっ」という言葉を口にした。その後、しばらく沈黙があり、最初に口を開いたのは秋山だった。
「彼女とは結婚するつもりはないってことで合意していたんじゃないのか?」
「もちろん、俺もそう思っていた。でも、ある日突然言われたんだ。『やっぱりあんたと同じ名字になりたい』って……」
 つまり彼女からのプロポーズか。
「必要以上に結婚っていう制度にこだわらなくたっていいって、お前そう言っていたよな」
「その通りだよ。今でもそう思っている。したってしなくたって一緒。だったらしてもいいんじゃないかって気がしたんだ。しないことにこだわっていたわけでもないからさ」
「あんまり悩んで決めたようには見えないよな?」
 俺がそう尋ねると、夏木が清々しい表情で頷く。
「うん。例えるなら、夕食のメニューを決めるような感覚だった」
「どんな感覚なんだよ」
「今日は鍋にしようか? いいよ。みたいな感じかな?」
「随分軽いな」
 思わず笑ってしまう。
「そう。軽かったよ。秋山は結婚したら変わるっていうけど、俺のところはそうはならない気がする。今までと同じ。変わるとすれば、彼女の苗字が夏木になることくらいかな」
 しばらく静かで穏やかな時間が流れた。
 冬月が「ビール、頼むか?」と、店員呼び出しボタンを押した。
「夏木」
 俺が名前を呼ぶと、夏木は「なんだ?」と目を細くした。
 何とも幸せそうな顔をしている。
「おめでとう」
 冬月と秋山も俺に倣い、「おめでとう」と声を揃えた。「ありがとうな」と夏木は少し照れ臭そうに、それに応えた。
 冬月と秋山の表情がどこか寂しげに見えたのは気のせいだろうか。

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『赤い糸をたどって』 第二十二回 

赤い糸をたどって(下)

 夕食を済ませて風呂から上がると、ケータイのランプがチカチカと点滅していた。
『着信あり』と『新着メールあり』
 どちらも小谷からだった。
『こんばんは。春見さん。今日はありがとうございました。電話したんですけど、出られなかったので、用件のみメールで送らせてもらいますね。
 あの後、二人の方とお会いしましたが、一番印象が良かったのは春見さんでした。できればまたお会いしたいのですが、いかがでしょうか? 今度は今日のように忙しないのではなく、ゆっくりと時間を作ってどこかへ遊びに行きたいと思っています。
 メールで結構なので、お返事お願いします』
 良い連絡をもらったのに、素直に喜べなかった。後から会った二人と比べられた結果だというのが、どうにも引っ掛かる。あからさまに振るいに掛けられているような感じがして、あまり気分は良くない。
 しかし毎度のことながら、俺には後がない。もう少し様子を見てから決めてもいいだろう。
 返信ボタンを押して、『是非遊びに行きましょう』と送った。
 俺としては来週にでもと思っていたのだが、肝心の小谷の予定が詰まっていた。更に翌週の日曜日、午後一時から三時半までならどうにか空けられそうだということで、それに決まった。
「ゆっくりと時間を作ってどこかへ遊びに行きたい」と言った割には、結局、時間限定だ。しかしのんびりと順番が回ってくるのを待っている時間はない。
『行き先は春見さんにお任せします』
 ほとんどどうでもいいと思われているような対応で、少しずつ腹が立ってきた。
 いや、ひょっとすると、デートプランの上手下手を試されているのかもしれない。面接のような質問攻めをしてくるような女だ。可能性は充分にある。
 面倒くせえなあ……。
 あっ、いかんいかん。一生を共にする人を見つけるためだ。そんなことを考えるべきじゃない。
 ただ、気に入られようと必死になるのはやめておこう。「子供が何人欲しいか」と同じだ。先に無理をすれば、後で辛くなることは明らかだ。
 行ってみたいところならある。
 水族館だ。
 沢口と観た映画のワンシーンで水族館が取り上げられていたのと、観賞魚を飼うようになってから、興味の持ち方が少し変わりつつあったからだ。山上とのデートの時に提案してはみたものの、この前行ったばかりだと断られた。
 小谷はダイビングが趣味だし、俺にお任せだと言っていたので、断られることはないだろう。
 念のため、『水族館はいかがですか?』とメールしてみると、『オッケーです』と返事があった。会えるのは二時間半だし、恐らくそれだけで終了だろう。
 メールはあまり好きではないと聞いていたので、それ以降はメールを控えて、二、三日前に最終確認の電話を掛けることにした。

 小

 当日。待ち合わせは水族館「岬シーパーク」の最寄り駅。
 駅構内は、クジラやラッコといった水の中で暮らす生物のイラストや写真を使った看板、ポスターで賑わっていた。
 最後に水族館へ行ったのは、確か二十五の時。合コンで知り合った恋人と行ったきりだ。その女性とは一年半ほどつき合ったが、「好きな人ができた」と言われてフラレることになった。その「好きな人」というのも、合コンで知り合った相手だとわかったのは、それから随分と後のことだった。
 約束の時間に遅れること、三十分。ようやく小谷が姿を現した。「前の人との約束が予定より長引いてしまって……」というのが理由だった。
 そのためか、小谷の足取りは速い。遅れないようにと、俺もそれに続く。
「結構盛り上がったんですね」
「いえ、そういうわけじゃないんです。私の質問に対して、尋ねてもいないことばかりしゃべる人で……要するに話が長いんです」と、小谷は苦笑いを浮かべる。
「無口なのも困るんですけど、あまりしゃべる男も嫌ですね。春見さんも女性に対して同じでしょ?」
「そうですね。ブーケトスの会員の女性はやっぱり無口……というか、受身の人が多いので困ることもあります。ただ大阪のおばちゃんのノリで来られても辛いです。この前、パーティで話をした人は韓国ドラマにハマッているとかで、随分熱く語られてしまいました」
「それは強烈ですね」
 
 そんなことを話しているうちに、岬シーパークに到着した。
 岬シーパークは、「海水生物の館」と「淡水生物の館」の二つで成り立っていて、アシカやイルカなどの「海の人気者ショー」というのも観ることができる。
 子供連れも多いが、カップルもそれなりにいる。
 大人一人の入場料は二千三百円。小谷に限らず、とりあえずこういうものは割り勘で、奢るのは食事代のみだ。
 しばらく並んだ後に、受付窓口で入場料の支払いを済ませてメインゲートを潜ると、アジやサバ、イワシ、スズキ、ブリ、フグ、タイ、エイ、サメといったお馴染みの魚たちが混泳する大型水槽が出迎えてくれた。
「さすが、家の水槽とは違うなあ」
 久々に来た水族館ということで、俺はすっかり興奮していた。
「そんなの当たり前じゃないですか」と、対する小谷は口調も表情も完全に冷めたものだった。
「まあ、そうなんですけど……」
「さあ、次に行きましょう」
 俺としてはもう少し見ていたかったのだが、小谷はそんな心情を確かめることもせず、床に描かれた順路の矢印に従って歩き始めた。
 先程より少し小さな水槽に、カレイやヒラメ、キス、イシダイといった、同じように日本の近海に生息する魚が泳いでいた。小谷は「何も珍しくない」とでも言わんばかりに、さっと一瞥しただけで先を急ぐ。俺が遅れていると、小谷が立ち止まって、「この辺は全然珍しくないでしょ?」と笑った。ただし、目は笑っていなかった。確かに魚屋でも見れなくないものがほとんどだ。トレイや発泡スチロールに乗ったものだが……。
 次のコーナーは南国の海水生物たち。ナンヨウハギ、ニシキヤッコ、アデヤッコ、チョウチョウオ、そしてカクレクマノミが、イソギンチャクやサンゴの飾られたエメラルドグリーンの水の中で気持ち良さそうに泳ぎ回っている。
 自宅でするアクアリウムもそうだが、やはり美しさでは淡水魚は海水魚に勝てない気がする。
 思わず見とれてしまった。
「やっぱり規模が小さいですよね。春見さんも一度ダイビングをしてみたらどうですか? こんなの比べ物にならないくらい感動しますよ」
 そう言って小谷は更に先を急いだ。
 深海魚や無脊椎生物のコーナーは「気持ち悪い」と一蹴して、流された。
 その次はアザラシやアシカ、ペンギン、ラッコといった子供にも人気のカワイらしい生物たちの展示が続いた。さすがの小谷も今までよりは長く足を止めはしたものの、それほど楽しんでいるようにも見えなかった。
「少し休みましょうか?」
 あまりにハイペースで回ってきたので、そう提案してみたが、小谷は「いいえ」と首を振った。
「時間もありませんし、進みましょう」
 小谷の言葉通り、そのまま淡水生物の館へと向かった。
 世界最大の淡水魚と言われるピラルクを始めとし、デンキウナギ、アロワナ、ピラニアといった、海水魚にはない野性味溢れるその姿に男心がくすぐられた。自然と腕組みをしてしまい、ラッコで緩んだ顔がキュッと引き締まる。
 小谷は「海水に比べて水が汚く見えますね」というわけのわからない感想を残しただけだった。
 次のフロアは「日本の川」がテーマで、アユやイワナ、アマゴ、ニジマスといった国内の代表的な淡水魚とカワウソ、オオサンショウウオが展示されていた。やはり、田舎を彷彿とさせるこういう風景は心が和む。
 小谷はと言うと、「これで最後ですよね」と、とても嬉しそうな顔をしていた。この水族館の売りの一つである海の人気者ショーは、開演までの待ち時間が長いため、見送ることになった。
 そうして俺たちは岬シーパークを後にした。
「何とか時間内に一通り見ることができましたね」
 小谷の表情は満足げだ。もちろん、水族館に対してではないだろう。
「それにしても、この内容で二千三百円は高過ぎますよね」
 自分がそういう鑑賞の仕方しかしなかったくせによく言うよ。
 そこまで出掛かった言葉をグッと飲み込んだ。
「別に来たかったわけでもないのに」
 その小谷の台詞で、俺の中に確かに込み上げてくるものがあった。
 いかん。堪えるんだ。
 ボルテージの上がる自分に必死でそう言い聞かせた。
「まあ、もう二度と来ないからいいですけどね」
 吐き捨てるように言って、「アハハハ」と機嫌良さげに笑う小谷に対して、俺の忍耐力は完全に崩壊した。
「そういう言い方はないんじゃないですか?」
「えっ?」
 小谷が目を丸くする。
「一応、僕が選んだ場所ですしね」
「水族館のことを悪く言っただけで、別に春見さんを否定したわけじゃないです」
「そうですか? 僕にはそう聞こえましたけど」
「それは誤解です」
 申し訳そうなものだった小谷の表情が、いつしか険しいものへと変わりつつあった。
「もしそうだとしても、今は言うべきじゃない。ひょっとすると、二人が初めて遊びに行った思い出の場所になるかもしれないわけでしょ?」
 俺の言葉を聞いた途端、小谷が動きを止めた。二人の間に沈黙の時が流れた。しばらくすると、小谷がぷっと吹き出した。
「春見さん……女はね、もっと現実的ですよ。記念とか思い出を大切にするとかって、誰が言ったかわからないような情報を鵜呑みにしているのかもしれないですけど、実際は違いますから。少なくとも私はそうじゃないです。三十過ぎた男がそんなこと言うなんて、ハッキリ言って気持ち悪いです」
 頭の血管がドクドクとはち切れんばかりに血を送っているのがわかる。
「それなら気持ち悪くて結構です」
 これ以上、小谷と一緒にいると、自分の口からどんな言葉が出るか保証できなかったため、「失礼します」と言って、振り返りもせずにその場を後にした。

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『赤い糸をたどって』 第二十一回 

赤い糸をたどって(下)

 カフェに着くと、小谷は迷う様子もなく、一番入口に近い空いた席に腰掛けた。「どこへ座るか」なんて悩むことさえ彼女には無駄なんだろう。ウェイトレスが水を持ってくるなり、小谷は「私、ホットコーヒーで」と素早く注文を済ませる。「春見さんは?」と急かされてしまい、「メニューお願いします」と言える雰囲気ではなくなった。仕方なくホットコーヒーを頼むことにした。
「ゴメンなさいね。あまり時間がないもんだから、つい……」
「いいえ、いいんです。それにしても忙しいんですね。友達と約束ですか? それとも仕事とか?」
「違うんです。隠しても仕方がないので、ハッキリ言うと、別の会員さんと会うことになっています」
 わかっていることとは言え、それを言っちゃマズイだろ。
「気を悪くしちゃいました?」
 顔に出てしまったのか。
 慌てて顔を手で拭う。
「いえ、別に……」 
「今日は春見さんを含めて、三人とお会いすることになっています」
「それはまたハードですね」
「全然平気ですよ。できるだけ多くの人と会って結婚相手を決めようと思ってますから。それに一生を共にする人を探すんですから、少しも苦じゃないです」
 若槻と似たようなことを言う。
 何だか自分が不真面目なようにさえ思えてくる。
「ええっとそれじゃ」と、小谷は鞄からペンとノート、A4サイズのクリアファイルを取り出し、続けて中に挟んであった青い紙をテーブルの上に広げた。彼女が再びクリアファイルを鞄に仕舞う隙に、そっとその紙を覗き見た。
 まさかとは思ったが、ブーケトスの男性会員用の紹介状……それも俺のものだった。
「小谷さんって、紹介状を持ち歩いているんですか?」
「ええ。でも初めて会うときだけですよ。あっ、心配しなくても大丈夫。落したりしませんから」
 いや、そういう問題じゃなくて……うーん。この人ちょっと感覚ずれているよな。
「どうかしましたか?」
 小谷が首を傾げる。
「あっ、いいえ、何でもありません」
「そうですか。えっと……春見さんは入会してどのくらいですか?」
 それは紹介状に載っていない情報だもんな。
「一年半です」
「うわあ、もう崖っぷちですね」
 グサッ! 結構キツイ。
「そっ、そうなんですよ。何とかしないと……」
「四十万円がパーですね」
 グサッ! グサッ!
「小谷さんって結構はっきりとモノを言うタイプなんですね」
「あっ、ゴメンなさい。人にはよくキツイねって言われます」
 小谷はあははと笑う。悪気はないのだろう。きっと……うん。そうに違いない。
「小谷さんの仕事は営業ですよね。何の営業ですか?」
「食品メーカーのルート営業です」
「小谷さんなら、皆、信頼してくれるでしょう。ダメなところはダメだと言ってくれそうですし、企画なんかは自信を持って立ててくれそうな気がします。私に任せて下さい、みたいな」
「いいえ、そんなことはないですよ。失敗もよくしますし、得意先の方と喧嘩することもありますしね」
「失敗はチャレンジした結果でしょうし、喧嘩をするということはそれだけ熱意を持って取り組んだからじゃないですか?」
「ふーん」と小谷が何度も頷く。
 何か可笑しいことを言ってしまっただろうか。
「春見さんもさすが営業ですよね。口が上手です」
「本心のつもりだったんですけどね」
 俺が冗談めかして答えると、小谷が目を細くした。多少ずれているところはあるものの、彼女は賢い人のようだ。
「でも僕なんて本当、適当にやっているだけですよ」
「春見さんって確かA型ですよね?」
 小谷はそう言って、紹介状を確認する。
「そうです」
「血液型から言って、適当ってことはないでしょうね」
「いや、血液型なんて当てになるかどうか……」
「私の経験上、間違いないです。そして私はA型の人とは一番相性がいいんです」
「そうなんですか?」
「逆にB型とは全く合わないので、絶対に申し込んだり、お受けしたりはしないんです」
 この道が正しいと思い込んだら、なかなか方向転換しないタイプなんだろう。
「よく趣味が合うほうがいいって言う人がいますけど、私は相手の方の趣味なんて別に何でもいいんです」
 小谷の趣味はスキー、ダイビング、登山。俺とは対照的なアウトドア派だ。合うはずがない。
「結婚して、子供ができたりすれば、どうせ趣味に費やせる時間なんてグッと減るし、もし共通の趣味をって言うんだったら、歳をとって、子供が独立してから探してもいいんじゃないかな」
 確かに間違ってはいない。それにしても随分先のことまで考えている。
「それからお給料にもあまりこだわりません。私は結婚してからも働くつもりですし、夫の稼ぎだけで家族を養っていくっていう昔ながらのやり方は、もう通用しませんからね」
 彼女の確固たる独立心に圧倒されてしまいそうだった。楽と言えば楽だが、あまり働きぶりに期待されていないようで、男としては寂しい気もする。下手をすれば、「財布は別々で」なんてことも言いかねない。それって夫婦としてどうなんだろうか。
 小谷が先程鞄から取り出したペンとノートを手にする。
「まず……春見さんは家事の分担についてはどう考えていますか?」
 どうやら俺の答えをメモするつもりらしい。
「お互いの勤務時間と相談してだと思います。不公平がないようにするべきですね。得手不得手も考慮すべきだし」
「料理はできますか?」
「簡単なものなら。例えば、玉子焼とか、チャーハン、カレー、焼きそば、唐揚げくらい」
「玉子焼き、チャーハン、カレー、唐揚げと……」
「焼きそばが抜けてます」
「あっ、焼きそばもね……本当に簡単なものだけですね。でもできないより全然マシです」
「それはどうも」
 小谷の遠慮ない言葉に苦笑するしかなかった。
「春見さんは一人暮らしですよね?」
「そうです」
「それならオッケーです」
「どういうことですか?」
「私、一人暮らしの経験がない人はお断りするようにしているんです。生活力に乏しいイメージがあるし、始めから家事の分担ができないでしょ?」
「うーん。多少の時間があれば、すぐに覚えられると思いますけど……」
「教える時間が勿体ないですよ。仕事だって同じじゃないですか? 未経験の人より経験者を雇うほうが即戦力として期待できるでしょ?」
「はあ……」
 なぜだか責められているような気分になった。
「次の質問ですけど、両親との同居は考えていますか?」
「今のところは考えていませんけど、必要ならするつもりです。こればかりは両親と相談しないと決められないですね」
「例えば、私の両親と同居することになったらどうですか?」
「それも要相談です」
「なるほど。春見さんって正直ですね」
 すらすらとペンを走らせた後、小谷はそう言って笑った。
 褒められているんだろうか。
 小谷の質問は更に続く。
「子供は何人欲しいですか?」
「えーっと……」
 少し考え込んでいると、小谷が「ちょっと待って下さい」と、口を挟んだ。
「何でしょう?」
「できたらこの件に関しては、いい恰好をしようとか、私の考えに合わせようとか思わないで、正直に答えて下さい」
「どういうことですか?」
「子供のことって意外と難しくて、神経質にならないといけない部分なんですよ」
「そうなんですか?」
 今一つ、実感が湧かない。
「だって一人じゃどうにもならないことじゃないですか。絶対にパートナーの協力がいるでしょ? 自分が三人は欲しいと思っていても、相手は一人もいらないって言うかもしれない。そうなるとうまくいきません。結婚前は子供が好きって言っていたのに、いざとなると、あまり子供が好きじゃなかったって知らされて、離婚した人が私の友達にもいます」
 そこまでなのか。その辺りはどうにでもなると思っていた。
「それだけじゃないですよ。この問題はお互いの両親にも関係してきます。子供が結婚したら、大抵の親は孫の顔がみたいと思うものです。そこへ、実は相方が子供嫌いでとはなかなか言えませんよね? そうそう、さっき話した私の友達は、そんな男なら離婚しなさいって両親に言われたそうです」
 鳥肌が立った。どうやら軽く考え過ぎていたらしい。
「それでは改めて質問です。春見さん、ズバリ子供は何人欲しいですか? 一人もいらないと言うのなら、それでも結構です。とにかく嘘だけは付かないで下さい」
 ずっしりと重たい言葉だった。別に追い込まれる理由などないのに、息が苦しくなる。いやいや、深く考える必要などないのだ。正直に答えればいい。
「ひっ、一人か二人です」
 思わず声が上ずる。
「ファイナルアンサー?」
いつのクイズ番組なんだと思いながらも、自分の出した答えが間違っていたような気さえしてしまう。
「ファイナルアンサー」
「ざんね~ん!」
 小谷が嬉しそうに笑う。まるで外れて欲しかったみたいだ。
 しかしすぐに「冗談です」と真顔に戻った。
「私も一人か二人でいいなと思っています」
「なんだ。そうだったんですか」
 なぜかホッとする。
「三人以上になると、経済的なことや年齢的なことが気掛かりですからね」
「そうですよね」
 いつしかカラカラに乾いていた喉を潤すため、コーヒーではなく、水に口をつけた。

 その後も小谷の質問は続いた。
 家を買うならマンションか戸建てか、貯金はどのくらいあるか、勤務時間はどのくらいで、転勤の可能性はあるか、など。
 そうこうしているうちに約束の午前十一時がやってきた。
「それでは今日の面接を終了します」
「ありがとうございました」
 小谷の言葉に対し、流れで礼を言ってしまったが、「面接」とはなんなのだ。
「こちらこそありがとうございました。また連絡させてもらいますね」
 小谷はそう言いながら片付けを始め、テーブルに自分のコーヒー代を置いて、そそくさと店を出ていった。
 本当に会社の面接を受けたような気分で、妙に疲れてしまった。そのまますぐに帰る気力はなかったので、改めてアイスティーを注文した。

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『赤い糸をたどって』 第二十回 

赤い糸をたどって(上)

 若槻はわざとらしく、「はじめまして」と頭を下げてくる。「あっ、はじめまして」と俺もそれに応える。もはや気まずさのようなものはない。一応、自己紹介カードを交換する。
「まさか春見さんがブーケトスの会員だったなんて、思ってもみませんでした」
「俺だって同じだよ。だって若槻さんはまだ結婚とか考えているようには見えなかったしさ」
 本当は知っていたけどね。
「そんなこと言ったらまた牛島さんがうるさいでしょ?」
「そりゃそうだよな……若槻さんは会して長いの?」
「半年くらいです。春見さんは?」
「もうすぐ一年半」
「ええっ! じゃあ、契約期間はもう後半年ですか?」
「そうなんだよ」
 改めて指摘されると、気が重くなる。
「延長するんですか?」
「おいおい、もうダメみたいな言い方しないでくれよ」
「あっ、ゴメンなさい」と、若槻は慌てたように右手を口に当てる。
「頑張って下さいね」
 まるで人ごとだ。若槻は俺に申し込むつもりは全くないらしい。
 いつも通りの無邪気な笑顔。そこで、あることに気が付いた。
「あれ? 若槻さん……」
「どうかしました?」
「いつもと化粧が違うよな?」
 厚化粧と言えば言葉は悪いが、普段のしているかどうかがわからないような化粧とは明らかに違う。何より目元がぱっちりとしている。
「気が付きました? 私だって戦場へ行くときは戦闘態勢で行きますよ」
「ここが戦場なら、会社は何なの?」
「家からちょっと離れたショッピングモールってとこかな。多少は気を使っていますみたいな」
「近所のコンビニよりマシな程度か」
「そうそう。スッピンじゃないですからね」
 お互い顔を見合わせて笑う。
 やっぱり彼女と話すのは楽しい。
「会社でも今の化粧にしてみたらどう?」
「えー、嫌ですよ。面倒臭いもん。必要ないし」
「いや、少ないとは言え、接客することもあるわけだし」
「接客はほぼ真央ちゃんに任せているからいいじゃないですか」
 真央ちゃんというのは、昨年の四月に入社した二十歳の女の子で、カワイイというより美人の類に入る。ただし、根が真面目で気がキツイため、男連中も下手なことが言えない。若槻より遥かに扱いにくいタイプだ。
「いや、そうじゃなくて……」
「何ですか? はっきり言って下さい」
 若槻がどこかイライラとしているように見える。
 ダメ出しされると思っているんだろうか。
「カワイイなって思って……」
「えっ」と呟いて、若槻は目を丸くする。みるみるうちにその顔が赤くなっていくのがわかった。
「ありがとうございます」と下を向く。照れ隠しのためか、俺の自己紹介カードに視線を移す。
「趣味はアクアリウム……だから、あの時」
「そういう訳なんだ。映画しか書いていなかったからさ」
「あれからどうですか? うまくいっていますか?」
「うーん。微妙かな。水替えは正直面倒だし、水草は枯れるし、苔は大量に発生するしで、とてもじゃないけど、『癒してくれる』なんて言えないな」
 白井に言った嘘がバレるが、もはや隠す必要がない。
「魚を飼うだけなら簡単だけど、手入れをして、綺麗な水景を作って維持していくのはやっぱり難しいよ」
「その道のプロがいるくらいですもんね」
「そうそう。趣味はアクアリウムなんて書いちゃダメなんだろうな、きっと。若槻さんの趣味は……」
 彼女の自己紹介カードに目をやってみた。
「ええっと、ペット、お菓子作り、料理か……お菓子って何を作るの?」
「あっ、えっと、それは春見さんのアクアリウムと似たレベルです」
 若槻がペロリと舌を出す。
「始めて間もないってこと?」
「いいえ、始めたのは随分前なんですけど、すぐにやめちゃって……」
「なんだ、そういうことか」
 自己紹介カードに「ギター」と書かなくて良かった。
「私もこれと言って大した趣味がなかったから……アドバイザーさんには昔やっていたことでもいいからって言われました」
 まさか……。
「若槻さんの担当アドバイザーの人、何て名前?」
「梅田さんっていう女性の方です」
 思わず吹き出してしまった。
「俺と一緒だよ」
「そうなんですか?」
 若槻が目を丸くしたところで、「はい。そこまでです」と、宇佐美が手を挙げて席を立った。
「自己紹介カードを前の方にお返しして下さい。皆様、お疲れ様でした。本日のパーティはこれにて終了です。今回の申し込み可能人数は三名までとなっています。以前お断りした方、された方にも申し込みができますので、お間違いなく。もしいいなって思う人がいたら、この後、どこかへ行くのもありですよ。男性の方は頑張って下さいね。それでは気を付けてお帰り下さい。本日はありがとうございました」
 宇佐美はまくし立てるようにしゃべって疲れたのか、「ふうっ」と溜息をついて、再び席に座った。
 会員たちがぞろぞろと店を出ていく。俺と若槻もそれに続いた。
 店から少し離れたところで、改めて「若槻さん」と声を掛けた。
「どうかしました?」
「これからどこかでもう少し話さないか?」
 いつの間にか彼女ともっと話しがしたいという気持ちが芽生えていた。
「それはブーケトスの会員としてですか? それとも同僚としてですか?」
 若槻が顔を赤くする。
「俺にもわからないんだ。両方かな?」
「だったらお断りです」と、真顔で返された。
 正直過ぎたようだ。
 若槻がいつもの笑顔に戻る。
「なんて……冗談です。別の会員さんとこの後、待ち合わせをしているんです」
「そう……」
 なんだろう。この裏切られたような感覚は……そこまではっきり言うなんて、やっぱり俺は、彼女にとってただの同僚なんだろうな。
「ゴメンなさい」
「いや、いいんだ」
「それじゃ、お疲れ様です」
「あっ、若槻さん」
「はい」
「俺がブーケトスの会員だったってことは、会社の皆には内緒にしてもらえるかな?」
「いいですけど、どうしてですか?」
「恥ずかしいだろ? 若槻さんも」
 当然そうだろうというつもりだったが、若槻は笑って首を振る。
「私は別に恥ずかしいとは思いません」
「本当に?」
「そりゃ確かに、牛島さんとかにいろいろ詮索されるのは面倒ですけど、婚活していることやブーケトスに入会していることは恥ずかしくありません」
 実に清々しい顔をしている。その言葉に嘘はないのだろう。
「だって一生を共にする人を探しているんですから。胸を張ってもいいんじゃないですか?」
 今のは俺に対する問いかけだろうか。
 答えを返さぬうちに、若槻は「それじゃ」と俺に背を向けてその場を去っていった。
 ポツンと取り残されたような気がした。

 若槻から申し込みが来るんじゃないか。
 密かにそんな期待をしていたが、結局、それは外れた。翌日以降も、若槻の態度は今までと何ら変わりがなかった。
 他の会員からの申し込みもなく、俺から申し込んだ若槻以外の女性三人からも、全てお断りの連絡が来た。他の会員からの申し込みもなし。
 つまり今回のパーティでの収穫はゼロということだ。

 小

 四月になって申し込んだ女性のうち、一人から「お受けします」の紹介状が届いた。いよいよ期限も半年が過ぎた。そろそろ当たってもらわないと困る。
 小谷亜季。
 年齢は二十九歳。キリッとしたシャープな顔つきは、どこか気が強そうに見える。
 俺としては、遠慮してしばらくメールで話をするつもりだったが、小谷のほうが「時間が勿体ないので、会ってお話ししましょう」と、最初のメールで返事を送ってきた。日時は次の日曜日、午前十時から十一時の時間限定。しかも彼女の次の予定に合わせて、待ち合わせ場所まで指定付きだった。何だか忙しなくて落ち着かない気分だが、有難いと言えば有難い。

 約束の日が来た。
 予定が詰まっているということだったため、遅れていくのはマズイと思い、いつもより早めの十五分前に到着できるよう、待ち合わせの駅の改札を目指した。
 メールのやり取りもほぼゼロの状態で会うことになったため、小谷がどんな女性なのか、全く見当がつかない。さすがに紹介状を持ち歩くわけにはいかないので、とりあえず、隅から隅まで眺めて、詰め込める限りの情報を頭に詰め込んできたつもりだ。
 待ち合わせ場所に着くなり、後ろから「春見さんですか?」と声を掛けられた。
 小谷だ。
 俺が「そうです。春見です」と答えると、小谷は「はじめまして」と少しだけ笑って深く頭を下げた。慌てて俺もそれに倣う。
 随分前に会った高崎も美人だったが、彼女もそれに劣らぬくらいの美人だと言える。ただ、高崎のような親しみ易さがないというか、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「この近くにカフェがあるので、そこで話をしましょう」
 小谷が俺の返事も聞かずに、先に歩き始めたため、俺は慌てて彼女の横に並んだ。
 時間がないって言っていたもんな。
「何だか忙しなくてすみません。でも約束の時間より早めに来てくれたので助かりました」
 小谷は足取りを緩めることもなく、せかせかと前へ進む。
「いいえ。いいんです。僕のほうこそ早々に会ってもらえて助かります。中には『まずメル友から』なんて言う人もいますからね」
「それはヒドいなあ。大金を払ってメル友探しなんて有り得ないですもんね。私、メールってあんまり好きじゃないんです。面倒だし、電話したほうが早いでしょ?」
 随分、さばさばとした性格のようだ。

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『赤い糸をたどって』 第十九回 

赤い糸をたどって(上)

 パーティの日がやってきた。事前に郵送されてきた地図を頼りに会場へ向かった。
 とりあえず一人でもいいので、つながりを作っておきたい。
 会場である「憩い」という名の喫茶店は駅ビルの地下にあった。壁に赤いレンガタイルを張った昔ながらの造りをしていた。
 開けっぱなしのドアの内側に『本日貸し切り』の札が掛かっている。午前中は、俺の参加する二十代から三十代前半組で、午後からは三十代後半から五十代の組に別れている。
 制限時間は二時間。そこそこ時間はあるように思えるが、一対一で十人全員と話すとして、スタッフの説明やらドリンクの注文やらを考慮すると、一人の相手に割り当てられる時間は十分が限界だろう。その僅かな時間でどこまで自分をアピールできるかが勝負だ。しかし、あまりガツガツしていると思われないように気を付けなければ。そういうことは考えている以上に敏感に察知されてしまうものだ。
 開始時間の十五分前だが、入口に座るブーケトスのスタッフの女性に会員証を提示して中に入れてもらった。店内は二十人が座るといっぱいという程度の広さだ。パーティは始まっていないが、すでに前に座る相手と話をしている者もいる。こういうフライングに関しては全く問題がない。
 俺が腰掛けた席にはまだ女性は来ていない。いきなり出遅れてしまったというわけだ。
 喫茶店のスタッフに紅茶を注文して、案内状と一緒に届いた自己紹介カードを鞄から取り出した。ぼうっとしていても仕方がないので、先程入口で番号札と一緒に受け取った参加者一覧表に目を通すことにした。A4の紙を二つ切りにしたしおりに女性の名前がカタカナで五十音順に書き記してある。もちろん、女性には男性の名前を記した表が渡されている。一応、今までに申し込んだ者がいないかをチェックしてみる。パーティには、一度お断りをした、あるいはお断りされた相手に再び申し込みできるという特典がある。つまり敗者復活戦。一度断った相手とうまくいくなんて、極めてレアなケースだが、申し込みせずに紹介状を返却した場合もあるので、馬鹿にはできない。
 表の一番下に書かれた名前を見て、思わず「あっ」と声を上げそうになった。
 そこでようやく俺の前の椅子にも女性が座った。知らん顔もできないので、軽く会釈をすると、彼女も会釈を返してくれ、少しだけ笑った。格別見た目がいいわけでも、悪いわけでもなかった。
 それ以上に俺には気になることがあった。再び女性参加者の一覧表に視線を落とす。
『ワカツキ ルミ』
 十番目に確かにそう書いてある。前に座る女性に気付かれぬよう、店内をぐるりと見回す。それらしき人物はいない。
 俺の隣に、最後の男性会員が座った。
 ひょっとすると、後一人来ていないのが若槻だろうか。カタカナ表記のため、別人の可能性もある。
 違う意味で俺の胸が高鳴り始めた。
 パーティの開始時間である午前十時がやってきた。「ワカツキ ルミ」という女性はまだ現れていない。当日、急に不参加というのも珍しいことではない。そういう場合、一対一で話すところを一対二で話すことになったりする。あまりにドタキャンが多いと、男同士、女同士で話すこともあると、誰かに聞いた。
「それじゃ、お一人来られていませんけど……」と、ブーケトスのスタッフが立ち上がった。
「遅れてすみません!」
 息を切らせて店に飛び込んできたのは、紛れもなく、俺の知る「ワカツキ ルミ」こと若槻留美だった。顔を赤くして、とても慌てているのがよくわかった。
 彼女に気付かれぬよう顔を伏せていようかとも思ったが、最終的には話すことになるし、斜め前に座って気付かないほうがどうかしている。
 席に着いた若槻は、案の定俺の存在に気付き、大きく目を見開いて、「おおっ」と声にならぬ声を出した。大して動揺した様子もなく、笑顔で小さく手を振ってきた。今はとりあえず、会釈だけを返した。俺の前に座る女性が「知り合いですか?」と聞きたげに俺を見ていた。
 改めてブーケトスのスタッフが挨拶を始めた。
「皆様、こんにちは。本日は『憩いで恋して』に参加してくださり、誠にありがとうございます。私、司会を務めさせていただきます、宇佐美と申します。どうぞよろしくお願いします」
 年齢は俺より少し上だろう。自分もこれからパーティに参加するかのように楽しげに話す。
「こちらのお店はピラフが自慢のメニューだそうなので、良かったらどうぞ」というちょっとした宣伝を聞かされた後、いよいよパーティが始まった。まずは正面に座る相手と制限時間十分で話をすることになり、それぞれ自己紹介カードを交換する。カードには名前、年齢、職業、趣味、自己PRが書いてあり、それを元に話を始める。
『白井舞』
 それが俺の前に座る女性だ。年齢は三十五歳。今まで会った女性の中では一番年上だ。山上の一件もあり、年上ということに少なからず抵抗を感じていた。
「春見さんの趣味はアクアリウムですか? 素敵ですね」
「ええ、まあ」
 今はあまり触れられたくない話題だ。
「淡水魚ですか? 海水魚ですか?」
「淡水です」
「何を飼っているんですか?」
「グラミー、カージナルテトラ、後は苔対策としてオトシンクルスとヤマトヌマエビです」
「水草は?」
 まずい。この人、結構詳しいんじゃないのか。
「アマゾンソード、ミクロソリウム、ウィローモスを流木に巻き付けています」
 とりあえず覚えている物を挙げた。
「水槽の大きさは?」
「三十センチ」
「なるほど」と、白井は頷いた。
 何がなるほどなのか。
「まだ始めて間もないんですね」
 ど真ん中に投げてこられた。空振りどころか、デッドボールだ。
 若槻に聞こえやしなかったかとチラリと彼女のほうを見てみた。幸いなことに、自分の相手とのおしゃべりに夢中のようで、聞こえてはいなかったようだ。
「水槽は小さいですし、魚や水草も入門用かもしれませんが、別に始めて間もないわけじゃありません。なかなか時間が取れないので、できるだけ手間を掛けないようにしているだけです」
「そうなんですか?」
 信じていないようにも、疑っているようにも見えなかった。
「白井さんは随分と詳しそうですね。飼っているんですか?」
「いいえ」と、白井は慌てたように手を振る。
「前におつき合いしていた人が飼っていたんです。結構熱心にやっていて、家に行くと水槽がいくつも置いてあって……ちょっと引きました。でも眺めているのは好きです」
「男はハマっちゃうととことん行ってしまうところがありますから。白井さんの趣味はスポーツジムですか……どんなことしているんですか?」
「水泳がメインです。後はエアロビかな」
「どうりでスタイルがいいわけですね」
「いえいえ、これでも最近太り気味でどうしようかなって思っているんです」
 そうは言いながらも、白井はまんざらでもなさそうだ。
「お仕事もあるでしょうし、その合間を縫ってちゃんと自分磨きをしているんだから偉いですよ。派遣のお仕事って何をされているんですか?」
「今は特に何もしていないです」
「えっ?」
 思わず聞き直してしまう。
「半年前くらいに契約期間が終了して、それ以降は待機状態です。なかなかこちらの条件に合うものがなくて……」
 つまり現状は無職か。
「だってやりたくないことやっても仕方ないですし、給料が安いのも嫌ですから。そんなことないですか?」
「ええ、まあ、そうですね」
「ぼうっとしていても仕方がないからジムへ行くことにしたんです」
 白井はどこか誇らしげな表情をしている。先ほど彼女に言われた「まだ始めて間もないんですね」という言葉をそのまま返してやりたかった。
 それにしても能天気な人だ。仕事を選んでいる場合ではないと思うが。
「それにいつ結婚するかもわからないんだし、必要以上に仕事に打ち込んでも意味ないですから」
 この時点で、俺が彼女に申し込む可能性はゼロになった。
「いい仕事見つかるといいですね」
 そしてお相手も。
 嫌みを込めたつもりだったが、彼女は「ありがとうございます」と微笑んだ。
 そこで宇佐美が立ち上がり、「はい。十分が経ちましたあ~」と手を挙げた。
「自己紹介カードを相手の方に返していただいたら、男性のほうは時計回りに一つずつ席を移動して下さい。あっ、お飲み物も忘れずに持っていって下さいね」
 宇佐美の言葉に従い、ティーカップと共に席をずれる。前に座るショートヘアの女性に軽く会釈をして、腰を下ろす。この流れで行くと、若槻と話をするのは最後になる。
 例え気に入ったとしても全員に申し込みができるわけではなく、その人数はパーティの規模に依る。今日のパーティでは最大三名まで容姿や話した内容を走り書きでしおりにメモしておき、選択の基準にする。前回は解読不能で役に立たない部分もあったが……。
 とりあえず、先程話した『シライ マイ』の名前の横にはバツ印を入れておいた。

 その後も続けて別の女性と話をしたものの、「韓流にハマっています」とか、「パチンコやっています」とか、「休日は昼から一杯やっています」とか、容姿は別にして、「この人はちょっと……」という女性が多かった。
 そしていよいよ、若槻と話をすることになった。

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『赤い糸をたどって』 第十八回 

赤い糸をたどって(上)

 待ち合わせに使ったロータリーに車が到着した。
 山上が「今日はどうもありがとうございました」と笑顔を見せた。それを見ても、「もういいか」とはならなかった。
「山上さん」
「はい」
「あれはあんまりなんじゃないですか?」
「何のことですか?」
 山上は自分のしたことに対して悪気を感じている様子はない。
「僕に断りもなしに御両親と会わせたことです」
「ああ、そのことですか。あまりに突然で心の準備をする暇もなかったですね。ゴメンなさい」
「いや、そういうことじゃないんです。僕たちってまだつき合っているわけではないですよね? ブーケトスは結婚相手を……」
「ちょっと待って下さい」と、山上が俺の言葉を遮る。
「私、春見さんとは結婚を前提としておつき合いをしていると思っていました」
 なぜそういう発想になるのか。
「確かに僕は山上さんに対して良い印象を持っていました。でもまだ結婚相手として決めたというわけではありません。プロポーズどころか、本交際を申し込んでさえいませんよね?」
 山上の顔がみるみるうちに険しいものへと変わる。
「私を騙していたんですか?」
「騙す?」
 思いもよらぬ言葉に声が裏返った。
「あれほどお金に対する価値観とか両親との同居のこととか話しましたよね? 結婚式のことも話したし、温泉旅行の約束もしました」
「あれは考え方を話しただけであって、そんなに深い意味はありません。温泉旅行の件も社交辞令と言えば表現が悪い……」
 山上がキッと鋭い目で俺を見る。
「社交辞令って……春見さんってそんないい加減な気持ちで婚活しているんですか? 真面目にやっている人に失礼ですよ」
「いや、そういうわけではありません」
「それなら、両親に会ってくれと言った時点で断ってくれれば良かったでしょ?」
「あの状況では断れませんよ」
「父も母も騙したんですか? とても嬉しそうにしていたのに……私、二人に何て言えば……」
 今度は涙目になる。
 ダメだ。なぜこんなことになった。
「もし僕の態度が、山上さんの誤解を生むようなものだったのなら謝ります。ゴメンなさい」
 そうしないと納まりがつかない。
「申し訳ありませんけど、まだ山上さんとは結婚をするとかしないとか、そこまで決め切れていないんです。もう少し様子見というわけにはいきませんか?」
 山上は何も答えずに鼻を啜っている。気まずい雰囲気は変わりそうにない。
「一度考えて下さい。すみません。僕はこれで失礼します。ありがとうございました」
 半ば強引に助手席を降りて、その場を離れた。
 しばらく行ったところで振り返ってみると、山上の車はまだ同じ場所に停まったままだった。
 完全に俺が悪いような形になってしまい、正直気が重たかった。「もう少し様子見で」なんて言ったが、彼女の思い込みの激しさと結婚願望の強さにはついていけそうもない。
 うまく断ろう。

 小

 結局、その日は山上から連絡が来ることはなかった。
 日が変わり、いつもなら出勤前にメールが来るのだが、それもなかった。こちらから様子窺いのメールを送ってみようかとも思ったが、これ以上変な思い込みをされても困るのでやめておいた。
 
 山上から音沙汰がなくなって三日が過ぎた。
 ひょっとすると、すでに俺の紹介状を返却したのかもしれない。それならそれが一番いい。
 そう思っていた矢先、アドバイザーの梅田から電話が掛かってきた。営業の途中に、コンビニでお茶を買ったところだった。
『もしもし、春見さん? ブーケトスの梅田です』
「ご無沙汰しています。珍しいですね。どうかしました?」
『ちょっと話があってね。今、お時間大丈夫?』
 一体なんだろう。
「少しなら」と答えて車に乗り込んだ。
『山上栄子さんって知っているわよね?』
 思わずドキッとする。
「はい。知っています。一応、仮交際中ですけど……」
『昨日その山上さんからうちの支社にクレームの電話があったのよ』
「クレーム?」
 予想もしない言葉にケータイ電話を落しそうになった。
『そう。結婚する気のない人が会員にいるってね』
「僕のことですか?」
『心当たりある?』
 俺は、山上との間で起きた一連の出来事を梅田に話した。
『なるほど、そういうことだったのね』
「言いがかりもいいところでしょ?」
『確かにそうねと言ってあげたいけど、中にはそんなふうに勝手に盛り上がっちゃう人もいるわよ』
「本当ですか? だとしたらこれから先、ちょっと不安ですね」
『まあ、そこまでするのは特殊だけどね』
「そうですか。気を付けたほうが良さそうですね……それで僕はどうしたらいいんですか? お菓子でも持って謝りに行ったほうがいいんですか?」
『そんなことしたら余計ややこしくなるわよ。一応こちらで話し合った結果、山上さんからのお断りを受理すると同時に、春見さんには厳重注意という形にしておいたわ。さすがに強制退会まではできないから』
「助かります」と梅田に告げて、電話を切った。
 喜んだはいいが、これでまた手持ちの紹介状は沢口だけになった。
 暦は三月。会員期間は残り半年強。

 小

 三月の申し込み分に全てお断りの返事が届いた頃、母から電話が掛かってきた。正月以来、一度も実家へ顔を出していないため、久しぶりに親子揃って夕食を食べないかという話だった。しばらく会っていないのも確かだし、特にこれといった予定もなかったため、オッケーした。
 メニューは寿司と天ぷら、そしてお吸い物。寿司と言っても、近所の回転寿司のお持ち帰りだ。もちろん、奢りのため、文句は言えない。
 そう言えば、長い間、二人を外食に連れていった覚えがないことを思い出した。
 夏のボーナス次第で考えてみるか。
 食事を終えて、食卓で緑茶を啜っていると、母が「大地、ちょっといい?」と大きな封筒を持ってきて、俺の正面に座った。ソファに移動した父が、ちらりとこちらを見たのがわかった。
 察するに今日は何か特別な話があって俺を呼んだに違いない。
「実はね、竹城さんの奥さんに教えてもらったんだけど……」
 竹城さんというのは母の友達らしいが、俺はよく知らない。聞いた話によると、俺とそれほど歳の違わない息子がいるらしい。
 母が封筒から取り出したパンフレットのようなものを俺に差し出す。白い表紙に赤いバラの絵が散りばめられており、真ん中に少し控えめな大きさで「婚親会への招待状」と書いてある。
 嫌な予感がした。
「婚親会って言ってね。未婚の子供を持つ親同士がまずお見合いをして、お互いが気に入れば、次は子供同士がお見合いをする。そういう集まりなのよ」
 予想通りだ。
「それで、いい相手がいそうってわけ?」
 恐る恐る尋ねてみた。
「まだ説明会に行っただけよ。でも参加してもいいかなとは思っている。放っておいたら、あんたいつまでも動かなそうだし」
 もうすでに動いているんですけど。
「知ってる? 三十過ぎると生活環境も変わりにくくなるから、出会いもグッと減るんだって。その通りでしょ?」
 一体誰に聞いたんだ。説明会の受け売りか。
「あんたが見つけられないなら、私が相手を探してあげるから」
 母の言い方に思わずカチンと来た。
「大きなお世話だよ。結婚相手くらい自分で探すよ」
「大見栄切って、当てはあるの?」
「あるよ。少なくともゼロじゃない」
 こういうのを「売り言葉に買い言葉」って言うんだろうな。ゼロじゃないが、限りなくゼロに近い。
「そう。それなら安心だわ。ねえ、お父さん?」
 母の問いかけに、父は視線はテレビのまま、「そうだな」と答えた。興味があるのか、ないのか、どこの家庭でも大抵口喧しいのは母親のほうなんだろう。
 しばらく実家には近寄らないほうが良さそうだ。

 小

 オプションAの効果がなくなり始めていた。あれほど大量に送られてきていた紹介状も、今ではすっかり来なくなり、以前と同じ状態に戻っていた。
 かくなる上は「パーティ・イベントへの申込」しかない。ブーケトスの支社や小さな喫茶店で十数人を集めて行われる小規模なものから、有名ホテルで百人以上の参加者が集まる大規模なものまで、毎月いくつものパーティやイベントが催されている。もちろん、無料というわけにはいかない。参加料は数千円から数万円までピンキリ。
 相手の容姿がわかる点で、マイページの会員検索機能より勝負が早いため、パーティ・イベントメインで活動している者もいるらしい。言い換えれば、瞬間的にトドメを刺される可能性もあるわけで、夢を見る時間さえ与えてもらえなかったりする。容姿にイマイチ自信がない俺は、一発アウトを恐れて避けてきたが、もはやそんなことを言っている場合ではない。今となっては、むしろ時間の短縮ができて有難いというものだ。
 マイページにアクセスし、予約受付中のパーティを検索した。大人数のパーティならばチャンスは増えるが、その分ライバルも多いし、誰の印象にも残らない可能性も高い。それならば、規模の小さいパーティに参加し、限られた相手の中からいい人を探すほうが競争率も低いし、内容の濃いものになるはずだ。
 二週間後の日曜日に、男女合わせて二十人のパーティが見つかった。つまり十対十。多過ぎず少な過ぎず、手頃な人数だ。場所は喫茶店。参加費用は二千円で、ワンドリンクがサービスされる。
 ホテルのような畏まったところより、気軽に話ができそうだし、費用も安い。
 迷うことなく「参加」ボタンをクリックした。
 その後、似たような条件のパーティを探し出して、それにも参加することにした。

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『赤い糸をたどって』 第十七回 

赤い糸をたどって(上)

 橋添のスケジュールに合わせるため、結局、大した話をすることもなく、スイーツを食べただけで帰ることになった。
 ケーキ三つを一気に胃の中へ放り込んだため、少し気分が悪かった。車に乗り込み、シートベルトを締めると、思わず「おえっ」という声が出そうだった。
「橋添さんの家の近所まで送りますか? それともどこかの駅がいいですか?」
「じゃあ、F駅でお願いします。そこまで彼氏が迎えに来てくれるので」
「了解です」
 ギアをドライブに入れて、ゆっくりとブレーキから足を離した。車が十センチほど進んだところで、俺は再びブレーキを踏んだ。
「えっ、今、何て言いました?」
「F駅でお願いしますって」
「いや、その後です」
「そこまで彼氏が迎えに来てくれるので」
 やはり聞き違いではなかった。
「ちょっと待って下さい。橋添さんは彼氏がいるのに、別の男性を探しているんですか?」
「そうですけど、可笑しいですか?」
 橋添が目を丸くする。開き直りではなく、本気で俺の言っていることが理解できない様子だ。
「今の彼氏はどうするんですか? 結婚相手が見つかったらサヨナラですか?」
「そのつもりです」
 そんな就職活動みたいなことがあり得るのか。今の会社で働きながら次を探すような感覚。「次に行っても頑張れよ」と彼氏は笑顔で見送ってくれるのか。
「だって彼氏と結婚相手は違うじゃないですか。彼氏は遊びに行く場所をたくさん知っている人とか、話が面白い人とかがいいですけど、結婚相手は経済力があって、誠実で真面目な人じゃないと」
 確かに言っていることは間違っていない。しかしやっていることが正しいとも思えない。
「ブーケトスに入会していることは彼氏には内緒ですか?」
「いいえ、知っています」
 それはそれで驚きだ。
「何も言わないのですか?」
「応援してくれていますよ。早くいい人が見つかるといいねって。彼は結婚とかまだ興味がないからもう少し遊びたいって。それにフリーターですし、結婚相手としては相応しくないでしょ?」
「今の時点で別れたりはしないのですか?」
「嫌いじゃないのにまだ別れる必要なんてないじゃないですか。相手が見つかってからでも充分間に合いますよ」
 これが今時の若い子の発想なのか。やっぱり理解できない。
「あの、春木さん。そろそろ行かないと彼氏が待っているので……」
「俺は春見です」
 タイヤがキイッと鳴いて、車は前に飛び出した。
 マンションに帰ったら真っ先にお断りのメールを送ってやる。
 頭の中でそう決意していた。

 小

 翌週の日曜日は山上と温泉へ行くことになった。温泉と言っても足湯で、車で二時間程度のところの温泉街にある。料金は無料。それも一か所ではないため、ちょっとした「足湯めぐり」が楽しめるらしい。
 今回の行き先を決めたのも、やはり山上だった。
 俺のほうからも行き先をいくつか提案したのだが、前回と同様、「そこには行ったことがある」と切り捨てられた。
 そして言うまでもなく、運転も山上だ。もうどこでも好きなところへ行ってくれという気分になった。

 他の会員のことを話すのは気が引けたが、橋添の件について山上に聞いてもらった。とにかく誰かに愚痴りたかった。
「僕にはどうしても理解できなかったので、お断りをすることにしました。山上さんはどう思いますか?」
「それは私にも理解できないかな」
「そうでしょ?」
 自分の感覚が可笑しくなかったんだと知ってホッとする。
「今時の若い子って一括りにしてしまうのも良くはないですけど、やっぱり考え方や感じ方に多少のズレはあるかもしれませんね」
「山上さんもそんな経験ありですか?」
「ブーケトスで、というわけではないです。会社の女の子たちと接していると、時折そう思うんです。同僚ならともかく、結婚相手となると、さすがにキツイですよね」
「言えてるかも。最近は『離活』なんて言葉もあるくらいですから、密かに次の相手を探される可能性は充分に考えられますよね。怖い怖い」
 両腕を抱えて、体を震わせるフリをすると、山上が笑った。

 山を切り開いたドライブウェイを途中で降りると、目的の場所は「もうすぐそこだ」と山上が教えてくれた。これまでも何度か来ているらしく、全く道に迷わなかった。
 温泉街ということで、当然浴衣の客が多いのだが、俺たちのように普段着の者も少なくはない。
「あの人たちは多分、今、足湯に浸かっているところですね」
 山上が指差した方向を見ると、東屋の下で、数人が向かい合ってベンチに腰掛けている。足元まではよく見えないが、そこが足湯になっているのだろう。
 空いている有料駐車場に車を止めて、いよいよ「足湯めぐり」に繰り出した。予め、山上に聞いてサンダルとタオルは用意してきていた。近くに見える山には、未だチラホラと雪が残っており、素足だと少し堪える。俺が寒そうにしているように見えたのか、「お湯につかればすぐ温かくなりますよ」と、山上は笑った。
 しばらく歩いたところで空いている場所を見つけた。「あそこに入れてもらいましょう」と、山上は率先して見知らぬ人に声を掛けて、二人分の席を確保した。やはり今までのタイプの女性とは違うことを改めて実感した。
 先にベンチに腰掛けた山上は躊躇うこともなく、ズボンを巻くってすっと両足を湯船に入れた。俺も隣に座ってそれに倣う。熱過ぎやしないかと、少々警戒しながら、ゆっくり足を入れる。自分のビビリ加減に呆れてしまう。
 何の心配もいらなかった。それどころか、冷えた足を優しく温めてくれる、ちょうど良い湯加減だった。
 山上の話によると、近頃、足湯はとても人気で、鉄道の駅や道の駅、空港、サービスエリアなど、いろんなところに施設が増えつつあるということだ。冷え症の改善や心身のリラックス、疲労回復などの効果が期待できるうえ、全身浴よりも身体への負担が少ないのが魅力らしい。
 浸かり過ぎるのも良くないということで、十分ほどすると、別の場所へと移動した。
「どうですか? 春見さん。少しは温まりましたか?」
「はい。それに気持ちがいいです」
 たまにはこういうのも悪くないな。

 その後、いくつかの足場を回って、定食屋で昼食をとることにした。二人揃って山菜そば定食を頼んだ。かやくご飯と、デザートとして黒蜜きなこ餅がついている。
「春見さんは温泉なんてあまり行かないんですか?」
 そばに息を吹きかけて冷ましながら、山上が尋ねてくる。
「そうですね。仲のいい友人が三人いて、年に一度くらいは泊まりがけで行っていたのですが、そのうち一人が結婚してからは行かなくなりました。やっぱり家族が優先になりますから」
「他のお二人は独身?」
「はい。でも皆、仕事が忙しいようでなかなか予定が合いません」
「私も似たようなものです。それなら今度は一泊二日の温泉旅行にでも行きましょうか?」
「そうですね。そうしましょう」

 昼食を終え、少しだけ足湯めぐりの続きをやってから帰ることにした。
 腹が満たされ、いい加減で身体が温まったせいか、車の中で眠気に襲われた。
「寝てくれてもいいですよ」
 山上に悟られぬよう必死で欠伸を堪えていたつもりだが、うまくいかなかったようだ。
「いや、大丈夫です。すみません」
「気にしなくていいですよ。春見さんはお仕事の帰りも遅いですし、疲れていらっしゃるんでしょう」
 何とも情けない話だ。しかしこのまま眠気を堪えて欠伸ばかりするのも印象が悪い。
「じゃあ、お言葉に甘えて五分だけ。五分経ったら起こして下さい」
「わかりました」
 緊張の糸がプツリと切れてしまったのか、目を閉じるとあっという間に眠りの世界へと落ちていった。

 小

「春見さん」
 体を揺すられて、目を覚ました。五分だけとはいえ、随分頭がすっきりとした。
 今、どの辺りだろうと、窓の外へ視線を移した途端、思いもしない光景に息を飲んだ。
 どこかの家の駐車場に車が止まっているのだ。それに俺が眠り始めた頃に比べると、辺りが薄暗い。どうやら俺の睡眠時間は五分なんてものではなかったらしい。
「山上さん、ここはどこですか?」
「私の実家です」
「実家……」
「近くを通ったので、寄ったんです」
 いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃない。
「父と母が春見さんに会いたいって言っているので、会ってもらえますか?」
 まさかの展開になりつつあった。サイドミラーを覗くと、玄関前に立つ、山上の母親らしき女性の姿が見えた。この状況で「嫌だ」と言うのはなかなか勇気がいる。
「わかりました。でもさすがに長居はできないので、少しだけです」
 これが俺にできる、せめてもの抵抗だ。
 車を降りて、玄関先で母親と軽く挨拶を交わした後、リビングに案内された。「座って待っていて下さい」と言い残して、山上は部屋を出ていった。ソファに腰掛けると、溜息と言うより荒い鼻息が出た。
 ハッキリ言って俺は腹を立てていた。
 しばらくすると、山上が両親を連れて戻ってきた。無意識にすっと立ち上がって、「はじめまして。春見です」と自分から先に自己紹介をしていた。もちろん、内に秘めたる怒りの感情は決して見せないようになっている。
 営業マンとしての性だろう。
 俺の隣に山上が、その前に両親が座る形となった。テーブルにはケーキとコーヒーが並んでいる。近くを通ったから立ち寄ったという割には用意がいい。こっちは何の用意もできていないというのに。会社見学のつもりで来たのに、実は面接だったというようなものだ。
 両親は七十を過ぎていると山上は言っていたが、二人とも髪に白いものが多く見受けられるものの、肌の張りや話し方、物腰、どれをとっても元気そうに見える。
 父親がコーヒーに手を伸ばしながら、「足湯めぐりはいかがでしたか?」と尋ねてきた。
「足湯なんて初めてだったのですが、思った以上にリラックスできました」
「私も家内も温泉が好きで、よく行きます。足湯っていうのも悪くはないんだけど、やっぱりちょっと物足りなくてね」
「それはそうかもしれませんね。僕も今日行ってみて、全身で浸かってみたくなりました」
「そうでしょう」と父親は目を細くする。
 母親が「どうぞ、ご遠慮なく召し上がって下さい」と、優しい声を出す。
 どうやら歓迎はされているらしい。
「頂きます」と断って、俺はコーヒーに口を付けた。
「煙草は吸われますか? 灰皿、持って来ましょうか?」
「いえ、煙草は吸わないので大丈夫です」
「お酒は飲まれますか?」と再び、父親。
「はい……と言ってもつき合い程度です」
「私、お父さんみたいな大酒飲みは嫌よ。お金だって掛かるんだから」
 黙っていた山上が口を開いた。
「そんなに酒に金を使っているかな……最近は随分控えているだろ? なあ、母さん」
「よく言うわよ」と母親が呆れたような表情をする。
「今でこそ量は減ったけど、昔はひどかったのよ、春見さん。週末は会社の人を連れて来て、必ず宴会やっていたんだから。それも外で飲んで帰った後によ」
 酒の席があまり好きではない俺には辛いものがある。
「もう古い話です。今は正月と盆休み、上二人の娘婿たちと飲むのが楽しみです」
 まあ、そのくらいならどうにかなるか。
 いやいや、そうじゃない。
「煙草は体に悪いことしかないですが、お酒は飲み方に注意して楽しめば、別にいいと思いますよ」
「春見さんの言う通り。今度また一緒に一杯やりましょう」
 父親の機嫌が一気に良くなったのがわかった。
 
 その後は俺の仕事や両親についてなど、直接結婚につながることではないが、それほど遠くもない話をした。
「夕食もご一緒に」と言われたが、丁重に断った。
 帰りの車内で、「父も母も春見さんが気に入ったみたいです」と、山上が嬉しそうに話したが、それに対しては適当に返事をするだけにした。
 頭の中で、別れ際に何と言うかをまとめていた。

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